T5-intro 癒しと全体性


The Rich and the Kingdom of God
裕福な者と神の王国


Just then a man came up to Jesus and asked, “Teacher, what good thing must I do to get eternal life?”
ちょうどそのとき、ある男がイエスのところにやってきて尋ねた。「先生、永遠の命を得るために私はどんなよいことをしなければならないでしょうか。

“Why do you ask me about what is good?” Jesus replied.
イエスは「あなたはなぜ私に、よいことについて尋ねるのか」と答えられた。

“There is only One who is good. If you want to enter life, keep the commandments.”
「よき者はただひとりだけである。もしあなたが命に加わりたいなら、戒めを守りなさい。」

“Which ones?” he inquired.
「どの戒めでしょうか。」と彼は聞いた。

Jesus replied, “ ‘You shall not murder, you shall not commit adultery, you shall not steal, you shall not give false testimony, honor your father and mother,’ and ‘love your neighbor as yourself.’”
イエスは答えられた。「『汝、殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽って証しするなかれ。父母を敬え。』そして、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」と。

“All these I have kept,” the young man said. “What do I still lack?”
「これらの戒めはすべて守ってきました。」若い男は言った。「いったい何がまだ足りないのでしょうか。」

Jesus answered, “If you want to be perfect, go, sell your possessions and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”
イエスは答えられた。「もしあなたが完全になりたいなら、帰ってあなたの持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むになるであろう。そのあとで、来て、わたしに従いなさい」と。

When the young man heard this, he went away sad, because he had great wealth.
若い男はこれを聞いて、悲しみに暮れて立ち去った。というのも、彼はとても多くの財産を持っていたからだ。

Then Jesus said to his disciples, “Truly I tell you, it is hard for someone who is rich to enter the kingdom of heaven. Again I tell you, it is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”
それから、イエスは弟子たちに言った。「よくよく言っておく。富んでいる者が天の王国に入るのは難しいものである。重ねてあなたがたに言っておくが、富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、ずっとやさしいのだ」。

When the disciples heard this, they were greatly astonished and asked, “Who then can be saved?”
弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った。「それでは、いったい誰が救われることができるのだろうか。」。

Jesus looked at them and said, “With man this is impossible, but with God all things are possible.”
イエスは彼らを見て言われた。「人には、これをなすのは不可能である。しかし、神になら、どんなことも可能なのだ。」。

Peter answered him, “We have left everything to follow you! What then will there be for us?”
ペテロはイエスに答えた。「私たちはあなたに従うためにすべての物事を手放してきました。だとすれば、私たちは何を得られるでしょうか」。

Jesus said to them, “Truly I tell you, at the renewal of all things, when the Son of Man sits on his glorious throne, you who have followed me will also sit on twelve thrones, judging the twelve tribes of Israel.
イエスは弟子たちに言われた。「よく聞くがよい。世が改まって、人の子がその栄光に満ちた玉座に就くときには、私に従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族を裁くことになろう」。

And everyone who has left houses or brothers or sisters or father or mother or wife or children or fields for my sake will receive a hundred times as much and will inherit eternal life.
おおよそ、私のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もの報いを受け、そして永遠の生命を受け継ぐであろう。

But many who are first will be last, and many who are last will be first.
しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

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Matthew 19;16-30
イエス・キリスト(マタイによる福音書 /19章 16節-30節

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Jesus replied: “‘Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind.’
イエスは答えられた。「『あなたの真心をつくし、全霊を込めて、思いのすべてをもって、主なるあなたの神を愛せよ』。

This is the first and greatest commandment.
これが最も大切な、第一のいましめである。

And the second is like it: ‘Love your neighbor as yourself.’
第二もこれと同様である、『自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』。

All the Law and the Prophets hang on these two commandments.”
このふたつのいましめに、律法全体と預言とがかかっているのだ」。

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Matthew 22;39
イエス・キリスト(マタイによる福音書 第22章 39節




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今回は、テキスト第5章の序論をご紹介します。


第5章は、「癒しと全体性」というタイトルです。


サンシップの本質~神の子には隣人を自分自身として愛することしかできない

短いですが、癒しの側面から簡潔にサンシップの本質を述べています。

冒頭の「己を愛するがごとく汝の隣人を愛せよ」(マタイによる福音書 /19章 19節、22章 39節)は、「右の頬を打つ者があれば、左の頬も向けよ」(マタイによる福音書 / 5章 39節、ルカによる福音書 / 6章 29節)とともに、キリストの言葉が、ただきれいごとを並べるだけの偽善的な処世訓であると誤解されやすい聖句です。

はたして「敵」にいいように愚弄されてもへらへらしているような甘っちょろい「いい人」として生きよというのがイェシュアのメッセージだったなどということが考えられるでしょうか?

