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There Is No Spoon

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レッスン72「不平不満を抱くことは、救済のための神の計画に対する攻撃だ」

レッスン72です。

今日のテーマは「不平不満を抱くことは、救済のための計画に対する攻撃だ」です。





エゴ救済計画は、の座を奪うためのもので、身体を道具として、個別の心を身体に幽閉されているように幻惑し、の子の真の姿が見えないようにする計画であるということが丁寧に解説されています。

かなり長いですが、しっかり読んでいただければと思います.

今日のレッスンの中で重要な一文を抜粋します。


「To be without a body is to be in our natural state.
身体なしの状態にあることは、私たちの本来の状態にあるということです。」

この世界では、この状態を「死」と呼びます。それでは、身体の死が救済となるのでしょうか。

これに対して、本レッスンは、が身体だとすれば、確かに死こそが救済計画になるだろうが、は身体ではないので、死は救済ではない、むしろ本当の自分は身体とは無関係の真理の光である、つまり、身体の生死は救済とは関係ないと言います。

つまり、この世界で身体を持って人間として生きている状態は、確かに異常な状態であり、まだ死んで肉体を失って霊魂だけの状態に戻っているほうが、多少は本来の状態に近いということはできるけれど、救済は分離幻想から脱して神の子の自覚を取り戻すことなのだから、身体を失っても個別意識を留めているなら、まったく救済にはならないということです。

テレビゲームでいえば、6歳の類二郎くんがゲーム世界のアバターであるマリオになりきってゲームをプレイしている状態が、私たちが人間としてこの世界で生きている状態です。
マリオが死んでゲームオーバーになり、テレビ画面の前で類二郎が我を取り戻した状態の類次郎が霊魂の状態に相当します。
けれど、マリオになって遊ぶ楽しさに取り付かれてゲーム世界に執着したままなので、またリプレイすることになるし、ゲームの外の世界でも依然として分離した霊魂という個別存在が自分であるという意識を留めたままなので、ゲーム世界内のアバターであるマリオの死は、自分は実はマリオではなかったということを思い出させる作用はあるにしても、ほとんど類次郎に神の子の自覚を取り戻させる作用はありません。

「To recognize the light of truth in us is to recognize ourselves as we are.
 自分たちの中に真理の光を認めることは、自分たちをありのままに認識することです。」

それに、類次郎は、自分で画面の中のマリオになりきっているだけで、類次郎がお母さんからのご飯の呼び声に応えてゲームをやめて出ていこうとするのを止めようと、マリオが貞子のように画面から這い出してきたりはしません。

どんなに面白い小説を読んでいようが、すごくリアルなVRであろうが同じです。

アバターの死は、プレイヤーに衝撃的なエピソードにはなりますが、アバターや主人公とプレイヤーや読者のアイデンティティーの一体化が強い状態での死は、むしろアイデンティティーの固着をより強める副作用こそあれ、アイデンティティーの解消には少しもつながらないはずです。

むしろ、散々やり尽くして飽き飽きしているゲームであれば、アバターが生きた状態のままでも、ゲーム世界の束縛から自由になりやすいくらいであり、アバターの生死が救済と無関係であることは明らかです。

ただし、アバターとの自己同一化が救済の妨げになっていることは紛れもない事実であり、輪廻転生のたびに別のアバターに乗り換えるのであれ、同じアバターを永劫回帰するのであれ、各人生を再スタートする際に記憶リセットされる仕組みであるために、魂の抱く漠然とした倦厭の情が微かに残ってはいても、何百回、何千回生きようとも、そのつど新鮮な人生を味わうので、世界を放り出そうという心境には至らないということになります。

そこで、コースは、エゴ・身体にアイデンティティーを抱くことの虚構性とその狂気の沙汰の度合いがどれほどのものかを明確に示すだけでなく、より積極的に、幻想の世界を作り出し、そのスクリーン上に投影した、自らを無数に分裂させてエゴ・身体というアバターたちになりきっている神の子が真の自己であるという真理を示して、アバターとしての虚構の人生を生きながらアバターとの一体化から自由になって真の自己を思い出させるという手法をとっているのです。


では、レッスンに入りましょう。


Workbook Lesson 72

Holding grievances is an attack on God's plan for salvation.
不平不満を抱くことは、救済のための計画に対する攻撃だ。





Holding grievances is an attack on God's plan for salvation.
不平不満を抱くことは、救済のための計画に対する攻撃だ。



