There Is No Spoon

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T9-8 自信喪失と自惚れの行ったり来たりから抜け出すには?

コメント欄でいただいた質問にお答えしたいと思います。
Kinoさん、ご質問いただきまして、どうもありがとうございます。

他人なんて本当はいない!?についてのご質問です。

質問は「丁度気になったことについて書かれているエントリーでした。いつも有難うございます。
中途半端に他者が自分の投影だと知ったつもりになると、私の場合自惚れに陥りそうな気がしています。
人がしてくれたことに自分の分身がしたんだと感謝の気持ちが減ったり、人の反応を自分のバロメーターに利用したり。
同じく、『赦し』という概念を知ったかぶることも、罪を犯した際に自分は赦されるべき存在なんだと尊大になりそうな危惧があります。
湧き上がる『自惚れ』とどう向き合ったら宜しいでしょうか。 」ということです。



他者が単なる自分の投影する幻影にすぎないというのが結論ではなく、自分も他者も小説や映画の登場人物のようなものにすぎないが、究極的に大いなる自己が仮面をつけた存在として他者は自分自身であるということでした。

ですので、他者が自分の投影だから自惚れるというのは、たしかにおっしゃるように「中途半端」といえるかもれません。

自分も他人も、小説の登場人物のような幻の存在に過ぎないなら(小さな自己のレベル)、そして、他者が究極的に自分自身であるなら(大いなる自己のレベル)、他者と自分を比べてどちらが優って劣っているとかいう発想は出てこないはずですし、自分だけでなく他者のことを尊重する気持ちが湧いてくると思います。
これが、「他人なんて本当はいない!?」で述べた趣旨でした。

さて、「自惚れ」というキーワードをいただいたので、今回は、真の壮大さと虚勢を張った尊大さについてのテキスト第九章の八節をまるごとご紹介したいと思います。

自惚れと自信喪失で、温度計のように気分が上下に行ったり来たりするのは苦しいものです。

個人(エゴ)の自己承認欲求というものは、根源的な強さを持っています。

マズローの欲求段階の分類では、1生理的欲求、2安全欲求、3所属と愛の欲求、4承認欲求、5自己実現欲求の5段階とその上に6自己超越欲求を置きます(1~4は欠乏欲求とまとめられます)。

もっとも、私たちの欲求は、このように、低次の生理的・本能的な欲求からきれいに順番になって生じるわけではありません。
むしろ、武士は喰わねど高楊枝ではないですが、人は自分が承認してもらえるのであれば、いくらでも低次の欲求をセーブすることができます。

中には、犠牲的な行為による美名で自分が承認されるのであれば、命すら差し出そうとすることすら、そう稀なことでも意外なことでもありません。

それほどまでに、自分を承認したい、他者から承認されたいという欲求は根源的な強烈さを持っています。

奇跡のコースは、高次の心理的な欲求だけでなく、生物としての生存本能のような本能的欲望も、エゴの自己承認欲求に起源をもつと言います。

エゴがこのように自分を承認したいという欲求を強く持つのは、中身が空っぽの幻であればこそです。
それゆえに、エゴは欠乏の原理を信奉します。

誰しも自分が本当に持っていることが明らかなものを、あえて求めるということはありません。
何かを求めて権利を主張するということは、自分がそれを持っていることが確信できないからこそです。

空気は満ち溢れているので、誰も空気を吸う権利を主張したりしません。

何かを欲しくなるのは、それが自分には欠けているから、外部からそれを「手に入れ」なければ自分は完全にはならないと信じるからです。

自分の存在を承認したい、承認されたいと欲求が湧き起こるということは、自分が確かに存在するということについて確信が持てず、何かが欠落していると感じているということです。

エゴは、その起源からして、幻であるゆえに、真の自信を持つことができません。

エゴは、光に照らされると、夏の暑い地面に触れた瞬間に蒸発してしまう水滴のような儚い闇の存在です。

聖霊がひとつだけなのに対して、エゴは多数です。

本物である聖霊(神の働き・機能)に対して、神の子(神の現れ)の夢から生み出された幻に過ぎないエゴがまともに立ち向かっても勝負になりません。

そこで、エゴの戦略は、数を頼みにして、神の壮大さに取って代わる偽物の尊大さを作り出し、神の壮大さに個別の心の目が向かないように仕向けると同時に、他方で、幻にすぎず、取るに足りない実際のエゴの矮小さを多くの個別の心に意識させることによって、心が自惚れと絶望の両極の間を振り子のように行ったり来たり揺れつづけるようにさせることです。

