There Is No Spoon

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この世界での配役について

ダウン症の出生前診断が話題になることがあります。

非常にデリケートな問題なので、軽はずみに私見は述べられません。

もっとも、この命の選別に関わる問題はとても重大な疑問を提起します。
人の価値に優劣はあるのか、生まれてこないほうがよい命や生きている値打ちの無い命はあるのか。

通り一遍の善(偽善も含む)に基づく考え方からすれば、ひとつの命は地球よりも重いのだから、生まれてくる命に優劣なんてつけるべきじゃないということになるのはわかります。

そうではなくて、きれいごとは抜きにして、本当のところはどうなのでしょう。

まず、社会的な常識的発想の本音の部分を感じ取るならば、他人事として率直に言えば、世間的に優秀だと褒めそやされるような子供であってほしい(逆は敢えて言いません)というのが人情なのでしょう。

この点について、奇跡のコースの考え方はどうなのでしょうか。結論は出せませんが、考えてみたいと思います。

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以前に、プリズムのたとえをお話ししました。そこでは、ばらばらになった多様な色合いたちは、全て混じり合って一体化しないと、本来の純白の光線にはならないということでした。

そして、私たちが、ばらばらに隔絶した身体に幽閉された個別の心として限りある命を生きていると思い込んでいるのは幻想で、真実は、みんな一体でひとつの神の子であるということでした。

ここからの帰結は、当然、万人は本当に平等であり、個別の命に優劣なんてないということです。

それには、そもそも個別の身体という入れ物があり、その中にばらばらになった個別の心が入っているというのは幻である点で、一様に幻想として同等であるという意味もあります。

また、真の姿が一体となった一なる心であるという点では、個別の心としての自分も他者も大いなる自己の一部であるという点で、他人に見えていても自分だという点で等しいということです。

身体を構成する器官や細胞それぞれが自分たちは別々だという思いを持っていたら、足の裏は、自分たちはろくな栄養も配給されず重荷を背負って毎日すり減らさせられているというのに、上の世界には、たっぷり栄養を味わいながら、美しい絵を眺めている目玉という貴族がいると聞いたぞ、なんて不公平なんだ、と不満を漏らしているかもしれません。

それでも、その身体を「持つ」誰かにとっては、目玉も足の裏も等しく大切な自分の一部です。
不公平感に耐え切れなくなった足裏が煽動し、これに乗った手が暴走して、「いい思いをしている」目玉を「やっつけて」しまったとしたら、その身体を持つ誰かはきっと悲嘆に暮れることでしょう。
 
この観点からすると、各自が自分の持ち味を度外視して、ある特定の価値観によって、序列をつけ、それを充足するものは優れていて、それに満たないものは劣っている、と価値判断していくことは、不幸の始まりです。

たまたまこの幻想世界で自分というキャラに割り当てられた役割が目玉のように華々しいものではなく、足裏のように地味なものだったからといって、その役割を放棄して目玉になろうと努力するのは、悪あがきでしかありません。せいぜい魚の目になる程度で全体にとっても、煩わしさを招くだけです。
場合によっては、闇を信じる度合いが強くなって闇を周囲に伝播するような存在へと変異することもあり得、そうなっては全体に害悪をもたらすことになります。


人間でも、自分というキャラの割り当てが気に入らないといって、外の価値観から取り入れた人物像に近づこうと、痛々しいほどに努力する場合があります。

これは幼稚園の演劇で、草役の子が主役のお姫様役がいいと言って駄々をこねるようなものです。ゆとり教育的に、みんなお姫様になってしまっては、マトリックス2以降でエージェント・スミスが増殖したような事態になってしまいます。体の表面の皮膚がみんな目玉に「昇格」してしまったら、ちょっと動くだけでも痛くて、まぶしくて耐え切れないし、ちょっと圧力がかかっただけでブチブチと破裂してしまうことでしょう。




それでも、人情としては、自分の向き不向きにかかわらず、「よい」配役を得たいものです。

社会的に評価される人物像というのは、みんなにとって害にならず、快適さを提供できる要素を一般化したもので、ステレオタイプ化できるので、頭のいい人は、外にある規範をうまく取り込んで、仮面を被ることができます。なかには、この規範の取り込みがうますぎて、一度も失敗することなく、社会的に理想とされるに近い人物に自分を仕立てあげることができる人もいます。

