T16-1 真の共感とは?


Anybody can sympathize with the sufferings of a friend, but it requires a very fine nature to sympathize with a friend’s success.
誰でも友人の悩みには共感を寄せることができる。しかし、友人の成功に共感を寄せるには、優れた資質が大いに必要だ。



Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde
オスカー・ワイルド





共感とは、相手の視点に立ってみることである。相手の目で物事を眺め、相手の見ている世界を見ることである。



Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー<(「7つの習慣」)

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If you have a sick or lonely person at home, be there.
もしあなたの家に病人や孤独な人がいるなら、一緒にいてあげなさい。

Maybe just to hold a hand, maybe just to give a smile, that is the greatest, the most beautiful work.
ただ手を握るだけでも、ただ微笑んであげるだけでも、きっとそれは最も偉大で最も美しい仕事と言えるでしょう。



Mother Teresa
マザー・テレサ





Appreciation is a wonderful thing:
真価を認めて感謝することはすばらしいことだ。

It makes what is excellent in others belong to us as well.
私たちは感謝することによって、他者の持っている卓越性を自分のものにできるのだから。



Voltaire
ヴォルテール




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ふたつの顔で、共感、同情について触れましたので、参考になるように、該当箇所をご紹介します。


真の共感は苦悩を分かち合うことではないって言われても、違和感しかない!

この共感の一節は、世界の常識からするとかなり理解が難しいものです。

大切な家族が、病気や怪我で苦しそうに唸っている場面で、その苦しみを一緒に味わってあげたいという思いは、自然にわき起こる感情であって、よいとか悪いという問題でなく、当然に共感が起こってくるように思います。

現に、病気で苦しいほうからしても、家族が自分と一緒に悩んで苦しんでくれている姿を見て、自分が愛されていると実感し、苦しみが紛れるのを感じます。


それでも、コースは、真の共感は、他者の苦悩に加わることではない、苦痛を一緒に味わうことでもないと言い放ちます。

これには強い違和感を感じない人のほうが少ないのではないでしょうか?




恐怖や苦悩を分かち合うことは実在の不在である幻想を現実として位置づけること

仕組み的には、ふたつの顔でお話ししたように、本当は自他が一体で、豊饒な状態が真実であるなら、誰かが欠乏や必要によって苦悩している場合、その悩みに共感することは、本当は存在しない欠乏があるというその人の抱く幻想を一緒になって信じこむことであり、欠乏の幻想によって弱まっているその人をさらに弱体化する攻撃にしかならないということです。

そして、苦痛を分かち合おうとして、その人の苦しみを味わおうとすることで、その人の痛みや苦しみが癒される効果はないといいます。

この点について、たしかに、苦しいときに、身近な人に苦しいねと言ってもらえると、実際に苦しさが紛れるのを感じます。

しかし、真の癒しは贖罪と同義で、それは、マイナスを対極で打ち消して埋め合わせるというものではなく、そもそもマイナスがあるという状態や思いが幻想であることにとことん気づいて、そのマイナスに見える状態の向こう側の真理を見越すという赦しによるということでした。


愛によって苦悩が除去されることを苦悩の共有によるものと誤解している

苦しんでいる誰かのその苦しみを分かち合おうとして、一緒に苦しみを味わうということは、その苦しみが存在することが真実であることを前提にすることです。

そして、観念を分かち合い共有することは、その観念を補強し、増強することになります。

この分かち合いの力は、プラスにもマイナスにも作用します。

苦しみの幻想というマイナスの観念を共有すれば、結果的には、その苦しみは固定され、増強されることになってしまいます。

つまり、誰かが苦しんでいるときに、それに共感することは、苦しみを癒すどころか強めることになってしまうということです。


いつもの実在と実在の不在の仕組みをもとに考えてみると、実在の不在が苦痛として表れているのだとしても、実在の不在は無なので、無を共有することで無が形をなしたものが消え去る効果はありません。