そんなはずはありません。

この序論では、
「It is impossible for a child of God to love his neighbour except as himself.
 神の子供にとって、隣人を自分自身として愛すること以外は不可能なのです。」
として、その理由が解説されます。

ただし、この序論では、核心部分までははっきりとは明言されません。


兄弟も自分と同じように神の子のアバターなのだとしたら、左の頬を向けるは当たり前のリアクション

奇跡講座を読まれたり、このサイトの読者のみなさんにはおわかりと思いますが、「敵」に見えるような他者(兄弟)の真の姿は、実は(大いなる自己としての)自分だからということです。

自分とは分離した別人である敵や隣人を優しくあしらった方が、円満に遇してもらえて自分の利益になる可能性が高くて人生戦略として有益だからというのではなくて、単純に、自分と隔絶した他者に見えているだけで、実は自分自身なのだから、自分自身として大切に接しなければならないという至極当たり前なことを語っているということです。



この真理は、はたらく細胞的な観点で自分を赤血球や白血球に置き換えて想像してみれば、意外に理解できなくはないはずの理屈ではありますが、現に自分のアバターを攻撃してくる他者の過去の許しがたい行状の記憶、現在の憎たらしい姿、将来の恐れによって、私たちはいとも簡単に忘れ去ってエゴ・身体との同一化に縛られ、肉眼という定点観測カメラからの視界が心の画角全面に拡大して占拠することになります。

とはいえ、他者の攻撃は愛と助けを求める兄弟の哀訴であり、他者には自らの傷つかざる本質を示して彼に自分は潔白だと理解させるべきであって、私たちを怒らせる他者は自分の振り上げた剣を背けて自他を一緒に救う機会を与えてくれる救い主なのだ、といういつもの聖霊の愛の教えの3点セット(聖霊の3大レッスン)を心に留めているといないとでは、この真理を机上の空論ではなく、この世界で幸せになるという私たちの役目を果たすための実践的な道具として活用できるかどうかが大きく変わります。




実在と実在の不在との関係性~有と無

2.「If fear and love cannot coexist, and if it is impossible to be wholly fearful and remain alive, the only possible whole state is that of love.
 もし恐れと愛が共存できないとすれば、そして、もし完全に恐怖に慄きながら生きながらえることが不可能だとすれば、唯一ありうる完全な状態とは愛に満ち溢れた状態だけです。」

この仕組みはよくよく理解しておく必要があります。

実在するのは、愛のみであり、光や生命、平安等実在の他の側面は愛がとる別の姿、愛が持つ別の顔でしかありません。

実在には程度というものがないので、実在する大いなる光が幻想世界の中で個別の自己の中に「小さな閃光」として宿る状態でも、その光の質は同じままで、薄暗い光や燦然と光り輝く光というような多様性やレベル、程度差があるわけではありません。


世界でそのような多様性があるかのごとき様相を呈するのは、エゴ・身体というアバターが電球の覆いとなって同じ光に色や形を付けたり、光の向く方向を限定したり、覆いを超えて漏れ出す光の量を制限したりするからでしかありません。

上の2.の文の「愛」は光であり、「恐れ」は電球に被せられた覆いです。

覆いが電球を完全に光を漏らせないほど包み込む状態はこの世界では死を意味するので、この世界でも完全に恐怖に陥ったままでは生きることはできません。

そうだとすれば、愛、光、生命の本来の自然な完全な状態は、恐れの覆いが一切被さっていない光全開のむき出し状態であり、光はすべて完全な光輝なのだから、覆いの取れた場合に唯一ありうる完全な状態は、愛に満ち溢れた状態のみだということになります。この実在の純粋さは神聖さと呼ばれ、実在の純度100%状態を称して"most holy"「至聖なる」と表現されます。


「It is impossible to conceive of light and darkness or everything and nothing as joint possibilities.
 光と闇、または、有と無とを結びつきうるものとして心に思い描こうとしても、そんなことは不可能だからです。

 They are all true or all false.
 すなわち、それらは全部が真実であるか、それとも全部が偽りであるか、そのいずれかだからです。

 It is essential that you realize your thinking will be erratic until a firm commitment to one or the other is made.
 有である光か無である闇のいずれかに全身全霊を傾けて断固として関わらないかぎり、自分の思考は不安定なままだということをあなたが理解しておくことはきわめて重要です。

 A firm commitment to darkness or nothingness, however, is impossible.
 とはいえ、闇、つまり無にのみ完全に身を置くことは不可能です。

 No one has ever lived who has not experienced some light and some thing.
 というのも、いまだかつて、誰ひとりとして、何らかの光や何らかの物事をほんの少しも経験したことがない者が生きたためしなどないからです。

 No one, therefore, is able to deny truth totally, even if he thinks he can.
 したがって、たとえ自分にはそれができると思ったとしても、真理を全面的に否定することは誰にもできないのです。」(T3-2 正しい知覚による奇跡、1.)



