S3-2 偽りの癒し 対 真の癒し


Death is a release from the impressions of the senses, and from desires that make us their puppets, and from the vagaries of the mind, and from the hard service of the flesh.
死は、私たちを操り人形にしている感覚器官や欲望の影響からの解放であり、心の気まぐれや身体の重労働からの解放なのだ。

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Marcus Aurelius, Meditations
マルクス・アウレリウス(「自省録」)

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偽りの癒しと心の癒し

偽りの癒しは、病気や苦痛という形として表れている結果を取り除くだけの対症療法であり、死ぬことによってキリストを打ち負かそうという狂気の願望は残したままで、許しによって病気の夢を健康の夢に置き換える無意味な交換にすぎません。

これに対して、真の癒しは、赦しによって罪も身体も実在しないという真理を認識し、実在しない身体が死ぬことによってキリストは何の危害も受けないという真理を認識して、幻を看過することで心が癒され、病気や苦痛という結果を生む原因が取り除かれるので、原因療法となります。


役目を終えた身体の終わり「死」の意味

この真の癒しがなされた場合、偽りの癒しの場合と同じように、身体がこの世界を去るときが来ても、それは、世界の解釈する死のように罪に対する報いとしての処罰である害悪とはなりません。

そうではなく、この世界で神の愛を兄弟に運び届けるという役目を果たし終えたことへの報償であり幽閉からの解放として与えられる感謝に満ちた祝福となります。





2.「But we are thankful, too, the need is done to walk the world of limits, and to reach the Christ in hidden forms and clearly seen at most in lovely flashes.
 それだけでなく、私たちは、制限からなる世界を歩み、隠れた形で、せいぜい愛に満ちた瞬間的な輝きの中でしかはっきり見ることができないキリストに到達しようとする必要がなくなったことにも感謝します。

 Now we can behold Him without blinders, in the light that we have learned to look upon again.
 もはや、私たちは、自分たちが再び見ることを学んだ光の中で、キリストを目隠しを外して見つめることができるからです。」

車で遠路はるばる長旅を終え、ようやく目的地であるわが家にたどり着いたたなら、車から出て家に入ることが車の乗り手が持つ本来の願いのはずです。

それなのに、長年車に乗り続けていたせいで車に愛着して車と自分を同一視しているからと言って、役目を終えた車恋しさに、車を修繕したり車の見た目をよくしたりしてもらって、わが家に帰るよりも、また旅に出てずっと車の中にいたほうが自分は幸せだと言い張るとしたら、その人は自分の真の意図を忘れてしまって、どうかしているというほかありません。

私たちは、本当に人間馬車説的な発想を忘れずに、馬車の中にいる主人の目的を馬や御者の欲望で妨げて、自分の本当の目的を見失っていないか自問するよう自戒しなければなりません。




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3.- II. False vs: True Healing
 偽りの癒し 対 真の癒し



1. False healing merely makes a poor exchange of one illusion for a "nicer" one; a dream of sickness for a dream of health.
 偽りの癒しは単に、ある幻想を「より優れた」別の幻想に、病気の夢を健康の夢に置き換える無意味な交換でしかありません。

 This can occur at lower forms of prayer, combining with forgiveness kindly meant but not completely understood as yet.
 偽りの癒しは、低次の祈りの形でも起こることがあります。というのも、低次の形の祈りは、親切心から意図されたものではあっても、まだ完全には理解されていない許しと結びついているからです。

 Only false healing can give way to fear, so sickness will be free to strike again.
 恐れに屈してしまうのは偽りの癒しだけなので、いくらでも病気が再発しうることになります。

 False healing can indeed remove a form of pain and sickness.
 偽りの癒しにも、実際に、苦痛や病気という形を取り除くことはできます。

 But the cause remains, and will not lack effects.
 しかし、その原因は残ったままなので、結果がなくなることはありません。

 The cause is still the wish to die and overcome the Christ.
 その原因は依然として、死ぬことでキリストを打ち負かそうという願望のままだからです。

 And with this wish is death a certainty, for prayer is answered.
 そして、そんなことを願うなら、死は確実なものとなります。というのも、祈りは叶えられるからです。

 Yet there is a kind of seeming death that has a different source.
 しかし、これとは異なる源を持つ一種の外見上の死も存在します。

 It does not come because of hurtful thoughts and raging anger at the universe.
 その死は、有害な思考や世界に対する激しい怒りのために訪れるものではありません。

 It merely signifies the end has come for usefulness of body functioning.
 その死は単に、身体の働きが役立たせることに終わりが訪れたことを示すだけです。

 And so it is discarded as a choice, as one lays by a garment now outworn.
 だから、もう着古した衣服を人が脱ぎ捨てるように、身体を手放すことが選択されたのです。



2. This is what death should be; a quiet choice, made joyfully and with a sense of peace, because the body has been kindly used to help the Son of God along the way he goes to God.
 これが死のあるべき姿です。それは、神の子が神に至る道を進む際に神の子の役に立つためにその身体が申し分なく用いられてきたがゆえに、喜びと安らぎの感覚とともに下される静かな選択です。

 We thank the body, then, for all the service it has given us.
 そのとき、私たちは、身体が私たちに捧げてくれたあらゆる奉仕について、身体に感謝します。

 But we are thankful, too, the need is done to walk the world of limits, and to reach the Christ in hidden forms and clearly seen at most in lovely flashes.
 それだけでなく、私たちは、制限からなる世界を歩み、隠れた形で、せいぜい愛に満ちた瞬間的な輝きの中でしかはっきり見ることができないキリストに到達しようとする必要がなくなったことにも感謝します。

