T15-6 神聖な瞬間と神の法


My main point is that when you have known - I mean intimately known - the embracing presence of God, His love rubs off on you and you can't help seeing everyone through His eyes.
私が言わんとする要点はこうです。あなたが神の臨在に抱擁されていることを知ったなら、それも心の奥底から知ったなら、神の愛があなたを消し去ってしまうので、あなたはすべての人たちを神の目を通して見ることしかできなくなるということです。

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Eleze "Lisa" Thomas-McMillan
エリーズ・「リサ」・トマス・マクミラン





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今回はテキスト第十五章から神聖な瞬間と神の法という一節をご紹介します。



T7-2 神の法レッスン344「今日、私は愛の法を学ぶ。それは、私が自分の兄弟に与えるものは自分に対する私からの贈り物だということだ」を参考にしてください。

この世界では、「自分の拡張するものが自分にとっての現実となる」という神の法は、「自分の投影するものを自分は信じる」というエゴの法則に変容しています。

投影とは、光を透過する部分と透過しない部分とで陰影をつけて光と影をスクリーンに投じる作用です。

実在するのは、光である愛や真理や生命ですが、分離や罪というエゴのスライドを通すことで、本当は実在するものの不在でしかない恐れや虚構、物質や死が実在するように見えるようになり、それが信じられるようになります。

そして、実在するものは光と同じ性質を持つので、光源から別の場所に去ってしまうということはなく、元の場所から外に向けて拡張することしかできません。

従って、実在するものを与えることによって、与えた元から与えたものが減るということはなく、尽きることなく無限に供給されるということになるので、分かち合えば分かち合うほど増えてゆくことになります。


これに対して、実在するものの不在である影は、文字どおり何もない状態なわけですから、与えることも分かち合うこともできません。

できるのは、不在の状態に姿かたちを与えて名前をつけて概念化、象徴化して、象徴を操作することだけです。

象徴が表している元の状態は実在の不在つまり無なので、象徴を今あるところから別のところに移すことは、象徴だけを移すことになります。


つまり、象徴を与えることは、今持っている者がその象徴を失い、他者がそれを得ることになるだけで、実在するもののように、それを分かち合うことは不可能です。

神聖な瞬間は、実在するのは光であり生命である愛だけであることに気づき、自分や他者、世界の中にあるのも愛だけであることを実感する瞬間です。





5.「The holy instant thus becomes a lesson in how to hold all of your brothers in your mind, experiencing not loss but completion.
 したがって、神聖な瞬間は、喪失ではなく完成を経験しながら、あなたの兄弟全員をいかにしてあなたの心の中に保持するかを学ぶレッスンとなります。

 From this it follows you can only give.
 これを学んだなら、あなたはただ与えることしかできなくなります。

 And this is love, for this alone is natural under the laws of God.
 そして、これがまさしく愛なのです。なぜなら、ただ与えることだけが神の法の下において自然なことだからです。」

逆に言えば、与えることで失ってしまうようなものは、実在しないこの世限りの無価値なものだということになります。

つまり、実在するものは与えても失わず増大するのだし、実在しないものは与えることで実在しないとわかり無価値なものと縁切りできるわけですから、いずれにせよ、与えることで損はしない、与えることは得にしかならない、ということになります。



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テキスト第15章

VI. The Holy Instant and the Laws of God
六 神聖な瞬間と神の法



1. It is impossible to use one relationship at the expense of another and not to suffer guilt.
 別の関係を犠牲にしてある関係を利用しておきながら、罪悪感に苛まれずにいることは不可能です。

 And it is equally impossible to condemn part of a relationship and find peace within it.
 そして、同じように、ある関係の一部を非難しておきながら、その関係の中に平安を見出すことも不可能です。

 Under the Holy Spirit's teaching all relationships are seen as total commitments, yet they do not conflict with one another in any way.
 聖霊の教えの下では、すべての関係は全面的に心を捧げて関わるものとみなされますが、それらの関係同士は少しも矛盾することはありません。

 Perfect faith in each one, for its ability to satisfy you completely, arises only from perfect faith in yourself.
 あなたは自分自身に完璧な信頼を抱くことによってのみ、すべての関係を完璧に信頼できるようになります。というのも、すべての関係性は、あなたを完全に満足させる能力を備えているからです。

 And this you cannot have while guilt remains.
 しかし、罪悪感が残っているかぎり、あなたはこのような完璧な信頼を抱くことはできません。

 And there will be guilt as long as you accept the possibility, and cherish it, that you can make a brother into what he is not, because you would have him so.
 そして、自分が兄弟を本来とは違う存在にしたいからといって、自分には兄弟を本来とは違う存在に作り変えられる見込みがあるとみなして、そのような思いを抱いているかぎり、罪悪感は残ったままになるでしょう。



