T24-5 あなたの中にいるキリスト


平凡なことを毎日平凡な気持ちで実行することが、すなわち非凡なのである。

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アンドレ・ジッド



自分自身の中にキリストを見ること

投影のメカニズムは、私たちの影の部分だけが投影されるわけではないと認識するのは重要なことです。私たちは、自分自身について気に入って入るものの、なかなか受け入れられない部分も他者に投影します。こうして、私たちは投影した相手のなかに、自分自身の内なる美しさ、創造的な才能、知性などを見出すのです。

肯定的な反映のエクササイズ

これはアーノルド・パテントが教えてくれたエクササイズです。試みるすべてのひとに大きな効果をもたらします。なぜなら、まずほかのひとのすばらしい点を見出し、次にすばらしい部分は自分自身だと断言するエクササイズだからです。このエクササイズは人びとを彼らの本質である彼ら自身のなかのキリストと実際に通じあわせ、彼らが自分の本当の姿を見られるようにします。エクササイズは通常グループで行われますが、心のなかで行うのではなく、口頭で、相手と視線を交わしながら行います。
Aさんが本心のまま話し、Bさんに言います。「私があなたのなかで美しくすばらしいと思う部分、あなたが私に反映してくれている美点、それは……」。つづけてAさんは見出した美点を相手に伝えます。Bさんはそれを聞き、「ありがとう」とこたえます。その後、ふたりは役割を交代し、エクササイズをくり返します。



Colin C. Tipping, Radical Forgiveness
コリン・C.ティッピング(「人生を癒すゆるしのワーク」294ページ)

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自分のどこが好きか紙に書き出す

「あなたは自分と結婚したいと思う?」と私がたずねると、マリーナは困った顔をした。
「あなたは自分のどんなところが好きなの?」
彼女は答えず、面食らったように額に皺を寄せた。言葉を探していただけかもしれない。
最初はためらいがちだったが、話すにつれ、声がしっかりしてきた。目が輝き、頬が薔薇色に染まった。
「面倒見のいいところが好きです」彼女は答えた。「情熱を持っていること。高いところに登るのが好きなこと。諦めないところが好きです」
「それを書きとめなさい」と私は言った。「その言葉をハンドバッグに入れて、いつも持ち歩くのよ」自分の姿をありのままに眺めるのは、非常に重要なことだ。人や自分を批判し、短所や不満ばかりに注目するのは簡単だ。しかし、誰にでも長所はある。注目するものを選ぶことだ。「あなたの夫の長所は何なのかしら?」と私はたずねた。
彼女はためらい、遠くを見ようとするかのようにわずかに目を細めた。「彼は気遣ってくれます」と彼女は答えた。「ああいう人ではあっても、彼が私を気遣っていることはわかります。それから、よく働きます。私が肩を怪我したときには世話をしてくれました。私の支えになってくれるときもあるんです」
「あなたは彼と一緒にいた方が強くなれる? それとも彼がいない方がいい?」
人間関係を消耗させるのか、力を与えるのかを決められるのは自分だけだ。それはすぐさま答えるべき質問ではない。自分自身の傷に取り組むまで、人間関係の真実はわからない。まだ引きずっている過去の出来事をすべて葬り去り、忘れるまでは。

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Edith Eva Eger
エディス・エヴァ・イーガー

エディス・エヴァ・イーガー(「心の監獄 選択の自由とは何か?」171ページ)







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今回はテキスト第二十四章からあなたの中のキリストという一節をご紹介します。


私たちの中にいるキリスト

私たち人の子、エゴ・身体というアバターの中にいる神の子キリスト、それがコースが語りかけている相手です。

A Course of Love: The Course, the Treatises, the Dialogues, Including Dialogue Unveiled (Mari Perron 著)では、奇跡のコースが語りかけている学びの主体は、エゴでも霊でもなく、私たちの中にいるキリストだということが語られます。




他の記事で、ちょこちょこコースは、「奇跡のコース」であって、「愛のコース」ではないことに意義があるということを述べているので、管理人は”A Course of Love”に否定的なように受け取られるかもしれませんが、まったくそんなことはありません。