しかし、これはエゴの仮面であって、真のその人の姿ではありません。
ある問題に対して、この理想の仮面を身につけた人の出す答えと、自分なりに壁にぶち当たりながら生きて、試行錯誤の末に学んで本当の自分(聖霊に従う霊としての自分)が出てきた人が内にある規範に基づいて出す答えが、表面上は一致することも多いはずです。

しかし、内からの規範(聖霊の声)に従う人は、相手のほかには誰もいない無人島でも人殺しや強姦をしないのに対して、外の規範(エゴの声)を取り込んできた人は、社会の目から解放された場所では、違う人物になるもしれないという違いがあります。

社会的に望ましい人物像に近づくために、本来の自分に足りない部分には粘土を付け足し、邪魔な部分は切り落とすというのが一般的な教育観です。

この発想の基礎には、万人受けする理想像とそれと比べて、それに満たない劣ったものがあるとの考え方があります。

はたして、神の現実ではない、この幻想の世界において、絶対的に素晴らしいものや絶対的に悪いものなどあるのでしょうか。

無人島でひとりで生きていたなら、その人の個性などないも等しいといえます。社会生活をする上では、みんなが得をするように貢献する人がよい人で、みんなの足を引っ張ったりお荷物になるような人が悪い人ということになります。

とはいえ、所属する社会次第で、ところが変われば品が変わり、戦場では英雄となる人物も平和な農村では、がさつで煙たがられる粗暴な鼻つまみ者で人殺しになりえます。

社会的には有能さとして分類される特質も、特定の場面では、無能さとして機能することもあります。たとえば、他者の痛みへの共感能力の高い人は看護師としては有能だとしても、兵士としては無能でしょう。逆もまた真なりです。

この意味で、この世界において、人にとって、個としての自分の特性に応じた自分の真の居場所を見つけるということは何よりも大切なことなのではないかと感じます。

人の成長は、ミケランジェロが大理石から中にあるダビデ像を出してあげたというように、本来の姿に彫像していく作業かもしれません。彫り出された姿は、たまたま誰からも羨まれる美しいものであることもあれば、獰猛で、忌み嫌われるような存在かもしれません。

しかし、獰猛に見えたそれも、ふさわしい場におかれさえすれば、持って生まれた役割を果たし、独特の美しさを発揮することができるのだと思います。

この意味で、病気や障害としてレッテルづけされている中にも、光の当て方によっては個性として輝き出す特性というものはあるはずです。

「汝自身を知れ」というテーマで述べたことがあります。

コースが、聖霊に従う場合に知るべきだという自己はひとりの神の子を指す大いなる自己ということでした。

この大いなる自己に気づくには、個別の自己が抱くエゴが個別の自己につけさせている仮面を取り去っておいたほうがより真理の光に同調しやすくなるという意味で有益でしょう。

これが、コースが、自我に従う場合にも「汝自身を知れ」というのがカリキュラムの目標であるとしている理由だと思います。この場合に知る必要がある自己は、大いなる自己としての自分ではなく、個別の自己としての自分の身の程を知れという意味のことでした。

そのうえで、コースは、ほかの誰かに自分勝手な役割を振り振って、それを果たせないと言っては非難するのではなく、兄弟はあなたに助けとなるチャンスを与えてくれているのだと気づくことを求めます。

これは思考枠組みの逆転、リフレーミングであり、発想の転換です。

この世界にいる家族であれ友人であれ、見知らぬ他人であれ、その人たちは、私たちに幸せを運ぶ役割を負って存在しているのではなく、反対に、私たちが助けとなる機会を提供してくれているのだと。
つまり、私たちが腹を立てたくなるような不快な出来事を運んでくるたびに、そのつど、私たちが嫌ったり憎んですらいるかもしれないその人は、私たちに助けとなるチャンスを差し延べてくれているということです。
その助けとは、その兄弟こそ、自分の救い主であるということに気付いて、みんなが一体となった神の子は無罪であるというメッセージを伝えることに貢献することです。

草役を割り振られたならば、草役なんてうんざりだと世を拗ねて、お姫様役をうらやんだり、自分より劣るように思える芋虫役を小馬鹿にしたりしてなどいないで、潔く、とことん見事な草を演じ切り、劇全体(大いなる自己)を花開かせることに貢献したいものです。