1. While we have recognized that the ego's plan for salvation is the opposite of God's, we have not yet emphasized that it is an active attack on His plan, and a deliberate attempt to destroy it.
 私たちはすでに、エゴ救済計画救済計画の正反対であることは認めました。しかし、私たちはまだ、エゴ計画計画への積極的な攻撃であり、の計画を台無しにしようとする意図的な試みだということまでしっかりと見てはいません。

 In the attack, God is assigned the attributes which are actually associated with the ego, while the ego appears to take on the attributes of God.
 の計画を積極的に攻撃することで、実際にはエゴの属性であるものが神のものとみなされる一方で、エゴのほうが神の属性を備えているように見えます。



2. The ego's fundamental wish is to replace God.
 エゴの根本的な願いは、神の後釜に座ることです。

 In fact, the ego is the physical embodiment of that wish.
 本当に、エゴとは、神に取って代わりたいという願望が即物的に具現化したものです。

 For it is that wish that seems to surround the mind with a body, keeping it separate and alone, and unable to reach other minds except through the body that was made to imprison it.
 というのも、この願望こそが、心の周囲を身体で取り囲んで、心を分離して孤立した状態に保ち、心を幽閉するために作られた身体を通してしか、ほかの心に到達できないように思わせているからです。

 The limit on communication cannot be the best means to expand communication.
 コミュニケーションに制限を課すことが、コミュニケーションを拡張する最善の手段になるはずがありません。

 Yet the ego would have you believe that it is.
 それでも、エゴは、制限することでコミュニケーションを拡張できるとあなたに信じこませようとします。



3. Although the attempt to keep the limitations that a body would impose is obvious here, it is perhaps not so apparent why holding grievances is an attack on God's plan for salvation.
 これで身体がコミュニケーションに制限を課してそれを維持する試みであることは明らかになったとはいえ、おそらく不平不満を抱くことがなぜ神の救済の計画に対する攻撃になるのかは、それほど明白とはいえないでしょう。

 But let us consider the kinds of things you are apt to hold grievances for.
 そこで、私たちで、あなたがどのような事柄について不平不満を抱きがちなのか、よく考えてみることにしましょう。

 Are they not always associated with something a body does?
 それらの不平不満はつねに、身体がする何かに関連しているのではないでしょうか。

 A person says something you do not like.
 ある人があなたの気に入らないことを何か言ったとか。

 He does something that displeases you.
 誰かが、あなたを不快にさせる何かをしたとか。

 He "betrays" his hostile thoughts in his behavior.
 誰かが自らの振る舞いによって、彼の抱く敵意をうっかり「露呈」してしまったとかということです。



4. You are not dealing here with what the person is.
 このとき、あなたは、その人物の本当の姿について考えているわけではありません。

 On the contrary, you are exclusively concerned with what he does in a body.
 それどころか、あなたはもっぱら、ある身体の中で彼がしていることにだけ注意を向けていているのです。

 You are doing more than failing to help in freeing him from the body's limitations.
 あなたは、身体の制限から彼を解放する手助けをし損ねているだけでなく、それ以上に有害なことをしています。

 You are actively trying to hold him to it by confusing it with him, and judging them as one.
 あなたは積極的に身体と彼を混同し、彼と身体が同一のものだと価値判断することによって、彼を身体に束縛しようとしているのです。

 Herein is God attacked, for if His Son is only a body, so must He be as well.
 このようにして、神への攻撃がなされているのです。というのは、もし神の子が身体でしかないなら、神も同じように身体に違いないはずだからです。

 A creator wholly unlike his creation is inconceivable.
 自らの創造物に似ても似つかない創造主など想像もつかないからです。



5. If God is a body, what must His plan for salvation be?
 もし神が身体であるなら、神の救済計画はどのようなものになるでしょうか。

 What could it be but death?
 死以外に救いはありえないはずです。

 In trying to present Himself as the Author of life and not of death, He is a liar and a deceiver, full of false promises and offering illusions in place of truth.
 そんな神が自らを死ではなく生命の創始者に見せかけようとしているのであれば、神は、数々の偽りの約束を交わし、真理の代わりに幻想を差し出すような嘘つきの詐欺師だということになります。

 The body's apparent reality makes this view of God quite convincing.
 身体の外見的なリアリティーが、このような見方で神を捉えることをきわめて説得的なものにします。

