There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

T31-5 二つの顔

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Kinoさん、ご質問ありがとうございました。

正しい自己中になるにはどうすればよい?についてのご質問です。

質問:「①今回のテーマはとても身近に思えますが、本記事では『正しい意味で自己中心的になること』=『正しいセンタリング、すなわち、自分のアイデンティティーを真の自分である大いなる自己に置き直すこと』とあり、所謂この世界における『自己中』の定義(ワガママ)とは関連が一切ないようにも読め、掴みあぐねています。

②実際において正しい自己中になると、本人にはどのような変化が生じ、世界はどう変わるのでしょうか?

③言葉としてはこの世界における定義とは関連しない状態なのでしょうか?ご助言賜れば幸いです。」




まず、①と③からです。

自己中」という表現を使ったのは、タイトルをキャッチーにしようとの意図が中心で、記事の投稿時には、もちろん、この世界での「自己中」(ワガママ)になることがよいという趣旨はありませんでした。


しかし、いきなり本当の自分が全ての被造物が一体になった神の子としての大いなる自己だと言われて、簡単に納得できるわけがありません。

そもそも私たちは、身体とも一体化しているし、さらにその上で、車や家族や会社やイデオロギーや宗教等々、ほかの何かにも自己同一性を抱いて生きています。

そして、私たちは、自分が何にアイデンティティーを抱いているのかすら、明確に意識してはいません。

だから、大いなる自己にアイデンティティーを据え直す大前提として、小さな自己を見極めることは欠かせません。

それゆえ、エゴ・身体と一体化している小さな自己をしっかり意識するために小さな自己としての自己中心性を確立する、つまり、自我を確立するという意味でこの世界における自己中を見直すことは悪いどころか必要なことなのかもしれません。



人のアイデンティティーというものは、ふわふわと移ろいやすく、縮こまったり広がったりとまるで幽霊みたいなもので、膨張したり身体から遊離したりして、自分以外の他人や物、会社、国家、イデオロギーや宗教等々何にでも自己同一化することが可能です。


これは、本来の自己が幻想の世界を生み出していることからすれば、当然のことで、森羅万象は自分が想像したものである以上は、大本である自分をその中の一部に縮小させて自己同一化することは容易なことです。

心理学の実験で、学生たちに床の上に置いた膨らんだ紙袋を見つめさせ、紙袋に愛情を感じるように想像させている途中に、不意に紙袋を踏み潰すと、紙袋に愛情を持って一体化していた学生の中には、ワッと声を上げたり、身体的な痛みを感じたり、中には失神する人も出るということです。

このように人は、物体であれ、イデオロギーであれ、本当に何にでも自分のアイデンティティーを持つことができるので、いくらでも中心を外れてエキセントリックになっていくことができます。

分離した身体への一体化が第一段階の誤った自己同一化とすれば、その身体から遊離してさらに別の何かに自己同一化するのは、第二段階の誤った自己同一化といえるかもしれません。

このように、誤った自己同一化を二重にしている状態では、真の自分が誰か思い出すことは非常に困難でしょう。

特定の幻想に自分を縮小させて一体化するという仕組みとしては、第一段階の自己同一化も、第二段階の自己同一化も、変わりはないはずですが、身体への一体化は本当に根深いものです。

だから、身体に一体化し、その上でさらに、身体を越えてエゴがアイデンティティーの触手を他の物や観念に伸ばしているような状態で、アイデンティティーをサンシップ、神の子であることに据えようとしても、エゴがすでに会社や国家に膨張している芸当の究極バージョンとして、自己概念が観念としての神の子にまで膨張するだけのことに終わるでしょう。


まずは、第二段階の自己同一化を解消することが先決です。

自分の子供に一体化している親は、良い学校に入るように幼いころから洗脳したりとか、楽器を習わせたりと子供をコントロールしようとます。親のエゴが子供に望むことが子供の資質の開花に役立つことも意外に多かったりはするものですが、それはさておき、その親は、子供の素質や気持ちなんかお構いなしに、子供という人形の属性を世間的に評価される高性能なものにすることに生きがいを見いだしています。
子供との心のつながりなんかよりも、たとえば、子供が東大に入り、●●省に入るかどうかといったことの方が大事になってしまっています。

平和主義者ほど好戦的な者はいないというジョークがありますが、平和を実現することを自分の使命と任ずる人の中には、自分の信じる平和を実現するためなら、平気で(聖戦の感覚で)戦って他者を傷つけることができてしまう人もいます。

宗教に入れあげて、妻子が食べるにも困る状況になっているのに、嬉々として、お布施を納める当人は、自分は神や仏に仕える尊い行いをしているのであって、妻子を犠牲にすることすら、自分の気高さの証明だと感じているかもしれません。


こんな振る舞いをしてしまうくらいなら、まだ世間的な常識人としての自我をしっかり持って、人に施しをするにしても、まずは自分から、というバランス感覚のほうが、浮遊したエゴが血迷って何らかの偶像と自己同一化する悲劇に比べたら、まだ望ましいのかもしれません。

自分以外の誰かや観念にエゴが拡張してアイデンティティーを抱いている場合、当人は、自分は、その誰かや困った人々を助けるために犠牲を払って身を捧げているのだと本気で思っています。

もちろん、奇跡のコースも、学ぶためには教え、得るためには与えるようにといいますし、それは空念仏の単に美しいだけの言葉遊びではなく、事実に気づくための実践的なものであるのは確かです。

ただし、他方で、コースは、分かち合いの大切さを強調すると同時に、犠牲という概念を否認し、真の共感は、他者の苦悩を分かち合うことではない、そんなことは特別な関係を結ばせるためのエゴの策略だと言います(テキスト 第十六章 一 真の共感)。

苦悩する他者に同情し、その苦しみを分かち合おうという犠牲的精神は、この世界では尊いものとされます。

苦しんでいる人の身になって、助けを差し延べることは大切なことであると感じるし、自分が苦しんでいるときに、親身になって共感してもらえるだけで、苦しみが和らぐのを実感します。

二人で分かち合えば、喜びは倍になり、苦しみは半分になるといいます。



もちろん、真の自他一体感から、そして、その真の自己には何も欠けるところがなく豊饒さに満ちているとの思いから、誰かを手助けすることは、コースの否定するところではなくむしろ勧めるところです。

