M19 正義とは何か


私は正義を信条としていますが正義よりも母を先に守ります。

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Albert Camus
アルベール・カミュ

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あなたは間違いなく正しいのかもしれない ーー でも、今のままでは死んだも同然よ。あなたは幸せになりたいの? それとも正しくありたいの?

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Edith Eva Eger
エディス・エヴァ・イーガー(「心の監獄 選択の自由とは何か?」154ページ)






10.17 あなたは正しくありたいですか。それとも幸せでありたいですか。多くの人がこの問いを抱えているように見えます。幸せよりも正しくあることを選ぶのはエゴだけです。身体を観察するとき、身体が選ぶ選択肢という観点から自分の行動についても観察してみてください。そして、「どの選択が、自分を現在の状況や出来事に導いたのか」、自分に問いかけてみてください。眼の前の現実が起こる前には、必ず選択がなされているからです。神の子に何かが偶然起こることはありません。この観察は、人生の責任を、あるべき場所である自らの手に取り戻すのに役立ちます。あなたは無力で自分のコントロールを超えた力に振り回されているのではありません。あなたのコントロールに優る力とは、あなた自身のマインドだけですが、マインドにコントロールされる必要はないのです。「この代わりに、幸せに導いてくれる選択はどれだろうか」と自分に問いかけてください。この質問を自分に投げかけていくと、外的な出来事への自分の身体の反応が変わってきます。そしてやがては、外的な出来事そのものに変化が見られるようになります。
それでもあなたのマインドは、幸せであるよりも正しくある方を好むかもしれません。ですから、ハートを新しい選択へと導くことが大切です。例えば、嫌な状況にあるとき、その状況の中で幸せを見出す意志を持ってください。このようにハートに指示を出すことは、マインドの状態に変化をもたらすきっかけとなります。

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イエス・キリスト(マリ・ペロン著「愛のコース 第一部 コース」 138ページ)

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はっきり言えば、第3の案を探す人は、公平かどうかにはさほど関心がない。それより何よりシナジーに強い関心を持つ。単に公平な、公正な、あるいは平等な解決策では満足できず、もっと多くを求める。公平だけを求めるなら、第3の案を探すマインドには到達していない。
チャールズ・H・グリーンの的確な説明を引こう。「〈公平〉を求める気持ちは信頼関係の敵である。相互の信頼は相互依存を基盤として築かれるのであり、それには相手を尊重しなければならない……(中略)……どちらが四九でどちらが五一をとるのかどいう交渉に労力を使っていたら、〈公平〉を追求するあまり信頼関係を壊すことになる」



Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー(「第3の案」97ページ)






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今回は、マニュアルから第19節をご紹介します。



正義についてです。


T25-9 天国の正義


正義はとても大切だけど諸刃の剣

正義はとても大切な概念です。

しかし、必要以上に正義を追求することで不幸になってしまうという罠に多くの人が陥ります。

正義の味方はかっこいいものです。
勧善懲悪の物語は、私たちにスカッとした爽快感を与えてくれます。

誰もが幼少期から正義の感覚を刷り込まれるので、自分の幸せを犠牲にしてまでも正義を追い求め、正義を貫くような生き方を求めるようになりがちです。

ネットやワイドショーでは、つねに過ちを犯した誰かを吊し上げ、正義を遂行できたことで溜飲を下げ、自分は絶対に非難される側の人間ではないという意識でいます。

日記やブログなど、自分の書いた文章を読み返したり、日常的な場面を記録した動画を見返したりしてみると、誰それは間違っている、これは正しい等の言葉が端々に溢れていて、自分で自覚している以上に自分が正義中毒に陥っていることに誰もが気づくはずです。


正義の騎士は王座に就いてはいけない

しかし、そもそも、本来、正義は手段原理であって目的原理ではありません。

というのも、正義というのは、適正なバランスが取れた公平な状態を意味するものであって、複数の利害が対立する場面でしか正義の出番はないからです。

本節では、天国には誤りや不公正はないので、天国には正義の居場所はないということが冒頭で述べられます。





正義は幻想世界で、天国に至る際に誤りを修正する道具でしかないのです。


幸福より正義を最優先するのは手段の自己目的化に等しい空疎な事態

毒蛇に噛まれた際になすべき適切な対処は、憎たらしい毒蛇を追いかけて捕まえてとっちめてやることではなく、身体に入った毒の有害作用を中和してダメージを受ける状態から脱すべく、一刻も早く抗毒素血清の投与等の治療を開始することです。

