There Is No Spoon

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他人なんて本当はいない!?

奇跡のコースは、この世界が幻想であると告げます。
そして、一人の神の子が分離の幻想によって、無数の個別の自己へと分裂しているとも言います。
それでは、幻想の世界にいる私たちは、自分や他人のことをどのように捉えるべきなのでしょうか。

この世界の考え方では、自分と他人という人間の数だけ、そのばらばらの身体の中にばらばらの個別の心が宿っている、それぞれに隔絶し、身体という牢獄に幽閉された寂しい存在で、目や耳等の五官という外界との窓を通じて他の身体の中にいる囚人(他の心)と不十分ながらも意思疎通できるものの、年を取ると、この窓が曇ってくるし、身体が死んだら中に居る心も消滅しておしまいだということになります。
個別に身体に閉じ込められていると考えている心からすれば、他の身体の中に居るように見える他の心が本当に実在するものなのか検証する術はありません。
だから、外の世界が自分を騙しているのかもしれない、もしかしたら、自分の身体の中にある自分以外には、本当に何かを思う心など存在せず、世界には自分一人しかいないんじゃないかと思う素地となります。

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このテーマの映画には、先日取り上げた「マトリックス」を初めとして、左に挙げている「トゥルーマン・ショー」や「バニラ・スカイ」(「オープン・ユア・アイズ」のリメイク)等々があります。小説「リプレイ」もそうです。またの機会にこの小説を取り上げたいと思いますが、本当にお勧めです。

バニラ・スカイ」では、交通事故で顔が壊れた主人公デイビッドが、人生を悲観し、医療の進歩に期待してクライオニクス(低温保存)による延命サービスを提供する会社と契約し、低温状態で150年間の間夢を見ていたことを思い出すという話で、世界は自分一人が見ていた夢だったという話です。
この世界は、あなたの作り出す夢だと言われると、では、自分の出会う人たちは、自分で考えてしゃべって動いているようにとてもリアルに見えるけれど、張りぼての人形なのか、感情や思考があるように見えるけれど、自分とは違って心のない木偶人形でしかないんだと思う人もいるかもしれません。

技術進歩によって、近い将来、マトリックスに出てくるような仮想現実ヴァーチャル・リアリティ)が実現するであろうことは容易に予測できます。そして、知覚というものが容易に騙されるものであることは周知のことです。精巧なリアリティを体感させる装置に没入した場合に、現実と非現実の区別(ここでいう現実はこの世界の現実)がつかなくなり、そこで見せられる世界が実在すると信じ込まないではいられないということになるでしょう。

未来の話ではなくても、今のあなた自身が機械に騙されてこの時代に生きていると勘違いしているだけで、実は外には150年後の世界が待っているのかもしれません。マトリックスバニラ・スカイの設定がそうでした。

そう考えると、コースが神の子はたった一人だというのだから、この世界を夢見ているのは、本当は神と等しいものである神の子としてのあなた一人、それ以外の世界中の人たちはあなたが夢の中で作り出した一登場人物にすぎないということもあり得る話ということになりそうです。

自分が一人で見て、一人で作り出している世界であり、他人は全て作り物の単なる登場人物たちなのであれば、真に夢であることに気付いて覚醒すれば、幻にすぎない世界をどうしようと神である自分の思うがままだということにもなりそうです。

この独我論的発想は一面ではこの幻想世界の性質を言い当てている面もあるでしょう。


また反対に、他者だけでなく、自分自身も幻想であるとすれば、自分も他人も世界は実在しないし、自分も他人も世界も、無意味なものでしかないということになりそうです。

そして、実在するように感じるものの、自分も実在しない無意味な世界であれば、どうせ無意味なんだから、何をしようと自分の好きなようにやった方が得だという発想になることもありそうです。

