M17 魔術にはどう対処すべきか


魔法の道具のすべては、魔法使いが特定の事柄に注意と意志を集中するのを助ける補助手段にすぎません。本当はそれらは必要ありません。必要なものは、ある意味でずっと簡単で同時にずっと難しいのです。魔法を使おうとする人は、自分自身の本当の意志を見つけ、実行しなければなりません。

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ

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I've often thought that there isn't any "I" at all; that we are simply the means of expression of something else; that when we think we are ourselves, we are simply the victims of a delusion.
私がつねづね思うことは、「私」というものが多少なりとも存在することは、まったくありえないということだ。すなわち、私たちは単に、私たちとは別の何ものかが自らを表現するための道具でしかなく、私たちが自分は自分自身だと思うとき、私たちは単に妄想の犠牲になっているだけだということだ。



Aleister Crowley, Diary of a Drug Fiend
アレイスター・クロウリー





In order to awaken, first of all one must realize that one is in a state of sleep.
眠りから目を覚ますためには、何よりも先に、その者は、自分が眠っている状態にあると気づく必要がある。

And in order to realize that one is indeed in a state of sleep, one must recognize and fully understand the nature of the forces which operate to keep one in the state of sleep, or hypnosis.
そして、自分が本当に眠っている状態にあると気づくためには、その者は、自分を睡眠の状態に保つように仕向ける力、つまり催眠の本質に気づき、完全に理解する必要がある。

It is absurd to think that this can be done by seeking information from the very source which induces the hypnosis.
ただし、催眠を引き起こしている当の源から情報を獲得することによってこのことを成し遂げられると考えるのは馬鹿げている。

....One thing alone is certain, that man's slavery grows and increases.
ただひとつ、このことだけは間違いない。それは、人の隷属状態は次第にその度合いを増してゆき、徐々に増殖してゆくということだ。

Man is becoming a willing slave.
人は自分から喜んで隷属するようになるのだ。

He no longer needs chains.
もはや人をつなぎとめておくための鎖など要らなくなる。

He begins to grow fond of his slavery, to be proud of it.
人は自分が奴隷であることがどんどん好きになり、そのことを誇らしく思うようになる。

And this is the most terrible thing that can happen to a man.
そして、これこそが人類に起こりうる中でも最も悲惨な事態なのだ。



George Ivanovich Gurdjieff
グルジエフ

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The human race is governed by its imagination.
人類は、自分たちの想像によって支配されている。

Imagination governs the world.
想像が世界を支配しているのだ。



Napoleon Bonaparte
ナポレオン・ボナパルト




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今回は、教師のためのマニュアルの第17節をご紹介します。


表面的には似ている魔術と奇跡

魔術的な思考にどう対処すべきかというテーマです。

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魔術とは、欺瞞です。魔術的な思いは、欺瞞によって幻惑される思いです。

魔術は、幻想世界の中において、一見すると、個別の心が信じこんでいるこの世界のルールを枉げるような「奇跡」的な出来事を引き起こすことによって、個別の心を幻惑することです。

つまり、世界での通常の捉え方としては、奇跡も魔術も常識ではありえない出来事として同種のものとして考えられているといえます。

しかし、コースによると、奇跡は、ゲームをプレイしているテーブルの外からゲームのルールなどに縛られずに介入するリアルな出来事であるのに対して、魔術はあくまでも、テーブル上にとどまって、ゲームのルールに縛られたままルール同士の間の齟齬や隙間を使ったり、ルールの上下階層を用いて、一部のルールを無効化したりといった裏技やズルをしてルールを枉げる出来事を起こすことであり、世界の中から眺めるかぎりは似たような出来事にしか見えないとしても、まったく次元が異なるものだということになります。


ベクトルは逆

この点で、魔術は、奇跡の裏返しのようなものです。

奇跡は、この世界というゲームセンターが幻であることへの気づきの深まりに応じて起こるので、奇跡が起こるほど、真理への気づきが深まります。それとは逆に、魔術は自分の狭い了見では把握できない偶像の力に頼る信仰心により思考停止になるので、どんどん無知蒙昧の度合いが深まります。