毒蛇に噛まれたら、誰もが適切にリアクションするのに、人が相手となると、誰もが、相手に正義の鉄槌を食らわせて罪を思い知らせてやることが自分の救いになるように感じて、毒蛇を追いかけて捕まえて懲らしめることに相当する行動をとって自分を毒念で満たし、それが自分を幸せにする正しい行動だと信じて疑いません。

聖霊の3大レッスンのひとつ「他者の攻撃に対しては本当の自分は傷つくことがないことを示して相手に自分は無罪だと自覚させて罪悪感を抱かせない」(T14-3 無罪を自覚する決意)を肝に銘じる必要があります。


人生という劇で登場人物が演じる役割の真の意義を知るのは聖霊のみ

人生の出来事の表面で見えているところよりも、より深いところでは、魂同士が合意して加害者と被害者の役割をそれぞれ演じて、学びの機会を与え合っているということも、とても容易に受け入れることができる観念ではありませんが、本当のところ、ありそうな話です(T28-6 秘密の誓約)。

私たちも人生を振り返ってみて、自分の味方をしてくれる人や幸運ばかりから学び、自分の敵や不幸からは何も学ばなかったということは誰も思わないはずで、むしろ、逆に敵や不幸によってこそ貴重な学びを得てきたことに思い当たるはずです。

ドラマや映画では、憎たらしい敵役を見事に演じ切った俳優に称賛が送られますが、私たちの人生という劇場でも、私たちはお互いに、エゴとしての自分では気づかないままでも、魂としてお互いの気づきと成長のために、悪役を引き受けて気づきのチャンスを提供し合っているというのが真実なのかもしれません。


ラディカルな視点から眺めることが新たな気づきにつながることも

この点を深掘りしたい方は、コリン・C.ティッピングさんの人生を癒すゆるしのワークや飯田史彦さんの生き甲斐の創造シリーズを読んでみてください。



Colin C. Tipping
コリン・C.ティッピング


コリン・C.ティッピングさんの本は、原題が"Radical Forgiveness"というくらいなので、極めてラディカルな記載もあり、ヒトラーの魂が、ドイツ民族の優越意識とユダヤ民族の被害者意識を変容させるという使命を負っていたとしたら?、とか、中国政府がチベット侵攻したのは、ダライ・ラマを世界中に旅させて、素晴らしいメッセージを国境を越えて広めさせるためだったとしたら?、というように理不尽極まる暴虐も、実は、災害や戦争、飢饉のような表面上、害悪としてしか受け止めようがないように思える出来事が、ある面では多くの魂を癒す作用を発揮する実情があるのと同じように、世の常識からすれば、絶対に正面切って認めることができないような位置づけの転換を示すとんでもない観点が示されます。

多くの人にとってこのことは、受け入れがたいことでしょうが、これが真理である可能性は否定できません。


私たちには聖霊に裁きの天秤と剣を委ねることしかできない

さて、ヒトラーの例ほど極端になるとみんな揃って悪魔と評することで異論は出ないということになるわけですが、神の正義の真実は私たちにはその片鱗すら窺い知ることはできません。

そして、正義を実現するには、正しい価値判断、裁きが必要ですが、私たちには正しく裁くことはできないので、聖霊に裁きを委ねることしかできません。


つまり、実在しない誤りの修正である正義は真理に到達するための大切な道具であるが、それを使って正義を実現するのは私たちの役目ではなく聖霊の役目だということです。

人間として生きているかぎり、どうしても聖霊から正義の剣をぶんどって自分で振り降ろしたくなってしまうものですが、「正しくあるよりも幸せであれ」という言葉を肝に銘じて越権行為を控えるように注意しましょう。


