T5-5 エゴは罪悪感をどうやって利用するの?


Guilt’s just your ego’s way of tricking you into thinking that you’re making moral progress.
罪悪感を抱かせることは、あなたに自分がより道徳的になれたように思い込ませるために、あなたのエゴがあなたを騙すために使う方法なの。

Don’t fall for it, my dear.
親愛なるあなたには覚えておいてほしい。そんなエゴの手に引っかかっちゃだめよ。

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Elizabeth Gilbert
エリザベス・ギルバート




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テキストから、エゴが罪悪感をどのように利用するのかについて説明する一節をご紹介します。



エゴの目的と目的達成手段

エゴの目的は、恐怖を抱かせることだということが述べられます。

その理由は、怯えるものだけが利己的になりうるからという、とても納得のいくものです。

エゴの道具の中でも、最大の武器が罪悪感です。

そして、罪悪感は神に対する攻撃の象徴と言えます。

というのは、分離そのものであるエゴは、神の一体性を攻撃して分離という罪をを達成したと信じ、神を攻撃して分離するという罪を犯した罪悪感と神罰を恐れているからです。

過去の罪、現在の罪悪感、未来の恐れ、というふうに、罪というひとつの観念が時制によってその姿を変えます。



罪は実在性を持たない

しかし、罪とは神聖さの対概念であっても、神聖さのような積極的な実在性は持たない単なる観念で、神聖さの欠けた状態に名前をつけただけのもので、神聖さに対応する実体を持たない無、幻想でしかありません。この仕組みは、愛と愛の不在である恐れその他の、実在と実在の不在との関係性とまったく同じです。

私たちが、罪が神聖さの欠けた状態でしかなく、実体のない錯覚で、積極的な攻撃は無なのだと気づいたら、私たちは、すぐに放っておいても、神聖さの欠けた状態を神聖さで満たして修正しようとするはずです。

これは、エゴの破滅を意味します。

エゴは、私たちに罪悪感を抱かせて、私たちに恐怖を植え付けてエゴとの一体化を強固にし、分離が確固たる真実だと信じさせて、私たちから罪が錯覚だと気づくチャンスを奪って、自らの存続を図ろうとします。



罪悪感を抱く思考は妄想に陥っている

しかし、罪悪感を抱く精神状態は、混乱した不自然な思考です。

というのも、神に罪悪感などなく、実在するのは大いなる心だけなので、罪悪感を抱く思考をしているということは、私たちが神の思考とは違う思考、つまり、実在しない無、幻想の存在になってありもしない幻を空想しているということだからです。

これに対して、神の子は神とひとつの大いなる心を持っているだけなのだから、神とともに思考することはありのままの最も自然な状態で、神に罪悪感などないので、この神とともに思考する自然な状態では罪悪感はありえません。



自分独自の思考という錯覚から脱する

ということは、私たちがエゴの道具である罪悪感の縛りから逃れるために必要なのは、偽りの状態である自分独自の思考をしているという錯覚状態から、神とともに思考するという真の状態に戻ることだということになります。

私たちもエゴも、神の法を自分の「望むように」解釈することはできても、神の法を破ることはできません。

神の法とは、自分の拡張するものが自分の現実となるというもので、エゴはこれを自分の投影するものが自分の現実となると解釈しています。



「何を望むのか」

したがって、「何を望むのか」という問いに答えなければなりません。



これはエゴを選ぶのか聖霊を選ぶのかの選択です。

エゴを選ぶなら、罪悪感をはじめとするありもしない幻想を自分にとっての現実にすることになります。光源の前にスライドを置いたままにすることです。

聖霊を選ぶなら、実在しないものをその通り、無として見極めて無視し、実在するものだけを現実とすることになります。光源の前からスライドを除去することです。

つまり、罪悪感は無であり、罪も恐れもないということが現実となります。



定義に振り回されない

さて、罪悪感を手放すようにとのコースの教えに対して、多少なりとも反発を覚えるのが自然で素朴な反応なはずです。

悪いことをしたと自らを省みることを放棄したのでは、良心を失って成長することもできなくなってしまうではないかと素朴に思うからです。

当然、そのような意味での罪悪感は捨て去るべきではありません。

ここはいつも、犠牲や共感、特別な関係等々、コースが否認する概念について述べているように、言葉の意義を一般的な定義どおりに捉えて、機械的にそれをあてはめて否定するという発想では、イェシュアの意図を損なってしまうことになります。