 In fact, if the body were real, it would be difficult indeed to escape this conclusion.
 事実、もし身体が実在するなら、この結論を免れるのはきわめて困難なはずです。

 And every grievance that you hold insists that the body is real.
 そして、あなたが不平不満を抱くたびに、不平不満は身体が本物であると強調します

 It overlooks entirely what your brother is.
 不平不満は、完全に、あなたの兄弟の本質を見落としてしまっています。

 It reinforces your belief that he is a body, and condemns him for it.
 不平不満を抱く心は、兄弟が身体だというあなたの信念を強化して、身体について兄弟を非難します。

 And it asserts that his salvation must be death, projecting this attack onto God, and holding Him responsible for it.
 そして、不平不満を抱く心は、兄弟の救済は死であるに違いないと主張し、この攻撃を神に投影して、神に攻撃の責任を負わせようとします。



6. To this carefully prepared arena, where angry animals seek for prey and mercy cannot enter, the ego comes to save you.
 このために闘技場が念入りに準備されます。そこでは、猛り狂う獣たちが餌食を捜し求めていて、情け容赦の入りこむ隙もありません。そこへ、エゴがあなたを助けにきたと称して言うのです。

 God made you a body.
 「神はお前を身体として作り出したんだって?

 Very well.
 いいだろう。

 Let us accept this and be glad.
 我々で、このことを受け入れて、喜ぼうじゃないか。

 As a body, do not let yourself be deprived of what the body offers.
 お前は一個の身体として、身体が自分に提供するものを奪われないように気をつけなければならない。

 Take the little you can get.
 お前の手にすることのできるわずかなものを取っておくのだ。

 God gave you nothing.
 神はお前に何も与えてはくれなかったのだから。

 The body is your only savior.
 身体だけがお前の唯一の救い主なのだ。

 It is the death of God and your salvation.
 身体こそ、神の死であり、お前の救済なのだ」と。



7. This is the universal belief of the world you see.
 あなたの見ている世界で誰もが等しく信じているのは、こんなことです。

 Some hate the body, and try to hurt and humiliate it.
 ある者は身体を忌み嫌い、身体を傷つけて辱めようとします。

 Others love the body, and try to glorify and exalt it.
 ほかの者たちは身体を愛し、身体を褒め称えて祭り上げようとします。

 But while the body stands at the center of your concept of yourself, you are attacking God's plan for salvation, and holding your grievances against Him and His creation, that you may not hear the Voice of truth and welcome It as Friend.
 しかし、身体があなた自身についての自己概念の中核に位置するかぎり、あなたは神の救済の計画を攻撃しているのであり、神と神の創造物に対して不平不満を抱いているのです。そのせいで、あなたは真理の声を聞き入れず、真理の声を語る聖霊を大いなる友として歓迎しようともしないでしょう。

 Your chosen savior takes His place instead.
 あなたが救い主として選んだ身体が聖霊の座を奪い取っています。

 It is your friend; He is your enemy.
 身体があなたの友となり、聖霊はあなたの敵となってしまっているのです。



8. We will try today to stop these senseless attacks on salvation.
 今日、私たちは、救済に対するこのような無意味な攻撃を止めるように努めます。

 We will try to welcome it instead.
 私たちは、攻撃する代わりに救済を歓迎します。

 Your upside-down perception has been ruinous to your peace of mind.
 あなたの上下が逆転した知覚はあなたの心の平安を荒廃させてきました。

 You have seen yourself in a body and the truth outside you, locked away from your awareness by the body's limitations.
 あなたは、自分自身を身体の中にあるものと見て、真理を自分の外側にあるものと見て、身体の持つ制約によって、真理を閉じこめて自分の自覚から締め出してしまっています。

 Now we are going to try to see this differently.
 今、私たちは、これを違ったふうに見ようとしているのです。



9. The light of truth is in us, where it was placed by God.
 真理の光は、私たちの中にあります。真理は神によってそこに置かれたのです。

 It is the body that is outside us, and is not our concern.
 私たちの外側にあるのは身体のほうなのであって、身体は私たちの関心事ではありません。

 To be without a body is to be in our natural state.
 身体なしの状態こそ、私たちの本来の状態です。

 To recognize the light of truth in us is to recognize ourselves as we are.
 自分たちの中に真理の光を認めることは、自分たちをありのままに認識することです。

