T5-1 聖霊のサポートは無尽蔵!でも、頼まなきゃ受けられません


If you love me, you will obey what I command.
もしあなたが私を愛するなら、私の命ずることに従いなさい。

And I will ask the Father, and he will give you another Counselor to be with you forever-- the Spirit of truth.
そして、私が父に求めるので、父は、私の代わりにあなたがたのもとに永遠にとどまる別の助言者を与えてくれるでしょう。それは真理の霊です。

The world cannot accept him, because it neither sees him nor knows him.
世界には聖霊を受け入れることができません。なぜなら、世界には聖霊を見ることも知ることもできないからです。

But you know him, for he lives with you and will be in you.
しかし、あなたは聖霊は知ることができます。というのも、聖霊はあなたとともに生き、あなたの中にあり続けるからです。

I will not leave you as orphans; I will come to you.
私はあなたを一人きりで置き去りになどしません。私はきっとあなたのもとに戻ってきます。

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John 14:16-18
イエス・キリスト(ヨハネによる福音書第14章15ー18章

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テキスト第五章から、聖霊を招待することについての一節をご紹介します。


私たちのほうから頼らなければ聖霊は助けることができない

3.「I have said already that I can reach up and bring the Holy Spirit down to you, but I can bring him to you only at your own invitation.
 すでに述べたように、私はあなたのために高みに手を伸ばして聖霊をあなたの許に連れ降ろすことができます。しかし、私は、あなた自身の招待がある場合にしか、聖霊をあなたの許に連れてくることができません。」

以前にも述べましたが、聖霊は、当然ながらエゴレスなので、自己主張の強いガンガン前に出てくるタイプではなく、強引に価値観を押しつけてきたり、手取り足取り私たちを操ってまで救おうとはしません。

薄情なのではなく(そんなわけがありません。愛情満タンです)、私たちには神の意志と等しい意志が備わっているところ、中途半端に手助けすることは、私たちに、自分で自分を助ける力が備わっていることを忘れたままにさせてしまうからということでした。

聖霊は、私たちが聖霊の存在に気づかずに、ひとりで重荷を背負いこみ、苦難に押し潰されそうになるのを見て、聖霊の声に耳を貸して、聖霊に任せてくれるようになる日を愛情深く永遠の忍耐をもって待ってくれています。

私たちも聖霊の愛に満ちた思いに応えて、聖霊を全面的に信頼して任せきって、喜ばせてあげられたらよいのにと思いませんか?


想念は共有することで増強する

さて、この一節では、重要な発想、観点が出てきます。

それは、物は分かち合うと減ってしまうので、誰かに何かをあげることはそれを失い「犠牲」を払うことになるようにしか見えないけれど、想念は分かち合うほど増えて強くなる、つまり、誰かに自分の思いついたにアイデアを伝えても、思いついたその人がそのアイデアを忘れて失ってしまうわけもなく、伝えた人も伝えてもらったほかの誰かも、そのアイデアを活用できるというわけです。

物は独り占めしている人が利益を享受するように思えるけれど、想念はみんなに分かち合う人がメリットを受けるということです。

そして、世界そのものが想念にほかならないとすれば、世界の中で形を持っている物質も実は想念なので、それを誰かにあげても本当は失ってなどいないということになります。


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世界は霊化している

世界が情報化してきて、想念の共有が当たり前のことになってきています。

情報の複製は容易なだけでなく、不可避であり、物と同じように情報を扱おうとすると、たとえば、自然に送るなら、送信元に残るはずの情報をさも物を送るときのように送信元からは消えたように表現するために、送信元から作為的に消去するというような欺瞞を必要とするようになります。

音楽や映像コンテンツのサブスクリプションのサービスでは、膨大なコンテンツに最初からアクセスし放題で、かつてのデータを記録した媒体を購入したりレンタルしたりしていた時代との対比で、すべてを持ちすべてである状態での「意図」と、何も持たず欠乏した状態での「願望」の相違の理解の参考にできるようになりました(T4-3 葛藤のない愛)。

昔は音楽や映画を鑑賞するには、カセットテープやCD、ビデオテープやDVDという記録媒体を手に入れなければならない欠乏状態が基本状態でした。

そのコンテンツを観賞しようという気持ちを抱いても、その時点では願望することしかできず、それを達成するためには、限られた「物」であるその媒体を持つ自分以外の誰かから首尾よく手に入れられるかどうか、他者、時間、環境という自分以外の変動要素の制約をクリアできるか次第なので、後になってみなければ願いが叶うかどうかはわからないということになります。

これに対して、サブスクサービスでは、意図すれば即座にコンテンツを鑑賞できます。


何でも選び放題は必ずしも幸福につながるわけではない

ただし、何でも選び放題という状態は、かつての旧時代を体験し知っている人からすれば、夢のような状態ですが、生まれ育った時点でそれが当然の状態の人からすれば、それほどありがたみはありません。