エゴにとっては、幻想の世界が存続して生き永らえることさえできれば、自分たちの一部がどうなろうと知ったことではありません。一部を犠牲にしてでも生き延びるために数を頼みにしているのです。

この点で、リアリティ・トランサーフィンで、ヴァジム・ゼランドさんが述べる「振り子」という概念が参考になります。

「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択
(2006/12)
ヴァジム ゼランド

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振り子」は、同じ方向で物事を考える人々の集まりが形成するエネルギー情報体を指し、このエネルギー情報体はひとりでに成長を始め、人々を自分の決まりに従わせて、人々は、自分でも知らないうちに振り子の利益のために行動するようになるという概念です。
自分よりも会社の利益を優先する会社人間にとっての会社も「振り子」といえます。特定のイデオロギーや宗教もそうです。
コースで言うエゴの働きを身体から切り離して独立させたような概念で、個々の心に巣食う以前に、世界の中に観念的に存在するエゴの作用・働きのようなものを指します。

この振り子は、集団的なエゴの中に個々の心を巻き込んで統制する働きです。
確かに、団体的なエゴ、業界エゴや国家エゴとうものは観念でき、いったん人が集まって団体となると、個々人の意志を越えた団体自体が生き物のように動きはじめ、団体自体の利益を最優先で構成員をコントロールし搾取するということがあります。

この幻想世界自体が、振り子の究極の親玉といえるかもしれません。


このようにして、エゴは、実際には構成しているのは、ちっぽけな幻に過ぎないけれど、統制された軍勢となることで、小さな魚が群れとなって、巨大な魚であるように見せかけて、サメを威嚇して、勘違いしたサメを追い払おうとするように、精いっぱいのはったりをかまします。



この振り子は、いかにも、構成員の個別エゴに関心を持って気遣いするような姿勢を見せて懐柔しはしても、構成員である個々のエゴの運命などには関心を持ちません。

個々のエゴには、アメとムチで、競わせて、振り子の利益になるようにコントロールします。

エゴは、振り子が与えてくれる集団的な承認欲求の充足を得るためであれば、なんでもするし、他のエゴはライバルでしかありません。

エゴにとっては、振り子の掲げる理念や目標は清らかで壮大なものに見えていますが、実のところ、そんな理念は世俗的な団体エゴのドロドロした欲望をきれいな美名で飾った尊大な偽善・欺瞞でしかありません。

「7. The ego literally lives by comparisons.
エゴは、文字どおり比較することによって生きています。

 Equality is beyond its grasp, and charity becomes impossible.
 平等であることは、エゴの理解の及ばない概念です。ゆえに、エゴが思いやり深くなることなど不可能なことです。

 The ego never gives out of abundance, because it was made as a substitute for it.
 エゴは、決して豊かさで満ち足りているとの思いから与えることはありません。なぜなら、エゴは豊かさの代用として作り出されたものだからです。

 That is why the concept of 'getting' arose in the ego's thought system.
 この理由から、「手に入れる」という概念がエゴの思考システムの中に生じたのです。

 Appetites are 'getting' mechanisms, representing the ego's need to confirm itself.
 本能的な欲望は「手に入れる」ためのメカニズムであり、自分自身を承認したいというエゴの欲求を表しています。

 This is as true of body appetites as it is of the so-called 'higher ego needs'.
 この自分を承認したいとのエゴの欲求は、いわゆる「高次の自我の心理的欲求」についてと同じように、肉体的な本能的欲求についても当てはまります。

 Body appetites are not physical in origin.
 肉体の本能的欲求は物質的なものがその根源ではないのです。

 The ego regards the body as its home, and tries to satisfy itself through the body.
 エゴは身体を自らの住み処と見なしており、その身体を通して自らを満足させようとしています。

 But the idea that this is possible is a decision of the mind, which has become completely confused about what is really possible.
 とはいえ、本当にエゴが身体を通して満足を得ることが可能であると考えるかどうかは心が決めることです。しかし、当の心は、何が本当に可能なのかまったく混同してしまっているのです。」(テキスト 第四章 二 エゴと間違った自律)