要点は、コースが否認するのは実在の不在、光が間違って当たってできた影を消すことであって、必要なのは、その概念を攻撃して消滅させようとすることではなく、正しく光を当てて聖霊の役に立つ道具へと昇華させることです。


その点で、その概念の一般的定義から離れて、実在の不在として否認すべき概念としてその言葉を用いることでイェシュアが意図することを考えて、そこから再定義し、コースで云うその概念があてはまる類型とあてはまらない類型を区別しておくことは有益でしょう。



罪悪感の類型化

そこで、罪悪感についても当然、全否定すべきではないので、類型化が役に立ちます。

コリン・C.ティッピングさんが「自分をゆるすということ」109ページ〜で紹介してくださっている類型を以下、引用しておきますので、参考にしてみてください。




「〈正当な罪悪感〉
 社会の約束ごとを破った場合、わたしたちは罪悪感を覚えるべきです。たとえば、酔っ払って無謀な運転をして人をひき殺してしまった場合、それに対して罪悪感を覚えるのが当然です──悪いことをし、それによって致命的な結果を招いてしまったのですから。この場合、わたしたちの抱く罪悪感は正当なものです。このように罪悪感を覚えることがわたしたちの責任のとり方であり、自己弁護の形を決定づけるやり方です。罪悪感こそが、わたしたちがまともな良心をもっていることの証しです。罪悪感はわたしたちの教師の役目を果たしているのです。〈不当な罪悪感〉これに対して、安全運転をしている最中に突然自転車が目の前に飛び出してきて、避けることも車を止めることもできずに相手を死なせてしまった場合、その罪悪感は正当なものではありません。打ちひしがれ、後悔の気持ちに駆られるのはもっともですが、罪悪感を覚えるのは筋が違います。この状況は罪悪感を抱くに値しない──すなわち、わたしたちは罪悪感を覚える必要がないのであって、裁く自我にそのことを伝えなければなりません。なぜなら、わたしたちに非がなくても、裁く自我は事故が起きたとたん、まるで鬼の首でも取ったかのように声高に非難しはじめるからです。
 このように、わざとしたのではないことや不可抗力による行為、時分に責任のない、あるいは責任をとることのできない事柄について自分を責めたときに、不当な罪悪感が生まれます。あなたは、誰かがこんなふうに言うのを聞いたことがあるでしょう──「そうさ、でももしあのとき、こうしてさえいたら……」「あのとき〜しておくべきだったのに」。出来事が起こる前からそんなことが予測できたはずがないにもかかわらず、です。

 不当な罪悪感のひとつに、「生存者の罪悪感」があります。たとえば火事で大勢の人が亡くなった場合、生き残った人は逃げられた自分に罪悪感を覚えます。戦闘で仲間を失い、生還した兵士も同じような罪悪感に悩まされる。彼らの頭の中では、常に疑問が渦巻いています──なぜ自分だけが生き残ったのだ、と。

 「暗示の罪悪感」は、誰かにほのめかされて罪悪感を覚えるときに生まれます。他人から責められているように感じると、人はたとえ身に覚えがなくても罪悪感を覚えます。とりわけ、自分を責めているように感じる相手のそばにいるときはなおさらです。これはまったく不当な罪悪感です。とはいえ、そうした暗示を無視することはなかなかできないし、とくに社会全体からおまえは悪いことをしたのだとほのめかされた場合は、拭い去るのは困難です。

 「連帯の罪悪感」は、自分と関係のある人々の行動に対して罪悪感を覚える場合に生じます。子どものしでかしたことに対して罪悪感を抱く親が顕著な例です(しかしなかには、自分はよい親ではないという正当な罪悪感を抱く人もいます)。

