M4-10 神の教師の特性10(開かれた心)


【ガッツ石松さんの名言】



私の将棋は王将取られてからが強いんですよ。



うるさい!いま催眠術にかかってるんだから、静かにしろ!!



うるさい!黙ってしゃべれ!



みんなまじめに問題答えたってしゃあねえよ。この間も「オッケー牧場」って言ったら喜んでくれたね。








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神の教師の特性の最後「開かれた心」をご紹介します。


オープンマインドになる方法は、裁かないこと

1.「Open-mindedness comes with lack of judgment.
 裁かないことによって、心が開かれます。」

価値判断して裁くことが分離した心を閉ざし、反対に、裁かないことによって心が開けます。

赦しとオープンマインドは同じだということです。


レッスン18「私が見ることの結果を体験するのは私だけではない」

レッスン19「私の思考の結果を体験するのは、私だけではない」
が参考になると思います。


アンラーン

3.「It is the function of God's teachers to bring true learning to the world.
 真の学びを世界にもたらすことが神の教師たちの役目です。

 Properly speaking it is unlearning that they bring, for that is "true learning" in the world.
 正しく言うならば、神の教師たちがもたらすのは、それまでに学んだことを忘れ去ることです。というのも、この世界では、これまで学んだこと白紙に戻すことこそが『真の学び』になるからです。」

コースの学習が、この世界での学習とは逆で、学習棄却、アンラーン(Unlearning)、つまり、世界での学びによって刷り込まれた誤った学習成果を捨て去って忘れ去る、パソコンやスマホ等の端末を初期化するような作業だということが示されています。

赦しによって価値判断による裁きを放棄することで、間違った学習で詰め込まれた無用なガラクタが心から取り除かれて、学習棄却が達成され、それによって扉を閉ざされていた心が開かれます。





私たちの本質が愛ならば、愛は学ぶものではないはず

「3. You may have noticed that the list of attributes of God's teachers does not include things that are the Son of God's inheritance.
 あなたはすでに、神の教師が身につけることになる属性のリストには、神の子が生まれ持って受け継いでいる属性が含まれていないことに気づいているかもしれません。

 Terms like love, sinlessness, perfection, knowledge and eternal truth do not appear in this context.
 愛や潔白さ、完全さ、知識、そして、永遠の真理といった言葉は、神の教師の属性として挙げられてはいません。

 They would be most inappropriate here.
 これらの言葉は、ここに挙げるには最もふさわしくないものなのです。

 What God has given is so far beyond our curriculum that learning but disappears in its presence.
 神が授けてくれたものは、本当に私たちのカリキュラムの射程範囲をはるかに超えているために、それを前にしては学びはただ消え去るだけです。」

奇跡のコースが奇跡を学ぶ学習過程であって愛を学ぶ愛のコースではないということが、コースの本質的な学びの仕組みであることにたびたび触れています(レッスン72「不平不満を抱くことは、救済のための神の計画に対する攻撃だ」)。

それは、本当の私たちが愛そのものなのだから、ありのままの自分に戻るための方法を学ぶ必要があるとしても、愛は学ぶようなものではないということです。

愛を学ぼうとすることそれ自体が、愛を偽りのものに変えてしまうということです。


必要なのは体験によって気づくこと

私たち自身が愛であり、生命であり、真理である実在そのものなのだとしたら、そして、それなのに、私たちにそれがその通りだとわからなくなっているとしたら、それは私たちが、すべてを持ちすべてである状態から、自分をとことん制限して縮小して細分化して、本当の自分の中の最小限の一区画だけを自分だと信じ込んでそれ以外を自分ではないと誤信する解離を起こしているということです。

この制限された自分にアイデンティティーを抱いたまま、本当の自分は愛である実在そのものだという情報を覚えて信じ込もうと努力することには意味はありません。

現にアイデンティティーを持ってコントロールでき自覚できる意識の範囲はエゴに支配されて制限されているわけですから。




自分をとことん信じ込ませることができたとしても、突飛な変な思想を本気で信じるイタい変な人になるだけです。


心を開くことは本当の自分を掘り出すツール

信頼や誠実さ等の神の教師が獲得すべき属性は学んで身につけることができます。

赦しによって知覚が修正され自他分離が錯覚だという気づき、愛の発露である奇跡を起こす方法は学ぶことができます。

けれど、これらの学びによって他者と愛で結ばれている体験を通してしか、自分たちの本質がひとつの神の子であることを知ることはできません。

本当の私たちが愛である実在そのものなのだとしたら、愛に満たされていない状態にある私たちがすべきなのは、ありのままの愛であることを妨げている障害を除去することに尽きるはずで、自分の外に愛を探したり学んだりすることではないはずです。

愛し方を学ぼうとするのではなく、ありのままの自分を彫り出すように観点を切り替える必要があります。

そして、オープンマインドでいることは、自分の側からの障壁を取り払うことなので、ありのままの自分を彫り出す有効な手段となります。


「オッケー牧場!」




もちろん人間として生きている以上、プライバシーも大切ですので、まずは、少なくとも、お天道様が見ているとか、あの世の無数の魂たちがライブ配信コンテンツのひとつとして自分の人生を見ているかもしれないという意識を持って、見えない存在たちに自分のお花畑脳を開放して、柵に囲まれていないオールOKのOK牧場で安らいでもらうことから始めてみれば十分です。