しかし、共感、同情には、エゴの罠が潜んでいることを忘れてはなりません。

神の子には本来、すべての神の力、豊かさが備わっており、欠乏や必要があるというのが幻想だとすれば、分かち合うことができるのは、力強さ、豊かさでしかなく、ありもしない欠乏や必要性は分かち合おうにも、共有しようがないということになります。

つまり、ある人が本当はそこにあるものを無いと信じ込んでいるときに、その無いという状態を分かち合うということは、欠乏の幻想を一緒になって信じ込むということです。

これは、自らも幻想に入り込み、幻を信じてしまって弱まっているその人の誤信を強めることであり、その人をさらに弱体化させる攻撃になってしまうということができます。

赤ん坊が一生懸命はいはいして立ち上がろうとしているのを見て、可哀想だと言って、抱っこして代わりに運んであげてばかりいたら、赤ちゃんは本来持っている歩く力を発揮できなくなってしまいます

その人を弱者と決めつけて、施しを授けてやるという共感は、相手を弱体化させる攻撃になってしまう危険があるということです。


赤ちゃんはそうだとしても、病気や怪我で医師から二度と歩けるようにならないと宣告された場合、さらには、片足を切断した場合などには、同じようには考えられないと感じます。ここはいつもの奇跡に難易度はないというテーマです(簡単な奇跡と難しい奇跡ってあるの?をご覧いただければと思います。この世界での出来事が全て本当に幻想であるなら、小説や映画の中の出来事のように、切断した足が再生する奇跡だって、みんなが信じることさえできればいくらでも起こるということになります。)

「6. You respond to what you perceive, and as you perceive so shall you behave.
 あなたは、自分の知覚するものに対して反応します。そして、あなたは、自分の知覚したように振る舞うことになります。

 The Golden Rule asks you to do unto others as you would have them do unto you.
 黄金律はあなたに、自分に対してして欲しいと思うことを、あなたがまず他の人に対して行うようにと求めます。

 This means that the perception of both must be accurate.
 これは、あなたと他者の両者の知覚が共に正確でなければならない、ということを意味します。

 The Golden Rule is the rule for appropriate behaviour.
 黄金律は、適切に振る舞うための法則です。
 
 You cannot behave appropriately unless you perceive correctly.
 あなたが正しく知覚しない限り、あなたは適切に振る舞うことなどできません。

 Since you and your neighbour are equal members of one family, as you perceive both so you will do to both.
 あなたと隣人とは、一つの家族の対等な一員同士です。だから、あなたが自分と隣人とを対等な家族だと知覚するなら、あなたは、自分にも隣人にも相応しい立ち居振る舞いをすることでしょう。

 You should look out from the perception of your own holiness to the holiness of others.
 あなたは、まず、あなた自身の神聖さを知覚し、それから他の人たちの神聖さへと注意を払うべきです。」(テキスト 第一章 III.Atonement and Miracles 三 贖罪と奇跡)

小さな自己が身体から遊離して他者や物や考えに憑依したり、エゴを膨張させて大きな何かと一体化しようとするのは、根本的に、エゴ自体が実体のない空疎なものなので、真の自信を持てないために、外の世界で権威が得られそうなものの権威を利用としようとするからです。

この点については、自信喪失と自惚れの行ったり来たりから抜け出すには?をご覧いただければと思います。

自分から離れて、他の誰かや物や観念にアイデンティティーを抱く状態は、欠乏の原理によって、エゴが憑依したり膨張したりしようとしているのであって、真に自分と他者が一体であって、その一つであるものに欠けるところはなく満ち足りているとの思いにないからこそ生じるし、それだからこそ、そのような思いを取り戻す妨げにもなってしまうということです。



2フェイス



さて、このように、自己の概念は、身体を離れて幽体離脱のように、ふらふらと世界の中の何かに自己同一化しがちなものですが、このようなアイデンティティーの対象の移動や膨張を脇に置くとしても、私たちは、自分の中にジキルとハイド、天使と悪魔が共存しているように感じます。


正しい自己中になるにはどうすればよい?でも、エゴの二面性に触れましたが、自己の概念は、清純な表の顔と他者を非難するためのおぞましい裏の顔の二面からなります。

裏の顔は、エゴが自分の自己本位の欲望をふつふつと煮えたぎらせる醜い顔です。

それは、自分でも目を背けたくなるような矮小でおぞましい姿をしているので、自分がちっぽけで醜いということを受け入れられずに、こんな自分にしたのは他者だと非難したくなるような自己像です。

このように、裏の醜い顔は、他者に対して矛先を向けるようになるように働き、幻想であるこの世界が存続するために必要な罪悪感の応酬が続くように作用します。


このエゴ丸出しの裏の顔とは別に、普通、小さな自己は、この世界に教え込まれて、裏の顔を隠すように、清純な表の顔をマスクとして被ります。

この清純な顔の役目は、罪を分厚い靄の中の保管庫に封じ込めるためのものです。

すなわち、裏の顔むき出しでは、が当たってしまって、その罪深い顔が抱え込んでいるものが取り消しようのない罪などではなく、修正可能な間違いにすぎないということがあからさまになってしまいます。

そうなっては、この世界が存続するための罪悪感の応酬が続かなくなってしまいます。

そこで、エゴは何としても、清純な表向きの顔でを遮らなければならないのです。したがって、清純な顔は、スピリチュアルな事柄や綺麗事が大好きですが、当然、聖霊の象徴などではありません。

この清純な表の顔は、同情深く、他者の苦悩に共感し、他人の苦しみを自分のもののように感じては、自分のことを、邪悪なこの世界の中にいる善良で稀有な存在であると信じ込んでいます。

世の中の弱い者たちを憐み、不正を許さず、悪に戦いを挑みます(もっとも、自ら先制攻撃はせずに必ず正当防衛の形をとって攻撃します)。

この清純な顔のマスクと一体化すると、表向きは、穢れを知らない聖者のような振る舞いをすることになりますが、汚いものごとは、清らかな自分とは関わりのないことだとして、自分から排除して外の世界にどんどん投影していくので、ゴミ捨て場にされてしまった外の世界は、自分の思いどおりではない、汚れた薄汚い邪悪な地獄に見えてきます。