いずれの考え方をしても、無秩序なアナーキズム、虚無的なニヒリズムに行きつくことになりそうです。

しかし、コースがこんなことを言いたいとは思えません。

まず、世界が幻想、夢であるとして、
夢と、
夢を作り出す夢見る存在としての自己と、
夢の中の一登場人物としての他者、
そして、他者と同じく(他者から見れば一登場人物としての「他者」と見える)自己
を区別する必要があります。

コースが、「あなたは夢の結果なのであって、夢の原因ではあり得ないということです。」「あなたは夢を見る存在ではなくて、夢そのものなのです」と表現する(テキスト 第二十七章 八 夢の「主人公」3,4)ときの「夢の結果であるあなた」とは個別の自己が抱くエゴ・身体のことです。

他方で、「恐れが幅を利かせていたのは、彼が自分こそ夢の作者であって、その夢の中の単なる登場人物ではないと分かっていなかったからです。」(テキスト 第二十八章 二 原因と結果の逆転、7)と言っている「夢の作者」であるのは本当の自分、大いなる自分です。夢の作者であることを忘れている「彼」とは、夢の中の登場人物であるエゴ・身体こそが自分であると信じ込んで自己同一化し、本当の自分は大いなる自己であることを忘れて分離の幻想を夢見ている個別の心のことです。

そして、「自分の見た夢を放り出して、その夢のことを自分自身とは分離したもので自分に降りかかってくるものとして知覚している夢見る者にその夢を戻しましょう。」(テキスト 第二十七章 八 夢の「主人公」、6)と、自分が夢の中の登場人物と一体化している夢を返すべき「夢見る者」というのも、同じく分離の幻想を夢見る個別の心です。

「あなたが考えたことに対する罪悪感は、あなた自身の外側に置かれ、あなたになり代わってあなたの夢を夢見て、あなたの思いを思っている罪ある世界へと押し付けられます。」(テキスト 第二十七章 八 夢の「主人公」、7)というときの「あなたになり代わってあなたの夢を夢見て、あなたの思いを思っている罪の世界」とは、夢であるこの世界そのもののことです。
「誰一人、この世界が自分のために見ている夢から目覚めることはできません」(テキスト 第二十七章 七 夢を夢見る者、8)というときの「この世界」も同じです。

「彼は誰か別の人の夢の一部になっています。
 彼には自分が作らなかった夢から目覚める選択はできません。」(テキスト 第二十七章 七 夢を夢見る者、8)というときの「彼」と「別の人」は分離した個別の心です。
彼が「自分が作らなかった夢から目覚める選択」ができないということは、「彼」以外の「別の人」も「彼」と同じように大いなる自己を忘れて夢を作っているということです。

そして、あなたがこの個別の心の夢見るエゴ・身体としての「彼」や「別の人」であることは「あなたが自分の夢を夢見ている本人」でないとした場合に「ほかにあり得る夢を見る原因として、あなたが別に選べる選択肢はこれしか」ない(テキスト 第二十七章 七 夢を夢見る者、8)ということなので、個別の心の抱くエゴ・身体としての「彼」や「別の人」がそれぞれ夢を作っているように見えるけれども、本当は、大いなる自己としての「あなた」が夢見る本人であるということです。

この夢見る本人としての大いなる自己は、「分離は、父が自らの結果であるものを奪われ、もはや自らの結果であるものの創造主ではなくなってしまったゆえに、自らの結果であるものを引き留めておく力を無くしているという夢から始まりました。その夢の中で、夢見る者が自分自身を作ったのです。」(テキスト 第二十八章 二 原因と結果の逆転、8)というときの「夢見る者」、つまり、原初の分離の夢を見た神の子のことです。

 

夢自体は、個別の自己がなす知覚作用によって、意識というスクリーンに投影を行うというメカニズムによって生じます。
そして、夢見る個別の心の大本である大いなる自己は、分離という幻想を信じて自分を無数の個別の自己に分裂させています。
つまり、一人の神の子は神からの分離の幻想を抱き、自分をたくさんの個別の自己に分裂させて、エゴの仮面を被って、それぞれの個別の心の知覚を通してエゴ・身体こそ自分だという夢を見ているのです。