この世界が幻想で、登場人物であるエゴ・身体は自分も含めて同じく幻だとすれば、この世界で自分が壮大な存在であると承認しようと思っても、幻による裏づけしかしようがなく、嘘偽りに基礎を置いた尊大さしか得ることができません。

この世界の中のどんな権威のある振り子が公認してくれようとも、このことに変わりはありません。

この世界の何かに依存しての自信でしかないので、どれほど自信にあふれているように見えても、条件つきのものにすぎません。

ある人は、類まれな容姿によって、ある人は莫大な資産に、ある人は、社会的に高い地位にあることによって、自信を抱きます。歴史上には、覇者として栄耀栄華を極め、自分では揺ぎ無い自信を得て、もう失うことはないと信じ込んだエゴもいたはずです。

それでも、そんな自信は、幻の世界の中の幻に基礎を置くものでしかありません。
加齢による容姿の衰えや投資の失敗による資産の喪失、部下の失策の責任を取らされての失墜等で自信の根拠となっていた幻が消えてしまうや、それまでのぎらつくほどの自信は、180度向きを変えて、絶望へと切り替わります。

どれだけ強固に王権を固めても、盟友であったはずの身体の死が残酷にもエゴの許を訪れます。

かつて王者として威風堂々の威厳を備えていたその人は、失うには惜しいと執着する幻がありすぎて、生にしがみつく哀れな老人でしかないでしょう。

幻に基礎づく自信の成り行きなどこんなものでしかありえないでしょう。人類の歴史自体が教えてくれています。

とはいえ、「絶望」するには及びません。

個別の心の中には、聖霊がいます。聖霊に従うことで、神の壮大さに気づき、そして、本当の自分が神の子である大いなる自己であることに気づくことができます。

この気づきによる自己承認は、幻による錯覚ではありません。無数の軍勢で、無限のバリエーションのあるエゴや振り子のばらばらの評価とは違って、たったひとつの聖霊の評価は、常に変わることのない確固たるものです。

この壮大さに気づかない限りは、どれほど国から勲章をもらおうが、大宗教からのお墨つきを得ようとも、世間から本物として賞賛されようとも、当人の心は、風見鶏のように、世界の風に揺られてはぐらぐら高慢と自信喪失を行ったり来たりするだけです。

壮大さと尊大さは、二文字目が「う」と「ん」が違うだけですが、意味はうんと異なります。

壮大であることは、実体があり、それ自体がすばらしさを備えているものです。神は壮大です。

エゴは、幻であり、中身の何にもない空っぽの実体のないものです。
エゴは、壮大さのかけらも備えてはいません。

私たち個別の心は、神の壮大さに直面すると、エゴと神のどちらを選ぶか迫られることになります。

神を選択されると、私たちはエゴに注ぎ込んできた投資をすべて引き上げるようになってしまうので、エゴは、全エネルギーを総動員して必死になって攻撃して抵抗します。

とはいえ、エゴが壮大さに対抗しようにも、本物と幻であり、まともにぶつかっても勝ち目はありません。

ライオン

だからこそ、エゴは、矮小な自分を大きく見せようと虚勢を張って、私たち個別の心を脅したりすかしたり、説き伏せたりしながら、騙すことを画策するしかありません。

実体のないエゴの中心には何もありませんが、何重にも甲冑を重ね着して、いかにも重厚な自分が存在するように見せかけようとします。

自分の矮小さを意識しているときのエゴは、いつ攻撃されるのかと恐れてビクついていますが、甲冑を重ね着して、自分が壮大な存在だと勘違いして思い上がると、矮小さは反転して尊大さに変わります。

「エゴは、壮大さと尊大さの間の相違を理解できません。なぜなら、エゴは、奇跡の衝動と、エゴ自身が抱くエゴには不相応な信念との間に、何の相違も見ることができないからです。」(テキスト 第九章 八 3.)


