無条件の愛


A day wasted on others is not wasted on one’s self.
他者のために消費した一日は、自分のためだけに浪費した一日とはわけが違う。



Charles John Huffam Dickens
チャールズ・ディケンズ

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・恋愛がうまくいけば自分を愛せるのに。
・成功したら自分を愛せるのに。
・痩せたら自分を愛せるのに。
・もっとお金を稼げたら自分を愛せるのに。
・あの学位がとれたら自分を愛せるのに。
・あの新車が手に入れば、またはあの新しい家に住めたら、自分を愛せるのに。
・シワさえなければ自分を愛せるのに。
・この病気、またはこの障害さえなければ自分を愛せるのに。

これらのセリフに聞き覚えがあるでしょうか?

私たちのほとんどが現在のありのままの自分を愛し、尊重する方法を知らずに生きてきたため、常に未来の空想の世界ばかりを見ています。そこでは自分がもっとわかいらしく、愛される価値のある人間で、自分のことを今よりもっと愛せるはずだと思っているのです。あまり頻繁ではありませんが、これとは逆に、後悔しながら過去を回想する人もいます(「〇〇〇だった頃の私はよかったなぁ」「〇〇〇の頃の容姿に戻れたら、満足できるのに」という具合に)。こうしたケースでは、私たちは自分が課した条件のせいで過ぎ去ってもはや存在しないものに対する罪悪感や後悔、恨みの感情に囚われてしまうのです。自分を愛することのできる今この現在につながることはありません。私たちが人生に望むものを創り出し、達成し、見つけるためには、まず今の自分を愛さなければ何も始まらないのです。どんなに強く信じたとしても、この順番が変わることはありません。

今の自分をもっと愛そうと未来に目を向けても、今まで愛することができなかった自分や自分の人生、過去を変えられるわけはありません。同様に、後悔だらけで受け入れがたい過去の状況や人間関係、幻想にしがみついていても、今を健康に、幸せに生きる助けにはならないでしょう。今、この瞬間に自分が愛していない、受け入れていない、そして尊重していない自分自身の側面と誠実に向き合い、赦し、理解すること、つまりそれらを癒さない限り、それらは意識の水面下に留まり続けるでしょう。今の自分の状況からどれだけ遠く離れようとしても、どれだけこの関係性を否定したとしても、ありのままの自分を愛せないでいると、私たちは心の平安や健康、幸せ、真実の愛を感じることができないだけでなく、さらなる苦しみや混乱する出来事を招くことになるのです。

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Blake D. Bauer
ブレイク・D・バウアー(「あなたは苦しむために生まれたんじゃない―恐れ、不安、うつを乗り越え、ありのままの幸せな自分で生きる-」209ページ)

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今回は、「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」(ポール・フェリーニ著 井辻朱美訳 ナチュラルスピリット)から、「兄弟」についての一節をご紹介します。

「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」は、イェシュアの兄弟愛が溢れる素晴らしい本です。

このサイトでも冒頭の名言でたくさん引用しているので、この本から語りかける慈悲深さ全開のとにかく優しいイェシュアを読者のみなさんも感じられていると思います。

ぜひお手許に一冊置いて、コースと同じように毎日接する座右の書にしていただければと思います。

無条件





なお、英語版は、キンドルアンリミテッドで読めるし、オーディブル版も出てます。


まず、テキストから、隣人、兄弟とのかかわりについて述べる箇所(のごく一部ですが。。)を抜粋します。


「18. A miracle is a service.
 奇跡とは奉仕です。

 It is the maximal service you can render to another.
 奇跡は、あなたが他者のためにできる最高の奉仕です。

 It is a way of loving your neighbour as yourself.
 奇跡は、隣人をあなた自身として愛する方法です。

 You recognise your own and your neighbour's worth simultaneously.
 あなたは、自分自身の真価と隣人の真価に同時に気付くことになります。」(テキスト第一章 一 奇跡の原理)