これに対して、実在の不在は愛を求める哀訴なのだから、必要なのは、一緒になって哀訴することではなく、愛を与えることです。
これはいつもの聖霊の愛の3大レッスンのひとつと同じです。

したがって、本当に親身になってもらうことで癒されるのは、痛みや苦しみを分かち合って分散できるからではなく、その人と自分がひとつに結ばれているという愛によって愛の欠如である恐怖や苦痛が取り除かれるからなわけです。



It has been said that time heals all wounds.
時が傷を癒すというふうに言われる。

The truth is that time does not heal anything.
真実は、時間は何ものをも癒すことはない。

It merely passes.
時間は単に経過するだけだ。

It is what we do during the passing of time that helps or hinders the healing process.
時間が経過する間に私たちがなすことが癒しをもたらすのだが、時間の経過は癒しの過程を助けることでこのことがわからなくなるように隠してしまうのだ。

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Jay Marshall
ジェイ・マーシャル

T27-5 癒しの手本



魔術と癒し

「4. Healing only strengthens.
 癒しは、ただ強めるだけです。

 Magic always tries to weaken.
 魔術は、必ず弱めようとします。

 Healing perceives nothing in the healer that everyone else does not share with him.
 癒しが起こる際には、治療者自身の中には、他の誰もが治療者と分かち合っていないものが知覚されることはありません。

 Magic always sees something 'special' in the healer, which he believes he can offer as a gift to someone who does not have it.
 魔術は、つねに治療者が何か『特別』なものを持っているとみなします。その治療者は、その『特別』なものを彼からの贈り物として、それを持っていない者に授けることができると信じます。

 He may believe that the gift comes from God to him, but it is quite evident that he does not understand God if he thinks he has something that others lack.
 治療者は、その贈り物が神から自分に賦与されていると信じるかもしれません。しかし、もし彼が自分はほかの者たちに欠如している何かを持っていると思うとすれば、彼が神を理解していないことは真に歴然としています。」(テキスト第七章 V. Healing and the Changelessness of Mind 五 癒しと心の不変性


私たちがなすべきは聖霊に癒しを委ねること

テキストでは、他者の苦悩への共感は、癒しを知る聖霊の役割であり、私たちの役割ではないので、役割の混同をせずに、聖霊に任せてしまいなさいと言います。

私たちの役割は、聖霊に委ねたなら、聖霊の邪魔をしないこと、ある関係から自分にとって価値のあるものが生まれることを望まないようにするということです。自己流のやり方でその関係を傷つけようとしたり、癒そうとしてはならないと。

そして、私たちが聖霊に委ねきり、聖霊が自分を通して働くようにさせるなら、私たちは力強いものに共感することになり、弱さではなくて、強さを得ることになるといいます。

聖霊は、苦しんでいるその他者は、私たちと切り離された隔絶した存在などではなく、一体である本来の神の子の姿として眺め、その姿には何の欠乏もないという真理を見通すことで癒します。

このような聖霊の導きが私たちを通して現れる際に私たちの発する言葉や起こる振る舞いが、形の上ではエゴが利用する共感に基づくものと同じように見えたとしても、それはそれでかまわないということになるのでしょう。


とにかく自然に湧き起こる気持ちを押さえつけたり無視したり捻じ曲げたりするのはやめる

このようなことは、理屈としては何となくわかるけれども、実感としてはわからないというのは人情として当然です。

もっとも、現に大病を患っている家族を持つ人にとっては、看病をするうえでのスタンスに関わる深刻かつ重要なことです。

自分たちが大切な家族を労り、癒してあげたいとの一心で苦しみを一緒に味わおうとしていたことが、かえってその家族の苦しい状況を強めているかもしれないというのです。

コースの言うことを少しでも信頼できると感じられるなら、少なくとも、ご自分だけは、苦しみを分かち合おうとすることはやめて、健やかな本来の姿を見ている聖霊に委ねようと選択してみてください。

