M3 教えることの段階とは?


一人ひとりの霊的成長は、そのおのおのの精神の構成に応じて自然に起こるものであり、偽の実体による意図的な努力はただ危険と障害を生み出すだけです。この事実がつねに心に留め置かれるとき、人は最大の霊的危機、つまり、エゴの暴動を自動的に避けることができます。独立した実体は本当は存在しないということが心にしっかりと固定されていないと、探求者は、ジュニャーナの道(知識の道)に進もうがバクティの道(帰依の道)に進もうが、おそらく次のように愚かにも考え始めることでしょう――自分は特権的人間であり、道を誤っていると彼らがみなしている一般人よりも優れているだけでなく、お互いに比較しても自分は優れている、と。つまり、一人ひとりが自分の「道」を他の道よりも優れていると考えるのです。



Ramesh S Balsekar
ラメッシ・S.バルセカール

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質問69.『奇跡講座』は自分ひとりで習得できるものなのでしょうか?それともパートナーが必要でしょうか?

すでに触れたとおり、『奇跡講座』は本来、独習用のカリキュラムです。その人の人生 ー 過去、現在、予期される未来 ー が、その教室です。「マニュアル」において提示されている対人関係の三つのカテゴリー、すなわち、表面的な関係、束縛性のある密度の濃い関係、そして一生続いていくような関係[M3]のいずれに含まれるものであれ、その人の関係のすべてが、赦しの実践に必要な「パートナー」をもたらします。そうした実践のために「定められた」パートナーといったものは必要ではありませんし、質問31で簡単に論じたように、そのパートナーが『奇跡講座』を学んでいる必要もありません。どんな人でも、誰であってもいいのです。自分のパートナーは霊性について同じような考え方をもつ者、さらに言えば、『奇跡講座』を学んでいる人でなくてはならないと主張することは、形態と内容を混同することであり、このコースが取り消そうとしている特別性の罠に陥ることです。先に論じた通り、つながり合いについての『奇跡講座』の定義は、肉体やいかなる種類の外的なものごとにも関係ありません ー 「心はつながっているが、肉体はそうではない」[T-18.VI3;1]と言われている通りです。つながり合いは、イエスまたは聖霊とつながることに関係しているのであり、彼らの中では〈一なる子〉の全員がひとつであることが見出されます。各々がどんな霊性の道を選んでいようと、あるいは霊性の道に無関心であろうと、全員が一なるものであることがわかるのです。
したがって、誰を相手に赦しのレッスンを練習するかは、実際には問題ではありません。罪悪感の投影は、どのような形の関係に投影されようと、どのような性質の人物や状況に投影されようと、本質的に同じものであり続けます。私たちが自分の人生と呼ぶ夢の中に居るあらゆる人々やものごとが、「自分が心の外側に知覚して、実在するとしたものは、自分の心の内側だけに存在している」ということを、認識できる機会を提供しています。ですから、その人が『奇跡講座』を学ぶためには、教室としてのその人の人生と、それを違った見方で見る方法をイエスから教えてもらおうとする意欲さえあれば、他には何も要求されないのです。



Kenneth Wapnick
ケネス・ワプニック(「赦しのカリキュラム」283ページ)

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マニュアルから第3節をご紹介します。


教えのレベル

教えのレベルとして、3つの段階が説明されています。


1番目のレベルは、もっとも素朴なもので、電車で誰かの足を踏んでしまったというような出会いです。

2番目のレベルは、教えることによって学ぶという関係がある程度の期間継続する場合です。

3番目のレベルは、一生続く関係です。




そして、これらの各レベルについても、奇跡に序列がないのと同じく、教えにも本当は程度差はなく、教えにレベルがあるというのは、時間と同じように幻想ではあるけれど、学びのためにこのようにレベルを観念することが有用な面もあるということです。


教えて学ぶ関係の究極目標は?