「6. You respond to what you perceive, and as you perceive so shall you behave.
 あなたは、自分の知覚するものに対して反応します。そして、あなたは、自分の知覚したように振る舞うことになります。

 The Golden Rule asks you to do unto others as you would have them do unto you.
 黄金律はあなたに、自分に対してして欲しいと思うことを、あなたがまず他の人に対して行うようにと求めます。

 This means that the perception of both must be accurate.
 これは、あなたと他者の両者の知覚が共に正確でなければならない、ということを意味します。

 The Golden Rule is the rule for appropriate behaviour.
 黄金律は、適切に振る舞うための法則です。
 
 You cannot behave appropriately unless you perceive correctly.
 あなたが正しく知覚しない限り、あなたは適切に振る舞うことなどできません。

 Since you and your neighbour are equal members of one family, as you perceive both so you will do to both.
 あなたと隣人とは、一つの家族の対等な一員同士です。だから、あなたが自分と隣人とを対等な家族だと知覚するなら、あなたは、自分にも隣人にも相応しい立ち居振る舞いをすることでしょう。

 You should look out from the perception of your own holiness to the holiness of others.
 あなたは、まず、あなた自身の神聖さを知覚し、それから他の人たちの神聖さへと注意を払うべきです。」(テキスト 第一章 三 贖罪と奇跡)


「 You are being blessed by every beneficent thought of any of your brothers anywhere.
あらゆるところにいる、あなたのあらゆる兄弟の慈愛に富む思い一つひとつによって、あなたは祝福されているのです。

 You should want to bless them in return, out of gratitude.
 兄弟たちの思いに対して、あなたも感謝の念から、お返しに兄弟たちを祝福したいと思うはずです。

 You need not know them individually, or they you.
 あなたは、兄弟のことを個人的に知る必要はないし、彼らも、あなたのことを個人的に知る必要はありません。

 The light is so strong that it radiates throughout the Sonship and returns thanks to the Father for radiating His joy upon it.
 その光は非常に強いので、神の子全体の隅から隅まで輝きを降り注ぎ、喜びをみんなの上に振り注いでくれていることに対する神の子みんなからの感謝の念を父へと照らし返します。

 Only God's holy children are worthy channels of His beautiful joy, because only they are beautiful enough to hold it by sharing it.
 神の素晴らしい喜びを表現する使者となるに相応しいのは神の聖なる子供たちだけです。なぜなら、神の喜びを分かち合うことによって保持するに十分な素晴らしさを備えているのは神の子供たちだけだからです。

 It is impossible for a child of God to love his neighbour except as himself.
 神の子供には、隣人をただ自分自身として愛することしかできません。

 That is why the healer's prayer is:
 ゆえに、癒す者の祈りは次のようになります。

Let me know this brother as I know myself.
私が自分のことを知るように、私にこの兄弟のことも分からせてください。」(テキスト第五章 序論)

「1. The way to recognise your brother is by recognising the Holy Spirit in him.
あなたの兄弟を識別する方法は、その兄弟の中にいる聖霊を認識することによってなされます。」(テキスト第五章 三 救いへのガイド)

「7. If you attack error in another, you will hurt yourself.
もしあなたが他者の誤りを攻撃したりすれば、あなたは自分自身を傷付けることになってしまいます。

 You cannot know your brother when you attack him.
 あなたが自分の兄弟を攻撃している間は、あなたは彼を知ることができません。

 Attack is always made upon a stranger.
 攻撃は、いつでも見知らぬ他人に対して加えられます。

 You are making him a stranger by misperceiving him, and so you cannot know him.
 あなたは兄弟を誤って知覚することによって、彼を見知らぬ他人に仕立て上げてしまうので、あなたには彼を知ることができないのです。

 It is because you have made him a stranger that you are afraid of him.
 あなたが兄弟のことを恐れるのは、あなたが自分で彼を見知らぬ他人にしてしまったせいなのです。