2. You have so little faith in yourself because you are unwilling to accept the fact that perfect love is in you.
 あなたがそんなにも自分自身を信頼できずにいるのは、あなたが自分の中に完璧な愛があるという事実を受け入れる気になれずにいるからです。

 And so you seek without for what you cannot find without.
 そのために、あなたは自分の外側には見つからないものを外側に探すことになります。

 I offer you my perfect faith in you, in place of all your doubts.
 あなたが抱くどんな疑念にも置き換わるように、私があなたに寄せる完璧な信頼をあなたに渡してあげましょう。

 But forget not that my faith must be as perfect in all your brothers as it is in you, or it would be a limited gift to you.
 しかし、私があなたを完璧に信頼しているように、あなたの兄弟たち全員に対する私の信頼も完璧なものに違いないことを忘れないでください。そうでなければ、私の信頼はあなただけに限られた贈り物になってしまいます。

 In the holy instant we share our faith in God's Son because we recognize, together, that he is wholly worthy of it, and in our appreciation of his worth we cannot doubt his holiness.
 神聖な瞬間において、私たちは神の子への信頼を共有します。なぜなら、私たちは一緒に、神の子は私たちが信頼を置くにまったくふさわしいと認め、私たちが神の子の真価を認めるので、私たちには神の子の神聖さを疑うことなどできないからです。

 And so we love him.
 だからこそ、私たちはその神の子を愛するのです。

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3. All separation vanishes as holiness is shared.
 神聖さが共有されるようになれば、すべての分離は消滅します。

 For holiness is power, and by sharing it, it gains in strength.
 なぜなら、神聖さは力であり、神聖さを共有することで、神聖さはより力強さを増すからです。

 If you seek for satisfaction in gratifying your needs as you perceive them, you must believe that strength comes from another, and what you gain he loses.
 もしあなたが自分の必要性を自分が必要だと知覚する通りに満たすことで満足しようとするなら、あなたは力が他者からやってくるものであり、あなたが得るものをその人は失うことになると信じてしまうでしょう。

 Someone must always lose if you perceive yourself as weak.
 もしあなたが自分自身を弱いものとして知覚するなら、必ず誰かが失う羽目になります。

 Yet there is another interpretation of relationships that transcends the concept of loss of power completely.
 しかし、関係性について別の解釈の仕方があり、その解釈によると、力を喪失するという概念は完全に無意味になります。



4. You do not find it difficult to believe that when another calls on God for love, your call remains as strong.
 ほかの誰かが神に愛を求めて呼びかけても自分の求めは強いまま変わらないことであれば、そう信じるのが難しいとあなたは思いません。

 Nor do you think that when God answers him, your hope of answer is diminished.
 また、神がその人の求めに答えたとしても、自分が神から答えてもらえる望みが減ってしまうともあなたは思いません。

 On the contrary, you are more inclined to regard his success as witness to the possibility of yours.
 それどころか、むしろあなたは、彼が成功したということは、自分も神に答えてもらえる見込みがある証拠だとみなすはずです。

 That is because you recognize, however dimly, that God is an idea, and so your faith in Him is strengthened by sharing.
 それはなぜかといえば、おぼろげにではあっても、神は想念なので、共有することによって神に対する自分の信頼がよりいっそう強まることにあなたは感づいているからです。

 What you find difficult to accept is the fact that, like your Father, you are an idea.
 あなたにとって受け入れがたいのは、あなたの大いなる父と同じように、あなたも想念のひとつなのだという事実です。

 And like Him, you can give yourself completely, wholly without loss and only with gain.
 しかし、あなたは想念なので、大いなる父と同じように、あなたは自分自身を完全に与えきりながらも、まったく何も喪失することなく、ただ得るばかりでいることができるのです。

 Herein lies peace, for here there is no conflict.
 この考えには何の矛盾も葛藤もないので、このことに気づけば平安が得られます。

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5. In the world of scarcity, love has no meaning and peace is impossible.
 欠乏の世界では、愛は何の意味も持たず、平安はありえません。

 For gain and loss are both accepted, and so no one is aware that perfect love is in him.
 なぜなら、欠乏の世界では獲得と喪失がともに当然の前提となっているために、誰も自分の中に完全な愛があることに気づかないからです。

 In the holy instant you recognize the idea of love in you, and unite this idea with the Mind that thought it, and could not relinquish it.
 神聖な瞬間において、あなたは自分の中に愛の想念を認識し、そして、この想念を、それを思考し、それを放棄したはずのない大いなる心とひとつに結びつけます。