むしろ、旧時代以上に、検索スキルやセンス次第で、望み放題の罠に落ちて、沼から抜け出せなくなってしまうリスクにさらされることになります。

よく、この世とあの世の対比をすることがありますが、思いが即座に実現するあの世では、思い通りの世界なだけに、上手に思考することができない魂は、地獄の状態に落ち込んでしまっても、そこから容易に脱することができません。

それに対して、物質的バッファーによって思い通りにいかないこの世では、思い通りにしかならない霊界よりも、思い直しのチャンスを得てフィードバックにより正しく思考できるよう上達することが可能となります。

そして、情報、体験の共有が可能な世界であるがゆえに、オープンマインドでありさえすれば、他者の経験、学びを生かして一緒に失敗から学び有益な知識を分かち合って上達することができます。


自分だけ得ることではなく自分独自の気づきを分かち合うこと

旧時代の有限の世界観では、抜け駆け的に得ることにポイントがありましたが、新時代の世界観では、もともと、すでにすべてを得られる状態にあるので、得ることそのものが持つ意義は乏しいといえます。

むしろすべてが同等にアクセシブルであるだけに、自分が真に必要としているものにたどり着くのを妨げるノイズが膨大であり、自分が必要としてもいないガラクタを得ることは害悪です。

得るべきは、自分が本当に必要とするものだけであり、それが自分は神の子であるという自覚、つまり、自分がすべてを持ち、すべてでもあるということなのだとしたら、自分である他者との交流を通して、自分たちが分離しておらずひとつなのだという気づきを得ることだけが必要なこととなります(救いの公式)。

そうなると、兄弟に赦しという贈り物を与えることで結果的に救いを得るという仕組みなので、自分ひとりで何かを得て独り占めするのではなく、分かち合うことにポイントが置かれることになります。

自分の個性に正しく光を当てて独自の観点から、自分にしかできない奉仕で他者の助けとなり、自分にしか得られない気づきをみんなに還元して貢献することが個にとっても全体にとっても有意義なシナジー、奇跡を生むことになります。


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イェシュアはコースをあえて今の時代に当ててきた

3DプリンタやAR・MR技術の進化によって、物の領域にも、想念化、情報化の波が押し寄せることになります。

このような社会の進化に伴って、私たちは、中世の人たちが物理的な世界に幽閉されていたということができるほどの、観念的な世界に生きることができるようになっています。

それだけ、この世界の幻想性を理解しやすい素地ができあがっているということであり、イェシュアは、この時代を見据えて、この時代に向けて奇跡のコースを送ってくれたといえると思います。


このように恵まれた環境にあることを意識して、活かしたいものです。

聖霊は出しゃばらず控えめに待ってくれてはいますが、私たちに気づいてもらうのを心待ちにしています。

この節は聖霊への招待状というタイトルです。

じっくり読んで、聖霊を招待する意欲を抱いていただければと思います。


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テキスト 第五章 

I. The Invitation to the Holy Spirit
一 聖霊への招待状



1. Healing is a thought by which two minds perceive their oneness and become glad.
 癒しとは、ふたつの心に自分たちがひとつであると気づかせて喜びで満たす思いです。

 This gladness calls to every part of the Sonship to rejoice with them, and lets God go out into them and through them.
 この喜びは、神の子全体を構成する一人ひとりに自分たちと一緒に喜ぶようにと呼びかけて、神が子供たち全員の中へと入りこんでみんなに行き渡ることができるようにします。

 Only the healed mind can experience revelation with lasting effect, because revelation is an experience of pure joy.
 ただ癒された心だけが、永続的な効果を伴う啓示を体験できます。なぜなら、啓示は純粋な喜びを体験することだからです。

 If you do not choose to be wholly joyous, your mind cannot have what it does not choose to be.
 もしあなたが完全な喜びに満ちた状態に在ることを選ばないのであれば、あなたの心が自らそう在ることを選んでいない境地を得られるはずがありません。

 Remember that spirit knows no difference between having and being.
 霊は持っていることと在ることの間の相違を関知しないことを思い出してください。

 The higher mind thinks according to the laws spirit obeys, and therefore honors only the laws of God.
 高位の心は、霊の従う法則に則って考えるので、神の法のみを遵守します。

 To spirit getting is meaningless and giving is all.
 霊にとっては、何かを手に入れることに意味はなく、与えることだけが意味をなします。

 Having everything, spirit holds everything by giving it, and thus creates as the Father created.
 霊はあらゆるものを持っているので、霊はあらゆるものを与えることによってすべてを保持します。こうすることで、霊は大いなる父が創造したように創造します。