ですから、あなたの真の姿である大いなる自己は、時間の中に生まれた個別の自己の数だけ仮面を被り、それこそ無限に果てしない夢を生み出しているということです。

幻想として生み出される世界が、一つの共通する世界にレイヤー構造で重なって無数の視点から同じ世界を眺めているのか、パラレル・ワールド的に無限に分裂していくのかなどといったことは、観念的な遊戯でしかありません。
仏教では三千世界というし、理屈上は、特に一つの共通する夢である必要はないのもたしかです。ただ、そんなことは解明すべきことではありません。いずれにせよ、そもそも全て幻だという点こそが要点でしょう。
幻なのであれば、それがどのように展開しようが、所詮幻でしかないなのです。

さて、ここまでくると、私やあなたという個別の誰か一人だけが夢見の主体だということではなく、個別の心がそれぞれに投影を行って夢を見て、その夢の中では、私たちの方こそが、究極的には、大いなる自己に夢見られている一登場人物、映画や小説のキャラクターにすぎないのだということになります。

ここから導かれるのは、バニラ・スカイのように、主人公が自分が現実だと思い込んでいた世界が幻想だと気付いて目覚めのための手続として死を選択しても、決着にはならないということです。そんなことをしても、また別の仮面を付けた夢が湧いてくるだけです。

また、実在しないからと言って、一概に無意味だとして虚無的になっていたのでは、堂々巡りから抜け出す道を失ってしまうことも明らかだということです。

そして、個別の自己の抱くエゴ・身体は、夢見の主体ではないのだし、他者として夢に登場している自己たちも、自分と同じように、別々の仮面を付けているものの、同じ大いなる自己、つまり神の子であり、その意味では同等に自分自身であるということからすると、他者の犠牲の上に好き放題するということは、自分を犠牲にしてのことになってしまうということになります。


コースは、この世界は幻想だと言いはしますが、無意味だとは言いません。他人は中身のない抜け殻の人形だから好き放題すればよいとも、自分自身も幻だから、生きていても意味がないなどとも言いません。

むしろ、他人は同等な神の子としての兄弟であり、究極的には自分自身である、そして、この世界は、そのことを学習するための教材として活用できると言います。

自分や他人のエゴ・身体という登場人物を生み出しているこの世界という夢を道具として、自分が夢見る者であるであると気付くこと、すなわち、自分も他人もエゴ・身体は小説や映画のキャラクターのようなものにすぎないとしても、真の姿は自分自身であると確信して知ることがコースの目標ですが、単に情報として、自他が分離しているというのが幻想かもしれないという発想を持てるだけでも、素晴らしい福音ではないでしょうか。

もしかしたら他人に見えている誰かが敵ではないどころか自分自身かもしれないということを少しでも考えたことのある心は、たとえ誰かの身体や命を自由に弄ぶことのできる立場に身を置くことがあったとしても、不用意に他者を蹂躙したり命を奪ったりなどできなくなることでしょう。

また、その他人は実は自分自身かもしれないという思いがあれば、赤の他人に見え、自分よりも劣っているように見える人を徒に蔑んだり、あるいは優っているように見えて別世界に住む人間に思える誰かのことを妬んで引きずりおろしたく思ったりする気持ちが小さくなるかもしれません。
あるいは、自分と同じ境遇にあるように見えている誰かが自分から見て羨ましい僥倖に恵まれたことを聞いても、その他人は実は自分自身かもしれないという思いがあれば、嫉妬心に悩まされたりせずに素直に喜ぶこともできるかもしれません。




