T8-8 身体は目的、道具?


あなたが車を一台持っていて、一生その車にしか乗れないとしよう。当然あなたはその車を大切に扱うだろう。必要以上にオイルを交換したり、慎重な運転を心がけたりするはずだ。ここで考えて欲しいのは、あなたが一生に一つの心と一つの体しか持てないということだ。つねに心身を鍛練しなさい。決して心身の手入れを怠らないようにしなさい。じっくり時間をかければ、あなたは自らの心を強化することができる。人間の主要資産が自分自身だとすれば、必要なのは心身の維持と強化だ。

ウォーレン・バフェット_1201082735

ウォーレン・バフェット



自分自身の全存在でもって、つまり霊・魂・体でもって何か特定のことを望む(意思する)人は、魔法を使えます。―そして、それはファンタージエンの中でだけではありません。

ミヒャエル・エンデ_1201093438

Michael Ende
ミヒャエル・エンデ(「Das grose Michael Ende Lesebuch」より)

ness (1) (1)aad (1) (1)513PulOZsFL (2) (1)




VqDCJbPS (1) (1)

前節では、身体はエゴに従うなら攻撃の手段に、聖霊に従うなら、コミュニケーションの手段になるということが語られました。

今回は、テキスト第八章から身体の位置づけ、捉え方に関する一節をご紹介します。


エゴとは迷走装置

本節では、エゴの本末転倒ぶりがわかりやすく説かれます。

2.「The ego makes a fundamental confusion between means and end as it always does.
 エゴは、いつもそうするように、手段と目的とを根本的に混同しています。」

6.「If data are meaningless there is no point in analyzing them.
 もしデータが無意味なら、そんなものを分析しても無駄だからです。

 The function of truth is to collect information that is true.
 真理の役目は、真実である情報を集めることです。

 Any way you handle error results in nothing.
 どんなふうにあなたが誤りを処理しようとも、何の成果も得られません。

 The more complicated the results become the harder it may be to recognize their nothingness, but it is not necessary to examine all possible outcomes to which premises give rise in order to judge them truly.
 結果が複雑になればなるほど、それらのデータの無意味さを認めるのがより難しくなりはするでしょう。しかし、それらのデータが無意味だと正しく判断するために、そのデータを前提として引き起こされる可能性のある結果のすべてを検証する必要などありません。」


目的を与えられない道具ほどみじめなものはない

私たちは、自分を振り返ってみても、周りをみても、目的を忘れて道具に凝るなどして道草を食うことに没頭したり、スペックの高いパソコンを導入すればいい仕事ができるような錯覚を抱いて、パソコンで処理させるデータは軽視することによって、より迅速に、より正確に間違った結論をはじき出していることが多かったりします。

たとえF1マシンを乗り回すことができたとしても、目的地を知らず、地図やカーナビもないなら、軽自動車どころか自転車、徒歩にすら先を越されてしまうでしょう。

世界の中を移動し、兄弟に真理と愛を運ぶ道具として活用できるというエゴ・身体というアバターの意義を見落として、人形の属性を自己満足や外的な評価を得られるハイスペックなものにしようと努力することに生涯を捧げるような虚しい生き方はしたくないものです。

Fotolia_29023714_XS_transparent (1)


身体の否認が帰結するのは始末に負えない清純仮面

コースでは、身体への自己同一化を解除することに重きを置いているために、コースを学ぶ私たちは、どうしても、エゴや特別な関係等々と同様に、身体のことを邪魔者扱いする発想に陥りがちです。

この発想が帰結するのは、頭でっかちで地に足のつかない清純仮面を被った自覚のない偽善者の生産です(過激な表現ですみませんm(__)m 奇跡のコースは本当に食べ方を間違えると命取りの毒リンゴだということを自覚しましょう)。

しかし、エゴや特別な関係でもたびたび述べているように、コースが真に意図するところは、身体を否認することではなく、正しく光を当てて、エゴが使う道具から聖霊が使える道具へと位置づけを変えることだけです。