 「投射された罪悪感」はとくに危険です──巻き込まれてはいけません! これは、罪悪感を抱えている他人がそれを自分で受け止めず、わたしたちに投射するときに生じるものです。このような投射にはしばしば、激しい非難と罪悪感が含まれています。この罪悪感も、もちろん不当な罪悪感です。」



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テキスト第五章 

V. The Ego's Use of Guilt
五 エゴの罪悪感の利用法



1. Perhaps some of our concepts will become clearer and more personally meaningful if the ego's use of guilt is clarified.
 もしエゴが罪悪感をどのように利用するのか明確にできたら、おそらく私たちの取り組むいくつかの概念がより明瞭になるし、より個人的に有意義なものになるはずです。

 The ego has a purpose, just as the Holy Spirit has.
 ちょうど聖霊に目的があるのと同じように、エゴにも目的があります。

 The ego's purpose is fear, because only the fearful can be egotistic.
 エゴの目的は恐怖です。なぜなら、恐れる者だけが利己的になれるからです。

 The ego's logic is as impeccable as that of the Holy Spirit, because your mind has the means at its disposal to side with heaven or earth, as it elects.
 聖霊の論理と同じように、エゴの論理には一分の隙もありません。なぜなら、あなたの心はその選択次第で思うままに、天と地のいずれの側にも与しうるに足る手段を持っているからです。

 But again, remember that both are in you.
 しかしもう一度、聖霊もエゴも両方とも、あなたの中にあることを思い出してください。



2. In heaven there is no guilt, because the kingdom is attained through the Atonement, which releases you to create.
 天国には罪悪感などありません。なぜなら、王国は贖罪を通じて獲得されるのであり、その贖罪が創造するためにあなたを解放してくれるからです。

 The word "create" is appropriate here because, once what you have made is undone by the Holy Spirit, the blessed residue is restored and therefore continues in creation.
 ここでは「創造する」という言葉を用いるのが適切です。なぜなら、いったんあなたの作ったものが聖霊によって取り消されたら、残りのものが祝福されて回復して元通り創造を継続するようになるからです。

 What is truly blessed is incapable of giving rise to guilt, and must give rise to joy.
 真に祝福された者は罪の意識を引き起こすことはありえないので、喜びを生み出すはずです。

 This makes it invulnerable to the ego because its peace is unassailable.
 この喜びは、真に祝福された者をエゴによって傷つくことのない存在にします。なぜなら、真に祝福された者の平安は、何ものにも攻撃されえないものだからです。

 It is invulnerable to disruption because it is whole.
 真に祝福された者は完全であるので、分裂することを免れています。

 Guilt is always disruptive.
 罪悪感はつねに分裂を引き起こしてしまいます。

 Anything that engenders fear is divisive because it obeys the law of division.
 恐れを引き起こすものは何であれ分裂的です。なぜなら、それは分裂の法則に従うからです。

 If the ego is the symbol of the separation, it is also the symbol of guilt.
 もしエゴが分離の象徴であるとすれば、エゴはまた罪悪感の象徴でもあります。

 Guilt is more than merely not of God.
 罪悪感は、単に神に属さないだけにとどまりません。

 It is the symbol of attack on God.
 罪悪感は、神に対する攻撃の象徴なのです。

 This is a totally meaningless concept except to the ego, but do not underestimate the power of the ego's belief in it.
 神への攻撃という概念は、エゴにとって以外はまったく意味をなしません。しかし、神への攻撃という概念を信じるエゴの力を見くびってはなりません。

 This is the belief from which all guilt really stems.
 これこそが、実にすべての罪悪感を生み出す元凶となる信念だからです。

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3. The ego is the part of the mind that believes in division.
 エゴとは、分裂を信じる心の一部分のことです。

 How could part of God detach itself without believing it is attacking him?
 どうやって神に属する一部分が自らを神から分離させておきながら、自分は神を攻撃していると信じずにいられるでしょうか。