ですから、魔術的な思考は、奇跡を志向する心と正反対のものだということができます。

奇跡を志向する心は、分離の幻想を否定し、神の子の一体性を信じ、幻想であることへの気づきによって罪を赦す愛に満ちた思いです。

これに対して、魔術的な思いは、分離の幻想を信じ、神の処罰を恐れて、それから逃れるために、幻想の中で幻想をもって逃避しようとすることで、ますます幻想の中への迷いこみを深める罪を信じる恐れに満ちた思いです。

魔術の発想は、都合の悪いことには蓋をして目に見えないようにして誤魔化すということです。ダチョウが敵から逃げようとして頭を砂の中に突っこむようなものです。

分離の幻想を受け入れたうえで、そのことは忘れるように、といった具合です。


魔術的思考 ー 許し、奇跡志向の心 ー 赦し

「赦し」は、そもそも赦しの対象が実在することを受け入れたうえで、「許す」ということではなく、対象自体が実在しない幻想であることを認めて、その認識通り看過して取り消すことでした。

魔術的な思いは、幻想が本物であると受け入れたうえで、それを忘れることで対処するという発想なので、根本的に異なるのがわかると思います。

それゆえに、根本的な解決がないままの問題は、心の中に蓋をして溜めこまれていくことになります。

だから、魔術的な思いは、捨て去ることなく隠してあるだけの眠らされた罪悪感を再び呼び起こすことにしかなりません。

だから、分離によって、神から処罰され復讐されるに違いないという恐怖から逃れられなくなってしまいます。

これに対する解決策として、マニュアルでは、事実をありのままに見る必要があるといいます。

怒りのような感情が湧き起るのは、事実によってではなく、事実についての解釈によってなのだということを理解する必要があるといいます。

魔術的な思いは、そこにありもしないものが、さも現実に存在するように見せかけ、それを現実だと信じさせることです。

怒りや妬みや驕りなどの感情は、この本当は実在しないものを現実であると解釈し、その解釈を信じこむことによって生じます。

この仕組みを理解することによって、解釈の仕方を変える余地が生まれます。

こうして、私たちは、自分で外側の世界に投影した幻についての自分の解釈に反応していただけだったのだと気づくことによって、今、脱出することが可能になるというのです。


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Section 17
第17節



How Do God's Teachers Deal with Magic Thoughts?
神の教師は魔術的な思考にどう対処すべきか



1. This is a crucial question both for teacher and pupil.
 これは、教師と生徒の両方にとって、きわめて重要な質問です。

 If this issue is mishandled, the teacher of God has hurt himself and has also attacked his pupil.
 もしこの問題への対処を誤るなら、神の教師は自分自身を傷つけるだけでなく、自分の生徒まで攻撃することになってしまうからです。

 This strengthens fear, and makes the magic seem quite real to both of them.
 この問題への対処の誤りは恐れを強め、自分にも生徒にも、魔術を本当に現実的なものだと思わせることになります。

 How to deal with magic thus becomes a major lesson for the teacher of God to master.
 ですから、魔術への対処の仕方は、神の教師がマスターすべき最も重要なレッスンとなります。

 His first responsibility in this is not to attack it.
 神の教師が魔術に対処するに際して第一に心得ておくべきなのは、魔術を攻撃しないようにすることです。

 If a magic thought arouses anger in any form, God's teacher can be sure that he is strengthening his own belief in sin and has condemned himself.
 もし魔術的な思考がどのような形であれ怒りを生み出すなら、神の教師は、自分は自らの抱く罪を信じる思いを強めて、自分自身を咎めているのだと確信してよいでしょう。

 He can be sure as well that he has asked for depression, pain, fear and disaster to come to him.
 同じように、教師は、自分が憂鬱になったり、苦痛を味わったり、恐れを抱いたり、そして災厄が自分の許にやってくるよう求めたのだと確信してよいでしょう。