身体を否認するのではなく聖霊の道具として奉仕させる

エゴや身体は悪者として攻撃して排除する敵ではなく、受け入れて光を当てて聖霊の目的に奉仕するしもべにすべき味方だという観点です。

現代社会は、脳優位の価値観が蔓延し、身体は置いてけぼりです。

しかし、人体を国に準えるなら、脳は政府であり、身体は国民が構成する組織構造であるという関係性になります。

マインドの理知的な側面ばかりを働かせるのはやめて、バランスよくハートやボディの感情や体性感覚を研ぎ澄まして、自分独自のソウルに光を当て、スピリットへと戻りましょう。







「脳の外で考える――最新科学でわかった思考力を研ぎ澄ます技法」(アニー・マーフィー・ポール (著), 松丸 さとみ (翻訳) )が、脳依存の頭でっかち状態から脱するためのよい参考書になると思います。



ゆにこーん_1225101759 (2) (1)

テキスト 第八章 

VIII. The Body as Means or End
八 手段または目的としての身体



1. Attitudes toward the body are attitudes toward attack.
 身体をどのように捉えるかが、攻撃に対する態度を決めます。

 To the ego the body is to attack with.
 エゴにとっては、身体は攻撃するための手段です。

 Equating you with the body, it teaches that you are to attack with.
 あなたを身体と同一視するので、エゴは、あなたは攻撃の手段なのだと教えます。

 The body, then, is not the source of its own health.
 あなたが攻撃の手段だとすれば、身体はそれ自体の健康の源ではなくなります。

 The body's condition lies solely in your interpretation of its function.
 身体の状態はもっぱら、あなたが身体の役割をどのようなものとして解釈するかにかかっています。

 Functions are part of being since they arise from it, but the relationship is not reciprocal.
 役割というものはどのようなものとして在るかという実在から生じるので、役割は実在を構成する部分です。ただし、この関係性において役割と実在が入れ替わることはありません。

 The whole does define the part, but the part does not define the whole.
 全体は部分を定義することはあっても、部分が全体を定義することはないからです。

 Yet to know in part is to know entirely because of the fundamental difference between knowledge and perception.
 けれども、知識と知覚の間の根本的な違いのゆえに、一部を知ることは全体を知ることになります。

 In perception the whole is built up of parts that can separate and reassemble in different constellations.
 知覚においては、全体は、分解したり異なった配列に新たに組み合わせたりできる数ある部分によって構成されています。

 But knowledge never changes, so its constellation is permanent.
 しかし、知識は決して変わりません。したがって、知識の体系の配列は永久に変わらないままです。

 The idea of part-whole relationships has meaning only at the level of perception, where change is possible.
 部分と全体の関係性について考えることが意味を持つのは、ただ変化が可能な知覚のレベルにおいてのみです。

 Otherwise, there is no difference between the part and whole.
 知覚のレベル以外では、部分と全体との間には何の相違もないからです。



2. The body exists in a world that seems to contain two voices fighting for its possession.
 身体は、身体の所有を巡って相争うふたつの声からなるように思える世界の中に存在しています。

 In this perceived constellation the body is seen as capable of shifting its allegiance from one to the other, making the concepts of both health and sickness meaningful.
 このように知覚される両陣営において、身体はその忠誠をひとつの声から別の声へと移すことができるとみなされており、このことが、健康と病気の両方の概念を意味あるものにしています。

 The ego makes a fundamental confusion between means and end as it always does.
 エゴは、いつもそうするように、手段と目的とを根本的に混同しています。

 Regarding the body as an end, the ego has no real use for it because it is not an end.
 身体は目的ではないのだから、身体を目的とみなしているエゴには、身体を真に活用することができません。

