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Gnothi Seauton 汝自身を知れ




このブログのURLには「gnothiseauton」という文字が入っています。英語では「Know Thyself」、日本語では「汝自身を知れ」と訳されます。

奇跡のコースでは、カリキュラムの目的は「Know Thyself」つまり「汝自身を知れ」ということだといいます。

「汝自身を知れ」は、デルフィのアポロン神殿の入り口に刻まれた古代ギリシャの格言で、ソクラテスが引用していたことからも有名な言葉です。

この言葉は、自分の無知を知れ、人間としての分を弁えて身の程を知るように、足ることを知れというふうな教えであると解釈されることが多いようです。

神託を受けに来た者に対する戒めとして、刻まれていた3つの格言は、
① 汝自身を知れ(gnothi seauton)
② 度を超すなかれ(過剰の中の無(meden agan))
③ 無理な誓いはするな(誓約と破滅は紙一重(engua para d'ate))
ということらしいので、もともとの語源からすると、この解釈は正しいといえます。


コースは、「カリキュラムの目標は、あなたが選ぶ教師がどちらであるかにかかわらず、『汝自身を知れ』というものです。自分を知ること以外に他に求めるべきものなど何一つとしてありません」(テキスト、第八章、三 聖なる出会い 5.)として、エゴに従うにせよ、聖霊に従うにせよ、自己を知ることをカリキュラムの目標とします。


そして、エゴに従う場合に知る必要のある自己とは、個別の小さな自己(小文字のself)を指し、もともとの身の程を知れとの解釈でしょう。エゴが出しゃばらないよう、エゴに謙虚さを学ばせるためには、この解釈は有用です。


それに対して、聖霊に従う場合に知ることを求められる自己とは何でしょうか。

この場合の「自己」とは個別の小さな自己(小文字のself)ではなくて、真の自己、大いなる自己(大文字のSelf)のことです。
この自己は、エゴのように夥しい数の軍勢であるわけでも、複雑でもなく、たった一つあるだけでシンプルなものです。

それでは、この大いなる自己を知るには、どこを探せばよいのでしょうか。

コースは、自分自身の中をいくら探しても真の自己は見つからない、自分が何者なのかという問いを自分自身に問いかけるのは全く筋違いだと言います。自分の中を探すのではなくて、自分と一緒にいる誰か他の兄弟との聖なる出会いの中に探さなければならないと。

一見、自分が神の子であることを忘れているのであれば、自分と向き合って、沈思黙考し、瞑想を繰り返すなどして、自分の中を探すのが筋のようにも思えます。

コースが他者との関わりの中に自己を探すようにいうのは、この「自分と向き合う」というときの「自分」というのが、既に分離して欠片でしかないと信じ込んでしまっている個別の自己だからです。大いなる自己をばらばらに分割して、世界中に散らばらせているのなら、散らばった一欠けらとしか見ていない自分の中にだけ閉じこもっていても、エゴの幽閉状態から脱出するのは困難ということです。

自分の知覚作用というフィルターを通して投影によって自分のエゴを含めた幻想の世界を生み出している身である私たちとしては、個別の自己の中だけをいくら探しても、幻想以外の何ものも出てこないということです。

コースが勧めるのは、他の誰かと接する出会いの中で兄弟を鏡として、兄弟の反応を見ることで、自分がエゴの導きに従ってしまっていることに気が付いたら、それを放棄し、聖霊の導きに従うように選択し直すという知覚の修正作業を続けることです。

そして、聖なる出会いの中で、自分のための贖罪を受け入れ、正しい知覚によって赦すことで、他人に見えていた兄弟たちが抱く、幻想に過ぎない個別のエゴ・身体に自己を閉じ込める思いを取り消し、その思いから自分と兄弟を解放することで、他人に見えていた兄弟は実は自分自身だったと「知る」ことになります。


※テキスト、第八章、三 聖なる出会い
「5. カリキュラムの目標は、あなたが選ぶ教師がどちらであるかにかかわらず、「汝自身を知れ」というものです。

自分を知ること以外に他に求めるべきものなど何一つとしてありません。

誰もがみな自分自身を探そうとし、自らが失ってしまったと思っている力と栄光を探し求めています。

あなたが誰かと一緒にいるときはいつでも、あなたは、自らの探し求めているものを見出せるまた別の機会を得ているのです。

あ なたの力と栄光は、あなたと一緒にいるその人の中にあります。なぜなら、その人の力と栄光はあなたのものだからです。

エゴは、力と栄光をただ、あなた自身の中だけで見付け出そうとします。なぜなら、エゴは、それらをどこで捜せばいいのか知らないからです。

聖霊はあなたに、もしあなたが自分だけを見ていたのでは、あなたには自分自身を見出すことなどできないと教えてくれます。なぜなら、あなたの見ている自分自身は、真のあなたではないからです。あなたが兄弟と一緒にいるときはいつも、あなたは真の自分が何であるのかを学んでいるのです。

なぜなら、そのとき、あなたは兄弟に自分が何であるかを示しているからです。

あなたと一緒にいるその兄弟は、あなたがエゴと聖霊のいずれの教師に従っているかによって、あなたに苦痛をもって応じるか、あるいは喜びをもって応じるかのどちらかの反応を示します。その兄弟は、どちらの教師に従うかというあなたの決心次第で、幽閉されるか解放されることになります。

このことは、同じようにあなたにもあてはまります。あなたの兄弟に対する自分の責任を決して忘れないようにしなさい。なぜなら、兄弟に対するあなたの責任は、あなた自身に対するあなたの責任だからです。その兄弟に王国での居場所を与えなさい。そうすれば、あなたも王国に自分の居場所を得ることになります。