 By holding it within itself, there is no loss.
 愛の想念をその想念自体の中に保つなら、何も失われることはありません。

 The holy instant thus becomes a lesson in how to hold all of your brothers in your mind, experiencing not loss but completion.
 したがって、神聖な瞬間は、兄弟全員を自分の心の中でどう位置づければ、喪失ではなく完成を体験することができるかを学ぶレッスンとなります。

 From this it follows you can only give.
 これを学んだなら、あなたはただ与えることしかできなくなります。

 And this is love, for this alone is natural under the laws of God.
 そして、これがまさしく愛なのです。なぜなら、ただ与えることだけが神の法の下で唯一自然なことだからです。

 In the holy instant the laws of God prevail, and only they have meaning.
 神聖な瞬間においては、神の法が行き渡り、ただ神の法だけが意味を持ちます。

 The laws of this world cease to hold any meaning at all.
 この世界の法則は完全に意味を喪失してしまいます。

 When the Son of God accepts the laws of God as what he gladly wills, it is impossible that he be bound, or limited in any way.
 神の子が神の法を自分が喜んで望むものとして受け入れるなら、神の子が何ものかに束縛されたり、制限されたりすることはまったく不可能になります。

 In that instant he is as free as God would have him be.
 その瞬間、神の子は、神が神の子をそうあらしめようと意図した通りに自由になります。

 For the instant he refuses to be bound, he is not bound.
 なぜなら、神の子が束縛されることを拒否した瞬間、神の子は束縛を解かれているからです。



6. In the holy instant nothing happens that has not always been.
 神聖な瞬間には、つねにそうであったこととは違う何かが起こるわけではありません。

 Only the veil that has been drawn across reality is lifted.
 ただそれまで事実を覆い隠していたヴェールが引き上げられるだけです。

 Nothing has changed.
 何ひとつ変わってはいません。

 Yet the awareness of changelessness comes swiftly as the veil of time is pushed aside.
 しかし、時間というヴェールが脇に押しやられたとたん、何も変わらないことへの気づきがすぐさま訪れます。

 No one who has not yet experienced the lifting of the veil, and felt himself drawn irresistibly into the light behind it, can have faith in love without fear.
 誰であれ、そのヴェールが引き上げられ、ヴェールの背後に隠されていた光の中に抵抗しきれないほどに引き寄せられる感覚をまだ経験したことがない者は、恐れを伴わずには愛を信頼することができません。

 Yet the Holy Spirit gives you this faith, because He offered it to me and I accepted it.
 しかし、聖霊がこの信頼をあなたに与えてくれます。なぜなら、聖霊は私にそれを差し延べてくれ、私はそれを受け入れたからです。

 Fear not the holy instant will be denied you, for I denied it not.
 自分には神聖な瞬間が与えてもらえないのではないかと恐れることはありません。なぜなら、私が神聖な瞬間を拒絶しなかったからです。

 And through me the Holy Spirit gives it unto you, as you will give it.
 あなたが神聖な瞬間を与えるようになれば、聖霊が私を通して、神聖な瞬間をあなたに与えてくれます。

 Let no need you perceive obscure your need of this.
 あなたが知覚するどんな必要性にも、あなたがこの神聖な瞬間を必要としていることを覆い隠させてはなりません。

 For in the holy instant you will recognize the only need the Sons of God share equally, and by this recognition you will join with me in offering what is needed.
 というのは、神聖な瞬間において、あなたは神の子らが平等に共有するただひとつの必要性を認識し、この認識によって、あなたは私とひとつに結びついて、必要とされるものを差し延べることになるからです。

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7. It is through us that peace will come.
 平安は、あなたと私を通じて訪れます。

 Join me in the idea of peace, for in ideas minds can communicate.
 私と心をひとつにして平安の想念を抱いてください。なぜなら、想念によって心と心はコミュニケーションをとることができるからです。

 If you would give yourself as your Father gives His Self, you will learn to understand Selfhood.
 もしあなたが父が自身の大いなる自己を与えてくれるようにあなた自身を捧げるようになれば、あなたは本当の自己が何なのか理解できるようになるでしょう。

 And therein is love's meaning understood.
 大いなる自己を理解することで、愛の意味が理解できます。

 But remember that understanding is of the mind, and only of the mind.
 しかし、理解は心の働きであって、それもただ心だけに属することを忘れてはなりません。

 Knowledge is therefore of the mind, and its conditions are in the mind with it.
 したがって、知識は心に属し、知識の条件は知識と一緒に心の中にあるのです。