自分が心を閉ざしてしまいそうに感じるときには、ガッツさんの笑顔を思い浮かべて心の中で唱えましょう。

「オッケー牧場!」と。



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Open-Mindedness
開かれた心



1. The centrality of open-mindedness, perhaps the last of the attributes the teacher of God acquires, is easily understood when its relation to forgiveness is recognized.
 おそらく神の教師が最後に獲得する属性となる開かれた心が持つ中心的な役割は、開かれた心が赦しと関連することに気づくなら、たやすく理解できるはずです。

 Open-mindedness comes with lack of judgment.
 裁かないことによって、心が開かれます。

 As judgment shuts the mind against God's Teacher, so open-mindedness invites Him to come in.
 価値判断して裁くことが、神の大いなる教師である聖霊に対して心を閉ざしてしまいます。したがって、心を開くことが、聖霊に入ってきてくれるよう招待することになります。

 As condemnation judges the Son of God as evil, so open-mindedness permits him to be judged by the Voice for God on His behalf.
 非難することは、神の子を邪悪な者と価値判断して裁くことになりますが、心が開かれた状態になることによって、神を代理して神を代弁する大いなる声によって神の子は裁いてもらえるようになります。

 As the projection of guilt upon him would send him to hell, so open-mindedness lets Christ's image be extended to him.
 罪悪感を神の子に投影すると、彼を地獄へ送ることになってしまいますが、開かれた心は、キリストの姿が彼に拡張されるようにします。

 Only the open-minded can be at peace, for they alone see reason for it.
 心の開かれた者だけが平安を得ることができます。なぜなら、心が開かれた者たちだけが平安の理由を理解できるからです。



2. How do the open-minded forgive?
 開かれた心を持つ者は、どのようにして赦すのでしょうか。

 They have let go all things that would prevent forgiveness.
 心が開けている者は、すでに赦しを妨げるようなあらゆる物事をすべて手放しています。

 They have in truth abandoned the world, and let it be restored to them in newness and in joy so glorious they could never have conceived of such a change.
 彼らは本当にこの世界を捨て去り、そして、世界を新しく喜びに満ちたものとして自分たちに戻してもらったのです。その世界は、あまりに栄光に満ちていて、彼らには一度も想像することもできなかったほど大きな変化でした。

 Nothing is now as it was formerly.
 今では何ひとつ、かつてそうであった通りではありません。

 Nothing but sparkles now which seemed so dull and lifeless before.
 以前には、あんなにもぼんやりと生気に欠けて見えていたものが、今では、すべてきらきらと輝きを放っています。

 And above all are all things welcoming, for threat is gone.
 そして何にもまして、脅威が去ってしまったので、すべての物事が歓迎すべきものとなります。

 No clouds remain to hide the face of Christ.
 キリストの顔を隠す雲は、もうひとつも残っていません。

 Now is the goal achieved.
 いまや、目標が達成されたのです。

 Forgiveness is the final goal of the curriculum.
 赦しこそ、カリキュラムの最終目標です。

 It paves the way for what goes far beyond all learning.
 赦しは、すべての学びを通り越した彼方まで続く道を地ならしします。

 The curriculum makes no effort to exceed its legitimate goal.
 このカリキュラムは、その本来の目標を超えるための努力を費やすようなことはまったくありません。

 Forgiveness is its single aim, at which all learning ultimately converges.
 赦しだけがカリキュラムのただひとつの狙いです。この赦しという標的に、すべての学習が究極的に狙いを集中しています。

 It is indeed enough.
 本当に赦しだけで十分だからです。



3. You may have noticed that the list of attributes of God's teachers does not include things that are the Son of God's inheritance.
 あなたはすでに、神の教師が身につけることになる属性のリストには、神の子が生まれ持って受け継いでいる属性が含まれていないことに気づいているかもしれません。

 Terms like love, sinlessness, perfection, knowledge and eternal truth do not appear in this context.
 愛や潔白さ、完全さ、知識、そして、永遠の真理といった言葉は、神の教師の属性として挙げられてはいません。

 They would be most inappropriate here.
 これらの言葉は、ここに挙げるには最もふさわしくないものなのです。

 What God has given is so far beyond our curriculum that learning but disappears in its presence.
 神が授けてくれたものは、本当に私たちのカリキュラムの射程範囲をはるかに超えているために、それを前にしては学びはただ消え去るだけです。

 Yet while its presence is obscured, the focus properly belongs on the curriculum.
 しかし、神の授けてくれたものの臨在が覆い隠されている間は、このカリキュラムに焦点を合わせることがふさわしいのです。

 It is the function of God's teachers to bring true learning to the world.
 真の学びを世界にもたらすことが神の教師たちの役目です。

 Properly speaking it is unlearning that they bring, for that is "true learning" in the world.
 正しく言うならば、神の教師たちがもたらすのは、それまでに学んだことを忘れ去ることです。というのも、この世界では、これまで学んだこと白紙に戻すことこそが「真の学び」になるからです。

 It is given to the teachers of God to bring the glad tidings of complete forgiveness to the world.
 神の教師たちには、完全な赦しという喜ばしい便りをこの世界へともたらす機会が与えられているのです。

 Blessed indeed are they, for they are the bringers of salvation.
 彼らは本当に神聖な存在です。というのも、彼らは救済をもたらす者たちだからです。






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