 You must have noticed an outstanding characteristic of every end that the ego has accepted as its own.
 エゴが自分のものとして受け入れる目的にはどれも、すぐに見分けのつくわかりやすい特徴があることにあなたはすでに気づいているはずです。

 When you have achieved it, it has not satisfied you.
 その特徴とは、あなたが目的を達成しても、その目的はあなたを満足させてくれなかったということです。

 This is why the ego is forced to shift ceaselessly from one goal to another, so that you will continue to hope it can yet offer you something.
 これが、エゴが絶え間なく、ある目標から次の目標へと渡り歩くことを強いられる理由です。これによって、あなたは、エゴが自分にまだ何かを提供してくれるのではないかと期待し続けることになります。

20150316115937f70_transparent (1)

3. It has been particularly difficult to overcome the ego's belief in the body as an end, because it is synonymous with the belief in attack as an end.
 身体が目的だと信じこむエゴの信念を克服するのは、とりわけ難しいことでした。なぜなら、身体が目的だと信じるのは、攻撃が目的だと信じるのと同じ意味だからです。

 The ego has a profound investment in sickness.
 エゴは病気に膨大な投資をしています。

 If you are sick, how can you object to the ego's firm belief that you are not invulnerable?
 というのは、もしあなたが病気だとしたら、さすがにあなたも、あなたが不死身で傷つきえない存在ではないというエゴの堅固な信念に異議を唱えられないはずだからでです。

 This is an appealing argument from the ego's point of view, because it obscures the obvious attack that underlies the sickness.
 これはエゴの観点からすればとても説得力を持つ論証です。なぜなら、この論証は、病気の根底に潜む明らかな攻撃性を覆い隠してしまうからです。

 If you recognized this and also decided against attack, you could not give this false witness to the ego's stand.
 もしあなたがこのことを認めて、そのうえで攻撃に反対すると決断していたなら、あなたはこのようにエゴの立場に加担して偽証する証人を与えられなかったはずです。



4. It is hard to perceive sickness as a false witness, because you do not realize that it is entirely out of keeping with what you want.
 病気を偽証する証人だと知覚するのは容易なことではありません。なぜなら、あなたには自分の望むものと病気が完全に相容れないことがわからないからです。

 This witness, then, appears to be innocent and trustworthy because you have not seriously cross- examined him.
 そのため、この病気という証人は無垢で信頼できるように見えます。この理由は、あなたが慎重にその証人の反対尋問を行なっていないことにあります。

 If you had, you would not consider sickness such a strong witness on behalf of the ego's views.
 もしあなたが真剣に反対尋問を行なっていたなら、あなたは病気のことを、エゴの見解を裏づけるそれほど強力な証人だと考えたりしなかったはずです。

 A more honest statement would be that those who want the ego are predisposed to defend it.
 より率直に言えば、エゴを必要とする者たちは前もってエゴを擁護するように仕込まれているのです。

 Therefore, their choice of witnesses should be suspect from the beginning.
 したがって、そんな者たちの選ぶ証人など初めから疑わしいと見てかかるべきです。

 The ego does not call upon witnesses who would disagree with its case, nor does the Holy Spirit.
 エゴは、自らの言い分に同意しそうにない証人を呼び出したりしません。そんなことをしないのは聖霊も同様です。

 I have said that judgment is the function of the Holy Spirit, and one he is perfectly equipped to fulfill.
 私が述べたように、裁きを下すのは聖霊の役目であり、聖霊は、その役目を果たすために必要な能力を完璧に備えています。

 The ego as a judge gives anything but an impartial judgment.
 裁判官としてのエゴは、決して公正な判断を下すことはありません。

 When the ego calls on a witness, it has already made the witness an ally.
 エゴは、証人を呼び出す際に、すでにその証人を自分の見解を裏づける味方にしてしまっているからです。

20150316115937f70_transparent (1)

5. It is still true that the body has no function of itself, because it is not an end.
 身体は、それ自体では何の役割も持っていないことは依然として真実です。なぜなら、身体は目的にはならないからです。