タイトルも日本語訳では同じように愛のコースですが、原題は、“A Course in Love”ではなく、 “A Course of Love”で、愛を学ぶ学習過程という意味ではなく、愛に由来する学習過程といった意味で、奇跡を学ぶ「奇跡のコース」とパラレルの意味ではありません。

というよりも、そもそもタイトル先行内容無視で拒絶するのはもったいないです(愛のコース)。



イェシュアが語ったとされる書籍は「無条件の愛」や「イェシュアの手紙」、その他、いくつもありますが、それらの中で奇跡のコースだけが本当にイェシュアが語った本で他はそうではないということはできません。そんなことを判断できるのは、それこそイェシュアその人しかいないはずです。

そして、神の子であるイェシュアからすれば、幻想世界の中に自らのメッセージを伝えようと思えば、あらゆる手立てを用いることができるのだし、そもそも投影という仕組みによって、幻想世界の中でも光ゼロの完全な暗闇は存在できないわけなので、どんなダークサイドでも、正しく光を当てさえすれば、少なくとも反面教師的な教訓を与える意義は持つと言えます。

権威者のお墨付きのないものには手を出さないという自己防衛姿勢よりも、自分の中の聖霊に判断をしてもらうというスタンスですべてに対してオープンであるほうが、よりイェシュアの声を万物から聞けるようになるのではないでしょうか。


「私の中にいるキリスト」 ー decision-maker

さて、私たちの中にいるキリストは、私たち個別の心の中にいる決定者(decision-maker)であり、神の子の大いなる光が閉じ込められた閃光(little spark)です。

神の子は眠り込んで私たち人の子になる壮大なかくれんぼに没頭しているので、神は眠れる神の子に直接語りかけることはできません。

私たちは霊的体験をする人間ではなく、人間という体験をする霊だという自覚を維持するうえで、「私の中にいるキリスト」が自分の真の主人なのだという意識を持つことは有益でしょう。





願望と意図

1.「Wishing makes real, as surely as does will create.
 願望が現実を作るのは、意図が創造するのと同じくらい確かなことだからです。

 The power of a wish upholds illusions as strongly as does love extend itself.
 愛が愛それ自体を拡張するのと同じように、願望の力が幻想を強力に支持するわけです。

 Except that one deludes; the other heals.
 ただし、愛は癒し、幻想は欺きます。」

コースでは、エゴがなすのは願望、聖霊は意図と、願望と意図を明確に使い分けています。願望と意図の相違については、T7-10 苦しいのが気持ちいいってどういうこと?をご覧ください。


私たちがイェシュアのようではないのは余計ながらくたを持っているせい

3.「Identify with Him, and what has He that you have not?
 自分がキリストであることに気づいてください。そうすれば、キリストが持っていて、あなたが持ってないものなど何もなくなります。

 He is your eyes, your ears, your hands, your feet.
 キリストはあなたの目であり、あなたの耳であり、あなたの手であり、あなたの足なのです。」

この文章は、つぎの文章と関連しています。

「There is nothing about me that you cannot attain.
 私の持ち合わせるもので、あなたたちが手に入れられないものは何ひとつありません。

 I have nothing that does not come from God.
 私の持つもので神に由来しないものは何ひとつありません。

 The difference between us now is that I have nothing else.
 今のところ、あなたたちと私との違いは、私が神から授かったもの以外には何も持っていないということです。

 This leaves me in a state which is only potential in you.
 このことが、あなたたちにとってはまだ可能性にとどまっている境地に私を置いているのです。」(T1-2 啓示と奇跡はどう違うの?時間とはどんな関係にある? 3.)



