There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

「贖罪」

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「贖罪」は、奇跡のコースでも最重要な概念です。


分離は実際には起こっておらず、そこから派生する恐怖や幻想を全て赦し、奇跡によって取り消し、癒す一なる神への帰還を果たすための根本原理となる愛に基づく作用です。

「Atonement」は、「贖罪」と訳されます。語源的には、at one ment 一つになる、統一する、あるいは at tune ment 調整、調律、調和するという意味だそうです。

奇跡のコースでいう贖罪は、分離の起源をひっくり返す作業です。分離は、一体であるものが、分裂してばらばらに散らばって、それぞれ独立したものとして存在するように見える幻想が生まれることでした。
この分離を逆転させると、世界中にばらばらに散らばっている多様な個性の個別の心を調和させ、統合し、元の一なるものへと戻していくプロセスということになります。

この作用は、プリズムの譬えのように、光を統合することに似ているし、いろんな個性のエゴを持つ個々の心が醸し出す不協和音を調和させていくという意味では、楽器の音合わせや調律、調弦という表現も適しているように思います。

統合プリズム


また、エゴの声によるノイズを排して、聖霊の声が聞こえるように心を調整する作業という点では、ラジオの電波の周波数を希望の局に同調させてチューニングする作業もいい例だと思います。
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だったら、贖罪ではなくて、調律とでも言ってくれた方が分かり易いのにと思われる方もあろうかと思いますが、コースは「贖罪」と言います。

これには、キリストが身代わりとなって人類の罪を贖ったという贖罪という言葉に詰まっている根深い固定観念を打ち砕くという意味だけでなく、そもそも、コースが罪という概念を取り消すことに取り組んでいることも要因でしょう。

「贖う」には代価を払って手に入れる、買うという意味があります。

「罪」を「贖う」ということは、犯してしまった罪による負い目に対して生贄を犠牲として差出して埋め合わせをして、罪を犯す前の状態を買い戻して罪を無かったことにするというような考え方です。

罪の償いについての発想は、洋の東西、宗教を問わず、このようなものになりがちです。

犯罪の被害に遭った側からすれば、加害者の罪は何をしたところで消えることはない、一生かけて償うべきだ、単に反省するだけでは足りない、金銭的な埋め合わせをしたり、刑事罰を受けるのは当然だ、それでも罪はなくならないということになります。

他方で、罪を犯した側としても、誰かに酷いことをしてしまった、過ちと向き合って悔い改めたつもりだが、どんなに謝ったところで、亡くなってしまった人や後遺障害が残ってしまった被害者の身体を元に戻すことはできない、罪悪感から解放されるためには、代償としてお金を支払ったり、誰かに罰してもらったりでもしない限り、どうしようもないということです。
ふてぶてしくも自分は罪悪感など持たないと豪語し、極悪人であることにプライドを抱くような人でも、人である限り、意識から切り離して解離しているだけで、罪悪感からは自由ではあり得ないので、意識していなくても、罪悪感からの解放を求めているということがいえます。

さて、このような過去の罪に対して、何か犠牲となるものを埋め合わせとして差し出すことで、バランスを取ることが可能であるし、取らなければならないという発想は自然なことであり、社会的にも数千年に亘って容認されてきたことでもあり、司法制度の礎でもあります。

実際に、加害者であるとか被害者の立場に身を置いた方を思えば、罪の償いがそのように考えられることは全くおかしなことではないということは本当に強調しておかねばなりません。

加害者にも被害者にもなったことも接したこともない人が奇跡のコースを生齧りして、軽はずみな言葉をかけて誰かを傷つけてしまうことだけはあってほしくないものです。


それにもかかわらず、奇跡のコースは、このような概念としての贖罪は採用しません。

以前に奇跡のコースは「犠牲」という概念を否認するというお話をしました。
エゴの抱く「犠牲」の考え方によると、犠牲は神と取引をすることであり、特別な関係にある者同士の間では、相手に更なる犠牲と罪悪感を求めるということでした。