 The ego, however, establishes it as an end because, as such, its true function is obscured.
 それでも、エゴは身体を目的として設定します。なぜなら、そういうことにしておけば、身体の真の役割を覆い隠しておけるからです。

 This is the purpose of everything the ego does.
 身体の真の役割を不明瞭にすることこそ、エゴがなすあらゆることの狙いです。

 Its sole aim is to lose sight of the function of everything.
 エゴの唯一の狙いは、すべての物事の役割を見失うことにあります。

 A sick body does not make any sense.
 病気の身体という言い方は何も意味しません。

 It could not make sense because sickness is not what the body is for.
 意味を持つはずがないのです。なぜなら、身体は病気になるためのものではないからです。

 Sickness is meaningful only if the two basic premises on which the ego's interpretation of the body rests are true; that the body is for attack, and that you are a body.
 もし病気が意味を持つとすれば、それは、身体についてのエゴの解釈が拠って立つふたつの大前提が正しいときだけです。それは、身体は攻撃するためにあること、そして、あなたが身体であることです。

 Without these premises sickness is inconceivable.
 このふたつの前提なくしては、病気は想像すらできないことなのです。



6. Sickness is a way of demonstrating that you can be hurt.
 病気は、あなたが傷つけられうることを実証するひとつの方法です。

 It is a witness to your frailty, your vulnerability, and your extreme need to depend on external guidance.
 病気は、あなたの脆さや傷つきやすさを証明して、あなたが外側からの指導に頼ることを切実に必要としていることを示す証人です。

 The ego uses this as its best argument for your need for its guidance.
 エゴはこのことを、あなたがエゴの指導を必要としているという誂え向きの論拠として用います。

 It dictates endless prescriptions for avoiding catastrophic outcomes.
 エゴは、破滅的な結末を避けるためだといって、無数の掟に従うように命じます。

 The Holy Spirit, perfectly aware of the same situation, does not bother to analyze it at all.
 聖霊は、その同じ状況に十分に気づいてはいますが、そんな状況をわざわざ分析することにまったく煩わされません。

 If data are meaningless there is no point in analyzing them.
 もしデータが無意味なら、そんなものを分析しても無駄だからです。

 The function of truth is to collect information that is true.
 真理の役目は、真実である情報を集めることです。

 Any way you handle error results in nothing.
 どんなふうにあなたが誤りを処理しようとも、何の成果も得られません。

 The more complicated the results become the harder it may be to recognize their nothingness, but it is not necessary to examine all possible outcomes to which premises give rise in order to judge them truly.
 結果が複雑になればなるほど、それらのデータの無意味さを認めるのがより難しくなりはするでしょう。しかし、それらのデータが無意味だと正しく判断するために、そのデータを前提として引き起こされる可能性のある結果のすべてを検証する必要などありません。

20150316115937f70_transparent (1)

7. A learning device is not a teacher.
 教材は、教師ではありません。

 It cannot tell you how you feel.
 教材には、あなたがどう感じているか、あなたに知らせることはできなません。

 You do not know how you feel because you have accepted the ego's confusion, and you therefore believe that a learning device can tell you how you feel.
 あなたは自分がどう感じているかわからなくなってしまっているのは、あなたがエゴの混乱状態を受け入れてしまっていて、そのために、あなたは自分がどう感じているかを教材が自分に教えることができると信じているせいなのです。

 Sickness is merely another example of your insistence on asking guidance of a teacher who does not know the answer.
 病気は、単に答えを知らない教師に指導を求めようとするあなたの頑迷さが、別の形で表れているものでしかありません。

 The ego is incapable of knowing how you feel.
 エゴには、あなたがどう感じているのかを知る能力はありません。

 When I said that the ego does not know anything, I said the one thing about the ego that is wholly true.
 私がエゴは何も知らないと言ったとき、私はエゴについてまったく真実であるひとつのことを言ったのです。