はたらく細胞の観点をつねにあてはめてみる

正義にこだわり、犯人探しをして誰かを咎めたい気持ちに駆られるときはつねに、自他分離の基盤に乗っかっていることは間違いありません。




もちろん、カソリックの「悪魔の代弁者」(devil's advocate)のように、よりよい検討のためにあえて糾弾する役目を割り振ることはとても重要なことで、裁判でもひとりの御奉行様が非難と弁護と裁きをこなしていたのでは、大岡裁きばかりではなく、間違った裁きが大量生産されてしまうので、裁判でも裁判官、検察官、弁護人という役割分担をして各自が自分の立場からの目線でのみ活動することが公正な判決を実現するうえで欠かせません。

けれど、自分の役割に感情移入しすぎて対立陣営側は許しがたい悪魔であるという信念を抱くようでは、ときに深刻な問題を生み出してしまうことになります。たとえば、自分が正しいと信じる真実のために、相手陣営に不利な証拠を握り潰したり、自らの陣営に有利な証拠を捏造したりして、正義を遂行したつもりが、冤罪を生み出したり、極悪人を野に放ったりする結果となるような事態が起こりえます。

世界をはたらく細胞の観点で、ひとつの生き物を構成する細胞たちで成り立つ体内世界のようにみなすなら、有害事象に関与したとしても、自分の一部である以上、バッサバッサと切り捨てて排除しようというのではなく、できるものなら、更生してくれたほうがありがたい、相互理解を進めて一緒に幸せになれる道を模索したいというふうに思うはずです。


自分が正しくなくて間違っていたほうがずっとよい

T30‐1 決断するためのルールのつぎの一節が教えてくれているように、自分が正しくはなくて間違っていたほうがずっとましだという発想を身につけましょう。

「9. (5) Having decided that you do not like the way you feel, what could be easier than to continue with,
 自分の感じ方が好きではないことをはっきりさせたなら、次のように続けることはきわめて簡単なはずです。


"And so I hope I have been wrong."
「だから、私は自分が間違っていたほうがよいと思う。」


 This works against the sense of opposition, and reminds you that help is not being thrust upon you but is something that you want and that you need, because you do not like the way you feel.
 この手順は、抵抗感を抑制するように働き、助けはあなたに強引に押しつけられるものではなく、あなたが自分の感じ方を好んでいないがゆえに、あなたが望み、あなたが必要とするものなのだとあなたに気づかせてくれます。

 This tiny opening will be enough to let you go ahead with just a few more steps you need to let yourself be helped.  
 あなたが助けを得るために必要な、あとほんの数歩をあなたが踏み出して前進するには、このささやかな呼び水だけで十分でしょう。

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10. Now you have reached the turning point, because it has occurred to you that you will gain if what you have decided is not so.
 今、あなたはターニング・ポイントに差しかかっています。なぜなら、もし自分の決めたことが正しくなかったとしたら、自分は得をすることになるはずだとあなたは思い至ったからです。

 Until this point is reached, you will believe your happiness depends on being right.
 このターニング・ポイントに到達するまでは、あなたは自分の幸せは、自分が正しくあることにかかっているものと信じ続けるでしょう。

 But this much reason have you now attained; you would be better off if you were wrong.
 しかし、いまや、あなたは自分が間違っていたほうが、自分にはずっと好都合だと理解するに十分な理由を手に入れたのです。



11. (6) This tiny grain of wisdom will suffice to take you further.
 あなたをより遠くまで導くには、このような英知のごく小さな一粒だけで十分です。

 You are not coerced, but merely hope to get a thing you want.
 あなたは強制されているわけではなく、ただ自分が望むものを得ようと望むだけです。

 And you can say in perfect honesty:
 だから、あなたは完全に正直になって次のように言うことができます。


"I want another way to look at this."
「私はこれを別の見方で見てみたい。」
 」(T30‐1 決断するためのルール


冒頭のエヴァ・エディス・イーガーさんの言葉

あなたは幸せになりたいの? それとも正しくありたいの?