 Perceive him correctly so that you can know him.
 兄弟を知ることができるように、彼を正しく認識してください。

 There are no strangers in God's creation.
 神が創造したものの中には、見知らぬ者など誰一人としていないのです。

 To create as He created you can create only what you know, and therefore accept as yours.
 神が創造したように創造するということは、あなたには自分の知っているもの、したがって、自分のものとして受け入れるものだけを創造することができるということです。

 God knows His children with perfect certainty, He created them by knowing them.
 神は自分の子供たちを、完全な確信をもって知っています。神は、神の子らを知ることによって、彼らを創造したのです。

 He recognises them perfectly.
 だから、神は自分の子供たちを完全に識別できるのです。

 When they do not recognise each other, they do not recognise Him.
 神の子らがお互いに識別できないとき、彼らは神を識別することもできないのです。」(テキスト 第三章 三 知覚 対 知識)


「1. Whenever you deny a blessing to a brother you will feel deprived, because denial is as total as love.
 あなたがある兄弟を祝福することを拒む度に、あなたは自分が拒絶されたように感じます。なぜなら、拒絶することは愛することと同じく、全面的なことだからです。

 It is as impossible to deny part of the Sonship as it is to love it in part.
 神の子の一部である者だけを拒むことは、部分的に愛することが不可能なのと同じように不可能なことです。

 Nor is it possible to love it totally at times.
 同じように、ある時だけ全面的に愛するということも不可能です。

 You cannot be totally committed sometimes.
 あなたは、時々、全面的に身を投じるということはできないのです。

 Denial has no power in itself, but you can give it the power of your mind, whose power is without limit.
 拒否することそれ自体には何の力もありません。しかし、あなたは、限界のない自分の心の力を拒否することに与えることができます。

 If you use it to deny reality, reality is gone for you.
 もしあなたがその力を現実を否定するために使えば、あなたにとっては現実はなくなります。

 Reality cannot be partly appreciated.
 部分的にだけ現実の真価を認めるということはできません。

 That is why denying any part of it means you have lost the awareness of all of it.
 だから、いかなる部分であれ現実を少しでも否定すれば、それは、あなたが現実についての自覚を全面的に喪失したことを意味します。

 Yet denial is a defence, and so it is as capable of being used positively as well as negatively.
 しかし、拒絶は防御なので、拒絶は否定的に用いられることができるのと同じように、肯定的に用いられることもできます。

 Used negatively it will be destructive, because it will be used for attack.
 拒絶は、否定的に使われると破壊的になります。なぜなら、拒絶が攻撃のために使われるようになるからです。

 But in the service of the Holy Spirit, it can help you recognise part of reality, and thus appreciate all of it.
 しかし、拒絶が聖霊に奉仕するときには、拒絶は、あなたが現実の一部を見分けることを助け、それによって、あなたが現実全体の真価を認めることを助けてくれます。

 Mind is too powerful to be subject to exclusion.
 心は極めて強力であるがゆえに、心が排除されてしまうことはありません。

 You will never be able to exclude yourself from your thoughts.
 あなたは自分の思いから自分自身を排除することなど絶対にできないのです。



2. When a brother acts insanely, he is offering you an opportunity to bless him.
 ある兄弟が狂気の行動を取るとき、彼はあなたに彼を祝福する機会を差し延べてくれているのです。

 His need is yours.
 その兄弟に必要なものは、あなたに必要なものなのです。

 You need the blessing you can offer him.
 あなたは、自らがその兄弟に差し出すことのできる祝福を必要としています。

 There is no way for you to have it except by giving it.
 あなたがその祝福を得るためには、その兄弟に祝福を与えること以外に手立てはありません。

 This is the law of God, and it has no exceptions.
 これこそ神の法であり、この神の法には例外はありません。

 What you deny you lack, not because it is lacking, but because you have denied it in another and are therefore not aware of it in yourself.
 あなたが何かを否定すると、あなたはそれを欠くことになります。それは、その何かが不足しているからではなくて、あなたが、その何かが誰か他の人の中にあることを否定してしまったので、その結果、あなたには、その何かが自分自身の中にあると気付かなくなっているからです。