※テキスト 第二十七章 八 夢の「主人公」
「3. 身体が生まれてから死ぬまで次々に遭遇する冒険譚こそ、この世界がこれまで目にしてきた全ての夢のテーマです。

 この夢の「主人公」は絶対に変わりません。そして、夢の目的も絶対に変わることはありません。

 夢そのものは色々な形を取り、その「主人公」が登場する様々な場所や出来事を多種多様な形態で見せるように思えます。それにもかかわらず、その夢にはたった一つの目的しかなく、その目的を様々な形を通して教えこもうとしているのです。

 その夢が何度も何度も繰り返し、そして、まだもう一回、と繰り返して教えこもうとしている一つのことは、夢こそが原因であって結果ではないということです。

 つまり、あなたは夢の結果なのであって、夢の原因ではあり得ないということになります。


4. こうして、あなたは夢を見る者ではなくて、夢にすぎなくなってしまいます。

 だから、あなたはその夢が仕組んだ場所や出来事に出たり入ったりして無益にさまよっているのです。

 本当に、身体がしているのはこんなことでしかありません。というのも、身体は単に夢の中の一登場人物にすぎないからです。

 しかし、その夢の中の登場人物がまるで本物のように見えない限り、誰が登場人物なんかに反応するでしょうか。

 彼がその夢の中の登場人物をありのままに見た途端、登場人物たちはもはや彼に何の影響も及ぼすことができなくなります。なぜなら、彼は、その登場人物たちを生じさせ、そして、彼らをリアルに見せることによってその登場人物たちに影響力を与えていたのは他ならぬ自分だったと理解できたからです。


5. この世界が今まで目にしてきたあらゆる夢が及ぼした結果から逃れたいと、あなたは、どれほど強く望んでいるでしょうか。

 どんな夢であっても、夢なんかを自分が何かをする原因にさせておきたくないというのがあなたの望むところではないでしょうか。

 そうであれば、私たちで一緒にその夢の始まりを見てみましょう。というのは、あなたが見ている部分は単に二次的な部分であって、夢を引き起こす原因は一次的な部分にこそあるからです。

 眠ったままこの世界を夢見ている者は誰一人として彼の自分自身に対する攻撃のことを覚えてなどいません。

 自分が身体について何も知らず、こんな世界が本物であるなんて想像すらしなかったときが実際にあったとは誰にも信じられません。

 そのときなら、彼はすぐさま、身体や世界などという思い付きが、あまりに馬鹿げていて笑い飛ばすしかないような、単なる幻想であると見ていたことでしょう。

 そんな幻想が、今では、何と深刻なものに見えていることでしょうか。

 だから、そんな幻想を誰も笑って信じようともしなかったときがあったことなど、誰も思い出すことすらできません。

 もし私たちがそんな幻想を引き起こす原因を直視しさえすれば、それがお笑い草でしかないことを思い出すことができます。

 そして、私たちは恐れの原因なんかではなくて、笑いの根拠を見出すことになるでしょう。



6. 夢のことを自分自身とは分離していて、自分に降りかかってくるものとして知覚している夢見る者に、彼が投げ出してしまったその夢を戻しましょう。

 全てが一つである永遠の世界の中に小さな狂気の想念が忍び込んだとき、神の子はそんな狂気の想念を笑って済ませることを覚えていませんでした。

 神の子が笑い飛ばすことを忘れていたせいで、そんな狂気の思いが深刻な想念となり、そんな狂気を成就することや狂気が実際に影響をもたらすことまで可能となってしまいました。

 一緒になら、私たちには、こうしたことを両方とも笑い飛ばすことができるし、時間が永遠の世界に侵入することなどできないことも理解できます。

 時間がまんまと永遠を出し抜くことができるなどと考えるのは全くのジョークでしかありません。永遠とは時間が無いことを意味するからです。


7. この時間のない状態において、時間が本物とされ、神の一部が自分自身を攻撃できたり、別々に分離した兄弟たちが敵として現れたり、身体の中に心があるとされたりしているのです。このようなことは全て、夢の終わりがその始まりにおいて始まって、夢の起源において終わるという堂々巡りの形態です。