 Now we can behold Him without blinders, in the light that we have learned to look upon again.
 もはや、私たちは、自分たちが再び見ることを学んだ光の中で、キリストを目隠しを外して見つめることができるからです。



3. We call it death, but it is liberty.
 私たちはそれを死と呼びます。しかし、それは解放です。

 It does not come in forms that seem to be thrust down in pain upon unwilling flesh, but as a gentle welcome to release.
 その死は、嫌がる身体に苦痛を押しつけるように見える形で訪れるのではなく、解放されることを穏やかに歓迎する形で訪れます。

 If there has been true healing, this can be the form in which death comes when it is time to rest a while from labor gladly done and gladly ended.
 もし真の癒しがなされていたなら、このような形で死が訪れることが可能となります。その死は、快く成し遂げられ、喜んで完了した労働から、しばしの休息を取る時間が来たときに訪れるでしょう。

 Now we go in peace to freer air and gentler climate, where it is not hard to see the gifts we gave were saved for us.
 いまや、私たちは平安のうちに、より気楽に寛ぐことのできる境地へと歩みを進めます。そこでは、私たちの与えた贈り物が私たちのために無事に取っておいてもらえていたことが難なくわかります。

 For Christ is clearer now; His vision more sustained in us; His Voice, the Word of God, more certainly our own.
 というのも、キリストがいまや、よりはっきり姿を現し、キリストのヴィジョンが私たちのうちにより固く維持され、キリストの大いなる声、つまり神の大いなる言葉がより確かに私たちのものとなるからです。



4. This gentle passage to a higher prayer, a kind forgiveness of the ways of earth, can only be received with thankfulness.
 地上のさまざまな道を優しく赦すという、より高次の祈りに至るこの穏やかな旅路は、感謝とともにしか受け取ることができません。

 Yet first true healing must have come to bless the mind with loving pardon for the sins it dreamed about and laid upon the world.
 しかし、まずは、その心が夢見て世界に押し付けていた罪の数々を愛に満ちた赦しで祝福するために真の癒しが先に訪れていなければなりません。

 Now are its dreams dispelled in quiet rest.
 今、その心の見る夢は静かな安息の中で消え去ります。

 Now its forgiveness comes to heal the world and it is ready to depart in peace, the journey over and the lessons learned.
 今、その心の赦しが世界を癒すために訪れ、旅路が終わり、レッスンが習得され、平安のうちに旅立つ準備がその心に整います。


 
5. This is not death according to the world, for death is cruel in its frightened eyes and takes the form of punishment for sin.
 これは、この世界が言うところの死とは違います。というのは、世界の怯えた目には死は残酷で罪に対する処罰という形をとるからです。

 How could it be a blessing, then?
 そうだとしたら、どうしてそれが祝福となりうるでしょうか。

 And how could it be welcome when it must be feared?
 それに、それが恐るべきものだとしたら、どうしてそれを歓迎できるでしょうか。

 What healing has occurred in such a view of what is merely opening the gate to higher prayer and kindly justice done?
 ただ単により高次の祈りへの門が開いて優しく正義がなされるだけのことを処罰とみなしているようでは、とても癒しが起こったとは言えないはずです。

 Death is reward and not a punishment.
 死は報償なのであって処罰なわけではありません。

 But such a viewpoint must be fostered by the healing that the world cannot conceive.
 しかし、このような見方は、この世界には思いもよらない癒しによって育まれなければなりません。

 There is no partial healing.
 部分的な癒しなど存在しません。

 What but shifts illusions has done nothing.
 単にある幻想が別の幻想に変わっただけでは何もなしたことにはなりません。

 What is false cannot be partly true.
 虚偽であるものは、部分的にだけ真実になることはできません。

 If you are healed your healing is complete.
 もしあなたが癒されるなら、あなたの癒しは完全であるはずです。

 Forgiveness is the only gift you give and would receive.
 あなたが与え受け取ることになる唯一の贈り物は、赦しだけです。



6. False healing rests upon the body's cure, leaving the cause of illness still unchanged, ready to strike again until it brings a cruel death in seeming victory.
 偽りの癒しは、身体の治癒に照準を絞って、病気の原因は依然として変わらないまま放置するので、病気の原因が表面的な勝利としての残酷な死をもたらすまでは、いつでも病気は再び襲いかかることができます。

 It can be held at bay a little while, and there can be brief respite as it waits to take its vengeance on the Son of God.
 しばらくの間は死を遠ざけておくことはできるし、死が神の子に対する自らの報復に取りかかるのを待ちかまえている間は、短い休息は取れるかもしれません。

 Yet it cannot be overcome until all faith in it has been laid by, and placed upon God's substitute for evil dreams; a world in which there is no veil of sin to keep it dark and comfortless.
 しかし、死に対するすべての信頼を手放し、邪悪な夢に神が置き換えてくれるものに信頼を置くまでは、死を克服することはできません。神が置き換えるその世界には、そこを暗黒で無慈悲なままに保つ罪のヴェールは存在しません。

 At last the gate of Heaven opens and God's Son is free to enter in the home that stands ready to welcome him, and was prepared before time was and still but waits for him.
 ついに、天国の門が開き、神の子は、わが家に自由に入ることができます。その家は、神の子を歓迎する用意ができていて、時間が存在する以前からずっと準備を整えて、今もただ彼を待っているのです。





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