そうなると、悪循環で、ますますその人は、こんなに清らかな自分を翻弄する薄汚い世界や他者が悪いんだと非難するようになります。


表面的には、清らかで高潔な顔を見せますが、マスクの裏側では、潔癖さに追いやられた醜い感情やおぞましい欲望がどろどろと渦巻いています。



高潔な顔は、外の世界に醜いものをすべて投影して自分は清らかになったつもりでいますが、投げ出した汚いものは、ゴミ捨て場としての世界を汚れた邪悪なものにするばかりでなく、単に解離されて、痰壺、肥溜めとしての身体に集積されるばかりで、裏の顔の醜さのどぎつさを増すだけです。

極度のプレッシャーや気の緩みでマスクが外れると、本性が現れて、押し込められていた醜い情念が噴出するようになります。

自分よりも目下に見ている誰かの気に障る態度であったり、お酒の飲みすぎであったり、ふとしたきっかけでマスクが外れるし、家族や部下の前では、無意識にマスクが取れてしまうということが起こります。

当人は、自分は清らかで神聖な存在だとすら思っているかもしれませんが、その度量は、清濁併せ飲んで広がっていくどころか、汚く醜いもの、罪深いものを自分から排除して、どんどん狭量になり、縮こまって、自分勝手に決めつけた清純なもの以外は何ものも受け入れることのできない実体のない形ばかりの清らかさの象徴のようになってしまいます。

これこそ見事な二重人格であり、この世界が教え込もうとしている自己概念にまんまと引っかかってしまって、最も効率的に幻想にエネルギー源である罪悪感を捧げる理想的なエゴの奴隷です。

その人は、努力して、清らかな自分を築き上げたと思い込んでいるかもしれませんが、ある意味、世界の敷いてくれているレールの上を優等生的に進む最も楽な道を辿ってしまっただけといえるのかもしれません。

厚顔無恥でエゴむき出しの粗忽な自然児のような人に比べて、一見清純そうな人当たりのよい「いい人」のほうが腹の底はどす黒くよどんで悪臭を放っていることが多いのでしょう。

これは、スピリチュアルな方面に関心が向くすべての人にとっての落とし穴でもあります。

本来、ヨーガでいう純質(サットヴァ)が優位で、善良な素質を持って生まれた人であるかもしれないけれど、根の善良さゆえに、この世界の教育に素直に従って、世界の求める自己像に沿った仮面を被らされてしまう不幸のリスクにもさらされるわけです。

さて、ここでも、まずは、世間的な意味での自己中を見直すことが出発点になるかもしれません。

清純な顔のマスクは、エゴむき出しの自己中な振る舞いを毛嫌いしています。

ですが、その人は、実のところは、自分が、そんなエゴの汚さをから守る盾の役目を担わされて、エゴの守護者になっていたとは夢にも思っていません。


小聖は山に登り、大聖は街(市)に隠るといいます。
市井の中にあっても、真善美のみを追求し、神聖さ至上主義になって、自分の心は綺麗にしても、ごみはすべて外に投げ捨てる形で清らかさを追い求めると、心は山に登っているようなものになりがちです。

このような人の中にも、自分だけを高めようとしても限界があることに気づいて、いつか山を降りて、かつては救済してやろうと見下していた人々に紛れて暮らす幸運な人もいるかもしれません。

狷介で孤高であったその人は、 街に降り、山に籠っていたころには、醜く感じていたような物事を一つひとつ受け入れて、寛容で、丸い人になり、神聖どころか俗っぽくすら見えるようになるかもしれません。

でも、こんな人のほうが、この世界が教え込もうとする自己の概念に毒されずにいられるのではないでしょうか。


上に見てきたような、表の顔も裏の顔も、いずれも、この世界が自らの存続のために教え込もうとする作り物にすぎません。


では、どうやって、この自己概念を手放して、本当の自己概念を取り戻すことができるのでしょうか?

清純なマスクをぶち壊そうとそれまでとは正反対の努力をすればよいというわけではないでしょう。

表の顔も裏の顔も、真実の自己ではなく、取り消されるべき自己概念ですが、それらを敵視して戦わなくても、優しく受け入れてやることはできます。

二元性の幻想世界においては、すべての物事が二極の間を行き来するグラデーションを見せますが、すべての物事を価値判断せずに等しく受け入れようとすることが、すべてが等しく幻であることに気づく上での一歩にはなります。

自己の概念は、この世界による教育によって、学習してしまったものです。


だから、単に自己の概念を手放すように求められても、依然として自分であると信じ込んでいる自己を完全に喪失するリスクを犯してまで交換することを求められているようで、よりひどい恐怖心を抱いてしまいます。

そこで、この学習成果を取り消すには、私たちが、このような自己の概念以外の存在であることを教えることに狙いを定めたレッスンによる必要が出てきます。

これが、サンシップ、神の子であることについて、コースが繰り返し語り、大いなる自己こそが真のアイデンティティーであると理解させようとするところです。

この世界の教育の力は強いものです。学校教育なんかではなくて、親や世間から刷り込まれる常識の方です。

奇跡のコースを読むと、この世界で常識とされていることと完全に真逆の観点ばかり出てくることに気づきます。

一般の常識では、神は実在しない、時間と空間は確固としてある、心は身体の中に脳の作用としてある、他人と自分は別々に隔絶している等々、数え上げればきりがありません。

というよりも、世の中で常識とされていることはことごとく、全て完全に裏返しにして捉えることができるといえます。すべてです。

この世界による洗脳によって、コースで言うサンシップの概念は非常に異質な考えに感じられるようになってしまっています。

数十億もいるみんなが一人の神の子が分裂した姿ってどういうこと!?信じられるわけないでしょ!となります。

ですが、その数十億の内の99%の人が、そもそも、このような考え方があるということすら知ることなく人生を終えていくことになるのです。

信じられないとしても、SF小説でこんな発想があったのかと驚嘆するのと同じような感じで、発想として、この観点を情報として得られるだけでも、とてつもない福音であり、幸運なことです。


このサンシップを一つの観点として受け入れ、まだ実感はできないけれど、自分たちみんなが一体となった神の子が真の自分なのだということを想像してみただけでも、表と裏の顔という二重のマスクを外すに際しての、アイデンティティーの喪失への恐怖は薄らぐはずです。




さて、世の中の常識はことごとく完全に裏返して捉えることができると言いましたが、自己中についての常識的評価はどうでしょうか?