自らの矮小さへの絶望と尊大さによる自惚れで、エゴに取りつかれた心は、行ったり来たりです。
幻であるエゴには内部に芯がありません。張りぼての姿は内側からに空っぽの空気が詰まっているにすぎません。エゴには、内側からの支えがないので、他者の評価でしか自らの価値を推し量ることができません。自己評価は、すべて、外から取り込んだものでしかありません。

外の他者からの称賛の声は、エゴの張りぼて、風船に空気を注入し、膨張させます。

他者からの批判や非難の声は、風船に突き刺さる容赦のない針です。膨らんでいた風船は一気にしぼんでしまいます。

そのせいで、エゴは、人の顔色を窺っては、いい顔をみせようと、エゴ自身が仮面なのに、さらに別の仮面を被って、右往左往し、個別の心を極度に疲労させます。

尊大さによる自惚れと矮小さへの絶望、自己卑下は、コインの両面です。





これに対して、神の壮大さは、中味勝負です。

そもそも本物であるので、外部を重厚に見せかけて着飾る必要もなければ、謙遜する必要もありません。

また、だれかの評価によって、その真価が変わることはありえないので、毀誉褒貶から完全に解放されています。

どんな歯の浮くようなおべんちゃらの嵐にさらされようが、ナイフのような非難の言葉の切っ先を無数に突き立てられようが、どこ吹く風です。

幻が何を仕掛けてこようとも、所詮、幻にすぎないので、相手にする必要がないのです。

攻撃の手段がどんなに苛烈でも、関係ありません。マシンガンであろうが、核爆弾であろうが、ウィルスであろうが、幻によって攻撃されることができるのは幻でしかなく、真理は無傷のまんまであるということが分かっているので、壮大さは、誰かの顔色や攻撃に一喜一憂する必要がありません。

でも、神が壮大であるということはわかるけれど、自分が壮大だとは思えないというのが人情です。

これに対して、コースは、そのように思うことこそ、傲慢だと言います。

「 神が創造したままに自分自身を受け入れるために、あなたは傲慢でいることなどできません。なぜなら、あなたの価値を受け入れることは、傲慢さを否定することだからです。
 あなたを矮小なものとして受け入れることのほうこそ、傲慢なことです。なぜなら、あなたを矮小なものとして受け入れることは、あなたの自分自身についての評価の方が神の評価よりも正しいとあなたが信じていることを意味するからです。
しかし、真理が分割不能なものであるとすれば、あなた自身についてのあなたの評価は、神についての評価でもあるに違いありません。
 あなたが、自分の価値を確立したのではありません。そして、あなたの価値はいかなる防衛も必要とはしません。
 何ものもあなたの価値を攻撃することなどできません。同じく、あなたの価値に勝るものなど何ひとつとしてありません。」(テキスト 第九章 八)


自分の自己評価のほうが神の評価よりも正しいと信じるということは傲慢だというのは、説得的ではないでしょうか。
こんな傲慢さは捨て去らなければなりません。

とはいえ、自分が神と同じ壮大な存在だと思うことは思い上がりであるようにどうしても思えてしまう、謙虚であることも大切なように感じるというのも、わかります。
では、謙虚にしているつもりが傲慢になってしまうという、このパラドックスはどうすれば解消できるでしょうか。

汝自身を知れ」という言葉がここで重要になります。

エゴに従う際に知る必要のある自己とは、個別の心としての小さな自己としての分限を弁えよというような趣旨でした。これに対して、聖霊に従うに際して知る必要のある自己は、神の子としての大いなる自己ということでした。

この幻想の世界にたくさんの登場人物がいますが、自分も含めて他者もみんな、小さな自己として一様に、エゴ・身体という映画のキャラクターとして幻にすぎない、そうではあるけれども、エゴに同一化している個別の心が統合した大いなる心こそが神の子としての本当の自己である、ということに気づく(思い出す)ことによって、傲慢さは解消されることになるように思います。

だって、他人に見えている誰かも、自分と思い込んでいるこのエゴ・身体も、同じように幻想世界の中でプレイするためのマリオのようなキャラクターにすぎないとすれば、自分の見る人生映画の中で、どうみても自分のキャラが主役を張っているように見えないとしても、そんなにへこむような事態ではないはずです。

むしろ、配られたカードや牌が悪いと言って、ゲームを降りるよりも、それを受け入れて、自分の配牌を生かしたゲームをすることによって、ゲームは楽しくなります。

端役にしか見えない役を一生懸命演じつづけていると、味が出て、名脇役としての誉れを味わうことができるかもしれません。

この小さな自己を知り、自分の持ち味を生かし切ることを仏教では全機ないし全機現という言葉で表現するようです(正法眼蔵)。

この全機が達成されると、神が最後の一歩を取ってくれて、知識のほうから流れ込んできてくれることになり、聖霊に従って知る必要のある大いなる自己としての自覚を得ることになるのだと思います。