 To see our Self as separate from the body is to end the attack on God's plan for salvation, and to accept it instead.
 私たちの大いなる自己を身体とは別のものとして見ることは、神の救済計画に対する攻撃をやめて、代わりに神の計画を受け入れることです。

 And wherever His plan is accepted, it is accomplished already.
 そして、神の計画が受け入れられるところであればどこでも、救済はすでに成し遂げられているのです。



10. Our goal in the longer practice periods today is to become aware that God's plan for salvation has already been accomplished in us.
 今日の長いほうの実習時間での私たちの目標は、神の救済計画は自分たちの中ですでに成就していると気づくことです。

 To achieve this goal, we must replace attack with acceptance.
 この目標を達成するには、私たちは、攻撃を受容に置き換えなければなりません。

 As long as we attack it, we cannot understand what God's plan for us is.
 私たちが神の計画を攻撃しているかぎり、私たちには神の計画が自分たちにとってどのような意味を持つのか理解できません。

 We are therefore attacking what we do not recognize.
 したがって、私たちは、自分たちの理解していないものを攻撃しているのです。

 Now we are going to try to lay judgment aside, and ask what God's plan for us is:
 今こそ、私たちで価値判断を脇に置いて、神の計画が自分たちにとって何を意味するのか尋ねてみましょう。


What is salvation, Father?
大いなる父よ、救いとは何なのでしょうか?

I do not know.
私にはわかりません。

Tell me, that I may understand.
どうか私に理解できるように、私に教えてください。


 Then we will wait in quiet for His answer.
 それから、私たちは、静寂の中で神の答えを待ちます。

 We have attacked God's plan for salvation without waiting to hear what it is.
 私たちはこれまで、神の救済計画とは何なのか聞くために待つこともしないで、それを攻撃してきました。

 We have shouted our grievances so loudly that we have not listened to His Voice.
 私たちはあまりに大声で不平不満を叫んできたので、私たちには神の声が聞き取れなかったのです。

 We have used our grievances to close our eyes and stop our ears.
 私たちは、不平不満を用いて、自らの目を閉じ、耳を塞いできたのです。



11. Now we would see and hear and learn.
 今、私たちは、見て聞いて、そして学びます。

 "What is salvation, Father?"
 「大いなる父よ、救いとは何なのしょうか」

 Ask and you will be answered.
 尋ねれば、あなたは答えてもらえるでしょう。

 Seek and you will find.
 探せば、あなたは見出すでしょう。

 We are no longer asking the ego what salvation is and where to find it.
 私たちは、もはや救済が何であるかとか、それをどこで探せばよいかをエゴに尋ねることはしません。

 We are asking it of truth.
 私たちは、救済について真理に尋ねているのです。

 Be certain, then, that the answer will be true because of Whom you ask.
 それゆえ、自分が尋ねる大いなる存在のゆえに、その答えは真実であることを確信しなさい。



12. Whenever you feel your confidence wane and your hope of success flicker and go out, repeat your question and your request, remembering that you are asking of the infinite Creator of infinity, Who created you like Himself:
 あなたが自分の確信が弱まるように感じたり、成功への希望が揺らいで消えてしまいそうに感じるときはいつでも、あなたの質問と請願を繰り返し、あなたを自分自身に似せて創造した、無限なるものの無限の創造主に自分は求めているのだと思い出すようにしてください。


What is salvation, Father?
大いなる父よ、救いとは何なのでしょうか。

I do not know.
私にはわかりません。

Tell me, that I may understand.
どうか私に理解できるように、私に教えてください。


 He will answer.
 神が答えてくれるでしょう。

 Be determined to hear.
 決意をもって聞いてください。



13. One or perhaps two shorter practice periods an hour will be enough for today, since they will be somewhat longer than usual.
 今日は、短いほうの実習時間は、1時間に1回か2回くらいで十分です。なぜなら、今日の実習はいつもよりもいくらか長くかかるはずだからです。

 These exercises should begin with this:
 これらの練習は、次のように始めてください。


Holding grievances is an attack on God's plan for salvation.
不平不満を抱くことは、神の救済の計画を攻撃することだ。

Let me accept it instead.
攻撃する代わりに、私に神の計画を受け入れさせてください。

What is salvation, Father?
大いなる父よ、救いとは何なのでしょうか。


 Then wait a minute or so in silence, preferably with your eyes closed, and listen for His answer.
 それから、できれば目を閉じて、静かに1分くらい待って、神の答えに耳を澄ましてください。


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