 Let him remember, then, it is not this that he would teach, because it is not this that he would learn.
 だから、教師は、自分が教えたいのはこんなことではないはずだと思い出さなければなりません。なぜなら、彼の学ぼうとしていることはこんなことではないからです。



2. There is, however, a temptation to respond to magic in a way that reinforces it.
 しかしながら、魔術を強めるようなやり方で魔術に反応したくなる誘惑が存在するのも事実です。

 Nor is this always obvious.
 しかも、この誘惑は必ずしも見え透いたものではありません。

 It can, in fact, be easily concealed beneath a wish to help.
 それどころか、この誘惑は、誰かの助けになりたいという願望の裏側にやすやすと姿を隠すことができます。

 It is this double wish that makes the help of little value, and must lead to undesired outcomes.
 人助けをほとんど価値のないものにして、望ましくない結果へと導いてしまうのは、この二重になった願望のせいです。

 Nor should it be forgotten that the outcome that results will always come to teacher and to pupil alike.
 しかも、忘れてはならないのは、その望ましくない結果はいつでも、教師と生徒の両方の許に同じように訪れてしまうことです。

 How many times has it been emphasized that you give but to yourself?
 あなたは自分自身にしか与えることができないと、何度繰り返し強調してきたことでしょうか。

 And where could this be better shown than in the kinds of help the teacher of God gives to those who need his aid?
 そして、自らの助けを必要としている人たちに神の教師がいかなる種類の助けを差し出すのかということ以上に、あなたが自分自身にしか与えることができないことを如実に示す場面はほかにないでしょう。

 Here is his gift most clearly given him.
 ここでこそ、最も明確に彼の贈り物が彼自身に対して与えられることになります。

 For he will give only what he has chosen for himself.
 というのも、彼は、自分が自分自身のために選んだものしか与えることができないからです。

 And in this gift is his judgment upon the holy Son of God.
 そして、この贈り物にこそ、聖なる神の子に対する彼の価値判断が現れています。



3. It is easiest to let error be corrected where it is most apparent, and errors can be recognized by their results.
 誤りは、それが最も明白に現れているところで修正するのが最も容易なことです。そして、誤りはその影響や結果によって見分けることができます。

 A lesson truly taught can lead to nothing but release for teacher and pupil, who have shared in one intent.
 真に教わることのできたレッスンは、教師と生徒を解放に導くことしかできません。彼らは、ひとつの意図を分かち合ったからです。

 Attack can enter only if perception of separate goals has entered.
 攻撃の余地があるとすれば、それは別々に分離した複数の目標を知覚する場合に限られるはずです。

 And this must indeed have been the case if the result is anything but joy.
 そして、もし結果が喜び以外のものであるなら、このことは、本当に事実であるに違いありません。

 The single aim of the teacher turns the divided goal of the pupil into one direction, with the call for help becoming his one appeal.
 教師がたったひとつに絞りこまれた目的を持つことが、生徒の分裂した目標をひとつの方向へと向かわせ、生徒の唯一の訴えは、助けを求めることだけになります。

 This then is easily responded to with just one answer, and this answer will enter the teacher's mind unfailingly.
 そうなれば、生徒の助けを求める訴えに、たったひとつの答えで容易に答えることができるので、この答えは間違いなく教師の心に入りこむでしょう。

 From there it shines into his pupil's mind, making it one with his.
 教師の心から、その答えは生徒の心へと輝きを注ぎ、生徒の心と教師の心をひとつにします。



4. Perhaps it will be helpful to remember that no one can be angry at a fact.
 事実について怒ることは誰にもできないと覚えておくことは、きっと役に立つはずです。

 It is always an interpretation that gives rise to negative emotions, regardless of their seeming justification by what < appears > as facts.
 たとえ事実のように「見えている」ものによって怒りを正当化できるように思えるとしたとしても、否定的な感情を引き起こすのは必ず事実についての解釈です。

 Regardless, too, of the intensity of the anger that is aroused.
 引き起こされる怒りの強さも、関係ありません。

