T15-11 犠牲の終わりとしてのクリスマス


あなたは、神があなたにしてほしいことをしたいと思っています。
そして、あなたの問題は、神の意志を知ることができないということです。
でも、ジョークといえば、
あなたは、源泉、つまり神が望まないことは何一つできないということです。
「御心がなされますように」



Ramesh S Balsekar
ラメッシ・S.バルセカール(「人生を心から楽しむ 罪悪感からの解放」158ページより)

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今回は、「犠牲の終わりとしてのクリスマス」という一節をご紹介します。



愛は犠牲も喪失も求めない

8.「Let us join in celebrating peace by demanding no sacrifice of anyone, for so you offer me the love I offer you.
 誰からも一切の犠牲を要求することなく、私たちで一緒に平安を祝いましょう。なぜなら、そうすることで、あなたは私が差し延べる愛を私に差し延べてくれることになるからです。

 What can be more joyous than to perceive we are deprived of nothing?
 私たちが何ひとつ奪われたり失ったりしていないことを知覚することに勝るどんな喜ばしいことがほかにあるというのでしょうか。

 Such is the message of the time of Christ, which I give you that you may give it and return it to the Father, Who gave it to me.
 このことがキリストの時が伝えるメッセージです。私はこのメッセージをあなたに伝えます。それは、あなたがこのメッセージを伝え、そして、私にこのメッセージを伝えてくれた父に返してくれるようにと願ってのことです。」





私たちを見守って導いてくれている偉大な兄イェシュアに愛と感謝を捧げます。


神やキリストは私たちには手の届かない存在?

私たちは、神やキリストという尊い存在は、自分には手も届かない天高くかけ離れたところにあって、神やキリストが人間のことを想うことがあっても、絶対に彼らが想いをかける対象の中に自分が入っているはずがないと思っています。

このように思うことは、素朴に謙虚な自己認識であり、エゴに従う私たちの態度としては悪くないでしょう。

けれど、私たちはエゴだけでできているわけではありません(正確には、エゴは無なので、私たち=人の子・人間・アバター自体は幻想であり、無100%で、神の子100%のままです。ただし、個別の心が分離した自分がいると誤信している状態、妄想状態の中では、大いなる心の一部を囲った個別の心という陣地を観念することはでき、その陣地の中で妄想であるエゴの狂気が支配している割合と正気の聖霊の活動領域が残っている割合を観念でき、「エゴだけでできているわけではない」という表現は、そのようなイメージで述べています)。

再三、私たち人間というアバターは小説の登場人物と同じくらい架空の存在だということを述べてはいますが、それでも、私たちが小説や映画の主人公に一体化して追体験するのと同じように、「私たち」人間としての体験を神の子が生きているのは紛れもない事実です。



Pierre Teilhard de Chardin
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン





他の記事でも、テイヤール・ド・シャルダンの言葉「我々は、霊的な体験をする人間なのではない。人間という体験をしている霊なのである」を紹介していますが、この「霊」は個別の霊魂ではなく神の子の大いなる霊を指すものと理解できます。

そして、私たちが本を開かない限り、物語の主人公のストーリーは展開しないままではありますが、実際にドラマが展開して主人公が「私」を意識しているとき、そこには必ず読者である「私」つまり、神の子がいます。





神やキリストは手の届かない存在どころか、自分とひとつのもの

私たちがほかのアバターである兄弟を近くに感じるよりもなお近く、自らの内なる存在として神の子キリストはつねに私たちとともにいてくれるのです。

これが自覚できないのは、兄弟を遠ざけておきたいという隔たり、小さな隙間をいまだに保っておきたいという気持ちが私たちの許に残っているせいです。

仮に身体だけが自分ではないということを想定する場合でも、どうしても私たちは、身体の中に霊、魂が宿るというイメージをしがちです。




それよりも、はたらく細胞で赤血球たちが働く人体内世界自体が自分であるように、地球や宇宙、世界全体が自分の身体でそれを構成する一部の身体が人体でいう細胞に相当し、それに焦点を当てた状態を自分だと捉えているというイメージのほうが、そもそも隙間などないという理解につながりやすいかもしれません。