を別の言葉で表現した小林正観先生の本のタイトル


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「ただしい人から、
たのしい人へ」

を標語にしてもよいでしょう。




罪悪感から解放されることは可能なのか?が参考になると思います。



神と共に

地獄での裁きを描いた異色の韓国映画「神と共に」第一章、第二章は必見です。

神と共に(アマゾンプライム)
神と共に(ネットフリックス)


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Section 19
第19節

What Is Justice?
正義とは何か



1. Justice is the divine correction for injustice.
 正義とは、不公正に対して神が施す修正です。

 Injustice is the basis for all the judgments of the world.
 不公正が基盤となって、この世界でのすべての価値判断による裁きが下されます。

 Justice corrects the interpretations to which injustice gives rise, and cancels them out.
 正義は、この不公正が生み出す解釈を修正して、それらの解釈を取り消します。

 Neither justice nor injustice exists in Heaven, for error is impossible and correction meaningless.
 正義も不公正も、天国には存在しません。というのも、天国では誤ることは不可能なので、誤りを修正することには意味がないからです。

 In this world, however, forgiveness depends on justice, since all attack can only be unjust.
 しかしながら、この世界では、どんな攻撃も不公正なものにしかなりえないので、赦しは正義に依拠することになります。

 Justice is the Holy Spirit's verdict upon the world.
 正義は、聖霊による世界に対する裁きです。

 Except in His judgment justice is impossible, for no one in the world is capable of making only just interpretations and laying all injustices aside.
 聖霊の裁きによらなければ、正義は不可能です。というのは、この世界の中にいながら、正しい解釈だけをなしてすべての不公正を退けられる者はいないからです。

 If God's Son were fairly judged, there would be no need for salvation.
 もし神の子が公正に価値判断されていたなら、救済などまったく必要なかったでしょう。

 The thought of separation would have been forever inconceivable.
 分離を思い浮かべることなど、永遠にありえなかったでしょう。



2. Justice, like its opposite, is an interpretation.
 正義は、その対極と同じように、ひとつの解釈です。

 It is, however, the one interpretation that leads to truth.
 しかしながら、正義は、真理へと導くたったひとつの解釈です。

 This becomes possible because, while it is not true in itself, justice includes nothing that opposes truth.
 正義が真理に導くことが可能になるのは、正義それ自体が真実であるわけではないものの、正義は真理に抵抗するものを一切含まないからです。

 There is no inherent conflict between justice and truth; one is but the first small step in the direction of the other.
 正義と真理の間には元来、何の矛盾もありません。正義はただ真理の方角に向けて踏み出す最初の小さな一歩でしかありません。

 The path becomes quite different as one goes along.
 旅人が真理に向かう道を進むにつれて、行路はとても変わってきます。

 Nor could all the magnificence, the grandeur of the scene and the enormous opening vistas that rise to meet one as the journey continues, be foretold from the outset.
 また、旅路が続くにつれて、旅人が出会うことになる荘厳で雄大な情景や途方もない大きさで開けてくる展望のすべてを、旅立つ前の出だしの段階から見通すことなどできません。

 Yet even these, whose splendor reaches indescribable heights as one proceeds, fall short indeed of all that wait when the pathway ceases and time ends with it.
 しかし、たとえこれらの情景や展望の壮麗さが旅人が進むにつれて言葉で言い尽くすことのできない高みに達するとしても、それらの素晴らしさでさえ、その道が消えて、時間が道とともに終わるときに待ち受けているすべての荘厳さには、とうてい及びもつきません。

 But somewhere one must start.
 それでも、人はどこかで旅を始めなければなりません。

 Justice is the beginning.
 正義は、その始まりなのです。



3. All concepts of your brothers and yourself; all fears of future states and all concerns about the past, stem from injustice.
 未来の状況についてのあらゆる恐れや過去についてのすべての憂慮といった、あなたの兄弟やあなた自身が抱くあらゆる概念は、不公正から派生してきます。

 Here is the lens which, held before the body's eyes, distorts perception and brings witness of the distorted world back to the mind that made the lens and holds it very dear.
 この不公正は肉眼の前に置かれて知覚を歪めているレンズでであり、このレンズは、そのレンズを作り出し、そのレンズを大切にしている心の許へと、捻じ曲がった世界の存在と正しさを証明する証拠を持ち帰ってきます。