 While this kind of thinking is totally alien to having things, even to the lower mind it is quite comprehensible in connection with ideas.
 このような考え方は、物の所有にはまったく馴染まないものですが、想念の所有と関連づけて考えてみれば、下位の心でもすんなり理解できるはずです。

 If you share a physical possession, you do divide its ownership.
 もしあなたが物質的な所有物を分かち合うとすれば、あなたは確かにその物の所有権を分割することになります。

 If you share an idea, however, you do not lessen it.
 しかしながら、もしあなたが分かち合うのが想念なら、あなたはその想念を減少させることにはなりません。

 All of it is still yours although all of it has been given away.
 たとえあなたがある想念を全部誰かに与えきったとしても、その想念は依然としてすべてあなたのもののままです。

 Further, if the one to whom you give it accepts it as his, he reinforces it in your mind and thus increases it.
 さらに、もしあなたが想念を与えた相手がその想念を自分のものとして受け入れるなら、彼はあなたの心の中におけるその想念を補強し、そうすることで、その想念を増大させます。

 If you can accept the concept that the world is one of ideas, the whole belief in the false association the ego makes between giving and losing is gone.
 もしあなたがこの世界は一種の想念だという考え方を受け入れることができれば、与えることと失うことの間にエゴが作り出した偽りの関連性は信じる余地のないものになります。

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2. Let us start our process of reawakening with just a few simple concepts:
 私たちで、いくらかのシンプルな概念を用いて、再び目覚めるためのプロセスを始めましょう。


Thoughts increase by being given away.
思考は、それを誰かに与えることによって増大します。

The more who believe in them the stronger they become.
その思考を信じる者が多くなれば多くなるほど、その思考もそれだけ強くなります。

Everything is an idea.
あらゆるものは想念です。

How, then, can giving and losing be associated?
そうだとすれば、どうして与えることが失うことになると関連づけることができるでしょうか。



3. This is the invitation to the Holy Spirit.
 これは聖霊への招待状です。

 I have said already that I can reach up and bring the Holy Spirit down to you, but I can bring him to you only at your own invitation.
 すでに述べたように、私はあなたのために高みに手を伸ばして聖霊をあなたの許に連れ降ろすことができます。しかし、私は、あなた自身の招待がある場合にしか、聖霊をあなたの許に連れてくることができません。

 The Holy Spirit is in your right mind, as he was in mine.
 聖霊は、かつて私の正しい心の中にいたように、今あなたの正しい心の中にいます。

 The Bible says, "May the mind be in you that was also in Christ Jesus," and uses this as a blessing.
 聖書は「イエス・キリストの内にもあったその心をあなたの心とせよ」と述べ、この言葉を祝福のための祈りとして用いています。

 It is the blessing of miracle-mindedness.
 この聖書の言葉は、奇跡を志向する心を祝福する祈りです。

 It asks that you may think as I thought, joining with me in Christ thinking.
 この聖句は、あなたも私が考えたように考え、キリストの思考の中で私とひとつに結ばれるようにと求めているのです。

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4. The Holy Spirit is the only part of the Holy Trinity that has a symbolic function.
 聖霊のみが、聖なる三位一体の中で象徴的な役割を担う唯一の部分です。

 He is referred to as the Healer, the Comforter and the Guide.
 聖霊は、癒し主であり、慰めを与える者であり、導き手であるとして言及されます。

 He is also described as something "separate," apart from the Father and from the Son.
 聖霊はまた、父からも子からも「分離した」何かであるように描写されてもいます。

 I myself said, "If I go I will send you another Comforter and he will abide with you. "
 私自身、「もし私が去っても、私はあなた方に別の大いなる慰安者を送ろう。そうすれば、彼があなたがたとともに留まってくれるだろう」と述べました。

 His symbolic function makes the Holy Spirit difficult to understand, because symbolism is open to different interpretations.
 聖霊が象徴としての機能を担うことが聖霊のことを理解しにくくしています。なぜなら、象徴的な表現は種々に解釈される余地を残すものだからです。

 As a man and also one of God's creations, my right thinking, which came from the Holy Spirit or the Universal Inspiration, taught me first and foremost that this Inspiration is for all.
 自らがひとりの人間であると同時に神の被造物のひとつでもあるという正しい思考は、聖霊という普遍的な霊感から私に訪れて、まず何よりも先に、私にこの偉大なる霊感が神の子みんなのためのものであることを教えてくれました。

 I could not have It myself without knowing this.
 このことを知らなければ、私自身、その霊感をわがものとすることはできなかったでしょう。

 The word "know" is proper in this context, because the Holy Spirit is so close to knowledge that he calls it forth; or better, allows it to come.
 「知る」という言葉は、この文脈にこそ用いるのがふさわしいものです。なぜなら、聖霊はあまりに知識に密接する存在なので、聖霊は、知識を呼び覚す、より的確に言うなら、知識が訪れることを可能にしてくれるからです。