常識では、自己中は諸悪の根源で、世界から根絶すべき忌まわしいスタンスだということになっています。ここでいう自己中は大いなる自己に中心を戻すという究極的な目標ではなくて、ただ単にエゴ・身体と一体化している小さな自己を中心に素直にワガママになるという意味です。

いわゆる自己中が嫌がられるのは、分離世界においては、一人の利益は他者の損失・犠牲の上に成立するということになるので、個々のエゴの利害調整を図らないかぎり、共存が困難であるところ、素直にエゴむき出しで自分の好きなように振舞う存在は、他のエゴからすれば、自分に損失を与える危険な存在になるし、何より、その自己中は、他の者たちから見れば、自分も本当はそのように好き放題やりたいという本音の欲求に従うことが、臆面もなくできてしまえる羨ましい存在である時点でも許せません。

しかし、このように自己中を嫌悪する本当の理由は、こんなことではありません。

世界の常識では、いわゆる自己中は、はた迷惑な非常識な存在であり、よろしくないということになっており、これを裏返して逆に言えば、世間の常識は、非自己中、つまり、上に述べてきた清純な顔のマスクを被れと要求しているわけです。

実は、裏の顔自体も、無数に分裂した小さな自己を夢の主人公である身体という人形の中に封じ込めてしまうために、人形に被せられるマスクでしかありません。

つまり、自己中はダメだ!というのは、マスクの上にさらにマスクを被れというのと同じことです。


ここで、そもそもなぜ清純な表の顔をマスクとして被らせようと世界がするかを思い出してみましょう。

それは、が遮られていた際には、闇の中でエゴが暗躍して、罪悪感による恐怖で包み込んで、取り返しのつかない罪にしか見えないようにできていたのに、清純な顔という盾が無くなって、エゴの欲望や情念の渦巻く裏の顔がむき出しになってしまうと、それにが当たって、修正可能な誤りにすぎないことが露呈してしまい、そうなっては、エゴがこの幻想世界で生き延びるための罪悪感の応酬を続けさせることができなくなってしまうからということでした。

つまり、表の顔も裏の顔もいずれも仮面にすぎないとしても、表の清純な顔のマスクを取り去ってしまえば、清純な顔というを遮る盾を失った裏の顔には、影に隠れて巧妙に画策していた際には発揮できていた力を失い、光にさらされて消え去るしかないということになります。

ですから、清純な表の顔のマスクを外して、自分のエゴをむき出しにしてみるということは、悪いことではなく、それはエゴを弱体化させるために必要なことなのかもしれません。

結論としては、自己中はよろしくないと世界が私たちを煽り立てるのは、私たちがエゴむき出しの自己中になってしまっては、世界の存続が危うくなってしまうからということになります。


「17. The world can teach no images of you unless you want to learn them.
 あなたが学びたいと思わないかぎり、この世界はあなたの肖像を教えることはできません。

 There will come a time when images have all gone by, and you will see you know not what you are.
 やがて、すべての肖像が過ぎ去り、自分が何者なのか知らないということに気づくときがやってくるでしょう。

 It is to this unsealed and open mind that truth returns, unhindered and unbound.
 この封印を解かれた開かれた心の許にこそ、真理が何の障害や束縛もなく蘇ってくるのです。

 Where concepts of the self have been laid by is truth revealed exactly as it is.
 自己の概念が脇に置かれたところにおいてこそ、真理はまったくあるがままの姿を明らかにします。」(テキスト第三十一章 五)

清純な顔の仮面を剥がれたエゴは、自らの醜い姿をさらしたくないと悲鳴を上げます。

そして、この世界は何とか別の仮面を被らせようとしてくるでしょう。それは、非難という形で現れては仮面をつけろと迫ります。

でも、もう、清純な顔の正体を知ってしまった以上は、一見清らかで美しく見えるとしても、そんな仮面には本当の魅力はありません。

世界の脅迫的な要求に屈することなく、仮面を被らずにがんばっていると、清純な仮面をつけていたときに比べると、仮面の清純さを維持するために、これは汚いこれは清いと価値判断して汚いものを排除しようということが少なくなり、仮面を被らなくても、むき出しでいても大丈夫だとわかってきます。

そうなると、むき出し状態のエゴは光にさらされ続け、弱体化していくことになります。

そして、世界から自分が何者かを学ぼうとはしないかぎり、いつかあらゆる自己像が去り、自分が誰なのか知らないと気づくときがやってくるということです。

そのときこそ、大いなる自己を回復し、自らの真の姿である神の子へと戻ることになるのでしょう。




②「実際において正しい自己中になると、本人にはどのような変化が生じ、世界はどう変わるのでしょうか?」

正しく小さな自己に中心が置かれ、清純な仮面を被らずにいると、(通常は、清純な仮面が盾になってブロックされるところ)他者からの非難等を通して、自分がエゴに従う矮小な存在であるということに気づかされ、それでも仮面を被らずにいるとエゴが弱体化していくことになると思います。

さて、大いなる自己に正しく中心が置かれた場合にどうなるかついては、一学習者にすぎない私には答えることはできません。

コースでは、幸せな夢の段階の話が出てきますし、世界が投影された幻であるなら、正しい知覚によって、最終的にはヴィジョンを得て真の世界が姿を現すということになるのでしょう。


ただ、率直に考えてみると、恐らく正しい自己中になれて、大いなる自己に中心を据えることができたら、もはや夢の主人公としての一つの人形にすぎない「本人に」どんな変化が起ころうが、その人形の見る夢の世界がどのように変わろうが、そんなこと知ったことではないという感覚になるのではないでしょうか。

アシュターヴァクラ・ギーター「師」からの詩とラメッシ先生の言葉を引用します。

「40
世界に注意を払っていたら

どうして自分自身を見ることができよう?