※テキスト 第二十九章 四 夢の中での役割
「4. あなたが怒るとき、それは誰かが、あなたの割り当てた役割を果し損なったときではないでしょうか。

 そして、誰かがあなたの与えたその役割を果たし損ねたことが、あなたの攻撃が正当化される「理由」になるのではないでしょうか。

 あなたが好きだと思う夢は、あなたの与えた役割が果されている夢であるとか、あなたに自分に必要なものとした物事が満たされている夢です。

 あなたが夢に与えた役割が果たされたのか、単に望んでいるだけなのかということは問題ではありません。

 問題は、あなたが夢に与えた役割が存在するという観念そのものであって、それから恐れが生じてくるのです。

 夢はそれを多くまたは少なく望むというものではありません。

 切望するかしないか、そのどちらかです。

 そして、夢の一つひとつはあなたが割り当てたある役割を表しています。それは、ある出来事や身体やある物によって表される、あなたのために達成されるべき目標です。

 もしそれが成功すれば、あなたはその夢を好きだと思います。

 もし失敗に終われば、悲しい夢だと思います。

 しかし、それが成功しようが失敗に終わろうが、そんなことは核心ではありません。そんなことは、単なる薄弱な覆いにすぎないのです。


5. 夢の中に出て来る一人ひとりの登場人物に、「相応しい」役割を与えたのがあなたではなかったとすれば、あなたの夢はどんなに幸せな夢になったことでしょう。

 登場人物に対するあなたの観念を除いては、誰も失敗することはあり得ません。そして、裏切られるものがあるとすれば、登場人物に対するあなたの観念しかありません。

 聖霊が与える夢の核心は、決して恐怖となるものではありません。

 外側を覆うものは変わらないように見えるかもしれません。しかし、今までとは違う別のものを覆っているので、覆いが意味するものは変わっています。

 何を知覚するかは、どんな目的で知覚するかによって決まります。だから、知覚はその目的とするものそのもののようになるということです。

 もし夢の役目があなたが助けとなるための機会を与えることになるならば、攻撃をしかけてくる影のような人物も、あなたに助けとなる機会を与えてくれる兄弟となります。

 そして、悲しい夢は、こうにして喜びに変わるのです。


6. あなたの兄弟は何のためにいるのでしょうか。

 あなたには自分の兄弟が何のために存在しているのか分かっていません。なぜなら、あなたには自分自身の役割がはっきりしていないせいです。

 あなたが自分に幸せを運んできてくれると思い描く役割を、兄弟に押し付けてはなりません。

 また、あなたが夢の中で、自分の人生はこうあるべきだとして、兄弟に割り振った役目を彼がちゃんと引き受けてくれないからといって、彼を傷付けようとしてはなりません。

 兄弟は彼が見るどんな夢の中でも助けを求めています。そして、もしあなたが夢の役割を、聖霊が知覚するように見さえすれば、あなたは兄弟に助けを差し延べることができます。聖霊は、自ら授かった役割に役立てる手段としてどんな夢でも利用することができるのです。