ご自分が無理にそのように信じこもうとする必要はありません。

それでは、プラス思考のイメージトレーニングなどと一緒です。

自分の自然な感情として湧き起こる気持ちを無理やり押さえつけて押し殺すようなことをしなければならないとしたら、不自然なことです。

コースが自己欺瞞を求めていないことだけは明らかです。

聖霊に全託したからといって、大切な家族に接する際の私たちの態度が冷淡になったりするはずはないし、私たちが一緒に悩まないせいで病状が深刻化するということはないはずです。


事実認識と事実解釈の峻別

本当に、自分には、癒しがどのようなものか見当もつかないけれど、それを知るという聖霊にお任せして邪魔はしませんと決断することです。






「道は開ける」(HOW TO STOP WORRYING AND START LIVING section VI, 8)で、デール・カーネギー先生が、問題を「心に留めること」(concern)と「不安になること」(worry)の違いについて、「心に留める」ことは、混みあった道路を渡る際に、注意を払って問題を理解しそれを解消すべく落ち着いてステップを踏むことであるのに対し、「不安になる」ことは、起こるかどうかもわからない意味のない不安の狂気の輪の中をぐるぐる回り続けることだと説明してくれています。

ひとことで言えば、事実認識と事実解釈の峻別です。

ある事実について、それをありのまま価値中立的に認識することと、そこからさらに進んで価値判断による評価を加えて良い悪いと解釈することは、通常、混然一体としてごっちゃになって起こりますが、両者は区別可能ですし、区別が必要です。


聖霊に委ねることにしたら、それ以上は聖霊を信頼して自分で裁かない

私たちが問題を聖霊に渡す方法は、目を背けたり隠したりせずに、ありのままの事実を正確に把握し、そこから先は聖霊に任せて、自分で良い悪いという価値判断を加えて裁かないことです。

車の行きかう道路を自分は渡ろうとしているという事実、家族が特定の傷病を持つに至ったという事実には目を瞑らずに真正面から受け止めはするが、それを害悪と捉えて、どうすればいいの!?と心配で半狂乱になったりしないで、聖霊が示唆してくれるなすべきことを淡々となすという心構えでいると。

事実認識なら、知覚による制限の下での限界はあれ、私たちにもなすことができます。


解釈や価値判断は、私たちにはする能力自体がない

しかし、事実の解釈・価値判断となると、それこそ空想の世界の話なので、何を判断材料にするか、誰の観点を判断基準にするか等5W1Hやどのようなスパンで評価するかという時間的な観点も加味すると無限のバリエーションがあり、塞翁が馬どころの話ではないくらい、同じ事実を上下逆転させて転変させることが可能であり、それはつまり、私たちに正しい解釈をすることが不可能であることを物語っています。

ひとりの個人にとってのひとつの事故や病気という災禍というべき出来事が、その個人にとって、塞翁が馬的に、後の幸福の呼び水となることはいくらでもあるし、その個人が属する社会に警鐘を鳴らして社会が大きな害悪を免れる端緒となることもあります。

その個人の人生だけで切り取ると、その害悪がその人生を真っ黒に塗りつぶしてしまったように見える場合でも、その個人の魂の観点から見ると、その災難は、前世までにこびりついてきたカルマの垢をそぎ落とす重要な役目を果たしているということもあるかもしれません。

私たちには、自分の生きる時代、世界、社会の常識に縛られた顕微鏡のような狭い視野でしか物事を評価することができません。

大切な誰かの身に起こっている出来事は、世界からの評価としては災禍と価値判断されるかもしれないが、彼のために自分ができることをなすために、自分による解釈、評価を極力そぎ落として、ありのままの事実として受け入れること、実は、私たちにできるのは、これだけです。

価値判断は、私たちにとって余計なことだからしないほうがよいという話ではなく、そもそも私たちには価値判断することができないので、できないことをやろう、不可能を可能にしようと悪あがきをしないようにということです(M10 価値判断の重圧から解放されるには?)。