冒頭に述べた一般的な贖罪の考え方(頭文字小文字のatonement)は、罪が存在することを大前提として、その上で、何らか犠牲を払って埋め合わせをすることによって罪を贖って帳消しにしようとすることでした。害悪である罪を打ち消すために、同等の害悪を負担させ(犠牲)るということは、紛れもなく攻撃です。つまり、一般的な贖罪は、攻撃によって罪を消すことができるという考え方であるということができます。

これに対して、奇跡のコースのいう「贖罪」(頭文字が大文字のAtonement)は、罪など無いということを真正面から認めることによってなされます。コースは、罪を現実のものにしておいてそれを攻撃することで打ち消そうとするのはエゴの計画だと言います。つまり、エゴは、罪を現実のものにすることにさえ成功すれば、一般的な贖罪の考え方の大前提に乗っかることになり、首尾よく攻撃による幻想を維持できることになります。

罪が現実であることを前提として受け入れる限りは、罪を消すためには犠牲をもって「贖う」しかないのは確かでしょう。

しかし、コースは、この罪が現実であるという認識が幻想であることにとことん気付いて幻想を取り消して「赦す」ことによって、そもそもの土台である罪が現実であるという前提の方を掘り崩しにかかります。奇跡とは、この土台に穴を開けていく一つひとつの作業です。

贖罪の完成は、言ってみれば、ちゃぶ台返しであり、みんなが従わなければならないルールだと思い込んで、ルールに則って一喜一憂しながらゲームにのめり込んでいるのを、テーブルごとひっくり返してしまうわけです。

これが、贖罪が攻撃に転用できない唯一の防御であると言われる所以です。
たとえば、「否認」という防御は、誤りを否定するために使えば防御になりますが、真理を否定するために使うと攻撃になってしまいます。
つまり、この世界というテーブル上でのゲームを通して用いる概念は、聖霊に従うかエゴに従うかによって防御にも攻撃にも転化し得るということです。
一般的な概念としての贖罪も、テーブル上で用いる以上は、罪ありとの前提に縛られる以上、存在する罪を打ち消すためには、それに見合う別の害悪等をぶつけて罪による害悪と相殺させなければならないということになるのです。

テーブル上の概念としての「許し」とコースの言う「赦し」の相違もここから理解できます。
「許し」は罪が存在するとの価値判断のうえで、許しを受ける誰かの犯した罪を、全く隔絶した存在である許しを与える誰かが、大目に見て見逃してやることです。
 これに対して、「赦し」は、そもそも「許す」べき罪など存在しないという真理を、罪を犯したように見えている他者も自己も実在しておらず、本当は一体の神の子であるという真理に照らして理解し、幻想を真理に置き換えることです。両者は根本的に違います。赦しについては、また別の機会に述べたいと思います。




※テキスト 第十二章 四 探求と発見
「7. 贖罪は、あなたが完全になるために支払う代価ではありません。そうではなくて、贖罪は、あなたの完全さをあなたが自覚するための代価なのです。

 なぜなら、あなたが自分で選んで「売り渡」そうとしたもの(永遠の生命)は、あなたのために渡さずに取っておかれなければならなかったからです。というのも、あなたにはそれ(永遠の生命)を「買い」戻すことなど不可能だったからです。

 しかし、贖罪のためには、あなたは自分が売り渡そうと選択したものに、お金ではなく、霊をもって投資しなければなりません。

 なぜなら、霊は意志であり、意志こそが王国での「価値」だからです。

 あなたが神から受け継いだもの(永遠の生命)は、あなたが既に罪を贖われていることを認識することだけを待ち望んでいます。

 聖霊はあなたを永遠の生命へと導いてはくれます。しかし、あなたは自分が死に投資してきたものを手放さなければなりません。さもないと、あなたの周りの至るところに生命があるにもかかわらず、あなたには生命が見えなくなってしまうことでしょう。」


※テキスト 第十三章 十 罪悪感からの解放
「6. あなたが、たとえどんな方法であれ、誰に関してであれ、兄弟が何をしたにせよ、彼が罪悪感を持つのは当然であるとあなたが信じる限り、あなたは自分の内面を見つめようとはしないでしょう。自分の内面を見れば、あなたはいつでも贖罪を見出せるにもかかわらずです。