 It may be merely slight irritation, perhaps too mild to be even clearly recognized.
 その怒りは、もしかしたら、はっきり気づくことすらできないほど軽微な些細な苛立ちにすぎないかもしれません。

 Or it may also take the form of intense rage, accompanied by thoughts of violence, fantasied or apparently acted out.
 あるいは、その怒りはまた、強烈な憤激の形を取り、それに伴って暴力的な想念を伴い、空想だけでとどまる場合もあれば、実際に暴力が振るわれる場合もあるかもしれません。

 It does not matter.
 しかし、暴力的な思いが想像上のものにとどまるか実行されるかは問題ではありません。

 All of these reactions are the same.
 これらの反応はすべて同じものだからです。

 They obscure the truth, and this can never be a matter of degree.
 これらの反応は真理を覆ってぼやかしてしまいます。そして、この真理の曖昧化は程度の問題ではありえません。

 Either truth is apparent, or it is not.
 真理は明白であるか、明白でないか、どちらか一方でしかないからです。

 It cannot be partially recognized.
 真理が部分的にだけ認識されるということはありえません。

 Who is unaware of truth must look upon illusions.
 真理に気づかない者は幻想を見ているに違いないのです。



5. Anger in response to perceived magic thoughts is a basic cause of fear.
 魔術的な思考を知覚した反応として怒りが湧き起こることが、恐怖の根本的な原因です。

 Consider what this reaction means, and its centrality in the world's thought system becomes apparent.
 この反応が何を意味するのかよく考えてみてください。そうすれば、世界の思考システムにおいて魔術的思考が中心的な役割を果たしていることが明らかになります。

 A magic thought, by its mere presence, acknowledges a separation from God.
 魔術的な思考は、それがひとつでも存在しているだけで、神からの分離を承認することになります。

 It states, in the clearest form possible, that the mind which believes it has a separate will that can oppose the Will of God, also believes it can succeed.
 魔術的な思考が、できるかぎり明確な形で宣言するのは次のことです。それは、神の大いなる意志に逆らうことのできる分離した意志を自分は持っていると信じる個別の心はまた、自分には神の大いなる意志に反して分離した意志を持つことに成功できるとも信じているということです。

 That this can hardly be a fact is obvious.
 神の大いなる心とは分離した個別の小さな心が神の意志とは分離した意志を持ち、神の大いなる意志に逆らうことができるということが、とても事実ではありえないことは言うまでもありません。

 Yet that it can be believed as fact is equally obvious.
 しかし、自分には神の意志とは分離した意志があり、神の意志に逆らうことが自分にはできるということが事実だと信じることが可能なことも、同じように明白なことです。

 And herein lies the birthplace of guilt.
 そして、ここにこそ、罪悪感の揺籃の地があります。

 Who usurps the place of God and takes it for himself now has a deadly "enemy."
 神の座を簒奪し、わがものとしようとする者は、いまや不倶戴天の「敵」を持つことになります。

 And he must stand alone in his protection, and make himself a shield to keep him safe from fury that can never be abated, and vengeance that can never be satisfied.
 そして、神の座の簒奪者は、自分を守るためにひとりきりで立ち向かわなければならず、決して鎮まることのない憤激といつまでも満たされることのない復讐から自分を安全に保つための盾を自分で作りあげなければならなくなります。



6. How can this unfair battle be resolved?
 どのようにすれば、こんな不公平な戦いを決着できるでしょうか。

 Its ending is inevitable, for its outcome must be death.
 この戦いの終結は避けられないことです。というのは、この戦いの結果が死であることは間違いないからです。

 How, then, can one believe in one's defenses?
 そうだとすれば、どうして、その者に自らの防衛策を信じることができるでしょうか。

 Magic again must help.
 またしても魔術の助けが必要となってしまいます。

 Forget the battle.
 そんな戦いのことなど忘れてしまうのだ。

 Accept it as a fact, and then forget it.
 戦いを事実として受け入れたうえで、それから、それを忘れてしまえ。

 Do not remember the impossible odds against you.
 お前に勝ち目が無いことを思い出してはならない。

 Do not remember the immensity of the "enemy," and do not think about your frailty in comparison.
 「敵」の計り知れない強さなど忘れてしまえ。そして、敵に比べての自らの脆弱さについては考えてはならない。