犠牲や特別な関係等、用語や定義に振り回されずに、イェシュアがその用語で言わんとする本質を捉える ~ 「実在」か「実在の不在」かから発想する

さて、共感と同じように、コースが否認する概念で、一般的にはよいこととされるものに、犠牲を払うことがあります。

T3-1 贖罪には犠牲は無用のエッセイで述べたように、コースが否認するのは、実在がこの世界に反映される際にできた実在の不在、影の側面であり、影ではない実在(愛の別の側面)は否認すべき対象ではなく、呼び名によって実在が影に変わるはずがないのだから、犠牲という概念に含まれるかぎりすべて全面的に否認すべきと発想するのは本末転倒だということになります。

それが「犠牲」と呼ばれようと「愛の行為」と呼ばれようと、母親が本能的に身を挺して愛児を危険から守る行動は否認すべき害悪であるはずがありません。

苦悩の共感についてもこれと同じことがあてはまります。共感自体は否認すべきものではなく、分かち合いが本来の私たちの状態に戻るための手段だというコースが共感を否認するはずがありません。

ただし、実在しないものは共有しようがないので、苦悩の共感は錯覚であり、幻想への迷い込みの度を増す副作用までついてくるので否認すべきだということです。

頭でっかちに名づけや概念に縛られて本質を見失わないように注意したいものです。


奇跡のコースを絶対視せず主体性を持って自分の気持ち、感じ方を大切にする

この点で、極端な発想になりますが、コースが例外なしに全面的に否認するように思える攻撃についても、「攻撃」という名前、概念による一般化によって、いわゆる愛の鞭的な、コースが否認すべきとはしないはずの愛の発露として必要な行動まで頭ごなしに否認してしまっているのではないかということは自問してもよいかもしれません。

いずれにせよ、自分の心の中でモヤモヤが残りつつも、コースがこう言っているのだからと、思考停止になってしまう姿勢をとり続けていると、やがて非常識で危険な狂信者のできあがり、となります。

「コースがこう言っている」ということ自体、用語についての自分の固定観念に縛られた自分独自の解釈あるいは世間の常識通りの解釈となっている可能性を自問すべきです。

世の中の新興宗教等の場合も、よほどぶっ飛んだものでないかぎりは、少なくとも常識的な先祖供養や布施を勧める内容が教義となっているでしょうから、思考停止になって信心しても、宗教団体の食い物にされる程度で済むでしょう。

けれど、コースの内容は、あまりにラディカルに世界の幻想性と自らの自己像に切り込んでゆくものであるだけに、頭から信じ込む権威主義的なスタイルで思考停止になって学んだのでは、学習棄却、アンラーンを達成するどころか、社会生活をまともに営めない廃人や危険人物に自らを仕立て上げてしまう危険すらあります。

自分の気持ちに蓋をせず、頭から信心することは絶対にしないということをコースを学ぶ際の基本ルールにしておくことが大切だと思います。


「Do not settle for anything less than this, and refuse to accept anything but this as your goal.
 自分の思考と行動のすべてに神の力を解放することに劣ることには、何事にも甘んじてはなりません。そして、これ以外のことを自分の目標として受け入れることを拒絶してください。

 Watch your mind carefully for any beliefs that hinder its accomplishment, and step away from them.
 この目標の達成を妨げるいかなる信念も見逃さないよう注意深く自分の心を見張り、そんな信念を見つけたら、そんな信念から離れるようにしなさい。

 Judge how well you have done this by your own feelings, for this is the one right use of judgment.
 あなたがこの監視をどれほどうまくできているかは、自分がどう感じているかによって判断してください。というのも、これこそが価値判断の唯一の正しい使用法だからです。」(T4-4 そうである必要はない、8. )