 We spoke before of the authority problem as based on the concept of usurping God's power.
 私たちは以前に、神の力を奪うという概念に基礎を置くものとして権威問題について語りました。

 The ego believes that this is what you did because it believes that it is you.
 エゴは、自分はあなただと信じているので、神の力の簒奪はあなたが成し遂げたことだと信じています。

 If you identify with the ego, you must perceive yourself as guilty.
 もしあなたが自分をエゴと同一視するなら、あなたは自分が罪を犯したと知覚せざるをえません。

 Whenever you respond to your ego you will experience guilt, and you will fear punishment.
 だから、あなたが自分のエゴに反応するたびに、あなたは罪悪感に苛まれて、罰せられることを恐れるようになります。

 The ego is quite literally a fearful thought.
 エゴは、きわめて文字どおりの意味で、恐怖の思考です。

 However ridiculous the idea of attacking God may be to the sane mind, never forget that the ego is not sane.
 正気の心にとって神を攻撃するという想念がどれほど馬鹿げたものにしか思ないとしても、エゴが正気ではないことを決して忘れてはなりません。

 It represents a delusional system, and speaks for it.
 エゴは、妄想のシステムを体現しているので、妄想のシステムを弁護しようとします。

 Listening to the ego's voice means that you believe it is possible to attack God, and that a part of him has been torn away by you.
 エゴの声に耳を貸すことは、神を攻撃することが可能であり、現に自分は神の一部分を引き裂いたのだとあなたが信じることを意味します。

 Fear of retaliation from without follows, because the severity of the guilt is so acute that it must be projected.
 外部から報復されることに対する恐れがそれに引き続いて生じます。なぜなら、罪悪感の激しさがあまりに痛烈なので、その罪悪感を投影せざるをえなくなるからです。

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4. Whatever you accept into your mind has reality for you.
 何であれ、あなたが自分の心に受け入れるものはすべて、あなたにとって現実味を持ちます。

 It is your acceptance of it that makes it real.
 あなたがそれを受け入れることが、それを現実にするのです。

 If you enthrone the ego in your mind, your allowing it to enter makes it your reality.
 もしあなたが自分の心の中でエゴを玉座に据えるなら、エゴを自分の心に入りこませるのをあなたが容認したことが、エゴをあなたにとっての現実にしてしまいます。

 This is because the mind is capable of creating reality or making illusions.
 これは、心には現実を創造することも、幻想を作り出すこともできるからです。

 I said before that you must learn to think with God.
 前にも述べましたが、あなたは神とともに考えるように学ばなければなりません。

 To think with him is to think like him.
 神とともに考えるというのは、神と同じように考えることです。

 This engenders joy, not guilt, because it is natural.
 神と同じように考えるのは自然なことなので、罪悪感ではなく喜びを生み出します。

 Guilt is a sure sign that your thinking is unnatural.
 罪悪感は、あなたの考え方が不自然であることの確たる印です。

 Unnatural thinking will always be attended with guilt, because it is the belief in sin.
 不自然な思考には、つねに罪悪感が伴います。なぜなら、不自然に考えることは罪を信じることだからです。

 The ego does not perceive sin as a lack of love, but as a positive act of assault.
 エゴは、罪のことを愛の欠如としてではなく、積極的な攻撃行為として知覚します。

 This is necessary to the ego's survival because, as soon as you regard sin as a lack, you will automatically attempt to remedy the situation.
 このように罪を積極的な攻撃行為とみなすことは、エゴが生きながらえるためには必要なことです。なぜなら、あなたが罪のことを愛が欠けた状態だとみなすようになれば、あなたはすぐさま自動的に愛の欠けた状態を矯正しようと試みるはずだからです。

 And you will succeed.
 そうなれば、あなたは首尾よく愛の欠如の修正に成功するでしょう。

 The ego regards this as doom, but you must learn to regard it as freedom.
 このことをエゴは破滅とみなします。しかし、あなたはこれを解放とみなすことを学ばなければなりません。

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5. The guiltless mind cannot suffer.
 罪悪感のない心は、苦しむことができません。

