There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

奇跡のコース

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 奇跡のコース(ACIM A Course in Miracles)、テキスト(版権フリー版:FIP1975年初版)の翻訳を公開しています。個人試訳であり、非公認版です。

 ここに来られた方は、コースに関心をお持ちの方がほとんどでしょうから、改めて、コースについて説明するまでもないと思います。この本に巡り合えただけで生まれてきた甲斐があったと思えるようなそんな素晴らしい本です。あまりコースを知らないという方には、ウィキペディアでは、よく整理されていますので、概要を知るにはよいと思います(英語版よりはるかに充実しています)。
 
 コースには、何度も、全身全霊を注いで聖霊のレッスンを学ばなければならないと学習者の意欲を求める箇所があります。

 しかし、コースは分量だけでも極めて大部です。関心を持って、英語の勉強も兼ねて読んでみようと意気込んで、原書を買ったはいいものの、数週間後には、小さな文字がぎっしり詰まった1300頁を超える重い本は本棚の飾りになっているという人は多いはずです。


 その上、内容ときたら、この世界は幻想だという、これ以上ないほどラディカルな思想です。


 また、キリスト教の用語が用いられていることは、キリスト教に馴染んできた人たちの固定観念を打壊するためには、有益であっても、キリスト教徒が少数派で、かつ、宗教臭さに嫌悪感を抱くことの多い私たち現代日本人にとっては、拒絶反応を招いたり、誤解の元になったりもします。

 コースは、映画館でせっかく手に汗握る映画に我を忘れて見入っている人からすれば、映画が作り物にすぎないという事実を突きつける実に興醒めさせる不届きな存在であり、準備がない状態では手を出さない方が賢明で、生半可に齧ってみるだけだと危険ですらある毒リンゴといえます。

 とはいえ、準備のない状態で齧って二度と読みたくないと、今生でコースとの縁をなくしてしまうには、あまりにもったいない本です。その意味で、コースに惹かれない方は、心の中にいる聖霊がその人を守るために今は読むタイミングではないと告げているのかもしれません。

 古くはマリアン・ウィリアムソンさん、最近はゲイリー・レナードさんらの翻訳書が出版されて、コースのよい補助教材が手に入るようになりましたが、コースの補助教材は未翻訳のものがたくさんあり、その中にはコースの学習に有益なものが多くあります。

 また、講演や本の朗読にも役に立つものがあり、米国のアマゾンやオーディブルで購入が可能ですので、今後、ご紹介できればと思っています。


 さて、翻訳のほうですが、対訳形式をとっており、読者が原文にあたって確認できるので、意味を通すために必要であれば、多少意訳している箇所もあります。

 テキストが言うように、翻訳は本来の意味を維持して伝える道具にすぎません(テキスト 第7章、二、4,5)。

 原文翻訳の関係は、知識と知覚、聖霊とエゴ、創造と誤創造の関係に似ています。

 原文は増刷によってどれだけ拡張しても、意味はたった一つで、それが変わることはありません。


 それに対して、翻訳は、言語や翻訳者というフィルターを通した投影であり、言語の数だけ、さらに翻訳者の解釈の数だけ意味も表現形態も分裂し、さらに、孫訳まで生まれ、どんどん多様な形へと増殖していき、果ては本来の意味とは似ても似つかぬ全く別物になってしまうことが可能です。

その結果、各翻訳の間には、原文への意味から離れている度合いが生まれ、それによって、その翻訳を介して原文の意味(知識)の理解に至るための困難さに序列が生まれます。

奇跡には難しさの序列はないのですが、学習者がエゴ志向の学習教材(特定の翻訳)にしがみついている限りは難易度に序列があるような形が生じてしまうということです。

このように言うと、原文言語に通じていない人は損しているのではないかということになりそうですが、そんなことはありません。

知覚を修正していくことと同じく、翻訳を通じても意味を読み取っていくことは可能です。

また、対訳形式の翻訳を傍らに置くなら、辞書を片手に読解力を付けていくこともさして困難なことではありませんし、常に原文から離れずにいることができます。

むしろ、原文を母国語としている人たちが、常に軽く読み飛ばしてしまう危険にさらされているのに対して、外国語として接する私たちの方が、一文一文を噛みしめて消化していけるし、また、原文の意味を自分で解釈してみたり、複数の翻訳にあたって探る中で、語彙力や読解力、表現力の相違による場合もあれば、訳者個人の気質や思想の影響の場合もあるでしょうが、ある一つの意志についての解釈が分裂していく様を垣間見て、知覚が生まれる過程を学ぶ教材とすることもできます。

 さらに、自分の解釈するところが最も原文の意味するところに近づけたと実感する際に、知覚の修正もこのようなものなのか、といったことを考えることができる点では、原文を母国語とする人たちよりも恵まれているとすらいえます。

ただ、翻訳は、あくまでも道具にすぎないということを忘れず、(たとえ公認版であっても)翻訳と心中してしまわないように気をつけさえすれば大丈夫だと思います。

 ある翻訳では胸にストンと落ちることのなかった文意が、辞書と首っ引きで自分なりに解釈して、納得できる解釈ができたとき、心の中で聖霊が喜んでいるのがわかるはずです。その意味で、権威のある誰かのお墨付があるから安心だという発想はどちらかといえば、エゴ本位といえます。

 この姿勢では、ありがたい御教えを自分で解釈するなどおこがましい、とにかく何度も暗記するくらいに読み込みさえすれば、今はわからなくてもいつか悟りが得られるはずだと苦行に勤しむ行者のようになってしまい、聖霊の声がどんどん聞き取れなくなってしまいます。

 自らの中にいる聖霊を権威として、その声に耳を澄ますならば、自由自在に教材となるものは何でも活かせるはずですし、何よりも、学ぶことが楽しくなるはずです。

 翻訳は、時間や身体と同じように知識を得るための道具であり、原文を理解できるようになった暁には役割を終え、必要ではなくなります。

 この翻訳も、原文に直接当たれるようになるまでの過渡的な教材として活用していただければと思います。

 




※テキスト第7章、二、
「4. 法は、それが役立つためには、まず伝達されなければなりません。

法が有効であるには、異なった言語を話す人にも分かるように翻訳される必要があります。

優れた翻訳者は、自分の訳そうとすることの形態を変えなければならないとしても、決してその意味を変えることはしません。

実際、優れた翻訳者の目的の全ては、その原文の意味を保持できるように形を変えることに尽きるといえます。聖霊は、神の法を理解できない者のための翻訳者です。あなたは自分自身で神の法を翻訳することなどできません。なぜなら、矛盾した心は一つの意味に忠実になれないし、したがって、形態を保存しようとしてその意味を変えてしまうからです。

5. 翻訳する際の聖霊の目的は、まさにその反対です。聖霊は、どこまでも、また、全ての言語において、その本来の意味を保つためだけに訳します。

したがって、聖霊は形態の違いに意味があるという考え方は認めず、形の違いなど重要なことではない、と常に強調します。

聖霊の伝えようとするメッセージの意味はいつでも同じものです。

それは、ただその意味だけが重要だということです。神の創造の法は、神の子たちに真理を納得させるために、真理そのものを用いることを必要とはしません。

王国の法則そのものである真理の拡張は、ただ真理が何であるかという知識だけに基づいています。

真理の拡張は、あなたが受け継いだものであり、全く学ぶ必要などありません。しかし、あなたが自分で自らの相続権を放棄するならば、あなたは必然的に学習する者となってしまいます。」






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