すべての教えて学ぶ関係の究極の目標は、その関係を通じて、神の子の罪のなさを見つめることができるようになることだといいます。

そして、この関係をどのように誰と結ぶかは、神の教師の計画の中にすべて織りこまれているということです。

偶然を装っているものの、すべての出会いは計画の不可欠の一部をなすものであり、序列はないということになります。


偶然とは神が実名を明かしたくないときに用いるペンネーム

ある人にとって、人生の暗闇でもがいている際に、その苦しみから救い出してくれる一言を、一生続く関係にある家族ではなく、偶然、相席になって数分話をしただけの誰かから聞くということもあるでしょう。

すべてがひとつの手によって書かれているなら、この通りであるはずです。

1.「There are no accidents in salvation.
 救済においては、偶然の出来事などひとつもないのです。」

リアリティ・トランサーフィンで述べられるように、まさに「偶然とは神が実名を明かしたくないときに用いるペンネーム」なわけです。


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Section 3 What Are the Levels of Teaching?
第3節 教えることの段階とは何か



1. The teachers of God have no set teaching level.
 神の教師たちには、決まりきった教えの段階があるわけではありません。

 Each teaching-learning situation involves a different relationship at the beginning, although the ultimate goal is always the same; to make of the relationship a holy relationship, in which both can look upon the Son of God as sinless.
 教えて学ぶ関係はそれぞれ、初めのころは違った関係を含んでいます。けれども、究極的な目標はいつでも同じです。それは、その関係を神聖な関係にして、その関係の中でふたりが神の子を罪のないものとして見ることができるようになるという目標です。

 There is no one from whom a teacher of God cannot learn, so there is no one whom he cannot teach.
 その人から神の教師が学ぶことのできないような人などひとりもいません。だから、神の教師に教えることができないような人はひとりもいません。

 However, from a practical point of view he cannot meet everyone, nor can everyone find him.
 しかしながら、実際的な観点から見て、その教師がすべての人とひとり残らず会うことはできないし、誰もがその教師を見つけることができるわけでもありません。

 Therefore, the plan includes very specific contacts to be made for each teacher of God.
 それゆえ、計画には、一人ひとりの神の教師がお互いにどのように出会うことになるか、きわめて具体的に組みこまれています。

 There are no accidents in salvation.
 救済においては、偶然の出来事などひとつもないのです。

 Those who are to meet will meet, because together they have the potential for a holy relationship.
 出会うことになっている者たちは出会うでしょう。なぜなら、彼らは、一緒になれば、神聖な関係を築く可能性を持っているからです。

 They are ready for each other.
 彼らは、お互いに出会う準備ができているのです。



2. The simplest level of teaching appears to be quite superficial.
 教えることの最も素朴な段階は、とても表面的なものに見えます。

 It consists of what seem to be very casual encounters; a "chance" meeting of two apparent strangers in an elevator, a child who is not looking where he is going running into an adult "by chance," two students "happening" to walk home together.
 最も素朴な教えの段階は、まったく偶然の出会いのように思えることからなっています。ふたりの赤の他人が「思いがけず」エレベーターで隣り合わせて出会ったり、前をしっかり見ずに走っていたある子供が「偶然」ある大人にぶつかってしまったり、ふたりの生徒が「たまたま」帰宅が一緒になったりというような出会いです。

 These are not chance encounters.
 実は、このような出会いは、偶然のものではありません。

 Each of them has the potential for becoming a teaching-learning situation.
 それぞれの出会いは、教えて学ぶ関係に発展する可能性を秘めています。

 Perhaps the seeming strangers in the elevator will smile to one another, perhaps the adult will not scold the child for bumping into him; perhaps the students will become friends.
 もしかしたら、エレベーターで隣り合わせた見知らぬ同士に見えるふたりは、お互いに微笑み合うもしれません。もしかしたら、大人は、自分にぶつかってきた子供を叱ろうとはしないかもしれません。もしかしたら、帰りが一緒になった生徒たちは友達になるかもしれません。

 Even at the level of the most casual encounter, it is possible for two people to lose sight of separate interests, if only for a moment.
 最も表面的な出会いのレベルにおいてすら、ほんの一瞬だけであっても、ふたりの人物が自分たちが別々の利害を持っているという見方を忘れるということがありえます。

 That moment will be enough.
 そんな一瞬だけで十分です。

 Salvation has come.
 救いが訪れたのです。



3. It is difficult to understand that levels of teaching the universal course is a concept as meaningless in reality as is time.
 普遍的な道を教えることには段階があると考えることは、時間と同じように、現実においては意味を持たない概念だと理解するのは難しいものです。

 The illusion of one permits the illusion of the other.
 時間という幻想が、教えることに段階があるという幻想を抱くことを可能にするからです。

 In time, the teacher of God seems to begin to change his mind about the world with a single decision, and then learns more and more about the new direction as he teaches it.
 時間の中では、神の教師は、ひとつの決心とともに、この世界に関する自分の心を変えはじめ、それから、彼がそのことを教えるにつれて、新しい方向性についてどんどん学んでゆくように思えます。