師はあれやこれによって心乱されない


彼は自分自身を見る

普遍の真我を」

「74
彼は真我が苦しむことも

死ぬこともないと知っている


だから知識や世界のことを気にかけない


「私は身体だ」や「身体は私のものだ」

という感覚ももたない」

「生命の本当の意味は、生命には意味がないことにあります。それは、ただ起こるだけです。」

「出来事は起こり、行為はなされるが、それについての個人の行為者はいない」

「自由が起こるのは『私が自分自身の意志によって自分の人生を生きている』という愚かな観念と傲慢が落ちるときです。」

自分がどうなるかということを気にしているその自分がいなくなっていないということは、依然として、その人形に仮面が張りついていて、大いなる自己に戻れていないことを示していることになるんだろうと思います。








では、テキストから参考になる箇所の抜粋をご紹介します。



テキスト第三十一章 


V. Self-Concept versus Self
五 自己の概念 対 大いなる自己



1. The learning of the world is built upon a concept of the self adjusted to the world's reality.
 この世界の学びは、この世界の現実に適合するよう調整された自己の概念の上に築かれています。

 It fits it well.
 自己の概念は、この世界の現実にうまく適合しています。

 For this an image is that suits a world of shadows and illusions.
 というのは、この自己の概念は影と幻の世界に適合するように仕立てあげられた一つの肖像だからです。

 Here it walks at home, where what it sees is one with it.
 この世界では、自己が目にするものは、自己と一体をなすものなので、自己はわが家にいるように暮らします。

 The building of a concept of the self is what the learning of the world is for.
 このような自己の概念を構築することこそ、この世界の学習が目的とするところです。

 This is its purpose; that you come without a self, and make one as you go along.
 このような自己概念の構築がその目的であって、あなたは自己を持たずにこの世界にやってきて、成長するにつれてそんな自己を作り上げていくわけです。

 And by the time you reach "maturity" you have perfected it, to meet the world on equal terms, at one with its demands.
 そして、あなたが「成熟」する年齢に達する頃には、あなたはこの世界と対等に向き合って、この世界の要求に応えることができるように自己を完成させているのです。



2. A concept of the self is made by you.
 自己の概念は、あなたによって作られます。

 It bears no likeness to yourself at all.
 自己の概念は、本当のあなた自身にはまったく似ていません。

 It is an idol, made to take the place of your reality as Son of God.
 自己の概念は、神の子としてのあなたの真実の姿に取って代わらせるために作られた偶像です。

 The concept of the self the world would teach is not the thing that it appears to be.
 この世界が教えようとする自己の概念は、見かけどおりのものではありません。

 For it is made to serve two purposes, but one of which the mind can recognize.
 というのは、自己の概念は二つの目的に役立つように作られているのですが、心はそのうちの一つしか見分けることができないからです。

 The first presents the face of innocence, the aspect acted on.
 最初の自己は罪のない無邪気な顔を見せますが、この側面は演じられたものです。

 It is this face that smiles and charms and even seems to love.
 この清純な顔は、微笑み、人を惹きつけ、そして愛しているようにさえ見えます。

 It searches for companions and it looks, at times with pity, on the suffering, and sometimes offers solace.
 この側面は仲間を探し求め、しばしば苦しんでいる者を哀れんだり、ときには慰めを差し延べたりすることもあります。

 It believes that it is good within an evil world.
 この清純な顔は、自らを邪悪な世界の中にいる善であると信じています。


名称未設定

3. This aspect can grow angry, for the world is wicked and unable to provide the love and shelter innocence deserves.
 この側面は、この世界は悪意に満ちており、罪のない者が受けるに値するはずの愛や保護を供給することができていないといって、怒ることができます。

 And so this face is often wet with tears at the injustices the world accords to those who would be generous and good.
 だから、この清純な顔は、この世界が寛大で善良な者たちに対して押しつけている不当な仕打ちについて、しばしば涙を流して濡れています。

 This aspect never makes the first attack.
 この側面が最初に攻撃しようとすることは決してありません。

 But every day a hundred little things make small assaults upon its innocence, provoking it to irritation, and at last to open insult and abuse.
 しかし、毎日のように、その潔白さに対して、たくさんの些細な事柄が、小さく襲いかかってはこの側面を苛立たせ、とうとう最後には、臆面もなく侮辱したり罵倒させるに至ります。




4. The face of innocence the concept of the self so proudly wears can tolerate attack in self-defense, for is it not a well-known fact the world deals harshly with defenseless innocence?
 この自己の概念が実に堂々と装っている清純な顔は、正当防衛としての攻撃であれば、寛大に許容することができます。というのは、この世界が無防備な無実の者に対して無慈悲に対処するということは、周知の事実だからです。

  No one who makes a picture of himself omits this face, for he has need of it.
 自らの肖像を描く際に、この清純な顔を省こうとする者は誰ひとりとしていません。というのも、誰もがこんな清純な顔を必要としているからです。

 The other side he does not want to see.
 彼はもう一つの側面を見たくもないのです。

 Yet it is here the learning of the world has set its sights, for it is here the world's "reality" is set, to see to it the idol lasts.
 しかし、この世界が学ばせようと目をつけているのはここです。というのも、ここにこそ、偶像を存続させようとして、この世界の「現実」が設けられているからです。

名称未設定


5. Beneath the face of innocence there is a lesson that the concept of the self was made to teach.
 清純な顔の下には、それを教えるために自己の概念が作られたレッスンがあります。

 It is a lesson in a terrible displacement, and a fear so devastating that the face that smiles above it must forever look away, lest it perceive the treachery it hides.
 そのレッスンは恐ろしい置き換えをするようにと教えるものです。その恐ろしさはあまりに破壊的なものなので、その上で、顔は笑っていても、表の顔で隠そうとしている裏切りを知覚されないように永遠にその顔を背けていなければならないほどです。

 The lesson teaches this: "I am the thing you made of me, and as you look on me, you stand condemned because of what I am."
 そのレッスンは次のように教えます。「私をこんな代物に作り上げたのはあなただ。だから、あなたが私を見るなら、あなたは私の姿ゆえに死刑の宣告を受けるのだ」と。