理性による価値判断をしないようにして、自分の感じている気分によって判断しなさいと言うわけです。




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Chapter 16 THE FORGIVENESS OF ILLUSIONS
第十六章 幻想を赦す

I. True Empathy
一 真の共感



1. To empathize does not mean to join in suffering, for that is what you must refuse to understand.
 共感することは、他者と一緒になって苦悩することを意味しません。なぜなら、あなたが理解するのを拒絶しなければならないのはまさに、苦悩を共にしようとすることだからです。

 That is the ego's interpretation of empathy, and is always used to form a special relationship in which the suffering is shared.
 それこそ、エゴによる共感の解釈であり、その中で苦悩を分かち合うことになる特別な関係を結ぶために必ず用いられる常套手段です。

 The capacity to empathize is very useful to the Holy Spirit, provided you let Him use it in His way.
 共感する能力は、もしあなたが共感を聖霊の用い方で聖霊に使ってもらうなら、とても聖霊の役に立ちます。

 He does not understand suffering, and would have you teach it is not understandable.
 聖霊は苦悩を理解しません。そして、聖霊はあなたに苦悩は理解不能なものだと教えさせようとします。

 When He relates through you, He does not relate through your ego to another ego.
 聖霊があなたを通して関係を持つときでも、聖霊はあなたのエゴを通してほかのエゴに関わることはしません。

 He does not join in pain, understanding that healing pain is not accomplished by delusional attempts to enter into it, and lighten it by sharing the delusion.
 聖霊は、苦痛を一緒に味わうことをしません。なぜなら、聖霊には、妄想によって苦痛の中に入りこむことを試み、そんな妄想を分かち合うことによって苦痛を和らげようとしても、苦痛の癒しは成就しないとよくわかっているからです。



2. The clearest proof that empathy as the ego uses it is destructive lies in the fact that it is applied only to certain types of problems and in certain people.
 エゴによる共感の利用法が破壊的である最も明白な証拠は、それがある特定の種類の問題にのみ、それもある特定の人々が抱える問題にのみ適用されるという事実にあります。

 These it selects out, and joins with.
 エゴはこのような特定の人々が持つ特定の種類の問題を選りすぐっては結合しようとします。

 And it never joins except to strengthen itself.
 そして、エゴはエゴ自体を強めるためでなければ絶対に結合しようとはしません。

 Make no mistake about this maneuver; the ego always empathizes to weaken, and to weaken is always to attack.
 こんなエゴの罠にからないでください。エゴは必ず相手を弱体化するために共感するのであって、相手を弱体化することは、つねに攻撃となります。

 You do not know what empathizing means.
 あなたは、共感が何を意味するのかわかっていません。

 Yet of this you may be sure; if you will merely sit quietly by and let the Holy Spirit relate through you, you will empathize with strength, and will gain in strength and not in weakness.
 しかし、次のことなら、あなたは確信してよいでしょう。それは、もしあなたがただ静かに傍観し、聖霊があなたを通して関わるようにさせるなら、あなたは力強さに共感することになり、あなたは弱さではなくて、強さを得ることになるということです。

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3. Your part is only to remember this; you do not want anything you value to come of a relationship.
 あなたの役割は、ただ次のことを覚えておくことだけです。それは、自分が価値を置くものをある関係から引き出そうとしないことです。

 You choose neither to hurt it nor to heal it in your own way.
 あなたは自己流のやり方で、その関係を傷つけることも、その関係を癒すことも選んではなりません。

 You do not know what healing is.
 あなたは癒しが何なのか知らないからです。

 All you have learned of empathy is from the past.
 あなたが共感について学んできたことはすべて、あなたの個人的な過去に由来します。

 And there is nothing from the past that you would share, for there is nothing from the past that you would keep.
 しかし、個人的な過去から来るものであなたが共有したいと思うものは何ひとつありません。なぜなら、個人的な過去から来るものであなたが保っておきたいと思うものは何もないからです。

