There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

必要のない「犠牲」とは?

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奇跡のコースでは、犠牲という概念を認めません。
 
ですが、愛に基づく犠牲的行為を目にすると、私たちは胸を打たれます。


幸福の王子幸福の王子
(2006/11/29)
オスカー・ワイルド

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 幼いころに、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」を読んで、感動した子供時代の思い出のある方も多いと思います。王子や燕は、身を捧げる自分の尊さに酔いしれてなどいませんでしたし、自分の体から外して捧げた宝石を失うという意識もありませんでした。真に相手に一体感を抱いているゆえに、困った誰かの喜びを自分自身の喜びと感じていました。
 
 コースは、そんな思いや行動、そして、それを目にした者たちが抱く感動は間違いだというのでしょうか。
 

 道路に突然飛び出してしまった幼児を助けようと本能的に車の前に飛び込んでいくお母さんの行動は、コースが必要ないという「犠牲」なのでしょうか。親が危険に瀕した我が子を救うために我を忘れて本能的に身を捧げることは間違いなのでしょうか。

 そんなことはないと思います。

 コースの否認する「犠牲」はエゴの持つ概念としての犠牲です。

 自他を分離した存在と見て、恐怖と欠乏の信念に囚われていると、何かを得るために、自分の持つ限られたものを代償として差し出さなければならない、自分の尊い犠牲を埋め合わせるために、もっと賞賛を受けて当然だという発想になります。
 そうすると、自分や誰かのために、何かを代償として差し出したときには、自分は、神聖なる犠牲的行為に対する報いを神から受けるに相応しいという思いが生じます。これを裏返せば、自分が神と取引をしているという思いに駆られるということです。そうなると、罪悪感を抱くことを免れません。
また、特別な関係においては、自分がこれだけ相手のためにしてあげたのだから、相手も自分に対して犠牲を差し出すべきだし、自分に対して罪悪感を持ってしかるべきだという発想になります。
 このように、エゴに振り回されて、本当の愛に基づく思いを捻じ曲げてしまう「犠牲」をコースは認めないのです。
 
 これに対して、ただ愛のみが存在し、神の現実は豊饒さで溢れていて、本当はみんなが一体であるとすれば、神の子の一部が他の一部のために慈悲に基づいて何かを差し延べることは当然のことであって、まったく犠牲という表現自体があてはまりません。

 むしろ、真に自他が一体であるという思いから、そして、本当の自分が欠乏から免れた豊饒さに満ち溢れているという思いから、一時的に自分よりも少なく持っている人に対して、その時点で、たまたま持ち合わせている自分から何かを捧げることは、自分から自分に対しての贈り物を差し延べることであって、コースが勧めていることです。

 とはいえ、ここまで繰り返しコースが犠牲は必要ないということを強調するのは、人類の罪を贖うためにキリストが十字架にかかったという教えの中の誤りを修正する必要が極めて強いからでしょう。
 また、犠牲的行為という美名は、エゴにとって麻薬のように魅力的なものであるはずであり、真の愛に基づく献身を「犠牲」という言葉で表現すると、概念の混同を招くばかりです。
 このような意味で、コースは「犠牲」は必要ないと言っているのではないかなと思いました。
 
 


※テキスト 第四章 二 エゴと間違った自律
「4. 動物の我が子に対する愛情とか、動物が我が子を守らねばならないと感じることについて考えてみてください。

 動物わが子を守ろうとするのは、動物が子どものことを自分の一部だとみなすからです。

 誰も自分自身の一部であると考えるものを追い払おうとするようなことはしません。

 あなたは、自分のエゴに対して、神が自らの創造物を愛し、守り、思いやって反応するのとほとんど同じように反応します。

 自分が作った自己に対するあなたの反応の仕方は驚くに値しません。

 それどころか、あなたの反応の仕方は、色々な点で、あなたと同じように時間を超越しているあなたの真の創造物に対して、いつの日かあなたが示す反応に似たところがあります。

 問題は、あなたがエゴに対してどのように反応するかではなくて、あなたが自分のことを何であると信じるかです。


 信じることはエゴの働きです。だから、あなたの素性についてあれこれと信じる余地が残っている限り、あなたは自分が何であると信じるかという問題をエゴの観点から見ていることになります。