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テキスト第二十四章

V. The Christ in You  
五 あなたの中にいるキリスト



1. The Christ in you is very still.
 あなたの内なるキリストはまったく動じません。

 He looks on what He loves, and knows it as Himself.
 キリストは自分の愛するものを見て、それが自分自身だと知ります。

 And thus does He rejoice at what He sees, because He knows that it is one with Him and with His Father.
 こうして、キリストは自分の目にするものを喜んで祝福します。なぜなら、キリストには、それが自分とひとつであり、自らの父ともひとつだとわかるからです。

 Specialness, too, takes joy in what it sees, although it is not true.
 特別であろうとする者もまた、自分の見るものに喜びを見出します。けれども、彼が目にするものは真実ではありません。

 Yet what you seek for is a source of joy as you conceive it.
 いずれにせよ、あなたが求めているのは、自分で思い描くとおりの喜びの源なのです。

 What you wish is true for you.
 あなたの願うことは、あなたにとっては真実です。

 Nor is it possible that you can wish for something and lack faith that it is so.
 それに、あなたが何かを願っておきながら、そうなることを信じずにいるのは不可能です。

 Wishing makes real, as surely as does will create.
 願望が現実を作るのは、意図が創造するのと同じくらい確かなことだからです。

 The power of a wish upholds illusions as strongly as does love extend itself.
 愛が愛それ自体を拡張するのと同じように、願望の力が幻想を強力に支持するわけです。

 Except that one deludes; the other heals.
 ただし、愛は癒し、幻想は欺きます。



2. There is no dream of specialness, however hidden or disguised the form, however lovely it may seem to be, however much it delicately offers the hope of peace and the escape from pain, in which you suffer not your condemnation.
 特別であろうとする夢は、どんなにその特別さが隠蔽されたり形を偽装されていようと、どんなにその特別さが素晴らしく見えようと、どんなにその特別さが巧妙に平安の希望や苦痛からの解放を提示していようとも、その夢の中で、あなたが自分による罪の咎めによって苦しまずに済むものはひとつもありません。

 In dreams effect and cause are interchanged, for here the maker of the dream believes that what he made is happening to him.
 夢の中では、結果と原因が入れ替わっています。というのも、夢の中では、夢の作り手は、自分の作り出したもののことを自分の身に降りかかってくるものだと信じこんでいるからです。

 He does not realize he picked a thread from here, a scrap from there, and wove a picture out of nothing.
 夢見る者には、こちらからは一切れの糸くずを、あちらからは切れ端を少々と寄せ集めては、自分が無からひとつの絵柄を織り上げたことがわかりません。

 For the parts do not belong together, and the whole contributes nothing to the parts to give them meaning.
 というのも、それぞれの部分を一緒にしても符合しないし、全体は、それらの各部分に意味を与えるうえで何の役にも立たないからです。

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3. Where could your peace arise but from forgiveness?
 あなたの平安が赦し以外のどこから生じうるというのでしょうか。

 The Christ in you looks only on the truth, and sees no condemnation that could need forgiveness.
 あなたの内なるキリストは、ただ真理だけを見ており、許しを必要としうるような非難を何ひとつ見てはいません。

 He is at peace because He sees no sin.
 キリストはいかなる罪も見ないので、平安に満たされています。

 Identify with Him, and what has He that you have not?
 自分がキリストであることに気づいてください。そうすれば、キリストが持っていて、あなたが持ってないものなど何もなくなります。

 He is your eyes, your ears, your hands, your feet.
 キリストはあなたの目であり、あなたの耳であり、あなたの手であり、あなたの足なのです。

 How gentle are the sights He sees, the sounds He hears.
 キリストの見る光景やキリストが聞く音は、なんと穏やかなのでしょう。

 How beautiful His hand that holds His brother's, and how lovingly He walks beside him, showing him what can be seen and heard, and where he will see nothing and there is no sound to hear.
 自分の兄弟の手を握るキリストの手はなんと美しいことでしょう。そして、自分の兄弟に見たり聞いたりできるものを示し、何も見えず何も音が聞こえない場所を教えながら、兄弟に連れ添って歩くキリストの姿はなんと愛に満ち溢れていることでしょうか。



4. Yet let your specialness direct his way, and you will follow.
 しかし、あなたの特別性にその兄弟を導くことにさせたら、あなたはそれに従ってしまうでしょう。

 And both will walk in danger, each intent, in the dark forest of the sightless, unlit but by the shifting tiny gleams that spark an instant from the fireflies of sin and then go out, to lead the other to a nameless precipice and hurl him over it.
 そうすると、あなたと兄弟は、一瞬光ってはすぐに消える罪という蛍の小さくかすかな光のほかには何の明かりもない見通しのきかない暗い森の中を、相手を名もなき断崖まで連れて行って、そこから突き落とそうとお互いに企みながら、揃って危険の中を歩むことになります。