 Do not use empathy to make the past real, and so perpetuate it.
 過去を現実にすることによって過去を永続させるために、共感を用いてはなりません。

 Step gently aside, and let healing be done for you.
 穏やかに身を引いて、あなたのために癒しがなされるようにしてもらいなさい。

 Keep but one thought in mind and do not lose sight of it, however tempted you may be to judge any situation, and to determine your response by judging it.
 たとえどんな状況であれ、まず自分で状況を判断したうえで、その状況判断に基づいて自分の反応を決めたいという誘惑に駆られても、次のただひとつの考え方だけを心に保ち、その想念を見失わないようにしなければなりません。

 Focus your mind only on this:
 あなたの心を、ただ次のことにだけ集中させてください。


I am not alone, and I would not intrude the past upon my Guest.
私はひとりきりではない。そして、私は自分の大いなる賓客に過去を押しつける気はない。

I have invited Him, and He is here.
私が聖霊を招いたので、聖霊はここにいてくれる。

I need do nothing except not to interfere.
私に必要なのは、ただ聖霊の邪魔をしないことだけだ。



4. True empathy is of Him Who knows what it is.
 真の共感は、それが何なのか知っている聖霊から訪れます。

 You will learn His interpretation of it if you let Him use your capacity for strength, and not for weakness.
 もしあなたが聖霊に自分の能力を弱くなるためではなく強くなるためのために使ってもらうなら、あなたは共感についての聖霊の解釈を学ぶでしょう。

 He will not desert you, but be sure that you desert not Him.
 聖霊があなたを見放すようなことはありえません。けれど、あなたのほうで聖霊を見限ることがないよう注意しなければなりません。

 Humility is strength in this sense only; that to recognize and accept the fact that you do not know is to recognize and accept the fact that He does know.
 謙虚さは次の意味においてのみ、強みになります。それは、自分が知らないという事実を認識して受け入れることは、聖霊は確かに知っているという事実を認識して受け入れることになるということです。

 You are not sure that He will do His part, because you have never yet done yours completely.
 あなたが聖霊がその役割を果たしてくれるはずだと確信できないのは、あなたが今まで一度も自分の役割を完全に果たしたことがないためです。

 You cannot know how to respond to what you do not understand.
 あなたは、自分が理解していないことに対して、どのように反応したらよいのか知ることができません。

 Be tempted not in this, and yield not to the ego's triumphant use of empathy for its glory.
 しかし、自分には知ることができるはずだと思う誘惑に負けて、エゴが得意げに自らを賛美するために共感を利用するのを許してはなりません。

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5. The triumph of weakness is not what you would offer to a brother.
 あなたが兄弟に差し延べたいのは、弱さの勝利などではないはずです。

 And yet you recognize no triumph but this.
 それなのに、あなたは弱さの勝利以外の勝利を認めようとしません。

 This is not knowledge, and the form of empathy which would bring this about is so distorted that it would imprison what it would release.
 弱さの勝利など知識ではありません。そして、弱さの勝利をもたらすために用いられる共感の形はあまりに歪んでいるので、共感することで解放しようとするものを逆に幽閉してしまうことになります。

 The unredeemed cannot redeem, yet they have a Redeemer.
 救われていない者が救うことなどできはしません。とはいえ、彼らにはひとりの大いなる救い主がいます。

 Attempt to teach Him not.
 その大いなる救い主に教えを垂れようと試みてはなりません。

 You are the learner; He the Teacher.
 あなたは教えてもらう生徒であり、聖霊こそが大いなる教師だからです。

 Do not confuse your role with His, for this will never bring peace to anyone.
 自分の役割と聖霊の役割を取り違えてはなりません。というのも、自分と聖霊の役割を混同していたのでは、決して誰の許にも平安はもたらされないからです。

 Offer your empathy to Him for it is His perception and His strength that you would share.
 あなたの共感する能力を聖霊に差し出しなさい。なぜなら、あなたが共有することを意図しているのは、聖霊の知覚と聖霊の力だからです。