 If you were not an idea, and nothing but an idea, you could not be in full communication with all that ever was.
 もしあなたが想念ではなく、それも、ただ想念のみであるのでなかったなら、あなたは存在しえたいかなるものとも満足にコミュニケーションをとれなかったはずです。

 Yet as long as you prefer to be something else, or would attempt to be nothing else and something else together, you will not remember the language of communication, which you know perfectly.
 しかし、あなたが想念以外の何か別のものになることを選んだり、想念であると同時に想念以外の別の何かになろうとしたりするかぎり、あなたはコミュニケーションを図るための伝達手段を思い出すことができないでしょう。それでも、本当は、あなたはその伝達手段を完璧に知っているのです。



8. In the holy instant God is remembered, and the language of communication with all your brothers is remembered with Him.
 神聖な瞬間において、神は思い出されます。そして、兄弟全員とコミュニケーションを図るための伝達手段も神と一緒に思い出されます。

 For communication is remembered together, as is truth.
 というのも、真理がそうであるように、コミュニケーションもあなたの兄弟全員と一緒に思い出されるものだからです。

 There is no exclusion in the holy instant because the past is gone, and with it goes the whole basis for exclusion.
 神聖な瞬間から除外されるものは何もありません。なぜなら、過去は去っており、全面的に排除の基盤は過去と一緒に去っているからです。

 Without its source exclusion vanishes.
 その源がなければ、排除もなくなります。

 And this permits your Source, and that of all your brothers, to replace it in your awareness.
 そして、排除の源がなくなったことで、あなたと兄弟みんなの大いなる源である存在が排除の源に取って代わるのをあなたは自覚できるようになります。

 God and the power of God will take Their rightful place in you, and you will experience the full communication of ideas.
 神と神の力があなたの中で正しい位置に就き、あなたは想念同士の完全なコミュニケーションを経験するでしょう。

 Through your ability to do this you will learn what you must be, for you will begin to understand what your Creator is, and what His creation is along with Him.
 この想念同士の完全なコミュニケーションを経験できる自らの能力を通して、あなたは自分が何者であるに違いないか学ぶでしょう。なぜなら、あなたは自分の創造主が何であるか理解しはじめ、そして創造主を理解することで、創造主の創造したものが何であるか理解するようになるからです。


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Kino
2014/08/21 (Thu) 14:09

05

kenさん、いつもメッセージを与えてくれて有難うございます。自分とその拡張たる他者や世界を認め受け入れることが、自分を救う道であること、ときどきではありますが以前より自己を捉える視野が変わり実感を伴うときがあります。私も何かを与えていける人になっていきたいので、これからもゆっくりとシェアさせてください!

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 ken
2014/08/21 (Thu) 20:33

Re: 05

> kenさん、いつもメッセージを与えてくれて有難うございます。自分とその拡張たる他者や世界を認め受け入れることが、自分を救う道であること、ときどきではありますが以前より自己を捉える視野が変わり実感を伴うときがあります。私も何かを与えていける人になっていきたいので、これからもゆっくりとシェアさせてください!

Kinoさん、いつもありがとうございます。

シェア、よろしくお願いします!

分かち合いは、限られたものを細分化して分け合うのではなく、同じものをみんなで分割することなく、しかも、制限なく持つということです。

分かち合いの対象物であれアイデアであれ違いはありません。究極的には全てが想念であり、アイデアは共有しても減らないという話はなんどもご紹介しています。

対象をおいておくとしても、主体のほうからいっても、分かち合いは無制限といえます。
それは、別々に見えていたとしても、みんなが実は一つだからです。

分かち合いは、自分自身に与え、受け取ることです。

私たちはバラバラに見えても本当は一体であるとすれば、分離しているように見える個々人はキングギドラや八岐大蛇の頭同士のようなものです。

自分たちが同じものであることを忘れて、獲物を独り占めした狡い頭が許せないといってみんなでよってたかって憎たらしい頭を食い殺したら、すかっとして、限られたパイを奪い合う頭数を減らせて自分たちの取り分が多くなったような錯覚に陥りますが、殺された頭は腐敗して細菌に感染し、結果的には、自分たち全体に害を及ぼす攻撃をしているとは気づきません。

他方で、どの頭の舌を喜ばるルートで胃袋が満たされても、自分たち全員が元気になるとわかっていれば、せっかく獲物を捕らえた頭が食べるのを邪魔して獲物を逃してしまうような愚行はしないでしょう。

獲物を頭数に応じて細分化して平等に食事ができるようにすることばかりが大事なわけではないと思います。

みんなが悪平等に等しくなろうとするのではなく、各人が自分自身の魂をあるがままにさせて全機することがシェア、分かち合いにつながるのかもしれません。

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