 あなたの見ている世界は、あなたが自分がしたと思っていることを正確に描写します。

 ただし、今のところ、あなたは、自分がしたことを、自分がされたことだと思い込んでいます。

 あなたが考えたことに対する罪悪感は、あなた自身の外側に置かれ、あなたになり代わってあなたの夢を夢見て、あなたの思いを思っている有罪とされた世界へと押し付けられます。

 このような罪悪感を押し付けられた有罪の世界は、あなた自身の報復ではなくて、有罪の世界それ自体による報復をもたらすことになります。

 罪悪感を押し付けられた有罪の世界は、有罪とされた夢の世界の中で身体が行う様々な罪深いことのゆえに身体を罰することによって、かろうじて、あなたを身体の中に閉じ込めたままに保ちます。

 あなたは、自分でその身体を作ったのではないので、身体の行う邪悪な所業を止める力を持っていません。だから、あなたには、身体の行動も身体の目的も身体の運命もコントロールできないことになるのです。」




※テキスト 第二十七章 七 夢を夢見る者
「8. 誰一人、この世界が自分のために見ている夢から目覚めることはできません。

 彼は誰か別の人の夢の一部になっています。

 彼には自分が作らなかった夢から目覚める選択はできません。

 自分ではどうすることもできず、彼は別の心が想像して、大切にしている夢の犠牲になったまま立ち尽くすばかりです。

 しかし、実際には、その他の心は彼のことなど気にもしていないに違いなく、彼の平安や幸福など、一日の天候や時刻ほどにも思ってはいないでしょう。

 その心は彼のことを愛してなどいません。しかし、その心は、自分の夢を満足させるためであれば、どんな役割でも好きなように彼に割り当ててきます。

 彼の価値は全く取るに足りないものであるため、彼は、この世界の空虚な夢の中で想像された無意味な筋書きに従って跳ね回って踊る影でしかありません。

9. これこそ、あなたが見ることができる唯一の絵です。もしあなたが自分の夢を夢見ている本人でないとした場合に、ほかにあり得る夢を見る原因として、あなたが別に選べる選択肢はこれしかありません。

 だから、もし苦しみの原因があなたの心の中にあることを否定するのなら、あなたはこの別の選択肢の方を選んでいるということです。

 実際のところ、苦しみの原因が自分の心の中にあることを喜ぶがよいでしょう。なぜなら、そうであればこそ、時間の中において、あなただけが自分の運命を決定できる唯一の存在だということになるからです。

 死の眠りの中で見る邪悪な夢か、それとも幸せな目覚めによって味わう生命の喜びか、いずれを選択するのか、それはあなた次第です。

12. あなた自身から分離した兄弟は、古来の仇敵であり、闇の中で忍び寄ってあなたを殺そうとし、しかも、その死を長引かせ、緩慢な死をもたらそうと計画している殺人者だと、あなたは夢見ています。

 ところが、この夢の下にはまだもう一つの夢があります。そのもう一つの夢の中では、あなたの方が殺人者で、秘密の敵であり、兄弟やこの世界を同じように破滅させ、死骸を漁る類の者になっています。