 For what can specialness delight in but to kill?
 特別であろうとする者に、殺すこと以外の何に喜びを見出せるでしょうか。

 What does it seek for but the sight of death?
 特別であろうとする者は、死の光景をおいてほかに、何を探そうとするというのでしょうか。

 Where does it lead but to destruction?
 特別性は、破滅以外のどこに導くというのでしょうか。

 Yet think not that it looked upon your brother first, nor hated him before it hated you.
 ただし、特別性が、あなたよりも先に兄弟に目をつけて、あなたを嫌うよりも先に兄弟を憎むはずだとは、ゆめゆめ思わないことです。

 The sin its eyes behold in him and love to look upon it saw in you, and looks on still with joy.
 特別性の目が兄弟の中に見つけて喜んで見つめている罪は、特別性の目が、すでにあなたの中に見つけて、今なお喜んで見つめている罪だからです。

 Yet is it joy to look upon decay and madness, and believe this crumbling thing, with flesh already loosened from the bone and sightless holes for eyes, is like yourself?
 それにしても、腐敗や狂気を見て、すでに腐肉が骨からはがれて眼窩から眼球が抜け落ちたような、こんな朽ちゆく残骸が自分自身に等しいものだと信じることが、はたして喜びでしょうか。

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5. Rejoice you have no eyes with which to see; no ears to listen, and no hands to hold nor feet to guide.
 自分が見るための目も聞くための耳も持っていなければ、つなぐための手も導くための足も持っていないことを喜びなさい。

 Be glad that only Christ can lend you His, while you have need of them.
 あなたがそれらを必要とする間は、ただキリストだけがあなたに彼の目や耳や手足を貸すことができることを喜ぶがよいでしょう。

 They are illusions, too, as much as yours.
 あなたの目や耳や手足が幻想なのと同じように、キリストの目や耳や手足も幻想です。

 And yet because they serve a different purpose, the strength their purpose holds is given them.
 それでも、キリストの目や耳や手足はあなたのものとは違う目的に奉仕するので、その目的が持つ力がキリストの目や耳や手足には与えられています。

 And what they see and hear and hold and lead is given light, that you may lead as you were led.
 だから、キリストが貸してくれる彼の目や耳や手や足が見て聞いて掴み導くものには、光が与えられています。それは、自分が導いてもらったように、あなたが導けるようにするためです。



6. The Christ in you is very still.
 あなたの内なるキリストは、とても静かで動じません。

 He knows where you are going, and He leads you there in gentleness and blessing all the way.
 キリストには、あなたがどこに向かっているのかわかっているし、キリストは、そこまでの道のりをずっと優しく祝福しながらあなたを導いてくれます。

 His Love for God replaces all the fear you thought you saw within yourself.
 キリストの神に対する大いなる愛が、あなたが自分自身の内に見たと思いこんでいた恐れのすべてに置き換わります。

 His Holiness shows you Himself in him whose hand you hold, and whom you lead to Him.
 キリストの神聖さが、あなたが手を取ってキリストの許へと導こうとする兄弟の中にキリスト自身の姿を見せてくれます。

 And what you see is like yourself.
 そして、あなたが彼の中に見る姿はあなた自身と同じものです。

 For what but Christ is there to see and hear and love and follow home?
 というのも、見て聞いて愛してわが家に導いてもらう相手はキリスト以外には存在しないからです。

 He looked upon you first, but recognized that you were not complete.
 キリストは、あなたを最初に見て、ただあなたが完全ではなかったことに気づきました。

 And so He sought for your completion in each living thing that He beholds and loves.
 そこで、キリストは自らが眺めては愛でる生きとし生けるものの中にあなたの完全性を探しました。

 And seeks it still, that each might offer you the Love of God.
 そして、その一つひとつがあなたに神の大いなる愛を差し延べてくれるようにと、今なおあなたの完全性を探し求めているのです。

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7. Yet is He quiet, for He knows that love is in you now, and safely held in you by that same hand that holds your brother's in your own.
 それでも、キリストは静かです。というのも、キリストには、愛は今あなたの内にあり、兄弟の手を自ら握るあなたの同じ手によってあなたの中に、安全に抱かれているとわかっているからです。