 We have covered the illusion of time already, but the illusion of levels of teaching seems to be something different.
 私たちはすでに、時間は幻想だと学びました。それでも、教えることに段階があるというのが幻想だということは、何だかそれとは違うようにも思えます。 

 Perhaps the best way to demonstrate that these levels cannot exist is simply to say that any level of the teaching-learning situation is part of God's plan for Atonement, and His plan can have no levels, being a reflection of His Will.
 このような段階がありえないことを実証する一番よい方法はおそらく、簡単に言って、教えて学ぶ関係のどの段階も贖罪のための神の計画の一部であり、神の計画は神の大いなる意志の反映なのだから、そこに段階の差などあるはずがないということです。

 Salvation is always ready and always there.
 救いのほうは、いつでも準備ができていて、つねにそこにあるからです。

 God's teachers work at different levels, but the result is always the same.
 神の教師たちはそれぞれ違った段階で働きかけますが、その結果はいつも同じものです。



4. Each teaching-learning situation is maximal in the sense that each person involved will learn the most that he can from the other person at that time.
 それぞれの教えて学ぶ関係は、その関係にある各自が、その時点で相手から学びうる限界まで学ぶことになるという意味で最大限のものです。

 In this sense, and in this sense only, we can speak of levels of teaching.
 この意味で、そして、この意味においてのみ、私たちは教えることの段階について語ることができます。

 Using the term in this way, the second level of teaching is a more sustained relationship, in which, for a time, two people enter into a fairly intense teaching-learning situation and then appear to separate.
 教えの段階という用語をこのように用いるなら、教えることの2番目の段階は、より持続的な関係になります。その関係では、しばらくの間、ふたりは教えては学ぶかなり濃密な関係を持ち、そして、そのあとで、ふたりは離れてゆくように見えます。

 As with the first level, these meetings are not accidental, nor is what appears to be the end of the relationship a real end.
 最初の段階と同じように、このような出会いは偶然ではないし、その関係が終わったように見えたとしても、真に終わったわけではありません。

 Again, each has learned the most he can at the time.
 またしても、各自がその時点で自分の学べるだけのことを学び終えたのです。

 Yet all who meet will someday meet again, for it is the destiny of all relationships to become holy.
 しかし、出会う者たちはみな、いつの日かまた再会するでしょう。というのも、それが神聖になるためのすべての関係に定められた運命だからです。

 God is not mistaken in His Son.
 神がわが子を見間違えることなどありえないからです。



5. The third level of teaching occurs in relationships which, once they are formed, are lifelong.
 教えることの3番目の段階は、いったん形成されると一生涯に亘って継続するような関係の中で起こります。

 These are teaching-learning situations in which each person is given a chosen learning partner who presents him with unlimited opportunities for learning.
 この3番目の段階は、教えて学ぶ関係であり、その中で、各自には、お互いに相手に限りない学びの機会を提供するように選ばれた学びのパートナーが与えられます。

 These relationships are generally few, because their existence implies that those involved have reached a stage simultaneously in which the teaching-learning balance is actually perfect.
 このような関係は、一般的にはかなり稀なものです。なぜなら、このような関係が存在しうるということ自体が、その関係にある各自が、同時に、教えることと学ぶことのバランスが本当に申し分のない域にまで到達していることを意味するからです。

 This does not mean that they necessarily recognize this; in fact, they generally do not.
 これは、その関係にある各人が必ずしもそのことを自覚していることを意味しません。それどころか、たいてい彼らは、そのことに気づいてはいません。

 They may even be quite hostile to each other for some time, and perhaps for life.
 彼らは、しばらくの間、お互いに、かなりの敵対関係にあることすらあるし、もしかしたら一生敵対したままであるかもしれません。

 Yet should they decide to learn it, the perfect lesson is before them and can be learned.
 しかし、彼らが学ぶ気になれば、申し分のないレッスンが彼らの目の前にあり、彼らはそれを学ぶことができるのです。

 And if they decide to learn that lesson, they become the saviors of the teachers who falter and may even seem to fail.
 そして、もし彼らがそのレッスンを学ぶことに決めたら、彼らは、躓いたり、失敗しているようにすら見える教師たちにとっての救い主となるのです。

 No teacher of God can fail to find the Help he needs.
 神の教師は、誰ひとりとして、自分の必要とする大いなる助けを見出し損ねることはありえないのです。





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