奇跡のコース テキスト 第九章

VIII Grandeur versus Grandiosity
八 壮大さ 対 尊大さ


1. Grandeur is of God, and only of him.
 壮大さは神に由来するものです。それもただ神だけから来るものです。

 Therefore it is in you.
 したがって、壮大さはあなたの中にあります。

 Whenever you become aware of it, however dimly, you abandon the ego automatically, because in the presence of the grandeur of God the meaninglessness of the ego becomes perfectly apparent.
 たとえぼんやりとではあっても、あなたが自分の中の壮大さに気づくようになるたびに、あなたは自動的にエゴを放棄することになります。なぜなら、神の壮大さを前にしては、エゴが無意味であることが完全に明瞭になるからです。

 When this occurs, even though it does not understand it, the ego believes that its "enemy" has struck, and attempts to offer gifts to induce you to return to its "protection."
 壮大さによってエゴの無意味さが明らかにされると、たとえエゴにはそれが何事か理解できないにしても、エゴは、自分の「敵」が襲ってきたものと信じます。そして、エゴの「保護」下へと、あなたが戻ってくる気になってくれるようにと贈り物を差し出そうとします。

 Self-inflation is of the ego is its alternative to the grandeur of God.
 自惚れは、神の壮大さの代用としてエゴがあなたに差し出すものです。

 Which will you choose?
 あなたは尊大さと壮大さのどちらを選ぶのでしょうか。


名称未設定


2. Grandiosity is always a cover for despair.
 尊大になるのは、必ず絶望感を覆い隠すためです。

 It is without hope because it is not real.
 尊大さに希望はありません。なぜなら、尊大さは本物ではないからです。

 It is an attempt to counteract your littleness, based on the belief that the littleness is real.
 尊大になるのは、矮小さというものが本当にあると信じることを基礎にして、あなたの矮小さを打ち消そうとする試みです。

 Without this belief grandiosity is meaningless, and you could not possibly want it.
 自分が矮小なものだという信念ながなければ、尊大になることは無意味だし、どのようにしたところで、あなたは尊大になりたいと望むはずがありません。

 The essence of grandiosity is competitiveness, because it always involves attack.
 尊大さの本質は対抗意識です。なぜなら、尊大になることには必ず攻撃が伴うからです。

 It is a delusional attempt to outdo, but not to undo.
 尊大になるのは、誰かを出し抜こうとする妄想的な試みですが、妄想を取り消そうとすることではありません。

 We said before that the ego vacillates between suspiciousness and viciousness.
 前にも述べましたが、エゴは疑り深さと悪意の間で、いつも揺れ動いています。

 It remains suspicious as long as you despair of yourself.
 あなたが自分自身に絶望している間は、エゴは疑り深いままです。

 It shifts to viciousness when you decide not to tolerate self-abasement and seek relief.
 あなたが自分を卑下することに我慢しきれなくなって楽になりたいと決意するとき、エゴは悪意へと変節します。

 Then it offers you the illusion of attack as a "solution. "
 それから、エゴはあなたに「解決策」として、攻撃という幻想を提案します。




3. The ego does not understand the difference between grandeur and grandiosity, because it sees no difference between miracle impulses and ego-alien beliefs of its own.
 エゴは、壮大さと尊大さの間の相違を理解できません。なぜなら、エゴには、奇跡の衝動とエゴ自身が抱くエゴには不相応な信念との間に、何の見分けもつかないからです。

 I told you that the ego is aware of threat to its existence, but makes no distinctions between these two very different kinds of threat.
 すでに述べましたが、エゴは自らの存在に対する脅威に気づいてはいますが、このような非常に異る二種類の脅威さえ区別できないのです。

 Its profound sense of vulnerability renders it incapable of judgment except in terms of attack.
 深刻に自らの脆弱さを意識しているせいで、エゴは攻撃という観点でしか物事の価値を判断できなくなっています。

 When the ego experiences threat, its only decision is whether to attack now or to withdraw to attack later.
 エゴが脅威を感じるとき、エゴが唯一決定することといえば、今すぐ攻撃するか、それとも、あとから攻撃するためにいったん退却するか、そのいずれかでしかありません。