癒しの祈り

末尾に癒しの祈りの言葉として次の言葉が紹介されます。

「Let me know this brother as I know myself.
 私が自分のことを知るように、私がこの兄弟を知ることができますように。」

意訳するなら、「私が、この兄弟のことを自分自身と同じひとつのものだと知ることができますように。」となります。





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Chapter 5
HEALING AND WHOLENESS
第五章 癒しと全体性



Introduction
序論



1. To heal is to make happy.
 癒すことは、幸せにすることです。

 I have told you to think how many opportunities you have had to gladden yourself, and how many you have refused.
 私はあなたに、自分を喜ばせる機会をあなたがいかに数多く得ていたか、それなのに、いかに多くの機会をあなたがはねつけてきたか考えてみるようにと告げたことがあります。

 This is the same as telling you that you have refused to heal yourself.
 これは、あなたが自分を癒すのを拒んできたのだと言っているのと同じです。

 The light that belongs to you is the light of joy.
 あなたの宿す光は、喜びの光です。

 Radiance is not associated with sorrow.
 輝きが悲しみと結びつくことはありません。

 Joy calls forth an integrated willingness to share it, and promotes the mind's natural impulse to respond as one.
 喜びは、それを進んで分かち合おうするひとつに結び合わされた意欲を呼び起こします。そして、喜びは、それに呼応してひとつになろうとする心の自然な衝動を促進させます。

 Those who attempt to heal without being wholly joyous themselves call forth different kinds of responses at the same time, and thus deprive others of the joy of responding wholeheartedly.
 自分自身が完全な喜びに満ちた状態にないまま癒そうと試みる者たちは、同時に異なった種類の反応を呼び起こしてしまい、その結果、ほかの者たちから全身全霊で反応する喜びを奪ってしまいます。

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2. To be whole-hearted you must be happy.
 全身全霊を傾けるには、あなたは幸福であらねばなりません。

 If fear and love cannot coexist, and if it is impossible to be wholly fearful and remain alive, the only possible whole state is that of love.
 もし恐れと愛が共存できないとすれば、そして、もし完全に恐怖に慄きながら生きながらえることが不可能だとすれば、唯一ありうる完全な状態とは愛に満ち溢れた状態だけです。

 There is no difference between love and joy.
 愛と喜びの間には、何の違いもありません。

 Therefore, the only possible whole state is the wholly joyous.
 それゆえ、唯一ありうる完全な状態とは、完全に喜びに満ち溢れた状態だけです。

 To heal or to make joyous is therefore the same as to integrate and to make one.
 したがって、癒すこと、つまり、喜ばせることは、結び合わせてひとつにすることと同じなのです。

 That is why it makes no difference to what part or by what part of the Sonship the healing is offered.
 それゆえに、神の子全体のうちの誰に対して癒しが差し延べられようが、誰によって癒しが差し延べられようが、そんなことは重要ではありません。

 Every part benefits, and benefits equally.
 癒しによって各自がみんな恩恵を被るのだし、それも、平等に恩恵を被るからです。



3. You are being blessed by every beneficent thought of any of your brothers anywhere.
 どこにいるどの兄弟であろうとも、そのあなたの兄弟の慈愛に富む思いの一つひとつによって、あなたは祝福されています。

 You should want to bless them in return, out of gratitude.
 そうであれば、その兄弟たちの思いに対して、あなたも感謝の念からお返しにその兄弟たちを祝福したいと思うはずです。

 You need not know them individually, or they you.
 あなたは、その兄弟を個人的に知る必要はないし、彼らも、あなたを個人的に知る必要はありません。

 The light is so strong that it radiates throughout the Sonship and returns thanks to the Father for radiating His joy upon it.
 その光は非常に強いので、神の子全体の隅から隅まで輝きを降り注ぎ、自らの喜びをみんなの上に振り注いでくれていることに対する神の子みんなからの感謝の念を大いなる父へと照らし返します。

 Only God's holy children are worthy channels of His beautiful joy, because only they are beautiful enough to hold it by sharing it.
 神の素晴らしい喜びを伝える使者となるにふさわしいのは神の聖なる子供たちだけです。なぜなら、ただ彼らだけが神の喜びを分かち合うことによって保持するに十分な素晴らしさを備えているからです。

 It is impossible for a child of God to love his neighbor except as himself.
 神の子供には、隣人を自分自身として愛することしかできません。

 That is why the healer's prayer is:
 ゆえに、癒す者の祈りは次のようになります。


Let me know this brother as I know myself.
私が自分自身を知るように、私がこの兄弟を知ることができますように。


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