 On this conception of the self the world smiles with approval, for it guarantees the pathways of the world are safely kept, and those who walk on them will not escape.
 このような自己の概念を、この世界は微笑みとともに承認します。というのも、このような自己の概念によって、この世界の道が安全に保たれるので、その道を歩む者が逃げ出そうとはしなくなることが保証されるからです。




6. Here is the central lesson that ensures your brother is condemned eternally.
 ここにこそ、あなたの兄弟を永久に有罪にして非難できることを保証する中核的なレッスンがあります。

 For what you are has now become his sin.
 というのは、今や、あなたが何者であるかということが、その兄弟の罪になるからです。

 For this is no forgiveness possible.
 こうなっては、いかなる赦しも不可能となります。

 No longer does it matter what he does, for your accusing finger points to him, unwavering and deadly in its aim.
 もはや、その兄弟が何をしようとそれは問題ではありません。なぜなら、あなたの糾弾の指先は彼に向けられ、揺らぐことなく致命的な的に狙いを定めているからです。

 It points to you as well, but this is kept still deeper in the mists below the face of innocence.
 その指はあなたにも向けられているのですが、このことはまだ清純な顔の下にかかる靄の奥深くに隠されています。

 And in these shrouded vaults are all his sins and yours preserved and kept in darkness, where they cannot be perceived as errors, which the light would surely show.
 そして、この靄に覆い隠された保管庫の中に、彼の罪やあなたの罪がすべて保存されています。闇の中では、光に当てさえすれば、間違いにすぎないと確かにわかるはずの罪が間違いだと知覚できません。

 You can be neither blamed for what you are, nor can you change the things it makes you do.
 あなたは、自分の真の姿ついての責任を追及されることもなければ、罪があなたに行わせることを変えることもできません。

 Your brother then is symbol of your sins to you who are but silently, and yet with ceaseless urgency, condemning still your brother for the hated thing you are.
 こうして、あなたの兄弟は、あなたにとって自分の罪を象徴するものとなり、あなたはただ静かに、それでありながら、絶え間なく執拗に、自分が憎むべき代物になっていることについて、あなたの兄弟のせいだとなおも非難しているのです。

名称未設定


7. Concepts are learned.
 概念というものは学ぶものです。

 They are not natural.
 それらは生得のものではありません。

 Apart from learning they do not exist.
 学ぶことから離れては、概念は存在しません。

 They are not given, so they must be made.
 概念は、与えられたものではないので、作られたに違いありません。

 Not one of them is true, and many come from feverish imaginations, hot with hatred and distortions born of fear.
 概念はどれ一つとして真実ではありません。概念の多くは、恐怖心から生まれた憎悪と歪曲によって昂った熱狂的な想像力から生じます。

 What is a concept but a thought to which its maker gives a meaning of his own?
 概念とは、思いついた人が、それに自分なりの意味を与える単なる思いにすぎないのではないでしょうか。

 Concepts maintain the world.
 このような数々の概念が、この世界を維持しています。

 But they can not be used to demonstrate the world is real.
 しかし、これらの概念を利用して、この世界が本物であることを実証することはできません。

 For all of them are made within the world, born in its shadow, growing in its ways and finally "maturing" in its thought.
 それというのも、概念はすべてこの世界の中で作られたものであり、この世界の影の中で生まれ、この世界の慣行に沿って成長し、ついには、この世界の思いの中に「成熟」していくからです。

 They are ideas of idols, painted with the brushes of the world, which cannot make a single picture representing truth.
 概念は偶像についての考えであって、この世界の筆で描かれたものであり、真理を表現する絵を描写することなど何もできないのです。




8. A concept of the self is meaningless, for no one here can see what it is for, and therefore cannot picture what it is.
 自己の概念には何の意味もありません。というのは、この世界にいる者は誰ひとりとして、自己の概念が何のためにあるのかわからないし、それゆえに、自己の概念が何であるのか描写できないからです。

 Yet is all learning that the world directs begun and ended with the single aim of teaching you this concept of yourself, that you will choose to follow this world's laws, and never seek to go beyond its roads nor realize the way you see yourself.
 しかし、この世界が指導する学習はすべて、あなた自身についての概念をあなたに教え込むことを唯一の狙いとして始まり、そして終わります。それは、あなたがこの世界の法則に従うことを選択し、決してこの世界の道を越えて行こうとはせず、あなたが自分自身を見出す道に気づいてしまうことがないようにするためです。

 Now must the Holy Spirit find a way to help you see this concept of the self must be undone, if any peace of mind is to be given you.
 あなたの心にいくらかでも平安が与えられるためには、今こそ、聖霊はあなたに、この自己の概念を取り消す必要があることをわからせる道を見出さなければなりません。

 Nor can it be unlearned except by lessons aimed to teach that you are something else.
 しかも、あなたがそのような自己の概念以外の存在であることを教えることに狙いを定めたレッスンによらないかぎり、今までに学んでしまったことを取り消すことは不可能です。

 For otherwise, you would be asked to make exchange of what you now believe for total loss of self, and greater terror would arise in you.
 というのは、そうでなければ、あなたは今のところ自分であると信じている自己を完全に喪失してまで交換することを求められているようで、よりひどい恐怖心を抱くことになってしまうからです。

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9. Thus are the Holy Spirit's lesson plans arranged in easy steps, that though there be some lack of ease at times and some distress, there is no shattering of what was learned, but just a re-translation of what seems to be the evidence on its behalf.
 かくして、聖霊のレッスンは簡単なステップでよく整理されており、ときには、いくらか容易でないときや苦しくなったりすることがあるとしても、学んできたことが打ち砕かれるようなことは少しもなく、ただ学んできたことを支持する証拠のように見えるものを解釈し直すだけのものになっています。

 Let us consider, then, what proof there is that you are what your brother made of you.
 それでは、あなたが自分の兄弟に作り上げられたのだとすれば、果たしてそれにはどんな証拠があるか考えてみましょう。

 For even though you do not yet perceive that this is what you think, you surely learned by now that you behave as if it were.
 というのは、ただあなたはまだ自分が兄弟に作り上げられたと自分が考えていると受け入れていないとしても、まるでそうであるかのように自分が振舞っているということぐらい、今では学んでいるはずだからです。