 If you accept its offer of grandiosity it will attack immediately.
 もしあなたがエゴの差し出す尊大さを受け入れるなら、エゴは即座に攻撃するでしょう。

 If you do not, it will wait.
 もしあなたが尊大さを受け入れないなら、エゴはあなたが受け入れるのを待つことになります。

名称未設定


4. The ego is immobilized in the presence of God's grandeur, because his grandeur establishes your freedom.
 エゴは、神の壮大さを前にしては、身動きも取れなくなります。なぜなら、神の壮大さがあなたの自由を確かなものにするからです。

 Even the faintest hint of your reality literally drives the ego from your mind, because you will give up all investment in it.
 たとえほんのかすかに、あなたの本当の姿について仄めかすだけであっても、それは文字どおり、エゴをあなたの心から追い立てることになります。それは、あなたがエゴに期待して注ぎ込んでいた投資をすべて手放すようになるからです。

 Grandeur is totally without illusions, and because it is real it is compellingly convincing.
 壮大さは完全に幻想とは無縁です。そして、壮大さは真実であるがゆえに、壮大さには抗いがたい説得力があります。

 Yet the conviction of reality will not remain with you unless you do not allow the ego to attack it.
 しかし、あなたがエゴに壮大さを攻撃させないでおくようにしなければ、あなたは壮大さこそが現実であるとの確信を保ち続けることができなくなってしまいます。

 The ego will make every effort to recover and mobilize its energies against your release.
 エゴは、挽回するために全精力を注ぎ込み、あなたの解放を阻止しようとして持てるエネルギーを総動員します。

 It will tell you that you are insane, and argue that grandeur cannot be a real part of you because of the littleness in which it believes.
 エゴは、あなたは狂気に陥っていると告げ、エゴが信じるあなたの矮小さを根拠にして、壮大さが本当にあなたのものであるはずがないと説き伏せようとます。

 Yet your grandeur is not delusional because you did not make it.
 しかし、あなたの壮大さは妄想ではありません。なぜなら、壮大さはあなたが作ったものではないからです。

 You made grandiosity and are afraid of it because it is a form of attack, but your grandeur is of God, who created it out of his love.
 あなたは、尊大さを作っておきながら、それを恐れています。なぜなら、尊大さは攻撃のひとつの形だからです。しかし、あなたの壮大さは神に由来するものであり、神は、壮大さを自らの愛から創造したのです。




5. From your grandeur you can only bless, because your grandeur is your abundance.
 あなたの壮大さからは、あなたはただ祝福できるだけです。なぜなら、あなたの壮大さは、あなたが豊かさに満ち溢れていることを意味するからです。

 By blessing you hold it in your mind, protecting it from illusions and keeping yourself in the Mind of God.
 祝福を与えることで、あなたは自らの壮大さをあなたの心の中に保持し、自らの壮大さを幻想から守り、あなた自身を神の大いなる心の中に留めることになります。

 Remember always that you cannot be anywhere except in the Mind of God.
 あなたは神の大いなる心の中以外のどこにも居ることなどできないのだと、つねに思い出すようにしてください。

 When you forget this, you will despair and you will attack.
 あなたがこのことを忘れると、あなたは絶望し、攻撃することになってしまうでしょう。

名称未設定



6. The ego depends solely on your willingness to tolerate it.
 エゴは、もっぱらあなたがエゴを大目に見る気でいてくれることだけに依存しています。

 If you are willing to look upon your grandeur you cannot despair, and therefore you cannot want the ego.
 もしあなたが自分の壮大さをよく見てみる気があるなら、あなたが絶望することなどありえず、それゆえに、あなたにはエゴを望むことなどできないはずです。

 Your grandeur is God's answer to the ego, because it is true.
 あなたの壮大さこそ、エゴに対する神からの答えです。なぜなら、あなたが壮大な存在であることは真実だからです。

 Littleness and grandeur cannot coexist, nor is it possible for them to alternate.
 矮小さと壮大さとが共存することはできません。また、矮小さと壮大さが交替することも不可能です。

 Littleness and grandiosity can and must alternate, since both are untrue and are therefore on the same level.
 矮小さと尊大さは入れ替わりうるし、必ず入れ替わるものです。というのは、両方とも真実ではないので、それゆえ、同じレベルにあるからです。

