T20-7 手段と目的の整合性


Do not think that if you surrender to God you will be a loser.
自分を神に明け渡して降伏することを、自分が敗北者になることのように思ってはならない。

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Radhanath Swami
ラダナート・スワミ





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テキスト第二十章から「手段と目的の整合性」という一節をご紹介します。


目的と手段の不一致

本節では目的と手段の不一致について語られます。

私たちが関係性の目的をエゴの不浄な関係から聖霊の神聖な関係に変えることに同意したにもかかわらず、いまだに不安や不快を感じるとすれば、その理由は、聖霊に目的の達成手段を委ねるのを拒絶しているためだということです。

誰も目的を達成することを真に望みながら、その達成手段のほうを学ぶ気はないと本気で思うはずがありません。





手段を厭うとき、その目的を真に成就したいと望んでいない

手に入れる術を厭うなら、それはその目的を真に成就したいと望んでいるとはいえないからです。

なので、私たちが達成手段を聖霊に任せるのを拒むとき、私たちはこのような自己矛盾に陥っていることになります。

けれど、手段というのは目的達成を支える副次的なものなので、私たちが手段を学ぶことに躊躇を覚えるとき、表面的には手段の問題であるように思えても、実は目的自体に恐れを抱いているというのが本当のところです。

つまり、私たちが手段を講じるのが難しいと思うとき、実は、私たちは目的が達成してしまうことが怖くなって目的を望む気持ちをぐらつかせているということです。


結局エゴの目的が入り込んでいる

そして、聖霊の目的を達成するに際しては、私たちを介して聖霊自身が手段となってくれるので、聖霊から手段の遂行を私たちが任されて、私たちが熟慮して手段を選び抜いて慎重に遂行しなければならないという仕組みではありません。

つまり、私たちが、聖霊の目的に賛同しながらも、聖霊に手段を任せきれないとき、実は、私たちはエゴに従っているということです。

したがって、私たちが聖霊に手段を任せるのを拒むとき、実は、私たちは聖霊の目的を望む気持ちを揺らがせている、つまり、エゴの目的が入り込んでいるということです。

そして、エゴの目的は、不浄な罪を本物にして神聖さを損なうことであり、その手段は、兄弟を身体だと錯覚させる幻想です。

だから、兄弟の身体を見る者は、兄弟に裁きを下して、彼の真の姿を見ないでいることになります。

手段が価値を持つのは、その目標達成に役立つからです。

だから、罪を目標にするなら、裁きは有意義で価値を持つことになり、神聖さによる救済を目的にするなら、ヴィジョンに価値が置かれます。


「私は本当に、兄弟を罪なき者と見たいと願っているだろうか」とだけ尋ねる

兄弟が無罪であるという真理が私たちを恐れから解放するのですから、私たちは、「どのようにしたら、私は自分の兄弟を身体なしに見られるだろうか」と手段について尋ねるべきではありません。

ただ「私は本当に、兄弟を罪なき者と見たいと願っているだろうか」と、自分の目的を願う気持ちにぐらつきがないかだけ尋ねればよいのです。


レッスン93「光と喜びと平安が私の中にある」

レッスン318「私の中では、救済の手段と目的はひとつのものだ」

が参考になると思います。





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テキスト第二十章

VII. The Consistency of Means and End
七 手段と目的の整合性



1. We have said much about discrepancies of means and end, and how these must be brought in line before your holy relationship can bring you only joy.
 私たちはすでに、手段と目的の不一致について、そして、あなたの神聖な関係があなたに喜びだけをもたらせるようになる前提として、どのようにして手段と目的を一致させるべきかについて、大いに述べてきました。

 But we have also said the means to meet the Holy Spirit's goal will come from the same Source as does his purpose.
 それだけでなく、私たちはまた、聖霊の目標に到達するための手段は、聖霊の目的が生まれたのと同じ大いなる源から訪れることも述べました。

 Being so simple and direct, this course has nothing in it that is not consistent.
 本当に直截簡明なので、このコースには首尾一貫しないところは一切ありません。