 Christ's hand holds all His brothers in Himself.
 キリストの手は、彼の兄弟みんなをキリスト自身の内に抱きしめています。

 He gives them vision for their sightless eyes, and sings to them of Heaven, that their ears may hear no more the sound of battle and of death.
 キリストは兄弟たちの見えない目の代わりにヴィジョンを与え、彼らがもう戦いや死の音を耳にしなくなるようにと天国のことを歌って聴かせます。

 He reaches through them, holding out His hand, that everyone may bless all living things, and see their holiness.
 キリストは、誰もがみな生きとし生けるものを祝福し、その神聖さを見るようにと、兄弟たちを通して自らの手を差し延べています。

 And He rejoices that these sights are yours, to look upon with Him and share His joy.
 そして、キリストは、あなたがこれらの光景をわがものとしてキリストとともに見つめ、キリストの喜びを分かち合ってくれることを喜びます。

 His perfect lack of specialness He offers you, that you may save all living things from death, receiving from each one the gift of life that your forgiveness offers to your Self.
 キリストは、自らの完璧な特別性の欠如をあなたに差し延べて、あなたが生きとし生けるものを死から救い、その一つひとつから、あなたの赦しがあなたの大いなる自己に捧げる生命という贈り物を受け取ることができるようにしてくれます。

 The sight of Christ is all there is to see.
 見えるのはキリストの目にする光景だけです。

 The song of Christ is all there is to hear.
 聞こえるのはキリストの歌声だけです。

 The hand of Christ is all there is to hold.
 握れるのはキリストの手だけです。

 There is no journey but to walk with Him.
 キリストとともに歩む旅路のほかには、いかなる旅路も存在しません。



8. You who would be content with specialness, and seek salvation in a war with love, consider this:
 あなたは特別であることに満足して、愛と戦うことに救いを見出そうとしています。そんなあなたに、これから述べることをよく考えてみてほしいのです。

 The holy Lord of Heaven has Himself come down to you, to offer you your own completion.
 すなわち、あなた自身の完成をあなたに授けるために、聖なる天国の主自らがあなたの許に降臨しました。

 What is His is yours because in your completion is His Own.
 あなたが完成することで主自身が完成することになるのだから、主のものはあなたのものです。

 He Who willed not to be without His Son could never will that you be brotherless.
 自らの子がいない状態にあることを意図しなかった主には、あなたが兄弟のいない状態にあることなどまったく意図できませんでした。

 And would He give a brother unto you except he be as perfect as yourself, and just as like to Him in holiness as you must be?
 だから、その兄弟があなた自身と同じように完璧であり、あなたがそうであるに違いないように、神聖さにおいて主とまさしく同じものでなかったなら、主は兄弟をあなたに授けようとはしなかったはずです。

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9. There must be doubt before there can be conflict.
 葛藤が存在しうるためには、それに先立って、必ず疑念があるはずです。

 And every doubt must be about yourself.
 そして、いかなる疑念もすべて、きっと自分自身についてのものに違いありません。

 Christ has no doubt, and from His certainty His quiet comes.
 キリストには一切の疑念がありません。そして、キリストの静けさは彼の確信から生じます。

 He will exchange His certainty for all your doubts, if you agree that He is One with you, and that this Oneness is endless, timeless, and within your grasp because your hands are His.
 もしあなたがキリストが自分とひとつであり、この同一性は時間を超えた無限のものであり、あなたの手はキリストの手であるがゆえに、自分とキリストがひとつであることが自分には理解可能であると同意するなら、キリストは、あなたの疑念のすべてを自らの確信と取り替えてくれるでしょう。

 He is within you, yet He walks beside you and before, leading the way that He must go to find Himself complete.
 キリストはあなたの中にいます。それでいながら、キリストはあなたの傍らや前を歩みながら、キリスト自身の完成を見出すために進むべき道を導いてくれています。

 His quietness becomes your certainty.
 キリストの静寂があなたの確信となります。

 And where is doubt when certainty has come?
 そして、確信が訪れるとき、いったいどこに疑念があるというのでしょうか。


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