このイメージでは、私たちは神=神の子の身体の中に生きる一細胞という捉え方になるので、神やキリストは手の届かない存在どころか、自分とひとつのものだということになります。




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テキスト第十五章

XI. Christmas as the End of Sacrifice
十一 犠牲の終わりとしてのクリスマス



1. Fear not to recognize the whole idea of sacrifice as solely of your making.
 恐れることなく、犠牲という観念はすべて、自分がでっちあげたものでしかないと認めてください。

 And seek not safety by attempting to protect yourself from where it is not.
 そして、安全のない場所から自分を守ろうとすることによって、安全を探し求めてはなりません。

 Your brothers and your Father have become very fearful to you.
 あなたの兄弟たちとあなたの大いなる父は、あなたにとって実に恐ろしい存在になり果ててしまっています。

 And you would bargain with them for a few special relationships, in which you think you see some scraps of safety.
 そこで、少しでも特別な関係を持とうと、あなたは兄弟や神と取引をしようとします。というのも、あなたは特別な関係の中にわずかばかりの安全のかけらが見つかると考えているからです。

 Do not try longer to keep apart your thoughts and the Thought that has been given you.
 あなたの抱くさまざまな思いとあなたに授けられている大いなる思いとを、これ以上別々のままにしておこうとしないでください。

 When they are brought together and perceived where they are, the choice between them is nothing more than a gentle awakening, and as simple as opening your eyes to daylight when you have no more need of sleep.
 双方を引き合わせて、それらがどこにあるのか認識したとき、両者の間で選ぶことは、もうそれ以上眠る必要がなくなって陽の光で目が開いて穏やかに目覚めるのと変わらないくらい簡単なことです。



2. The sign of Christmas is a star, a light in darkness.
 クリスマスの印はひとつの星であり、それは闇の中に輝く一点の光です。

 See it not outside yourself, but shining in the Heaven within, and accept it as the sign the time of Christ has come.
 その星があなたの外にではなく、あなたの内なる天国に輝いているのを見てください。そして、この星をキリストの時が到来した印として受け入れてください。

 He comes demanding nothing.
 キリストは何の見返りも求めることなく訪れます。

 No sacrifice of any kind, of anyone, is asked by Him.
 キリストは誰にも、いかなる形の犠牲も、まったく求めません。

 In His Presence the whole idea of sacrifice loses all meaning.
 キリストの前では、犠牲という観念全体がまったく無意味になります。

 For He is Host to God.
 というのも、キリストは神を宿す大いなる存在だからです。

 And you need but invite Him in Who is there already, by recognizing that His Host is One, and no thought alien to His Oneness can abide with Him there.
 だから、あなたは神を宿すキリストは神とひとつであり、神の一体性と相容れない思いはそこにキリストと一緒に留まることができないと認めることによって、すでに到来しているキリストを招き入れるだけでよいのです。

 Love must be total to give Him welcome, for the Presence of Holiness creates the holiness that surrounds it.
 キリストを歓迎するには惜しみなく愛を捧げなけければなりません。なぜなら、聖なるものの臨在がそれを取り囲む神聖さを創造するからです。

 No fear can touch the Host Who cradles God in the time of Christ, for the Host is as holy as the perfect Innocence which He protects, and Whose power protects Him.
 キリストの時の中で、神を優しく抱擁するキリストにはいかなる恐怖も触れることはできません。なぜなら、神の大いなる宿し主は自らが守護する完全に潔白なる存在と同じように神聖であり、その潔白なる存在の力がキリストを守っているからです。

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3. This Christmas give the Holy Spirit everything that would hurt you.
 このクリスマスには、あなたを傷つるようなものはすべて聖霊に渡してください。

 Let yourself be healed completely that you may join with Him in healing, and let us celebrate our release together by releasing everyone with us.
 あなたも聖霊と一緒に癒しを行えるように、あなた自身を完全に癒してもらってください。そして、私たちと一緒にみんなを解放することによって、自分たちが解放されることを一緒に祝いましょう。