 Being the level of shift, it is experienced as shifting and extremes are its essential characteristic.
 それは変化を伴うレベルなので、矮小さと尊大さは変化するものとして体験されます。そして、このレベルでは、極端であることがその本質的な特徴となります。




7. Truth and littleness are denials of each other because grandeur is truth.
 壮大であることこそが真理なので、真理と矮小さとは相互に排斥し合う関係にあります。

 Truth does not vacillate; it is always true.
 真理は揺らぐことがありません。真理は、つねに真実であり続けます。

 When grandeur slips away from you, you have replaced it with something you have made.
 壮大さが知らぬ間にあなたの許からこっそりと去ってしまったなら、それは、あなたが壮大さを自分で作り出した何か別のものと取り替えてしまったということです。

 Perhaps it is the belief in littleness; perhaps it is the belief in grandiosity.
 その何かとは、もしかすると矮小さを信じることだったかもしれません。もしかすると尊大さを信じることだったかもしれません。

 Yet it must be insane because it is not true.
 しかし、矮小さや尊大さを信じることは狂気の沙汰に違いありません。なぜなら、矮小さや尊大さは真実ではないからです。

 Your grandeur will never deceive you, but your illusions always will.
 あなたの壮大さがあなたを欺くことは絶対にありませんが、あなたの幻想は必ずあなたを欺きます。

 Illusions are deceptions.
 幻想とは、まやかしです。

 You cannot triumph, but you are exalted.
 あなたは何かに打ち勝つということはできません。それでも、あなたは崇高な存在なのです。

 And in your exalted state you seek others like you and rejoice with them.
 そして、あなたは自らの崇高な状態において、自分に似た者たちを探し出し、彼らと共に喜び合うのです。

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8. It is easy to distinguish grandeur from grandiosity, because love is returned and pride is not.
 壮大さを、尊大さから区別するのは容易なことです。なぜなら、愛は報われますが、自惚れが報いを受けることはないからです。

 Pride will not produce miracles, and will therefore deprive you of the true witnesses to your reality.
 自惚れは、奇跡を生み出すようにはなりません。したがって、自惚れは、あなたの本当の姿を真に証明するものを、あなたから奪ってしまいます。

 Truth is not obscure nor hidden, but its obviousness to you lies in the joy you bring to its witnesses, who show it to you.
 真理は不明瞭なものではないし、隠されてもいません。ただし、あなたにとって真理が明瞭になるかどうかは、あなたに真理を示してくれる真理の証人たちに、あなたが喜びをもたらすことにかかっています。

 They attest to your grandeur, but they cannot attest to pride because pride is not shared.
 真理の証人たちは、あなたの壮大さを証明してくれます。しかし、自惚れは共有することができないので、真理の証人たちには自惚れが本当であることを証明することはできません。

 God wants you to behold what he created because it is his joy.
 神は、神が創造したものをあなたに見つめてほしいと望んでいます。なぜなら、それこそが神の喜びだからです。




9. Can your grandeur be arrogant when God himself witnesses to it?
 あなたの壮大さを神自身が証明してくれるというのに、あなたが壮大であることが傲慢なことになりうるでしょうか。

 And what can be real that has no witnesses?
 そして、ひとりも証人がいないのに真実であるものなどありうるでしょうか。

 What good can come of it?
 それが真実であることを証す証人がひとりもいないようなものから、どんな良いものが生じうるというのでしょうか。

 And if no good can come of it the Holy Spirit cannot use it.
 そして、もしそのようなものから何も良いものなど生じえないとすれば、聖霊には、そのようなものを使うことなどできません。

 What he cannot transform to the Will of God does not exist at all.
 聖霊が神の大いなる意志へと変換できないようなものはまったく存在していないのです。

 Grandiosity is delusional, because it is used to replace your grandeur.
 尊大さは妄想です。というのも、尊大さはあなたの壮大さと置き換えられるために使われているからです。

 Yet what God has created cannot be replaced.
 しかし、神が創造したものが取り替えられることなどありえません。

 God is incomplete without you because his grandeur is total, and you cannot be missing from it.
 あなたなくしては神は不完全なままです。なぜなら、神の壮大さは全体的なものであり、神の壮大さにとって、あなたは欠かせない存在だからです。