6. 王国は独りで見出すことができるものではありません。

そして、王国そのものであるあなたは、独りで自分自身を見出すこともできません。

ゆえに、自己を知るというカリキュラムの目標を達成するために、あなたは、カリキュラムの目的を挫くことを目的としているエゴに耳を貸しているわけにはいきません。

エゴは、エゴに耳を貸していたのでは、あなたは自己を知ることができないということを知りません。

それというのも、エゴには何も知ることなどできないからです。

しかし、あなたは、エゴに耳を貸す限りは自己を知ることはないことを知ることができます。

そして、もしあなたが、エゴが自分をどんなものにしようとしているのか見てみる気があれば、あなたはそれを知ることになります。

エゴがあなたをどうしようとしているのか見ることは、あなたの責任です。なぜなら、一旦、エゴが自分をどうしようとしているのか、しっかりと見さえすれば、あなたは自分自身のために贖罪を受け入れるはずだからです。

あなたに他にどんな選択ができるというのでしょうか。

あなたが自分自身のために贖罪を受け入れるというこの選択をすれば、あなたには、かつて自分が誰か他の人に会った際に、自分が彼のことを確かに他人だと思い、そう信じたのはどうしてだったのか分かってきます。

そして、あなたが十分に関わる聖なる出会いはどれも全て、出会う人たちは他人なのではなく、あなたなのだということを教えてくれるでしょう。




7. あなたは、ただあなた自身の一部に出会うことしかできません。なぜなら、あなたは全てである神の一部だからです。

神の力と栄光は至るところにあるので、あなたが神の力と栄光から除外されることなど不可能なことです。

エゴは、あなたの力はあなたの中にだけあるのだと教えます。

聖霊は、全ての力は神の中にあり、したがって、あなたの中にあると教えます。

神は誰一人として苦しまないようにと望んでいます。

神は、あなたを含む誰であれ、間違った決心のために苦しんで欲しいなどと意図してはいません。

だからこそ、神は、間違った決心を取り消すための手段をあなたに与えてくれているのです。

神の力と栄光を通して、全てのあなたの間違った決心は完全に取り消されます。

それによって、神の子のどの一部であれ、その者が心に宿す閉じこめたい閉じこもりたいという思いの一つひとつから、あなたと兄弟は解放されます。

間違った決心には何の力もありません。なぜなら、間違った決心は真実ではないからです。

間違った決心が生み出すように見える幽閉状態など間違った決心と同じように真実ではないのです。」




テキスト、第四章、一 正しい教えと正しい学び
「12. エゴとしてのあなたには、自分や他の者たちを救うためにできることは何もありません。

しかし、霊としてのあなたは、自分と他の者たち、その両方の救済のために、あらゆることをすることができます。

謙虚であることはエゴにとっては学ぶべき課題ですが、霊にとっては必要のないことです。

霊は謙虚さなど超越しています。なぜなら、霊は、自らの輝きを認めているし、喜んでその光をどこへでも注ぐからです。

柔和な人は、彼のエゴが出しゃばらないので、地を譲り受けることになります。

そして、エゴの謙虚さが彼らにより正しい知覚を与えます。王国を受け継ぐことは霊の権利です。

その霊の美しさと威厳は、全く疑いの余地がなく、知覚を越えるものです。霊の美しさと威厳は、神の創造物に対する愛の印として永遠に持ち堪えます。

神の創造物は本当に神に相応しく、ただ神にのみ相応しいものです。

神自らが創造したものにとって、十分に相応しい贈り物など、霊を除いては他に何もないのです。」




テキスト、第三章、五 知覚の超越
「4. あなたが絶え間なく自分に問い掛けている根本的な質問は、あなた自身に向けることが全く筋違いなものです。

一体、自分は何者なのか、とあなたは問い続けます。

自分に対して自分が何者か問うということは、その答を自分が知っているはずだということだけでなく、その答えを自分で好きなように用意できるということをも意味しています。

それにもかかわらず、あなたは自分自身を正しく知覚できないでいます。

あなたは知覚するべきイメージさえ持ち合わせていません。「イメージ」という言葉は必ず知覚と関連するものであり、知識の一部ではありません。

イメージは象徴的なものであり、別の何かを代わって表すものです。

「あなたのイメージを変える」という想念は、知覚する力を認めてはいますが、同時に、知るために安定したものなど何もないということをも暗に意味しているのです。」





テキスト、第五章、三 救いへのガイド
「8. あなたは、あなた自身を単独で理解することはできません。

この理由は、神の子全体の中における自らの正当な場所を離れては、あなたには何の意味もないところ、神の子全体があるべき正当な場所とは、神のことだからです。

このように、神の子の正当な居場所が神であることこそ、あなたの生命であり、永遠なる姿であり、あなたの大いなる自己そのものです。

神の子の正当な居場所が神であることこそ、聖霊があなたに思い出させようとすることです。

神の子の正当な居場所が神であることこそ、聖霊が見ているものです。

このヴィジョンはあまりにも平静なので、エゴを怯えさせます。

平安は、エゴにとっては最大の敵なのです。なぜなら、エゴの現実についての解釈によれば、戦いこそエゴの生き残りを保証するものだからです。

エゴは闘争の中でこそ強くなりもします。

もしあなたが、争いがあると信じたら、荒々しい反応をするでしょう。

それは、危険に晒されたとの思いが、あなたの心に入り込んだからです。

こんな思いそのものが、エゴに訴えかけていることになるのです。

エゴが、危険の呼び掛けに油断なく気を配り、それを喜んで迎え入れるのと同様に、聖霊は、そうした呼び掛けに絶えず警戒を怠たらず、それに聖霊の力で強く反対します。

聖霊は、平和を喜んで迎えることによって、エゴが危険を歓迎するのを打ち消します。

時間と戦争がそうであるように、永遠と平和には密接な関連があります。」




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