 The seeming inconsistencies, or parts you find more difficult than others, are merely indications of areas where means and end are still discrepant.
 うわべだけ見ると矛盾しているように思えることや、あなたがほかの部分より難しいように感ずる部分があるとすれば、それは単にまだあなたの中で手段と目的が依然として一致しないままの領域があることを示しているだけです。

 And this produces great discomfort.
 たしかに、このことは大きな不安を生むでしょう。

 This need not be.
 しかし、心配するには及びません。

 This course requires almost nothing of you.
 このコースは、あなたにほとんど何も要求しないからです。

 It is impossible to imagine one that asks so little, or could offer more.
 こんなにも何も求めることなく、それでいて、何よりも多くを差し延べてくれる教えなど想像することは不可能です。



2. The period of discomfort that follows the sudden change in a relationship from sin to holiness may now be almost over.
 突如として関係を結ぶ目的が罪から神聖さに変わったことに伴う不安で不快な時期は、もうほとんど終りかけているはずです。

 To the extent you still experience it, you are refusing to leave the means to him who changed the purpose.
 あなたがまだ不安や不快を感じているとすれば、それは、あなたがまだ、関係性の目的を変えてくれた聖霊に手段を任せるのを拒んでいるせいです。

 You recognize you want the goal.
 あなたは、自分が聖霊の目標を望んでいることは認めています。

 Are you not also willing to accept the means?
 あなたは、その目標のための手段も自ら進んで受け入れようとは思わないのでしょうか。

 If you are not, let us admit that you are inconsistent.
 もしあなたが手段を受け入れる気になれないなら、あなたが自己矛盾していることを私たちでしっかりと認めましょう。

 A purpose is attained by means, and if you want a purpose you must be willing to want the means as well.
 目的は手段によって達成されます。だから、もしあなたがある目的を望むなら、あなたは目的だけでなく手段も厭わずに望まなければなりません。

 How can one be sincere and say, "I want this above all else, and yet I do not want to learn the means to get it? "
 いったい誰が心から「私はほかの何にもましてこれを望んでいる。けれども、私はそれを手に入れるための手段のほうは学びたくない」などと言えるでしょうか。

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3. To obtain the goal the Holy Spirit indeed asks little.
 目標を達するために、聖霊は本当にほとんど何も要求しません。

 He asks no more to give the means as well.
 そのうえ、聖霊は、あなたに目標達成のための手段を与えるに際しても、何も要求しません。

 The means are second to the goal.
 手段というのは、目標を支援する副次的なものです。

 And when you hesitate, it is because the purpose frightens you, and not the means.
 だから、あなたが躊躇するとすれば、その理由は、手段ではなく目的があなたを怖がらせているためなのです。

 Remember this, for otherwise you will make the error of believing the means are difficult.
 この仕組みを忘れないでください。このことを忘れると、あなたは手段が難しいと信じる誤りを犯すことになります。

 Yet how can they be difficult if they are merely given you?
 しかし、もしその手段が何もしなくてもただあなたに与えられるだけだとしたら、どうしてそれが難しいものになりうるでしょうか。

 They guarantee the goal, and they are perfectly in line with it.
 手段は目標の達成を保証するし、その目標と完全に一致しています。

 Before we look at them a little closer, remember that if you think they are impossible, your wanting of the purpose has been shaken.
 私たちで手段についてもう少し詳しく見てみる前に、次のことを覚えておいてください。それは、もしあなたがその手段を講じるのはとても無理だと思うなら、それは目的を望むあなたの気持ちがぐらついているせいだということです。

 For if a goal is possible to reach, the means to do so must be possible as well.
 なぜなら、もし目標に到達することが可能であるなら、当然、そのための手段も可能であるはずだからです。



4. It is impossible to see your brother as sinless and yet to look upon him as a body.
 あなたの兄弟を罪なき者とみなしておきながら、彼を身体として見るのは不可能です。

 Is this not perfectly consistent with the goal of holiness?
 このことは、神聖さという目標と完全に一致してはいないでしょうか。