 I have spoken before of the higher or "true" perception, which is so near to truth that God himself can flow across the little gap.
 私は前に、高次の知覚つまり「真の」知覚について述べました。この真の知覚は、あまりに真理に近いので、神自身がその知覚とのわずかな隔たりを超えて流れ渡ることが可能となります。

 Knowledge is always ready to flow everywhere, but it cannot oppose.
 知識はつねに、どこへでも流れていく準備ができています。しかし、知識は何かに抵抗するということができません。

 Therefore you can obstruct it, although you can never lose it.
 それゆえに、あなたは、知識が流れるのを妨げることができます。とはいえ、あなたは決して知識を失うことはできません。

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5. The Holy Spirit is the Christ Mind which is aware of the knowledge that lies beyond perception.
 聖霊とは、知覚を越えたところにある知識を自覚しているキリストの大いなる心のことです。

 He came into being with the separation as a protection, inspiring the Atonement principle at the same time.
 聖霊は、分離が起こるとともに、分離に対する防衛手段として実在するようになり、同時に、贖罪の原理を発動させました。

 Before that there was no need for healing, for no one was comfortless.
 分離以前には、癒しの必要などありませんでした。なぜなら、侘しい思いをしている者など誰もいなかったからです。

 The voice of the Holy Spirit is the Call to Atonement, or the restoration of the integrity of the mind.
 聖霊の声は、贖罪を果たすようにとの召命であり、心に統一された完全な状態を回復させるよう呼びかけるものです。

 When the Atonement is complete and the whole Sonship is healed there will be no Call to return.
 贖罪が完了して神の子全体が癒されたときには、神の下への帰還を求める呼びかけはなくなるでしょう。

 But what God creates is eternal.
 しかし、神の創造するものは永遠なるものです。

 The Holy Spirit will remain with the Sons of God, to bless their creations and keep them in the light of joy.
 聖霊は、神の子たちの創造したものを祝福し、それらを喜びの光の中に保つために、神の子たちとともに留まってくれるでしょう。



6. God honored even the miscreations of his children because they had made them.
 神は、自分の子供たちが間違って創造したものですら、子供たちが作ったものであるがゆえに尊重しました。

 But he also blessed his children with a way of thinking that could raise their perceptions so high they could reach almost back to him.
 しかし、神は同時に、自分の子供たちの知覚を、ほとんど神の下に届いて戻ることができるほどの高みにまで上昇させうる思考の手段を与えて子供たちを祝福しました。

 The Holy Spirit is the Mind of the Atonement.
 聖霊こそ、贖罪のための思考の手段である大いなる心です。

 He represents a state of mind close enough to One-mindedness that transfer to it is at last possible.
 聖霊は、最終的には一なる心に移行することが可能なほど十分に一なる心に近い心の状態を象徴しています。

 Perception is not knowledge, but it can be transferred to knowledge, or cross over into it.
 知覚は知識ではありません。それでも、知覚は知識へと移され、または、知識の中へと渡ってゆくことができます。

 It might even be more helpful here to use the literal meaning of transferred or "carried over," since the last step is taken by God.
 ここでは、移されるとか「運ばれる」という言葉の文字どおりの意味を使ったほうが、よりわかりやすいかもしれません。なぜなら、最後の一歩は神が踏み出してくれるからです。

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7. The Holy Spirit, the shared Inspiration of all the Sonship, induces a kind of perception in which many elements are like those in the Kingdom of Heaven itself:
 神の子全員が分かち合う大いなる霊感である聖霊は、天の王国そのものが備える要素と多くの面で似ているある種の知覚を誘発します。

 First, its universality is perfectly clear, and no one who attains it could believe for one instant that sharing it involves anything but gain.
 第一に、この知覚の普遍性は完全に明白です。だから、この知覚を得た者は誰ひとりとして、この知覚を分かち合うことが自分にとって得にしかならないことを、ただの一瞬も疑うことができません。

 Second, it is incapable of attack and is therefore truly open.
 第二に、この知覚は攻撃することができません。だから、この知覚は真に開かれています。

 This means that although it does not engender knowledge, it does not obstruct it in any way.
 このことは、この知覚は知識を生じさせるわけではないとしても、この知覚は、まったく知識の到来を妨げないことを意味します。

 Finally, it points the way beyond the healing that it brings, and leads the mind beyond its own integration toward the paths of creation.
 最後に、この知覚は、それがもたらす癒しの向こう側にある道を指し示し、心を、それ自体を統合させることを超えて創造の道へと導きます。

 It is at this point that sufficient quantitative change occurs to produce a real qualitative shift.
 この点において、真の質的な転換を生み出すために十分な量的な変化が起こるのです。


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