 Leave nothing behind, for release is total, and when you have accepted it with me you will give it with me.
 後顧の憂いを断ってください。というのは、解放は全面的になされるものだし、あなたが私と一緒に解放を受け入れたとき、あなたは私と一緒に解放を与えるようになるからです。

 All pain and sacrifice and littleness will disappear in our relationship, which is as innocent as our relationship with our Father, and as powerful.
 あなたが私と結ばれることで、どんな苦痛も犠牲も矮小さも消えてなくなるでしょう。私とあなたの結びつきは、私たちと大いなる父との絆のように潔白で力強いものだからです。

 Pain will be brought to us and disappear in our presence, and without pain there can be no sacrifice.
 苦しみは私たちの許へともたらされて、私たちの目の前で消え失せてしまうでしょう。そして、苦しみがなくなったところには、いかなる犠牲も存在できません。

 And without sacrifice there love must be.
 そして、犠牲がないなら、そこには愛があるに違いないのです。



4. You who believe that sacrifice is love must learn that sacrifice is separation from love.
 自分を犠牲にすることが愛だと信じているあなたは、犠牲になることは愛から分離することだと学ばなければなりません。

 For sacrifice brings guilt as surely as love brings peace.
 なぜなら、愛が平安をもたらすのと同じくらい確実に、犠牲は罪悪感をもたらすからです。

 Guilt is the condition of sacrifice, as peace is the condition for the awareness of your relationship with God.
 心安らかであることが、あなたが自分と神との絆を自覚するための条件であるように、罪悪感を抱くことが犠牲の条件です。

 Through guilt you exclude your Father and your brothers from yourself.
 罪悪感を通して、あなたは、自らの大いなる父と自分の兄弟たちを自分自身から締め出してしまいます。

 Through peace you invite them back, realizing that they are where your invitation bids them be.
 平安を通して、あなたは自らの大いなる父と自分の兄弟たちに戻ってくるように招き、あなたが彼らを招いたところにすでに彼らがいることに気づくことになります。

 What you exclude from yourself seems fearful, for you endow it with fear and try to cast it out, though it is part of you.
 あなたが自分自身から排除しようとするものは、恐ろしいものに見えます。なぜなら、あなたは、それが自分の一部であるにもかかわらず、それを恐ろしいものと信じて外部に放り出そうとしているからです。

 Who can perceive part of himself as loathsome, and live within himself in peace?
 自分自身の一部を唾棄すべきものとして知覚しておきながら、自らの内面に平安を保って過ごせる者などいるでしょうか。

 And who can try to resolve the "conflict" of Heaven and hell in him by casting Heaven out and giving it the attributes of hell, without experiencing himself as incomplete and lonely?
 それに、天国を放り出して、天国に地獄の属性を付与することで、自分の内なる天国と地獄の「葛藤」を解消しようとしておきながら、自分自身を不完全で孤独な存在だと感じずにいられる者がいるでしょうか。

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5. As long as you perceive the body as your reality, so long will you perceive yourself as lonely and deprived.
 あなたが自分は本当に身体なのだと知覚しているかぎり、それだけ長く、あなたは自分のことを孤独で恵まれない存在だと知覚するでしょう。

 And so long will you also perceive yourself as a victim of sacrifice, justified in sacrificing others.
 そして、あなたがそのように知覚している間は、あなたはまた自分自身を犠牲となった被害者とみなし、自分には他者を犠牲にする正当な理由があると知覚するでしょう。

 For who could thrust Heaven and its Creator aside without a sense of sacrifice and loss?
 なぜなら、天国とその大いなる創造主を排斥しようとしながら、犠牲や喪失の感覚を持たずにいられる者はいないからです。

 And who could suffer sacrifice and loss without attempting to restore himself?
 そして、犠牲や喪失の感覚に苦しみながら、どうにかして自分自身を元通りにしようと試みずにいられる者はいないからです。

 Yet how could you accomplish this yourself, when the basis of your attempts is the belief in the reality of the deprivation?
 しかし、あなたが自分を元通りにしようと試みるのは、あなたが自分が何かを奪われて欠乏していることが現実だと信じていることが基盤になっているというのに、どうしてそのあなたに自分ひとりでこの試みを達成できるというのでしょうか。