 Every response you make is determined by what you think you are, and what you want to be is what you think you are.
 あなたがどのように応ずるかはことごとく、あなたが自分を何であると思うかによって決定されます。そして、あなたがなりたいと思うものが、あなたが自分であると思うものになるということです。

 What you want to be, then, must determine every response you make.
 ゆえに、あなたがなりたいと思うものが、あなたの全ての反応を決定することになります。」(テキスト第七章 VII. The Totality of the Kingdom 七 王国の全体性)








「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」


「兄弟

あなたはいつも自分の人生で、兄弟の存在を重く考えすぎています。たとえば、自分の問題をすべて兄弟のせいにし、わたしにやったように十字架につけます。かと思えば台座に乗せて敬い、わたしにやったように、ひたすらにあがめたてまつるのです。

兄弟をあなたと対等なものだと見るのは、昔からむずかしかたようですね。あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい、とわたしが説いたとき、それはいろいろな状況で使える簡潔なルールのつもりでした。ところが残念ながら、自分自身を愛していないと、隣人を愛するという幸運にまで手がまわりません。

自分自身を愛するのを学ぶことと、兄弟を愛するのを学ぶことは、同時進行です。兄弟を愛して自分を憎むことはできませんし、自分自身を愛していて兄弟を憎むこともできません。兄弟に対する感情は、自分自身に対する感情を鏡に映しているにすぎません。

そんなわけですから、兄弟とのかかわりあいは、あなたが自分自身の中のなにを宥さなければならないかを見せてくれるでしょう。あなたが兄弟の出すぎたふるまいを宥すことが、相手が自分を宥すことにつながれば、そのかぎりにおいて、それも意味があります。同じように兄弟があなたのふるまいを宥してくれて、そのおかげであなたが自分を宥すことができたとすれば、それなりの意味があります。

でも他人からの宥しは、あなたがそれを必要だと信じている場合にだけ必要です。たいていの人がそうなのですが、宥してもらわねばと思いこんでいると、償いをすることが重要になります。宥しを乞うことは、その事件に関して、自分の心を変える準備ができていることのあらわれです。これはプロセスの重要な一歩です。

しかしながら、あなたを宥す「力」を兄弟に与えてしまうのは、誤りです。それでは、力をあなたの外においてしまいます。外に力はありません。兄弟に宥しを乞うのはいいでしょう。しかし、宥してくれなければ自分は永遠に宥されないのだ、と考えてはなりません。じつは宥しとは、つねにあなたに与えられているものなのです。宥しを与えない人は、それを自分に対しても拒んでいるというだけにすぎません。

自分が兄弟を非難していることに気づいたら、自分の非難相手は、ほんとうはその当人ではないということがわかります。非難しているのは、自分が認めていない、自分の恥ずべき部分です。兄弟にどこか欠けたところがあると感じたら、いい気持ちにはならないでしょう。それは自分自身の無価値感をもつのらせるだけです。

正義も救済も、兄弟を攻撃することによっては得られません。実態をよくごらんなさい。あなたが兄弟の手に打ちつける釘はすべて、自分自身をも十字架に打ちつけています。わたしがそのよい例です。すべての攻撃がとだえるまで、わたしはずっと十字架にかかったままでいるでしょう。そのときまでは、あなたもわたしも同じです。どちらも十字架にはりつけられています。

兄弟とのかかわりの中にはシンプルな選択があります。相手を無罪とするか、有罪とするかです。この選択は何度も何度も、毎日、毎時、毎秒やってきます。ひとつの思いで兄弟を幽閉し、べつの思いで釈放します。相手をこう扱おうと決めたやりかたで、あなたはあなた自身を裁くことになります。