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10. You are altogether irreplaceable in the Mind of God.
 あなたは、神の大いなる心の中で、完全に何ものにも変えがたい存在です。

 No one else can fill your part in it, and while you leave your part of it empty your eternal place merely waits for your return.
 神の心の中でのあなたの役目を埋められる者は、ほかに誰もいません。そして、あなたが自分の役目を放棄している間はずっと、空っぽになっているあなたの永遠の居場所は、ただあなたの帰りを待つばかりです。

 God, through his voice, reminds you of it, and God himself keeps your extensions safe within it.
 神は自らの声を通じて、あなたにこのことを思い出させようとしています。そして、神自ら、あなたが拡張したものを神の心の中に大切に保管してくれています。

 Yet you do not know them until you return to them.
 しかし、あなたが神の心へ戻るまでは、あなたは自分が拡張したものを知ることはありません。

 You cannot replace the Kingdom, and you cannot replace yourself.
 あなたには王国を取り替えることはできません。そして、あなたには自分自身を取り替えることもできません。

 God, Who knows your value, would not have it so, and so it is not so.
 あなたの価値を知っている神がそんなことをさせることはずがありません。だからこそ、現に王国もあなた自身も取り替えられてなどいません。

 Your value is in God's Mind, and therefore not in yours alone.
 あなたの価値は、神の大いなる心の中にあります。だから、あなたの価値は、あなたの心の中にだけあるわけではないのです。

 To accept yourself as God created you cannot be arrogance, because it is the denial of arrogance.
 自分自身を神が創造したままのものとして受け入れることが傲慢であるはずがありません。なぜなら、あなたの価値を受け入れることは傲慢さを否定することだからです。

 To accept your littleness is arrogant, because it means that you believe your evaluation of yourself is truer than God's.
 あなたを矮小なものとして受け入れることのほうこそ、傲慢なことです。なぜなら、あなたを矮小なものとして受け入れることは、あなたの自分自身についての評価のほうが神の評価よりも正しいとあなたが信じていることを意味するからです。




11. Yet if truth is indivisible, your evaluation of yourself must be God's.
 しかし、真理が分割不能なものであるとすれば、自分自身についてのあなたの評価は、神の評価でもあるに違いありません。

 You did not establish your value and it needs no defense.
 あなたが自分の価値を確立したのではありません。だから、あなたの価値はいかなる防衛も必要とはしません。

 Nothing can attack it nor prevail over it.
 何ものもあなたの価値を攻撃することはできないし、あなたの価値に勝るものも何ひとつありません。

 It does not vary.
 あなたの価値が変化することはありません。

 It merely is.
 あなたの価値はただ在るだけです。

 Ask the Holy Spirit what it is and he will tell you, but do not be afraid of his answer, because it comes from God.
 あなたの価値が何なのか聖霊に尋ねてみてください。そうすれば、聖霊はあなたに教えてくれるでしょう。しかし、聖霊の答えに恐れを抱くことはありません。なぜなら、聖霊の答えは神から来るものだからです。

 It is an exalted answer because of its Source, but the Source is true and so is Its answer.
 聖霊の答えは、その大いなる源ゆえに崇高なる答えです。ただし、その源が真実なのだから、その答えも真実なのは確かです。

 Listen and do not question what you hear, for God does not deceive.
 耳を澄まし、あなたが耳にすることを疑わないでください。なぜなら、神が欺くようなことはないからです。

 He would have you replace the ego's belief in littleness with his own exalted answer to what you are, so that you can cease to question it and know it for what it is.
 聖霊は、あなたを矮小なものと信じるエゴの信念を、本当のあなたが何者かということに対する神自身の崇高な大いなる答えに置き換えてくれるでしょう。そうなれば、あなたは自分の価値に疑問を抱くのをやめて、自分の真価をありのままに知ることができるようになるはずです。


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Comments 1

Kino

ken様いつも有難うございます。
「自惚れ」と波打つ「自信喪失」まで汲み取って諭して頂き感謝の至りです。
今自分が知覚できる最大の問題はこれで、コインの裏表もしくは同居して
支配しようと干渉されているのが解ります。
聖霊の声を聞き分けられる自分に早くなれれば良いなと強く思います。
何卒これからもご指導下さい。本当に有難うございました。

2013-06-07 (Fri) 12:23 | EDIT | REPLY |   

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