 Deprivation breeds attack, being the belief that attack is justified.
 奪われているという思いは、攻撃が正当化されると信じることなので、攻撃を生み出します。

 And as long as you would retain the deprivation, attack becomes salvation and sacrifice becomes love.
 そして、あなたが奪われているという思いを保ち続けようとするかぎり、攻撃することが救済となり、犠牲になることが愛だということになってしまいます。



6. So is it that, in all your seeking for love, you seek for sacrifice and find it.
 そんなわけで、あなたが愛を求めてなすあらゆる探求において、あなたは犠牲を探し求め、そして、犠牲を見つけてしまうのです。

 Yet you find not love.
 しかし、あなたが愛を見つけることはありません。

 It is impossible to deny what love is and still recognize it.
 本当の愛を否認しておきながら、愛を見分けようとしても、それは不可能だからです。

 The meaning of love lies in what you have cast outside yourself, and it has no meaning apart from you.
 愛の意味は、あなたが自分自身の外に投げ捨ててしまったものの中にこそ見出すことができます。そして、あなたから離れていては愛には何の意味もないのです。

 It is what you prefer to keep that has no meaning, while all that you would keep away holds all the meaning of the universe, and holds the universe together in its meaning.
 あなたが保持しておきたいと思うものは何の意味も持たないものであり、他方で、あなたが遠ざけておこうとするものには宇宙のすべての意味が含まれています。そして、その意味によって宇宙はひとつに保たれているのです。

 Unless the universe were joined in you it would be apart from God, and to be without Him is to be without meaning.
 あなたの中で宇宙がひとつに結ばれているのでなければ、宇宙は神から離れていることになってしまいますが、神と離れて存在することは意味なく存在することだからです。

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7. In the holy instant the condition of love is met, for minds are joined without the body's interference, and where there is communication there is peace.
 神聖な瞬間において、愛の条件が満たされます。というのは、そのとき心と心は身体に邪魔されることなくひとつに結びつき、そして、コミュニケーションのあるところには必ず平安があるからです。

 The Prince of Peace was born to re-establish the condition of love by teaching that communication remains unbroken even if the body is destroyed, provided that you see not the body as the necessary means of communication.
 平安の王子が生まれたのは、次のレッスンを教えることによって愛の条件を再び確立するためです。そのレッスンとは、あなたが肉体をコミュニケーションに不可欠な手段だとみなさなければ、たとえ肉体が破壊されたとしても、コミュニケーションは中断されることなく存続するということです。

 And if you understand this lesson, you will realize that to sacrifice the body is to sacrifice nothing, and communication, which must be of the mind, cannot be sacrificed.
 そして、もしあなたがこのレッスンを理解するなら、あなたは身体を犠牲にすることは何も犠牲にすることにならないし、心に属するものであるに違いないコミュニケーションが犠牲になることは決してありえないと理解するでしょう。

 Where, then, is sacrifice?
 そうだとすれば、いったいどこに犠牲があるというのでしょうか。

 The lesson I was born to teach, and still would teach to all my brothers, is that sacrifice is nowhere and love is everywhere.
 かつて私がそれを教えるために生まれ、そして、今なお私の兄弟たちみんなに教えるつもりでいるレッスンは、犠牲は存在せず、ただ愛だけが存在するというものです。

 For communication embraces everything, and in the peace it re-establishes, love comes of itself.
 なぜなら、コミュニケーションはありとあらゆるものを包含するし、コミュニケーションが再び確立する平安の中には、愛がひとりでにやってくるからです。



8. Let no despair darken the joy of Christmas, for the time of Christ is meaningless apart from joy.
 いかなる絶望にもクリスマスの喜びを翳らせてはなりません。というのも、喜びなくしては、キリストの時には何の意味もないからです。

 Let us join in celebrating peace by demanding no sacrifice of anyone, for so you offer me the love I offer you.
 誰からも一切の犠牲を要求しないことによって、私たちで一緒に平安を祝いましょう。なぜなら、そうすることで、あなたは私があなたに差し延べる愛を私に捧げてくれることになるからです。