 聖霊は、夢自体ではなく、それを夢見ている者のことを愛しています。だから、一つひとつの夢は愛を捧げるものとなるのです。

 というのは、夢の中心には聖霊のあなたへの愛があり、夢がどんな形を取ろうとも、愛で照らしてくれるのです。」

※テキスト 第七章 十 苦痛と歓喜の混同
「3. 聖霊は、苦痛を避けられるように、ただそのためにあなたを導きます。

 もし聖霊の目的に気付いたなら、聖霊の目標に異議を唱える者など誰もいないでしょう。

 問題は、聖霊の言うことが真実であるかどうかということではなく、あなたが聖霊の言うことに耳を傾けたいと思うかどうかです。

 あなたは、何が楽しいことなのか分かっていないのと同じく、何が苦しいことなのか気付いていません。それどころか、あなたは頻繁に、両者を混同する傾向すらあります。

 聖霊の主要な役割は、楽しさと苦しさの違いを区別できるように、あなたに教えることです。

 あなたにとって楽しいことは、エゴにとっては苦しいことです。そして、あなたが本当の自分に疑いを持っている限り、あなたは喜びと苦痛とを混同することでしょう。

 この苦楽の混同が、犠牲という考え方全体の原因といえます。

 聖霊に従いなさい。そうすれば、あなたはエゴを放棄することになります。

 しかし、あなたは何一つ犠牲にすることにはなりません。

 それどころか反対に、あなたは、あらゆるものを手に入れることになるのです。

 もしあなたがこのことを信じれば、もはや矛盾や衝突などなくなることでしょう。」



※テキスト 第十二章 七 内側を見る
「2. 世界が救済されたことを認めるためには、世界中の誰もがみんな、救済における自らの役割を果たさねばなりません。

 あなたは、目に見えないものを見ることはできません。

 しかし、もしあなたが目に見えないものの結果を見るなら、あなたにも、目に見えないものがそこにあるに違いないと分かります。

 目に見えないものが何をするかを知覚することによって、あなたは、目に見えないものの存在を認識するのです。

 そして、目に見えないものがすることによって、あなたには、目に見えないものが何であるのかが分かってきます。

 あなたは自分の力を見ることはできません。しかし、あなたの力があなたに行動できるようにするので、あなたには、その力が自分にあると確信を得るようになるのです。

 そして、あなたは自分の行動の成果を確かに見ることができます。」


※テキスト 第十四章 四 贖罪におけるあなたの役割
「5. あなたが自分でどんな決断をするときでも、その前に、あなたが天国で自分の役割に反する決断をしてきたことを思い出してください。その上で、この地上においても、自分で決断を下したいのかどうか注意深く考えてください。

 あなたのこの地上での役目は、自分が何を欲するのか知らないと認めた上で、ただ自分が何を望むのか自分で決めることに反対する決断をすることだけです。

 そうだとすれば、どうしてあなたに、自分で何をなすべきか決めることなどできるでしょうか。

 神を代弁し、あなたの役割を知る聖霊に、全ての決断を任せてください。

 そうすれば、聖霊はあなたに、神の子を愛さずにいたり、神の子に愛の代わりに罪悪感を教えたりすることによって、あなたが自分で背負い込んできた不快な重荷を下ろすことを教えてくれることでしょう。

 この自分で決断するという血迷った狂気の試みなど放棄してしまいなさい。こんな試みはあなたを騙して父なる神と共に生きる喜びを見出せなくさせてしまいます。そして、あなたの中の真実として共に結び付き、あなたを神と一体にしてくれる神の愛と神聖さにあなたが喜んで目覚めることもできなくさせてしまうのです。」


※テキスト 第十四章 五 贖罪の輪
「2. 誰もがみな、贖罪において果たすべき特別な役割を持っています。しかし、一人ひとりに与えられたメッセージは常に同じものです。それは、神の子は無罪だということです。

 一人ひとりが、神の子は無罪だという同じメッセージを様々な形で教えます。そして、一人ひとりが、その同じメッセージを様々な形で学びます。

 しかし、神の子が神の子は無罪だというメッセージを教え、そして学ぶまでは、彼は自分の真の役割が自分の中で果たせないままでいるというぼやけた自覚の痛みに悩まされることでしょう。

 罪悪感は重荷として圧し掛かります。とはいえ、神があなたを罪悪感の重荷に束縛されたままにしておくことはありません。

 あなたの覚醒のための神の計画は、あなた自身の計画が確実に失敗を免れないのと同じくらい確実に完璧です。

 あなたは自分が何をしているか分かっていません。しかし、知るものである聖霊があなたの傍にいてくれます。

 聖霊の優しさはあなたの優しさです。だから、あなたが神と分かち合う愛は全て、聖霊があなたのために預かって保管しておいてくれます。

 聖霊は、あなたに幸せになる方法だけを教えてくれるのです。」

※テキスト 第二十二章 六 神聖な関係の光
「8. あなたは自分の兄弟の目を通して、自分の価値を理解するようになります。そして、誰もがみな自分の兄弟を見て、自分を攻撃する者ではなく、自分を救ってくれる人だと見るようになれば、解放されます。

 こうしてみんなが自分の前にいる兄弟を救い主と見ることによって自由になっていくことで、この世界は解放されます。

 このように目の前にいる兄弟を救い主と見ることこそ、平和をもたらす上で、あなたに与えられた役割です。

 というのは、これこそが、あなたがこの世界での自分の役目は何かと尋ねてきたことへの答えだからです。

 この自分の役割を変えようとしたり、別の目標を、この役割の代わりにしようとしたりしてはなりません。

 目の前にいる兄弟を救い主と見ることこそまさに、あなたに与えられた役割であり、この役割しかありません。

 この役割を受け入れて、気持ちよく、その役目を務めてください。というのは、あなたが兄弟に渡す贈り物をいつどこで誰に差し延べるか、それは聖霊に任せておけばいいことだからです。

 聖霊は、それらの贈り物が受け取ってもらえ、喜んでもらえるところに、授けるつもりでいるのです。

 聖霊は、贈り物を一つ残らず平安のために使うことになります。

 ほんのささやかな微笑みや、ごく些末な間違いを快く見過ごす気持ちでも、誰かのためにならないものなど何一つないのです。」



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