 教えがもはや必要でなくなったとき、あなたは、ただ単に神を知ることになります。

 他にも知覚の仕方があると信じることは、エゴの思考でも抱くことができる最も高尚な想念といえます。

 その理由は、他の知覚の仕方があると信じることには、エゴが真の自己ではないと気付くためのヒントが含まれているからです。」

※テキスト 第三章 犠牲を伴わない贖罪
「4. 犠牲という観念は、断じて神の与り知らない概念です。

 犠牲という観念は、恐れからしか生じないし、恐怖に怯える者たちは非情にもなり得ます。

 いかなる形の犠牲的行為であっても、それは、「天の父が慈悲深くあるように、あなたも慈悲深くあるように」との私が与えた訓令に違反することです。

 ここで言われていることが自分自身に当てはまると理解するのは、多くのキリスト信者にとって、ずっと困難なことでした。

 よい教師は、決して生徒を怯えさせるようなことはしません。

 恐がらせることは攻撃することであり、結果的には、教師が教えようとすることを生徒に拒絶させてしまいます。

 その結果、学習は失敗に終わるのです。」

※テキスト 第十五章 十一 犠牲の終焉としてのクリスマス
「4. 犠牲になることが愛だと信じるあなたは、犠牲になることは愛から離れることであるということを学ばなければいけません。

 なぜなら、愛が平安をもたらすのと同じくらい確実に、犠牲は罪悪感をもたらすからです。

 平安があなたと神の繋がりを自覚するための条件であるように、罪悪感は犠牲の条件です。

 罪悪感を通じて、あなたは、自分の父と兄弟たちを自分自身から締め出してしまいます。

 平安を通じて、あなたは、みんなに戻ってもらうよう招きます。平安の中にあるあなたには、自分が来て欲しいと招いたところに既に彼らがいることが分かるからです。

 あなたが自分自身から締め出そうとするものは、恐ろしいものに見えます。なぜなら、あなたはそれが自分の一部であるにもかかわらず、それを恐ろしいものであると決めつけて放り出そうとしているからです。

 自分自身の一部を唾棄すべきものとして知覚しておきながら、自分自身の中に心安らかに過ごせる者などいるでしょうか。

 それに、天国を放り出して、それに地獄の特性を与えておきながら、自分の内なる天国と地獄の「葛藤」を解消しようとして、自分が不完全で孤独であると感じないでいられる者などいるでしょうか。

7. 神聖な瞬間において、愛の条件が満たされます。というのは、そのとき心と心は身体に邪魔されることなく結び付き、そして、コミュニケーションのあるところには必ず平安があるからです。

 平安の王子は、あなたが肉体をコミュニケーションに不可欠な手段だとみなさなければ、たとえ肉体は破壊されても、コミュニケーションは中断されることなく存続するのだと教えることによって、愛の条件を回復させるために誕生したのです。

 そして、もしあなたに肉体はこのレッスンが理解できたなら、あなたは、肉体を断念することは何も犠牲にすることにならないし、心に属するコミュニケーションは決して犠牲になることはあり得ないと悟るでしょう。

 そうだとすれば、一体、犠牲はどこにあるのでしょうか。

 私がそれを教えるために生まれ、そして、これからも兄弟全員に教えるレッスンは、犠牲はどこにも存在せず、ただ愛だけが至るところに存在するというものです。

 なぜなら、コミュニケーションはありとあらゆるものを包含するし、コミュニケーションが再び確立した心の平和の中には、愛が独りでにやって来るからです。」

※テキスト 第十五章 七 必要のない犠牲
「6. 結局のところ、エゴが作り出す関係はどれもみな、己を犠牲にすることによってエゴがより大きくなることができるとの考えに基づいています。

 その「犠牲」をエゴは浄化と見なしますが、実のところ、それはエゴが痛烈な恨みを抱く根源となります。

 なぜなら、エゴは本当に欲しいものを手に入れるのを遅らせることを避けるために、直接的に攻撃することを好むからです。

 しかし、エゴは「現実」を自分にそう見える通りのものであると認識しているので、エゴは直接的に攻撃することを誰も愛とは解釈するはずがないと気付いています。

 しかし、罪悪感を抱かせるということは、たとえそうは見えなくても、直接に攻撃することなのです。というのは、罪悪感を抱く者は攻撃されるものと予期し、攻撃されることを求めてしまうので、攻撃に惹き付けられてしまうからです。