 What can be more joyous than to perceive we are deprived of nothing?
 自分たちが何も剥奪されていないと気づくことよりも喜ばしいことがほかにあるでしょうか。

 Such is the message of the time of Christ, which I give you that you may give it and return it to the Father, Who gave it to me.
 私たちが何も奪われることなくすべてを持っていることこそが、キリストの時が伝えるメッセージです。私はこのメッセージをあなたに託します。そうすれば、あなたはこのメッセージを兄弟に伝えることで、私にこのメッセージを授けてくれた大いなる父にそれを返してくれるでしょう。

 For in the time of Christ communication is restored, and He joins us in the celebration of His Son's creation.
 なぜなら、キリストの時の中で、コミュニケーションは回復し、神の子の創造を祝福する私たちに父が一緒に加わってくれるからです。

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9. God offers thanks to the holy host who would receive Him, and lets Him enter and abide where He would be.
 神は、神を受け入れて、神の意図するところへと招き入れて住まわせる聖なる宿し主に感謝を差し延べてくれます。

 And by your welcome does He welcome you into Himself, for what is contained in you who welcome Him is returned to Him.
 そして、あなたが歓迎することによって、神はあなたを自らの中へと歓迎してくれます。というのも、あなたの中に封じこめられていたものが、あなたが神を歓迎することで、神へと戻されることになるからです。

 And we but celebrate His Wholeness as we welcome Him into ourselves.
 そして、私たちが神を自分たちの中へと喜んで迎え入れるとき、私たちには神の完全性を祝福することしかできません。

 Those who receive the Father are one with Him, being host to Him Who created them.
 大いなる父を受け入れる者は、父なる神と一体になります。というのも、彼は自分を創造してくれた神を宿しているからです。

 And by allowing Him to enter, the remembrance of the Father enters with Him, and with Him they remember the only relationship they ever had, and ever want to have.
 そして、神を迎え入れることによって、神の記憶も神と一緒にあなたの中に入ってきます。そして、神とともに子らは自分たちがこれまで保ち、これからも保ちたいと望む唯一の関係性を思い出すのです。



10. This is the time in which a new year will soon be born from the time of Christ.
 今は、キリストの時からもうすぐ新しい年が生まれ出る時です。

 I have perfect faith in you to do all that you would accomplish.
 あなたが自らの成し遂げようとすることをすべて完遂すると、私は完璧に確信しています。

 Nothing will be lacking, and you will make complete and not destroy.
 何ひとつ足りなくなることはないでしょう。だから、あなたはしくじることなく完了するでしょう。

 Say, then, to your brother:
 ゆえに、自分の兄弟に次のように言いなさい。


I give you to the Holy Spirit as part of myself.
私はあなたを私自身の一部として聖霊に捧げます。

I know that you will be released, unless I want to use you to imprison myself.
自分自身を幽閉するためにあなたを利用したいと私が望まないかぎり、私はあなたが解放されることを知っています。

In the name of my freedom I choose your release, because I recognize that we will be released together.
自らの解放のために、私はあなたが解放されることを選びます。なぜなら、私は私たちが一緒に解放されることになるとわかっているからです。


 So will the year begin in joy and freedom.
 こうして新しい年は、喜びと解放の中で始まるでしょう。

 There is much to do, and we have been long delayed.
 やるべきことはたくさんあるというのに、私たちは大幅に遅れをとってしまっています。

 Accept the holy instant as this year is born, and take your place, so long left unfulfilled, in the Great Awakening.
 この新たな年が生まれるのを節目に、神聖な瞬間を受け入れてください。そして、大いなる目覚めにおいて、長い間に亘って空いたままになっているあなたの持ち場に就いてください。

 Make this year different by making it all the same.
 この年をすべて愛に満ちた同じものにすることによって、これまでとは違う年にしてください。

 And let all your relationships be made holy for you.
 そして、あなたの関わるすべての関係をあなたにとって神聖なものにしてもらってください。

 This is our will.
 これこそ、私たちの意志です。

 Amen.
 アーメン。


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