兄弟をひきずりおろすことによっては、天国には行けません。しかし兄弟を背負ってつれていこうとしても、やはり天国には行けないのです。あなたがたにはひとり残らず、自分自身の無実を見いだす手だてが与えられているからです。ただ、兄弟のありかたを認め、その旅を祝福しなさい。助けを求められたら、よろこんで助けなさい。しかし、彼が自分でなすべきことを肩代わりしてはいけません。

境界を越えて成長しようと思うなら、まず適切な境界線が必要です。あなたの心の平和や幸福を兄弟の責任にせず、また兄弟の平和や幸福を自分の責任にもしないことです。兄弟はあなたを救うためではなく、自分を救うためにここにいるのですから。

しかしそのいっぽうで、兄弟に浴びせていた不満や愚痴から、当人を解放しなさい。兄弟に対しては、いかなる方法でも愛の出し惜しみをしないでください。彼を幸福からひきもどそうとすることは、攻撃であり、あなた自身を恐怖心と罪悪感の中に閉じこめることにもなります。

兄弟から助けを求められたら、避けてはなりません。相手がのぞむかぎり、そばでともに学ばせてあげなさい。彼のほうで離れてゆく準備ができたら、祝福を祈って送り出すのです。旅に必要な食べ物と水を与えます。恩に着せたり、意志に反してひきとめたりしないように。

兄弟の自由は、あなた自身の自由のシンボルにすぎません。ですから、来るのも去るのも、彼の好きにまかせるのです。来たときは歓待し、去ってゆくときは快く送りだします。それ以上のことは、あなたにはできません。それでじゅうぶんです。見知らぬ人全てをそんなふうに手厚く扱いなさい。そうすればわたしは、信頼がもどり慈悲心が支配する世界を見せてあげられます。

自分を愛するように隣人を愛しなさい。自分と相手を同じように扱いなさい。彼のために自分を犠牲にしたり、彼に犠牲を払わせたりせず、あなたのできるときに彼を助け、必要なときには感謝して、彼の助けを受け入れなさい。このシンプルでおごそかなやりとりこそ、愛と受容のありかたです。おたがいの信頼と尊重のあらわれです。

これ以上はやりすぎです。これ以下では足りません。」(「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」ポール・フェリーニ著 井辻朱美訳 ナチュラルスピリット 31~34ページ)





赦しと和解の混同が起こりやすいことについては、つぎの文章を参考にしてください。


「ゆるしとは加害者が悔恨の情を示す、示さないにかかわらず、自ずとなされるものなのです。実際もし、あなたが「彼らをゆるしている」と言ったならそれは、かえって逆効果です――相手は自分があなたを傷つけたことさえ気づいていないかもしれないのですから。そんなものは単なるごまかしにすぎず、相手は恨みのような反発心を生み出すことにもなりかねません。
「ゆるし」が相手に左右される状態になると、すべてが相手である加害者次第になり、被害者である自分の意識も悪化することになります。そして、「あなたさえいなければ私はゆるすことができたのに!」あるいは「あなたが謝らないから、私はいつまでもこの苦しみから解放されることができない」といった結果が生まれます。では、加害者がもしも死んでしまったら? ゆるしは永遠に成り立たなくなるのでしょうか? いいえ。そんなことはありません。
ゆるしと和解――このふたつを混ぜこぜにすると、混乱のもととなります。ゆるしは一方が相手をゆるすことで成り立ちますが、和解にはある程度の相互関係が必要だからです。被害者と加害者双方の意図がなければ和解が成立しない。つまり、何らかの謝罪、もしくは改悛の情が示されることによって被害者が納得し、怒りや復讐心を捨てるのです。どちか一方、またはお互いが傷ついたことを認識し合い、その傷を癒し、関係を修復したいと望む――それが和解です。これにはある種の関係修復、または補償が必要となるのです。
・・・
つまり従来の「自己のゆるし」は、通常のゆるしというより和解の概念と共通する部分が多いのです。究極的には自己のゆるしは真の和解がなくても成り立つのです。」



Colin C. Tipping
コリン・C.ティッピング(「自分をゆるすということ」27ページS2-1 自分自身を赦す

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