 Does he react for you?
 兄弟はあなたに代わって反応を示すでしょうか。

 And does he know exactly what would happen?
 それに、兄弟は何が起こるのか正確に知っているでしょうか。

 Can he see your future and ordain, before it comes, what you should do in every circumstance?
 兄弟にはあなたの未来がわかっていて、いかなる状況でも、それが起こる前に予め、あなたがどうすべきか決めることができるでしょうか。

 He must have made the world as well as you to have such prescience in the things to come
 これから起こることについて、それほど予知できるとすれば、兄弟は、あなただけではなく、この世界をも作り上げたに違いありません。




10. That you are what your brother made of you seems most unlikely.
 あなたが兄弟によって作り上げられたというのは、とうていありえないことのように思えます。

 Even if he did, who gave the face of innocence to you?
 たとえもし兄弟があなたを作り上げたのだとしても、それではいったい誰があなたに清純な顔を与えたのでしょうか。

 Is this your contribution?
 あなた自身の貢献によるのでしょうか。

 Who is, then, the "you" who made it?
 そうだとすれば、清純な顔を作ったという「あなた」とは、いったい誰のことなのでしょう。

 And who is deceived by all your goodness, and attacks it so?
 それに、あなたの善良さに騙されて、それを攻撃するのは誰なのでしょうか。

 Let us forget the concept's foolishness, and merely think of this; there are two parts to what you think yourself to be.
 馬鹿げた概念のことなど忘れて、ただ、次のことを考えてみましょう。それは、あなたが自分自身であると考えているものには二つの部分があるということです。

 If one were generated by your brother, who was there to make the other?
 もし一方があなたの兄弟によって生み出されたとすれば、誰がもう一方を作ったのでしょう。

 And from whom must something be kept hidden?
 そして、誰から、何かを隠しておかなければならないのでしょうか。

 If the world be evil, there is still no need to hide what you are made of.
 もしこの世界が邪悪なところであったとしても、依然として、あなたが何から作り上げられたのか隠しておく必要などないはずです。

 Who is there to see?
 それを見る誰がいるというのでしょう。

 And what but is attacked could need defense?
 それに、攻撃されているものしか、防衛を必要とすることはありえないのではないでしょうか。


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11. Perhaps the reason why this concept must be kept in darkness is that, in the light, the one who would not think it true is you.
 おそらく、この概念を闇の中に保っておかなければならない理由は、光の中にあったなら、あなたはこの概念が本当だとは思わなくなってしまうはずだからです。

 And what would happen to the world you see, if all its underpinnings were removed?
 それに、もしあなたの目にする世界を支えている土台がすべて取り除かれてしまったとすれば、あなたの見ているこの世界はどうなってしまうでしょうか。

 Your concept of the world depends upon this concept of the self.
 この世界についてのあなたの概念は、この自己の概念に基づいています。

 And both would go, if either one were ever raised to doubt.
 だから、もしどちらであれ、少しでも疑問を抱かれたなら、この世界についてのあなたの概念も自己の概念も両方とも消えてしまうでしょう。

 The Holy Spirit does not seek to throw you into panic.
 聖霊はあなたをパニック状態に投げ込もうとしているわけではありません。

 So He merely asks if just a little question might be raised.
 本当にただ、ちょっとだけ質問してみたらどうかと尋ねているだけです。




12. There are alternatives about the thing that you must be.
 あなたのあるべき姿にしても、選択の余地はあります。

 You might, for instance, be the thing you chose to have your brother be.
 たとえば、あなたは、あなたが自分の兄弟にならせることを選択したものであるかもしれません。

 This shifts the concept of the self from what is wholly passive, and at least makes way for active choice, and some acknowledgment that interaction must have entered in.
 これは、自己の概念をまったく受動的なものから変化させ、少なくとも能動的に選択することに道を開きます。そして、あなたと兄弟との間に相互作用があったに違いないと認めることに道を開くことになります。

 There is some understanding that you chose for both of you, and what he represents has meaning that was given it by you.
 そこには、あなたが自分たち二人のために選んだということへのいくらかの理解があり、そして、兄弟が表している姿にはあなたによって与えられた意味が備わっていることについてのいくらかの理解があります。

 It also shows some glimmering of sight into perception's law that what you see reflects the state of the perceiver's mind.
 それはまた、あなたたちが目にするものは、それを知覚する者の心の状態を反映するという知覚作用の法則を垣間見せてくれます。

 Yet who was it that did the choosing first?
 さて、最初に選んだのは誰だったのでしょうか。

 If you are what you chose your brother be, alternatives were there to choose among, and someone must have first decided on the one to choose, and let the other go.
 もしあなたが、自分の兄弟にならせることを選んだ存在になっているとすれば、その中から選ぶことのできるいくつもの選択肢が存在していたことになります。そうだとすれば、誰かが最初にある選択肢を選ぶことに決めて、他の選択肢を放棄することに決めたに違いありません。

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13. Although this step has gains, it does not yet approach a basic question.
 この段階では、得るものはあるにしても、まだ根本的な問題には接近してはいません。

 Something must have gone before these concepts of the self.
 何かがこのような自己の概念に先行して存在したに違いありません。

 And something must have done the learning which gave rise to them.
 そして、何かが自己の概念を生み出すようになることを学習したに違いないのです。

 Nor can this be explained by either view.
 このことは、どちらの観点によっても説明することはできません。

 The main advantage of the shifting to the second from the first is that you somehow entered in the choice by your decision.
 最初の方法から二番目の方法へと移る主な利点は、どうにか自分自身で決めて、その選択をしたということです。

 But this gain is paid in almost equal loss, for now you stand accused of guilt for what your brother is.
 しかし、こうした利点には、その利点とほとんど同等の損失を伴います。というのも、今やあなたは自分の兄弟が何であるかについて責任があると非難される立場に立つことになるからです。

 And you must share his guilt, because you chose it for him in the image of your own.
 そして、あなたは自分自身について抱く姿に沿って、彼のために彼が有罪だとの姿を選んだがゆえに、彼の罪悪感も分かち合わなければならなくなります。

 While only he was treacherous before, now must you be condemned along with him.
 以前は、彼だけが危険な存在でしたが、今ではあなたも彼と一緒に非難を受けなければならなくなってしまいます。