 Selectively and arbitrarily is every concept of the world built up in just this
way.
 この世界のあらゆる概念は、まさにこんなふうにして、選り好みして恣意的に作りあげられています。

 "Sins" are perceived and justified by careful selectivity in which all thought of wholeness must be lost.
 「あまたの罪」は、入念な選択によって知覚され正当化されたものです。そのように正当なものと知覚させるよう周到に選び抜かれたあまたの罪の中にあっては、完全であるという思いはすべて失われてしまうに違いありません。

 Forgiveness has no place in such a scheme, for not one "sin" but seems forever true.
 こんな計略の中には、赦しが入りこむ隙はありません。なぜなら、すべての「罪」が永遠に真実であるように見えてしまうからです。



4. Salvation is God's justice.
 救済は、神の正義です。

 It restores to your awareness the wholeness of the fragments you perceive as broken off and separate.
 救済は、あなたが絶縁して分離したつもりでいるかけらたちがひとつに結ばれた全体像を、あなたが再び自覚できるようにします。

 And it is this that overcomes the fear of death.
 そして、死の恐怖に打ち勝つのは、この全体性です。

 For separate fragments must decay and die, but wholeness is immortal.
 なぜなら、分離した断片は朽ちて滅することを免れないとしても、全体は不死だからです。

 It remains forever and forever like its Creator, being one with Him.
 全体は、その創造主と一体なので、創造主と同じように、永遠にいつまでも存続します。

 God's Judgment is His justice.
 神の裁きとは、神の正義のことです。

 Onto this,--a Judgment wholly lacking in condemnation; an evaluation based entirely on love,--you have projected your injustice, giving God the lens of warped perception through which you look.
 非難というものがまったく欠落し、完全に愛に基づいた評価であるこの神の裁きに対して、あなたは自分の不公正を投影し、自分がそれを通して見ている歪んだ知覚のレンズを神に押しつけようとしてきたのです。

 Now it belongs to Him and not to you.
 いまや、不公正は、あなたではなく、神に属するものとされてしまっています。

 You are afraid of Him, and do not see you hate and fear your Self as enemy.
 あなたは神を恐れており、自分が自らの大いなる自己を敵とみなして憎み、恐れていることがわからなくなっています。



5. Pray for God's justice, and do not confuse His mercy with your own insanity.
 神の正義を求めて祈りなさい。そして、自分の狂気に惑わされて、神が与えてくれる慈悲を見落としてはなりません。

 Perception can make whatever picture the mind desires to see.
 知覚には、心が見たいと望むどのような情景でも描き出すことができます。

 Remember this.
 このことを覚えておいてください。

 In this lies either Heaven or hell, as you elect.
 知覚には心の望むどんな情景でも作り出せるがゆえに、あなたは天国と地獄のどちらでも選べるのです。

 God's justice points to Heaven just because it is entirely impartial.
 神の正義は、完全に公平なものなので、天国のほうを指し示します。

 It accepts all evidence that is brought before it, omitting nothing and assessing nothing as separate and apart from all the rest.
 神の正義は、その面前にもたらされるあらゆる証拠を受け入れ、何ものも割愛することなく、また、何ものも残りのものから分離していて隔絶していると評価することはありません。

 From this one standpoint does it judge, and this alone.
 このひとつの立脚点から、そして、ただこの見地からのみ、神の正義は裁きます。

 Here all attack and condemnation becomes meaningless and indefensible.
 この神の正義の完全な公平さにおいて、すべての攻撃と非難は意味を失い、そして、弁護する余地がなくなります。

 Perception rests, the mind is still, and light returns again.
 知覚が停止して心が静まると、光が再び戻ってきます。

 Vision is now restored.
 ようやくヴィジョンが元通り働くようになりました。

 What had been lost has now been found.
 失われていたものが、今こそ、見出されたのです。

 The peace of God descends on all the world, and we can see.
 神の平安が全世界に舞い降りてくるのが、私たちにも見ることができます。

 And we can see!
 私たちには見えるのです。






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