 Being sane, the mind heals the body because it has been healed.
 正気であるがゆえに、その心はすでに癒されているので、正気の心は身体を癒します。

 The sane mind cannot conceive of illness because it cannot conceive of attacking anyone or anything.
 正気の心には、病いを想像することなどできません。なぜなら、正気の心には、誰かを攻撃したり何かを攻撃したりすることなど思いもよらないからです。

 I said before that illness is a form of magic.
 前に私は、病いは魔術の一形態だと言いました。

 It might be better to say that it is a form of magical solution.
 おそらく病いは魔術的な解決方法の一形態だと言ったほうがよいでしょう。

 The ego believes that by punishing itself it will mitigate the punishment of God.
 エゴは、自分自身を罰することによって、神からの処罰を軽減できるはずだと信じています。

 Yet even in this it is arrogant.
 しかし、自己処罰によって神からの処罰を軽減しようとするに際してすら、エゴは傲慢です。

 It attributes to God a punishing intent, and then takes this intent as its own prerogative.
 すなわち、エゴは、自らを処罰しようと意図するのは神であると神のせいにして、そのうえで、この処罰意図を神から奪い取ってわがものとすることは自分だけに許された特権だというのです。

 It tries to usurp all the functions of God as it perceives them, because it recognizes that only total allegiance can be trusted.
 エゴは神の働きを知覚すると、それらの働きをすべて奪い取ろうとします。それというのも、エゴは、自らにただ完全に忠誠を尽くすものしか信頼できないと認識しているからです。

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6. The ego cannot oppose the laws of God any more than you can, but it can interpret them according to what it wants, just as you can.
 あなたが神の法に背くことができないのと同じように、エゴも神の法を破ることはできません。しかし、エゴは、まさにあなたがそうできるのと同じように、自分が望むように神の法を解釈することができます。

 That is why the question, "What do you want? " must be answered.
 だから、「あなたは何を望むのか」という問いこそが答えられなければならないのです。

 You are answering it every minute and every second, and each moment of decision is a judgment that is anything but ineffectual.
 この問いに対して、あなたは一分ごと、一秒ごとに答えています。そして、あなたが決断する瞬間はどれもすべて、必ず効力を持つ価値判断となります。

 Its effects will follow automatically until the decision is changed.
 その価値判断の効力は、あなたの決心が変えられるまで、自動的に継続します。

 Remember, though, that the alternatives themselves are unalterable.
 そうだとしても、選択肢それ自体は変更できないことを覚えておいてください。

 The Holy Spirit, like the ego, is a decision.
 あなたはエゴを選べるのと同じように、聖霊を選ぶこともできます。

 Together they constitute all the alternatives the mind can accept and obey.
 心が受け入れて従うことのできる選択肢は、この聖霊とエゴの二者択一です。

 The Holy Spirit and the ego are the only choices open to you.
 あなたに唯一できるのは、聖霊かエゴのどちらかを選ぶことだけです。

 God created one, and so you cannot eradicate it.
 聖霊は神が創造したものなので、あなたは聖霊を完全に退けることはできません。

 You made the other, and so you can.
 他方で、エゴを作ったのはあなたなので、あなたはエゴを完全に除去することができます。

 Only what God creates is irreversible and unchangeable.
 ただ神が創造するものだけが、取り消すことも変えることもできないのです。

 What you made can always be changed because, when you do not think like God, you are not really thinking at all.
 あなたが作ったものは、いつでも変えることができます。なぜなら、あなたが神のように考えていないとき、あなたは実のところ、まったく思考していないからです。

 Delusional ideas are not real thoughts, although you can believe in them.
 妄想的な想念は真の思考ではありません。それでも、あなたは妄想的な想念を信じることはできます。

 But you are wrong.
 ただし、あなたは間違っています。

 The function of thought comes from God and is in God.
 思考の働きは神に由来するものであり、神の中にあります。

 As part of his Thought, you cannot think apart from him.
 神の大いなる思考の一部であるがゆえに、あなたは神から離れて考えることなどできないのです。