14. The concept of the self has always been the great preoccupation of the world.
 自己の概念は、この世界がつねに大いに没頭してきたことです。

 And everyone believes that he must find the answer to the riddle of himself.
 そして、誰もが、自分自身についての謎に答えを見つけなければならないと信じています。

 Salvation can be seen as nothing more than the escape from concepts.
 救いは、このような自己の概念から逃れることにほかならないと見ることができます。

 It does not concern itself with content of the mind, but with the simple statement that it thinks.
 救いは、心の内容に対処するのではなく、その心が考えるという単純な事実に対処します。

 And what can think has choice, and can be shown that different thoughts have different consequence.
 そして、考えることのできる心は、選択することができます。そして、考えることのできる心は、異なる思いは異なる結果を持つということを理解することができます。

 So it can learn that everything it thinks reflects the deep confusion that it feels about how it was made and what it is.
 したがって、考えることのできる心は、自らが思いつくことはすべて、心がどのようにして作られたのかとか、心とは何なのかについての深い混乱の反映であるということを学ぶことができます。

 And vaguely does the concept of the self appear to answer what it does not know.
 だから、ぼんやりとですが、心が知らないことについて、自己の概念が答えているように見えてきます。

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15. Seek not your Self in symbols.
 あなたの大いなる自己を、象徴の中になど探そうとしてはなりません。

 There can be no concept that can stand for what you are.
 象徴の中には、あなたの真の姿を表現できるような概念は一つもありえないのです。

 What matters it which concept you accept while you perceive a self that interacts with evil, and reacts to wicked things?
 あなたが自己のことを邪悪なものと互いに影響し合うものとみなして邪悪な物事に反応する間は、どのような概念を受け入れようがそんなことは重要なことではありません。

 Your concept of yourself will still remain quite meaningless.
 あなたの抱く自分自身についての概念は、依然として完全に無意味なものであり続けることに変わりはないのです。

 And you will not perceive that you can interact but with yourself.
 そして、あなたは、相互に影響を与え合うことができるのは自分自身とだけなのだとは理解できないでしょう。

 To see a guilty world is but the sign your learning has been guided by the world, and you behold it as you see yourself.
 罪のある世界が見えるということは、あなたの学習がこの世界によって導かれてきたという印にすぎません。そして、あなたはこの世界のことを、自分自身を見るように見ているのです。

 The concept of the self embraces all you look upon, and nothing is outside of this perception.
 自己の概念はあなたの見るすべてのものを包含しています。そして、この知覚の外側にあるものは何ひとつありません。

 If you can be hurt by anything, you see a picture of your secret wishes.
 もしあなたが何かに傷つけられうるとすれば、あなたは自分が裏に隠した願望が描き出されたものを見ているのです。

 Nothing more than this.
 それ以上の何ものでもありません。

 And in your suffering of any kind you see your own concealed desire to kill.
 そして、どのような種類であれあなたが苦しみの中にあるときは、あなたはその中に自分自身の殺したいという隠れた願望を見ているのです。




16. You will make many concepts of the self as learning goes along.
 学習が進むに従って、あなたは色々な自己の概念を作り上げることでしょう。

 Each one will show the changes in your own relationships, as your perception of yourself is changed.
 あなたの自分自身に対する見方が変わるにつれて、あなたの作った自己の概念の一つひとつが、あなた自身の関係に生じる変化を見せてくれます。

 There will be some confusion every time there is a shift, but be you thankful that the learning of the world is loosening its grasp upon your mind.
 変化が起きるたびに多少の混乱はあるとしても、この世界での学習が、あなたの心に対する掌握力を失いつつあるということに感謝するがいいでしょう。

 And be you sure and happy in the confidence that it will go at last, and leave your mind at peace.
 そして、やがて、この世界で学んできたことが去って、あなたの心は平安になると確信して幸福に思うがよいのです。

 The role of the accuser will appear in many places and in many forms.
 糾弾者の役目を持った者が、いろんな場所に、様々な形をとって現われてくるでしょう。

 And each will seem to be accusing you.
 そして、その一人ひとりがあなたを非難しているように思えるでしょう。

 Yet have no fear it will not be undone.
 しかし、そんな非難が取り消されないままになるのではないかと恐れることはありません。

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17. The world can teach no images of you unless you want to learn them.
 あなたが学びたいと思わないかぎり、この世界はあなたの肖像を教えることはできません。

 There will come a time when images have all gone by, and you will see you know not what you are.
 やがて、すべての肖像が去り、自分が何者なのか知らないということに気づくときがやってくるでしょう。

 It is to this unsealed and open mind that truth returns, unhindered and unbound.
 この封印を解かれた開かれた心の許にこそ、真理が何の障害や束縛もなく蘇ってきます。

 Where concepts of the self have been laid by is truth revealed exactly as it is.
 自己の概念が脇に置かれたところにおいてこそ、真理はまったくあるがままの姿を明らかにします。

 When every concept has been raised to doubt and question, and been recognized as made on no assumptions that would stand the light, then is the truth left free to enter in its sanctuary, clean and free of guilt.
 すべての概念が疑念や質問にさらされて、光に耐えられるような仮定に基づいてはいないと認めたら、真理は清浄で罪が入り込めない自らの聖域に自由に入ることができます。

 There is no statement that the world is more afraid to hear than this:
 次の宣言ほど、この世界が耳にするのを恐れているものはありません。


"I do not know the thing I am, and therefore do not know what I am doing, where I am, or how to look upon the world or on myself."
「私は何者なのか、私にはわかりません。そのために、私は自分が何をしているのか、どこにいるのか、どのようにこの世界や自分自身を見たらいいのかわかりません」


 Yet in this learning is salvation born.
 しかし、こうしたことを学ぶことで、救いが生じるのです。

And What you are will tell you of Itself.
 そして、真のあなたである大いなる存在が、あなたに自らの姿を告げてくれることでしょう。




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1 Comments

Kino says...""
2つの仮面(顔)のお話と、この世界からの要請のお話は、心当たりがある分とても解かりやすかったです。理解を体験に変えるべく日々を生き、ワークブックに取り組んでいきたいと思います。ご回答、有難うございました!
2013.07.31 12:33 | URL | #- [edit]

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