 And let Him offer you His strength and His perception, to be shared through you.
 そして、あなたを通して共有されるように、聖霊に、聖霊の力と聖霊の知覚とをあなたに差し延べてもらってください。



6. The meaning of love is lost in any relationship that looks to weakness, and hopes to find love there.
 いかなる関係であれ、弱さを当てにして、弱さの中に愛を見出そうと望むような関係においては、愛の意味は失われてしまいます。

 The power of love, which is its meaning, lies in the strength of God that hovers over it and blesses it silently by enveloping it in healing wings.
 愛の力、それは関係を持つことの意味そのものです。この愛の力は、関係の上を舞い、癒しの翼で関係を包みこみ、静かに関係を祝福する神の力強さの中にあります。

 Let this be, and do not try to substitute your "miracle" for this.
 この愛の力をそのままあらしめてください。そして、愛の力に代えて、自前の「奇跡」を用いようとなどしないでください。

 I have said that if a brother asks a foolish thing of you to do it.
 私は前に、もしあなたが兄弟から馬鹿げたことをしてほしいと頼まれたなら、それをやってあげるようにと述べました。

 But be certain that this does not mean to do a foolish thing that would hurt either him or you, for what would hurt one will hurt the other.
 しかし、それは、相手や自分が傷つくような愚行をせよということを意味しないのは、言うまでもありません。なぜなら、一方を傷つけるようなことは他方をも傷つけることになるからです。

 Foolish requests are foolish merely because they conflict, since they always contain some element of specialness.
 愚かな願いがどれも馬鹿げているのは、ただ単に、そのような愚かな願いには必ず何らかの特別性についての要素が含まれているために願いが矛盾してしまうからです。

 Only the Holy Spirit recognizes foolish needs as well as real ones.
 ただ聖霊だけが、愚かな欲求と同じように、真に必要なことも認識しています。

 And He will teach you how to meet both without losing either.
 だから、聖霊は、いかにしてどちらも失うことなく両方を満たせばよいか、あなたに教えてくれるでしょう。

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7. You will attempt to do this only in secrecy.
 しかし、あなたは、秘密裡にのみ、これをやろうと試みてしまうでしょう。

 And you will think that by meeting the needs of one you do not jeopardize another, because you keep them separate and secret from each other.
 そして、あなたはふたつを別々にして、両者を互いに相手から秘密にしたまま保っているので、あなたは、一方の要求を満たすことは必ずしも他方を危険にさらすことにはならないと考えるようになります。

 That is not the way, for it leads not to life and truth.
 しかし、そんなやり方は道とはなりません。なぜなら、そんなやり方は、生命と真理へと導いてはくれないからです。

 No needs will long be left unmet if you leave them all to Him Whose function is to meet them.
 もしあなたが、必要性を満たすことを役目とする聖霊にすべてを委ねるなら、どんな必要性も満たされないままにはならないでしょう。

 That is His function, and not yours.
 必要性を満たすのは聖霊の役目であって、あなたの役目ではありません。

 He will not meet them secretly, for He would share everything you give through Him.
 聖霊が必要性を秘密裡に満たそうとすることはありません。というのは、あなたが聖霊を通して与えるものを聖霊は余すところなく共有しようとするからです。

 That is why He gives it.
 それゆえ、聖霊はすべてのものを与えるのです。

 What you give through Him is for the whole Sonship, not for part of it.
 あなたが聖霊を通して与えるものは、神の子全体のためのものであり、神の子の一部のためのものではありません。

 Leave Him His function, for He will fulfill it if you but ask Him to enter your relationships, and bless them for you.
 聖霊の役目は聖霊に任せておきなさい。というのは、ただあなたが聖霊に自分の関係に入ってきて、あなたのために関係を祝福してほしいと頼みさえすれば、聖霊は自らの役目を果たしてくれるからです。


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