 Accept your separation, but do not remember how it came about.
 自分たちが分離していることを受け入れるのだ。ただし、その分離がどのようにして生じたのか思い出してはならない。

 Believe that you have won it, but do not retain the slightest memory of Who your great "opponent" really is.
 自分が戦いに勝ったと信じるのだ。ただし、お前の大いなる「敵対者」が本当は誰なのかはほんの少しでも記憶に留めてはならない。

 Projecting your "forgetting" onto Him, it seems to you He has forgotten, too.
 このような魔術の勧めに従って、あなたが自分の忘却を神に投影することによって、あなたは神も自分と同じように忘れてしまったのだと思うようになります。



7. But what will now be your reaction to all magic thoughts?
 しかし、このような、あらゆる魔術的な思考へのあなたの反応が今では、どのようなものに成り果ててしまったことでしょうか。

 They can but reawaken sleeping guilt, which you have hidden but have not let go.
 魔術的な思考は、あなたが隠しただけで捨て去らずに眠らせていた罪悪感を再び呼び覚ますことしかできません。

 Each one says clearly to your frightened mind, "You have usurped the place of God. Think not He has forgotten."
 あなたが隠してきた罪悪感の一つひとつが、あなたの怯えきった心にはっきりと告げます。「お前は神の座を奪い取ったのだ。神がそのことを忘れてしまったなどと、ゆめゆめ思わないことだ」と。

 Here we have the fear of God most starkly represented.
 ここにおいて、私たちは、最もはっきりとした形で神への恐怖心を抱くことになります。

 For in that thought has guilt already raised madness to the throne of God Himself.
 なぜなら、その神への恐怖の思いの中で、罪悪感はすでに狂気を神自身の玉座に昇らせてしまったからです。

 And now there is no hope.
 もはや、どんな希望もありません。

 Except to kill.
 殺すしかありません。

 Here is salvation now.
 いまや、殺すことこそが救いとなります。

 An angry father pursues his guilty son.
 怒れる父が罪深いわが子を殺そうと追い求めているのです。

 Kill or be killed, for here alone is choice.
 殺すか殺されるかです。というのも、ここに至ってはそれ以外に選択肢はないからです。

 Beyond this there is none, for what was done cannot be done without.
 この選択肢のほかには何もありません。なぜなら、やってしまったことをなかったこととして済ませることなどできないからです。

 The stain of blood can never be removed, and anyone who bears this stain on him must meet with death.
 血の汚れを落とすことは決してできません。だから、誰であれこの汚れを自らに染めてしまった者は死と出会うことを免れません。



8. Into this hopeless situation God sends His teachers.
 こんな絶望的な状況の中へと、神は自らの教師たちを遣わします。

 They bring the light of hope from God Himself.
 神の教師たちは、神自身に由来する希望の光をもたらします。

 There is a way in which escape is possible.
 そこには、抜け出すことが可能な道があります。

 It can be learned and taught, but it requires patience and abundant willingness.
 その道は学ぶことができ、教えてもらうことができます。しかし、道を学ぶには忍耐と溢れる意欲が必要です。

 Given that, the lesson's manifest simplicity stands out like an intense white light against a black horizon, for such it is.
 忍耐と意欲さえあれば、その道の教えの示すシンプルさは、真っ暗な地平線に差しこむ凛冽な白光のように際立っています。というのも、その道はそのとおり単純で易しいものだからです。

 If anger comes from an interpretation and not a fact, it is never justified.
 もし怒りが解釈によって生じたもので事実でないとしたら、決して怒りを正当化することはできません。

 Once this is even dimly grasped, the way is open.
 たとえおぼろげながらであっても、ひとたびこのことが把握できたなら、道が開けます。