 ここにこそ、苦しみの原因が、あなたのつまらない夢とあなたの実在との間の空間があります。

 あなたにはほとんど見えないようなこの僅かな隙間にこそ、幻想と恐れが発祥する場所、恐怖や古来の憎しみ、大惨事の瞬間などを宿す時、その全てここにあるのです。

 ここにこそ実在しないものの原因があります。

 そして、それらが取り消されることになるのもここにおいてなのです。」

※テキスト 第二十八章 二 原因と結果の逆転
「7. 奇跡は、あなたが夢を見ているのであり、その夢の内容は真実ではないと立証します。

 これは幻想に対処する上で、極めて重要な一歩です。

 自分が幻想をでっち上げたのだと知覚したなら、幻想に恐れを抱く者は誰もいません。

 恐れが幅を利かせていたのは、彼がその夢の中の単なる登場人物ではなく自分こそが夢の作者だと分かっていなかったからです。

 自分が作者だと気付いてない夢見る者は、自分が兄弟に与えたと夢見ている結果を自分自身に与えることになります。

 そして、その夢が、彼に願いが叶ったように見せようとして寄せ集めて彼に差し出したものは、彼が兄弟に与えたと夢見たものでしかないのです。

 こうして、彼は自分の仕掛けた攻撃のことを恐れます。しかし、彼には、その攻撃が他の者の手によってなされていると見えています。

 彼は自分の攻撃の及ぼす影響に、被害者として苦しめられることになります。とはいえ、彼は自分がその攻撃の原因であることによって苦しむわけではありません。

 彼は、自分がその攻撃を作ったわけではないので、彼の引き起こしたことについて罪は無いというわけです。

 奇跡は、彼が真理に影響するようなことは何もしてはいないということを彼に示すだけです。

 彼が恐れているのは、結果の無い原因です。もっとも、原因を原因たらしめているのは結果です。

 したがって、結果の無い原因など決して存在したことはないのです。"

8. 分離は、父が自らの結果であるものを奪われ、もはや自らの結果であるものの創造主ではなくなってしまったゆえに、自らの結果であるものを引き留めておく力を無くしているという夢から始まりました。

 その夢の中で、夢見る者が自分自身を作ったのです。

 しかし、彼の作ったものが彼に逆らって、夢の作り主としての役割を奪い取ったわけで、それはちょうど夢見る者が自分の創造主から創造主の役割を簒奪したのと同じことです。

 そして、彼が自分の創造主を憎んだのと同じように、その夢の中の登場人物たちも彼に憎しみを抱いたのです。

 彼が身体に与えた動機を登場人物たちも自らの動機とするので、彼の身体は、登場人物たちから虐待される奴隷となります。

 そして、彼の身体が自分たちに報復しようとしていると言って、夢の登場人物たちは彼の身体を憎みます。

 このような夢の中の登場人物たちの身体に対する報復こそ、その夢を見た者がそのような夢の作り主であるはずがない何よりの証であるように見えます。

 結果と原因がまず分裂し、その後、その原意と結果が逆転し、かくして、結果が原因となり、原因が結果となるのです。」




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Comments 3

Kino

丁度気になったことについて書かれているエントリーでした。いつも有難うございます。
中途半端に他者が自分の投影だと知ったつもりになると、私の場合自惚れに陥りそうな気がしています。
人がしてくれたことに自分の分身がしたんだと感謝の気持ちが減ったり、
人の反応を自分のバロメーターに利用したり。。
同じく、「赦し」という概念を知ったかぶることも、罪を犯した際に
自分は赦されるべき存在なんだと尊大になりそうな危惧があります。
湧き上がる「自惚れ」とどう向き合ったら宜しいでしょうか。
何卒ご指導宜しくお願い致します。

2013-06-06 (Thu) 12:24 | EDIT | REPLY |   

ken

Re: Re: タイトルなし

> Kinoさん、コメントどうもありがとうございました。回答を「自信喪失と自惚れの行ったり来たりから抜け出すには?」という記事にしましたので、ご覧ください(右下のURLをクリック)

2013-06-07 (Fri) 11:41 | EDIT | REPLY |   

Kino

07

映画「バニラ・スカイ」を観たあとにこのエントリーを再読したら、大分印象が変わりました。大いなる自己が見てる夢の結果としての私としては、この世界における罪悪感・恐れ・分離感を和らげるために、まずは大いなる自己に働きかけてあげたいなという気持ちがイメージできました。108さんの「デバッグ」もその方法論ですね。

それにしても、指示代名詞がどちらの私を指すのか、訳して下さっていても読み解き辛いですね(笑)。少しずつ理解を深めていきたいと思います。有難うございました。

2014-03-12 (Wed) 15:40 | EDIT | REPLY |   

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