7. そんな狂気の関係にあると、あなたが望まないものの魅力の方が、あなたが本当に望むものの魅力よりもずっと強いように見えてしまいます。

 なぜなら、各自が互いに、自分は相手のために何かを犠牲にしてきたと思い、そのことで相手のことを憎んでいるからです。

 それにもかかわらず、その人は、これこそ自分が望むことだと思っているのです。

 その人は相手のことを少しも愛してなどいません。

 彼は単に、自分は犠牲になることを愛しているのだと信じ込んでいるだけです。

 そして、彼は自分自身に課した犠牲を払うのだから、相手は自分の払う犠牲に対して罪悪感を受け入れるべきだし、彼と同じように相手も自分を犠牲にすべきだと要求します。

 誰かを赦すということは、その相手を失うことだとエゴは信じているので、赦しは不可能になります。

 赦すことなく攻撃することによってしか、エゴはその全ての関係を束ねてまとまりを持たせてくれる罪悪感を確保することができないのです。

8. ただし、エゴの関係にある者同士は一緒にいるように見えるだけです。

 というのも、エゴにとって、関係があるというのは、単に身体と身体が一緒にいることを意味するだけからです。

 エゴが要求するのは常にこれだけで、心がどこに行こうが何を考えようが、そんなことはエゴにとっては重要には思えないので、エゴは気にも留めません。

 身体がそこにあってエゴの犠牲を受け入れてくれさえすれば、エゴはそれで満足します。

 エゴにとっては、心は個人的なものであり、ただ身体だけが分かち合うことができるものです。

 ある想念が他の人の身体を近付けるか遠ざけるかということを除いては、エゴは基本的に想念には何の関心も持ちません。

 だから、身体的な距離への影響という観点において、エゴは良い想念だと評価したり、悪い想念だと評価したりします。

 エゴにとって、誰かに罪悪感を抱かせて、それによって彼を引き留めてくれる想念が「良い」想念です。

 彼を罪悪感から解放してしまうのは「悪い」想念です。なぜなら、彼はもはや身体がコミュニケーションを取るとは信じられなくなり、その結果として、彼は「去って」しまうからです。

9. 苦悩と犠牲は、エゴが全ての関係性を「祝福」する贈り物です。

 そして、エゴの祭壇で結ばれる者たちは、その苦悩と犠牲を自分たちの結び付きのための代償として受容します。

 孤独を恐れるがゆえに生まれながら、なおも孤独を継続することに身を捧げざるを得ない怒りの同盟において、各自が相手方の罪悪感を増大させることで自分の罪悪感を軽減しようとします。

 というのも、そうすることでどちらも、自分自身の罪悪感を減らせられると信じているからです。

 多分、取るに足りない方法で、そして、多分、「無意識」に、しかし、常に犠牲を要求しながら、相手は常に自分のことを攻撃したり傷付けたりしているように思えて来ます。

 エゴの祭壇で一緒になった者たちの憤怒は、あなたがそれを意識している程度を遥かに越えたものです。

 なぜなら、あなたはエゴが何を本当に望んでいるのか気付いてはいないからです。
10. あなたが怒っているときには必ず、あなたはエゴが「祝福」する特別な関係を形成してしまったものと考えて間違いありません。なぜなら、怒りこそエゴの祝福だからです。

 怒りは色々な形態を取ります。しかし、愛は罪悪感を全く伴わないので、罪悪感を持つならば、それは愛ではなく怒りに違いないと学んだ者たちを、そう長くは怒りが欺き続けることはできません。

 あらゆる怒りは、誰かに罪悪感を抱かせようとする試みにすぎません。そして、ただこんな試みこそが、特別な関係のためにエゴが受け入れる唯一の基盤です。

 罪悪感こそエゴが唯一必要とするものであり、あなたがエゴと一体化している限り、罪悪感はあなたはとって魅惑的であり続けるでしょう。

 しかし、これだけは覚えておいてください。すなわち、身体と一緒にいることがコミュニケーションなわけではないということです。

 もしあなたが身体と一緒にいることがコミュニケーションであると思っているなら、あなたはコミュニケーションを行うことに罪悪感を抱き、聖霊の声に耳を傾けることを怖がるようになります。なぜなら、あなたは聖霊の声の中に、コミュニケーションをしたいという自分自身の思いに気付くからです。
11. 聖霊は恐れを通して教えることはできません。

 そして、あなたがコミュニケーションを取ると自分が孤独になってしまうと信じているというのに、どうして聖霊があなたとコミュニケーションできるというのでしょうか。

 コミュニケーションを取ることによって自分が見捨てられてしまうと信じるなど、明らかに狂気の沙汰です。

 ところが、多くの者がコミュニケーションを取ると自分を放棄することになってしまうと信じているのです。

 その理由は、彼らは、自分の心を自分だけの内密なものとして保っておかない限り、自分の心を失ってしまうと考えていながらも、もし彼らの身体と身体を一緒にしておきさえすれば、彼らの心は自分だけのものにしておけると思い込んでいるからです。

 かくして、身体同士の結合が、心と心を別々に離しておくための方法となったのです。

 なぜなら、身体が赦すことなどできないからです。

 身体は心の指図する通りに行動することしかできないのです。」



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