 Now it is possible to take the next step.
 いまや、次の一歩を踏み出すことが可能となります。

 The interpretation can be changed at last.
 ついに解釈の仕方を変えることができるようになったからです。

 Magic thoughts need not lead to condemnation, for they do not really have the power to give rise to guilt.
 魔術的な思考を非難する必要はありません。なぜなら、魔術的な思考は、実際には、罪悪感を生み出す力など持ち合わせていないからです。

 And so they can be overlooked, and thus forgotten in the truest sense.
 だから、魔術的な思考など無視できるのであって、したがって、真の意味で忘れ去ることができるのです。



9. Madness but seems terrible.
 狂気は、恐ろしいものに見えるだけです。

 In truth it has no power to make anything.
 本当は、狂気には、何も作り出す力はありません。

 Like the magic which becomes its servant, it neither attacks nor protects.
 狂気のしもべとして仕える魔術と同じように、狂気は攻撃することも保護することもできません。

 To see it and to recognize its thought system is to look on nothing.
 狂気をよく見て、狂気の思考システムに気づくことは、無を見ることです。

 Can nothing give rise to anger?
 無が怒りを引き起こすことなどできるでしょうか。

 Hardly so.
 できるはずもありません。

 Remember, then, teacher of God, that anger recognizes a reality that is not there; yet is the anger certain witness that you do believe in it as fact.
 それゆえに、神の教師たちよ、怒りは、そこにありもしないものが本当にあると認識することだと覚えておきなさい。しかし、怒りは、無いものが有ることが事実だとあなたが現に信じている確かな証しではあります。

 Now is escape impossible, until you see you have responded to your own interpretation, which you have projected on an outside world.
 今のところは、自分が自ら外側の世界に投影したものについての自分の解釈に反応していたのだとあなたが気づかないかぎり、脱出は不可能です。

 Let this grim sword be taken from you now.
 こんな非情な怒りという剣を、今こそ自分から取りあげてもらいなさい。

 There is no death.
 死は無いのです。

 This sword does not exist.
 こんな剣は存在しません。

 The fear of God is causeless.
 神への恐れに原因などありません。

 But His Love is Cause of everything beyond all fear, and thus forever real and always true.
 しかし、神の大いなる愛は、恐れを越えて、ありとあらゆるものの原因なのであり、それゆえに、永遠に本物であり、いつも変わらぬ真理なのです。






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エム
2024/01/15 (Mon) 10:33

奇跡と魔術の違いについて

奇跡と魔術の違いについて深い洞察ありがとうございます
とても学びの参考になります
自分は真面目にコースを学び真理を探求していると思っていても魔術的に自分で作り出した愛や光や平安に幻惑されてしまうことをやりがちですね
「探せよされど見つけることなかれ」この自我のトラップから抜け出すには「事実をありのままに見る」この文字で見ると簡単なようで自我と同一化している私たちにはとても難しいと実感しています
真理に似せた魔術的なものでは決し真の平安はありませんし恐れの否認隠蔽でしかないのだと改めて認識することができました
今後もこちらのサイトを学びのツールとして使わせていただきたいと思います
ありがとうございました

  • To 松山 健 Matsuyama Kenさん
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 松山 健 Matsuyama Ken
 松山 健 Matsuyama Ken
2024/01/15 (Mon) 12:37

Re: 奇跡と魔術の違いについて

エムさま
コメントいただき、どうもありがとうございます。

自我である私たちアバターにとって「自我のトラップ」はつねについて回るので脱出困難ですよね。

そして、自我を敵視して抑え込もうとするほど罠に落ちてしまうというパラドックスまでついてくるので厄介です。
コースの表面的な言葉だけでは自我を抹殺すべきという解釈に行き着きがちなので、いろんな観点からイェシュアの真意を見極めようとするスタンスも大切に思います。

この点で、ジョセフ・ベナー著インパーソナルライフ等大湾洋乃さん訳の3作がとてもよい視座を与えてくれると思います。ぜひ読んでみてください。

今後ともよろしくお願いいたします。

  • To 松山 健 Matsuyama Kenさん
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