 But there is a corollary; if only knowledge has being and the ego has no knowledge, then the ego has no being.
 しかし、ここから必然的に導き出されるひとつの結論があります。それは、もし知識だけが実在性を持ち、そして、エゴがいかなる知識も持たないとすれば、それが帰結するのは、エゴは実在性を持たないということです。



8. You might well ask how the voice of something that does not exist can be so insistent.
 それでも、存在しないはずのものの声が、どうしてこんなにもしつこく聞こえてくるのかとあなたが尋ねるのも無理はありません。

 Have you thought about the distorting power of something you want, even if it is not real?
 あなたはこれまで、たとえそれかが実在しないとしても、自分が欲するものが知覚を歪曲する力について考えてみたことがあるでしょうか。

 There are many instances of how what you want distorts perception.
 あなたの願望するものがいかに知覚を歪めるかについては、いくらでも実例があります。

 No one can doubt the ego's skill in building up false cases.
 ありもしない事実を巧妙に捏造するエゴの手腕を誰も疑うことはできません。

 Nor can anyone doubt your willingness to listen until you choose not to accept anything except truth.
 また、あなたが真理以外には何も受け入れないと選択するまでは、どうしてもあなたがエゴの声に耳を傾けてしまうことは誰も疑うことはできません。

 When you lay the ego aside, it will be gone.
 あなたがエゴを捨て去れば、エゴの声を聞きたいという意欲は無くなってしまうでしょう。

 The Holy Spirit's voice is as loud as your willingness to listen.
 聖霊の声は、あなたが耳を傾けようとする意欲を持てば、その意欲に応じて大きくなります。

 It cannot be louder without violating your freedom of choice, which the Holy Spirit seeks to restore, never to undermine.
 聖霊の声は、あなたの選択の自由に逆らってまで大きくなることはできません。その選択の自由こそ、聖霊が決してそれを弱めることなく、回復させようと努めているものだからです。

20150316115937f70_transparent (1)

9. The Holy Spirit teaches you to use your body only to reach your brothers, so he can teach his message through you.
 聖霊はあなたに、ただ兄弟たちに到達するためだけに、あなたの身体を使うようにと教えます。そうすれば、聖霊はあなたを通して自らのメッセージを教えることができるからです。

 This will heal them and therefore heal you.
 聖霊があなたを通して自らのメッセージを教えることによって、兄弟たちは癒され、したがって、あなたも癒されます。

 Everything used in accordance with its function as the Holy Spirit sees it cannot be sick.
 いかなるものも、聖霊がその役目だとみなす通りに用いられるなら、それが病気になることはありえません。

 Everything used otherwise is.
 聖霊の見ている役目に沿う使い方以外の使われ方をしたものはすべて、病気になります。

 Do not allow the body to be a mirror of a split mind.
 身体が、分裂した心を映し出す鏡になってしまうのを容認してはなりません。

 Do not let it be an image of your own perception of littleness.
 身体を、自分は矮小な存在だと知覚するための肖像にしてはなりません。

 Do not let it reflect your decision to attack.
 攻撃しようとするあなたの決断を身体に反映させてはなりません。

 Health is seen as the natural state of everything when interpretation is left to the Holy Spirit, Who perceives no attack on anything.
 いかなるものにも攻撃を知覚することのない聖霊に解釈を任せるなら、健康こそがあらゆるものの自然な状態だと見られるようになります。

 Health is the result of relinquishing all attempts to use the body lovelessly.
 健康は、愛に欠ける状態で身体を用いようとするあらゆる試みを放棄した結果です。

 Health is the beginning of the proper perspective on life under the guidance of the one Teacher Who knows what life is, being the Voice for Life Itself.
 健やかさは、生命そのものを代弁する声であり、生命が何であるのかを知る唯一の大いなる教師の指導の下に、生命について正しい見方をしはじめた印なのです。


20150316115937f70_transparent (1)





関連記事