 罪悪感を抱く理由があるとあなたが信じる限り、罪悪感に終わりがやって来ることは決してないでしょう。

 なぜなら、あなたには、罪悪感を抱くことは、いつでも完全に狂気の沙汰であり、罪悪感を抱く理由などないと学ぶ必要があるからです。

 聖霊は実在するものを追い払おうとしているのではありません。

 もし罪が実在するとすれば、贖罪はあり得ません。

 贖罪の目的は、幻想を払拭することであって、幻想を実在するものとして確立し、その上で、幻想を許すということではないのです。」

※テキスト 第十三章 一 罪の無いことと不滅であること
「10. 罪を現実のものにしておきながら、その上で、罪の償いをして、罪悪感を拭い去ろうとしても、そんなことはできはしません。

 これこそエゴの計画であり、エゴは、罪悪感を払拭する代わりに、この計画を差し出します。

 エゴは攻撃することで罪を償うことができると信じています。

 それは、エゴが攻撃こそが救いであるとの全く狂気の考えに全面的に入れ込んでいるからです。

 そして、罪悪感を大切にしている以上は、あなたも攻撃が救いであると信じ込んでいるに違いありません。というのも、エゴと同一化することなくして、あなたが自分の欲しくもないものを大切にするはずはないからです。」


※テキスト 第二章 二 防衛手段としての贖罪
「4. 贖罪こそ、破壊的に使うことのできない唯一の防衛手段です。なぜなら、贖罪はあなたが作った道具ではないからです。

 贖罪の原理は、贖罪が始まる遥か以前から効力を有していたものです。

 贖罪の原理は愛であり、贖罪自体は愛の作用です。

 分離以前には、愛が作用する必要はありませんでした。なぜなら、空間と時間についての信念など存在しなかったからです。

 贖罪と贖罪を達成するために必要な条件が定められたのは、分離以後のことにすぎません。

 その分離の後、必要となった防衛手段としての贖罪はあまりにも壮大なものでした。そのため、贖罪を用いるのを拒絶することはできたとしても、贖罪が誤用される余地はありませんでした。

 そして、他の防衛手段は固有の特質として、攻撃のための武器へと転用し得る性質を備えているとしても、贖罪だけは、いかにそれを用いることを拒絶したとしても、攻撃のための武器へと転用することはできません。

 こうして、贖罪は諸刃の剣ではない唯一の防衛手段となるのです。

 贖罪は、ただ癒すことができるだけです。」

※テキスト 第四章 四 これは必要ない
「5. あなたが罪悪感を抱くときは、神の法則に背いたのは実はエゴであって、あなたは背いてなどいないことを思い出してください。

 エゴの犯した「罪」など、私に任せておいてください。

 エゴの罪のためにこそ、贖罪があるのです。

 しかし、あなたが自分のエゴが傷付けた者たちについての自分の心を変えるまでは、贖罪はあなたを解放することができません。

 あなたが罪悪感を抱いている限りは、エゴが指揮を執ることになります。なぜなら、ただエゴだけが罪悪感を経験できるからです。

 罪悪感を持つ必要などないのです。」


※テキスト 第二章 三 神の祭壇
「3. 誰もがみな贖罪を受け入れるのは、単に時間の問題にすぎません。

 こう言うと、この最終的な結論が必然的なものであると言っているようで、自由意志と矛盾するように思えるかもしれませんが、そうではありません。

 あなたは、一時凌ぎをすることができるし、途方もない先延ばしをすることもできます。しかし、あなたは創造主から完全に離れ去ることはできません。そして、創造主は、誤って創造するあなたの能力に限界を定めているのです。