 For holiness is merely the result of letting the effects of sin be lifted, so what was always true is recognized.
 というのは、神聖さというのは、単に罪の及ぼした影響が取り除かれるようにした帰結でしかなく、そうすることによって、つねに真実であったものが認識されるようになっただけだからです。

 To see a sinless body is impossible, for holiness is positive and the body is merely neutral.
 罪のない身体を見ようとしても、それは不可能です。というのは、神聖さは積極的なものですが、身体は中立のものでしかないからです。

 It is not sinful, but neither is it sinless.
 身体は、罪深いものではありませんが、罪なきものでもありません。

 As nothing, which it is, the body cannot meaningfully be invested with attributes of Christ or of the ego.
 身体はまさに無でしかないので、キリストの属性であれエゴの属性であれ、それを身体に付与することは意味をなしません。

 Either must be an error, for both would place the attributes where they cannot be.
 そうした試みは両方とも誤りとならざるをえません。というのも、両方の試みは、それぞれの属性をそれらが存在しえないところに与えようとすることだからです。

 And both must be undone for purposes of truth.
 だから、真理という目的のためには、両方とも取り消される必要があります。

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5. The body is the means by which the ego tries to make the unholy relationship seem real.
 身体こそ、エゴが不浄な関係を本物であるかのように思わせようとして用いる手段です。

 The unholy instant is the time of bodies.
 不浄な瞬間は、身体たちの時間のことです。

 But the purpose here is sin.
 他方で、この世界の目的は罪です。

 It cannot be attained but in illusion, and so the illusion of a brother as a body is quite in keeping with the purpose of unholiness.
 罪という目的は幻想の中でしか達成できません。したがって、兄弟を身体だと錯覚させる幻想は、不浄さという目的に実によく調和していることになります。

 Because of this consistency, the means remain unquestioned while the end is cherished.
 この整合性ゆえに、その目的が大切にされている間は、手段は疑問にさらされないままになります。

 Seeing adapts to wish, for sight is always secondary to desire.
 視覚はつねに願望に従属するので、願望に即したものが見えるようになります。

 And if you see the body, you have chosen judgment and not vision.
 だから、もしあなたに身体が見えているなら、あなたはすでにヴィジョンではなく裁きを選んでいるのです。

 For vision, like relationships, has no order.
 というのは、関係性と同じように、ヴィジョンにも一切の序列がないからです。

 You either see or not.
 あなたは、見えるか見えないかのどちらかなのです。



6. Who sees a brother's body has laid a judgment on him, and sees him not.
 兄弟の身体を見ている者は、兄弟に裁きを下したのであって、その兄弟を見てはいません。

 He does not really see him as sinful; he does not see him at all.
 実際のところ、兄弟の身体を見ている者は、兄弟を罪深い者として見ているのではありません。彼はその兄弟をまったく見ていないのです。

 In the darkness of sin he is invisible.
 罪という闇の中では、兄弟の姿は見えないからです。

 He can but be imagined in the darkness, and it is here that the illusions you hold about him are not held up to his reality.
 罪の闇の中では、兄弟の姿を想像することしかできないので、この地上では、あなたが彼について抱く幻想は、とても彼の真の姿には及びもつきません。

 Here are illusions and reality kept separated.
 ここでは、幻想と現実が分離されたままになっています。

 Here are illusions never brought to truth, and always hidden from it.
 ここでは、幻想は決して真理へともたらされることはないし、いつも真理から隠されています。

 And here, in darkness, is your brother's reality imagined as a body, in unholy relationships with other bodies, serving the cause of sin an instant before he dies.
 そして、闇の中にあるこの世界では、あなたの兄弟は本当に身体だと想像されており、その身体は、ほかの身体と関わり合う不浄な関係の中で、彼が死ぬ寸前まで、罪の原因に奉仕するものと考えられています。

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7. There is indeed a difference between this vain imagining and vision.
 この空疎な想像はヴィジョンとはまったく違います。

 The difference lies not in them, but in their purpose.
 両者の違いは、それら自体にではなく、それらの目的にあります。