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7. Irrational thought is disordered thought.
 不合理な思考は、混乱した思考です。

 God himself orders your thought because your thought was created by him.
 神自らが、あなたの思考に秩序を与えてくれます。なぜなら、あなたの思考は神によって創造されたものだからです。

 Guilt feelings are always a sign that you do not know this.
 罪の意識を感じることはつねに、このことをあなたが知らない印です。

 They also show that you believe you can think apart from God, and want to.
 また、罪悪感は、あなたが神から離れて考えることができると信じ、神とは別に考えたいと望んでいることも示しています。

 Every disordered thought is attended by guilt at its inception, and maintained by guilt in its continuance.
 混乱した思考はどれも、その始まりから罪悪感を伴い、その存続においても罪悪感によって維持されています。

 Guilt is inescapable by those who believe they order their own thoughts, and must therefore obey their dictates.
 自分自身の思考は自分で整理して秩序立てるものと信じ、それゆえに、自分の思考は自らの命令に従うはずだと信じる者たちは罪悪感を持たずにはいられません。

 This makes them feel responsible for their errors without recognizing that, by accepting this responsibility, they are reacting irresponsibly.
 このことは、彼らに自分の誤りに対して責任があるように感じさせることになりますが、こんな責任を引き受けることによって、自分がかえって無責任な反応をしていることに彼らは気づいていません。

 If the sole responsibility of the miracle worker is to accept the Atonement for himself, and I assure you that it is, then the responsibility for what is atoned for cannot be yours.
 私はあなたに確かにその通りだと請け合っておきますが、もし自らのために贖罪を受け入れることだけが奇跡を起こす者にとっての唯一の責任だとすれば、贖いの対象についてあなたに責任があるはずがありません。

 The dilemma cannot be resolved except by accepting the solution of undoing.
 そんなジレンマは、取り消すという解決法を受け入れることによってしか解消できません。

 You would be responsible for the effects of all your wrong thinking if it could not be undone.
 もしあなたの誤った考えが取り消すことのできないものであったとしたら、あなたは確かに自分の誤った考えのすべてから生じる結果について責任を負うことになっていたでしょう。

 The purpose of the Atonement is to save the past in purified form only.
 贖罪の目的は、過去をただ浄化された形でのみ保存しておくことです。

 If you accept the remedy for disordered thought, a remedy whose efficacy is beyond doubt, how can its symptoms remain?
 もしあなたが混乱した思考を癒すための治療を受け入れるなら、そして、その治療の効果に完全に疑いの余地がないのであれば、どうして混乱した思考の症状が残りうるでしょうか。

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8. The continuing decision to remain separated is the only possible reason for continuing guilt feelings.
 分離したままでいようとする決断を保ち続けることだけが、罪の意識に苛まれ続けることがありうる唯一の理由です。

 We have said this before, but did not emphasize the destructive results of the decision.
 私たちは以前に、このことについて述べましたが、その際には、この決断がもたらす破滅的な結末を強調はしませんでした。

 Any decision of the mind will affect both behavior and experience.
 それがどんな決定であっても、心がなす決定は、行動と体験の両方に影響を及ぼします。

 What you want you expect.
 それは、あなたが望むことについて、あなたはそれが起こるのを当然のこととして期待するからです。

 This is not delusional.
 これは妄想ではありません。

 Your mind does make your future, and it will turn it back to full creation at any minute if it accepts the Atonement first.
 あなたの心は実際にあなたの未来を作り出すからです。だから、もしあなたの心がまず贖罪を受け入れるなら、あなたの心は、即座にあなたの未来を完全な創造へと戻すでしょう。

 It will also return to full creation the instant it has done so.
 あなたの心が贖罪を受け入れた瞬間、あなたの心もまた完全な創造へと戻るでしょう。

 Having given up its disordered thought, the proper ordering of thought becomes quite apparent.
 心から混乱した思考が放棄されたことで、思考の秩序が正しく整ったことが実に明白なものになるからです。


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