 閉じ込められた意志は、極端な場合、全く耐えられないような事態を引き起こすようになります。

 苦痛に対する忍耐力がたとえ高かったとしても、忍耐力に限界がないわけではありません。

 結局は誰もが、おぼろげながらではあっても、もっとよい道が必ずあるはずだと気付き始めます。

 この認識がさらに堅固に確立されたとき、それがターニング・ポイントとなります。

 最終的には、これが霊的な視力を再び覚醒させ、それと同時に、肉体の視力への依存度を弱めます。

 二つの知覚のレベルを交互に用いて、そのどちらにも頼ろうとすると、葛藤を覚えるのは当然だし、その葛藤がかなり深刻になることもあり得ます。

しかし、あなたがいずれの視力に頼ることになるか、その成り行きは神にも劣らず確かなことです。」


※テキスト 第三章 一 犠牲を伴わない贖罪
「4. 犠牲という観念は、断じて神の与り知らない概念です。

 犠牲という観念は、恐れからしか生じないし、恐怖に怯える者たちは非情にもなり得ます。

 いかなる形の犠牲的行為であっても、それは、「天の父が慈悲深くあるように、あなたも慈悲深くあるように」との私が与えた訓令に違反することです。

 ここで言われていることが自分自身に当てはまると理解するのは、多くのキリスト信者にとって、ずっと困難なことでした。

 よい教師は、決して生徒を怯えさせるようなことはしません。

 恐がらせることは攻撃することであり、結果的には、教師が教えようとすることを生徒に拒絶させてしまいます。

 その結果、学習は失敗に終わるのです。"


5. 私は「世の罪を取り除く神の子羊」と正しく呼ばれてきました。しかし、その子羊を血に染まったものとして描写する者たちは、この象徴が意味するところを理解しているとはいえません。

 正しく理解されるなら、それは私が潔白であることを示す極めてシンプルな象徴です。

 ライオンと子羊とが一緒に横たわっている姿は、力強さと潔白さは、対立するのではなく、平和の裡にありのまま共存するということを象徴しています。

 「心の清い者は幸いである。彼らは神を見るであろうから」というのは、同じことを異なる表現で述べたものです。

 清らかな心は真理を知ります。そして、真理を知ることはその心の力となります。

 清らかな心は、破壊と潔白とを混同することはありません。なぜなら、清らかな心は、潔白であることを弱さとではなく、力強さと結び付けて考えるからです。"


6. 潔白な者は、何ものをも犠牲にするということができません。なぜなら、潔白な心はあらゆるものを持っているので、潔白な心の完全円満な姿を保護することにだけ力を尽くすからです。

 潔白な者は、投影することなどできません。

 潔白な者は、ただ他の心を尊ぶことができるだけです。なぜなら、敬意を表すことは、真に愛されている者たちが、自分と同じように真に愛されている他者と交わす自然な挨拶だからです。

 子羊が「世の罪を取り除く」というのは、穢れなく慈愛に満ちた状態においてこそ、贖罪の意味するところが完全に顕現するという意味です。

 贖罪には、曖昧なところなど一切ありません。

 贖罪は、光の内に存在するので、完全に明瞭なものです。

 ただ、贖罪を闇の中に覆い隠そうとする試みだけが、見ることを選ばない者たちにとって、贖罪を近寄り難いものにしてしまったのです。"


7. 贖罪そのものからは、ただ真理のみが溢れ出します。

 したがって、贖罪は無害であることの象徴であり、ただ祝福のみを注ぐものです。

 もし贖罪が、完全な潔白さ以外の何ものかから生じたものであったならば、贖罪がこのような働きをすることはできないでしょう。

 潔白であることは叡智です。なぜなら、潔白である者は、邪悪さを自覚することがないし、邪悪なるものは存在してもいないからです。

 しかしながら、潔白である者は、真実であるものは全てを完全に自覚しています。

 キリストの復活は、何ものも真理を破壊することができないということを実証しました。

 光が闇の醸し出す形態など完全に無くすので、善なるものは、たとえ邪悪がどのような形をとって現れようとも、それに持ち堪えることができます。

 したがって、贖罪は完全な教訓となります。

 贖罪は、私の教えた他のレッスンが全て真実であることを最終的に実証するものとなります。

 もしあなたが今ここで総括した一つの結論を受け入れることができれば、数ある小さなレッスンから学ぶ必要など無くなります。

 もしこのことを信じることができれば、あなたはあらゆる誤りから解放されるのです。」

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