 Both are but means, each one appropriate to the end for which it is employed.
 両方とも、単なる手段でしかなく、それらが奉仕する目的を達成するためには有益なものです。

 Neither can serve the purpose of the other, for each one is a choice of purpose, employed on its behalf.
 いずれの手段も、他方の目的には役に立ちません。というのも、いずれの手段も一方の目的を選択して、その目的の達成のために採用されるものだからです。

 Either is meaningless without the end for which it was intended, nor is it valued as a separate thing apart from the intention.
 いずれの手段も、その手段がそのために用意された目的がなければ意味がないし、目的を離れて独立したものとして手段に価値が置かれることもありません。

 The means seem real because the goal is valued.
 手段が実在するように思えるのは、その目標に価値が置かれるがゆえです。

 And judgment has no value unless the goal is sin.
 だから、罪を目標としないかぎり、裁きは何の価値も持ちません。



8. The body cannot be looked upon except through judgment.
 裁きを通してしか、身体を見ることはできません。

 To see the body is the sign that you lack vision, and have denied the means the Holy Spirit offers you to serve his purpose.
 身体が見えているということは、あなたにヴィジョンが欠けている印であり、聖霊の目的に役立てるようにと聖霊があなたに差し延べている手段をあなたが拒んでいる証拠です。

 How can a holy relationship achieve its purpose through the means of sin?
 罪のための手段を通じて、神聖な関係がその目的を成就できるはずがないからです。

 Judgment you taught yourself; vision is learned from him who would undo your teaching.
 裁くことは、あなたが自分自身に教えこんだことであるのに対して、ヴィジョンは、あなたが教えたことを取り消してくれる聖霊から学ぶものです。

 His vision cannot see the body because it cannot look on sin.
 聖霊のヴィジョンには罪が見えないので、聖霊のヴィジョンには身体は見えません。

 And thus it leads you to reality.
 こうして、聖霊のヴィジョンはあなたを現実へと導いてくれます。

 Your holy brother, sight of whom is your release, is no illusion.
 あなたの聖なる兄弟を目にすることがあなたの解放となりますが、兄弟の神聖な姿は幻想ではありません。

 Attempt to see him not in darkness, for your imaginings about him will seem real there.
 闇の中で彼を見ようとしないでください。というのも、闇の中では、兄弟についてあなたが想像する姿が本物であるかのように思えてくるからです。

 You closed your eyes to shut him out.
 あなたが自分の目を閉じたのは、本当の彼を排除するためだったのです。

 Such was your purpose, and while this purpose seems to have a meaning, the means for its attainment will be evaluated as worth the seeing, and so you will not see.
 あなたはこんなことを目的にしていたのです。そして、こんな目的が意味を持つように思える間は、その目的を達成するための手段は、見る価値があるものとして評価されることになるので、あなたが真に見ることはないでしょう。

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9. Your question should not be, "How can I see my brother without the body?"
 あなたは「どのようにしたら、私は自分の兄弟を身体なしに見られるだろうか」と問うべきではありません。

 Ask only, "Do I really wish to see him sinless? "
 ただ「私は本当に、兄弟を罪なき者と見たいと願っているだろうか」とだけ尋ねればよいのです。

 And as you ask, forget not that his sinlessness is your escape from fear.
 そして、あなたがそれを聞くときには、次のことを忘れないでください。それは、兄弟が無罪であることが、あなたを恐れから解放するということです。

 Salvation is the Holy Spirit's goal.
 救済こそが聖霊の目標です。

 The means is vision.
 そのための手段はヴィジョンです。

 For what the seeing look upon is sinless.
 というのは、見える者たちが目にするのは罪のなさだからです。

 No one who loves can judge, and what he sees is free of condemnation.
 愛する者であれば誰も、裁きを下すことなどできません。だから、彼が目にするものは非難を免れています。

 And what he sees he did not make, for it was given him to see, as was the vision that made his seeing possible.
 彼が見るものは、彼の作り出したものではありません。というのも、彼に見ることを可能にしたヴィジョンと同じように、それは見るようにと彼に与えられたものだからです。



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