W2ST-12.エゴってなに?


it will appear very paradoxical, but this is true:
とても逆説的に思えるかもしれないが、つぎのことは真実だ。

before you can lose your ego, you must attain it.
あなたが自分のエゴを失うことができるためには、その前に、あなたはエゴを得ていなければならない。

Only a ripe fruit falls to the ground.
熟した果実だけが地面に落ちることができるのだから。

Ripeness is all.
果実が熟れきったかどうかだけが要点だ。

An unripe ego cannot be thrown, cannot be destroyed.
未熟なエゴは、投げ捨てることも壊すこともできないのだから。

And if you struggle with an unripe ego to destroy and dissolve it, the whole effort is going to be a failure.
だから、あなたがもし未熟なエゴを破壊して消滅させようと格闘するなら、その努力のすべてが泡と消えるだろう。

Rather than destroying it, you will find it more strengthened in new subtle ways.
その努力は、エゴを滅ぼすどころか、むしろこれまでと違って絶妙な具合にエゴをより強くしてしまったことにあなたは気づくだろう。

This is something basic to be understood:
つぎのことは基本的に理解しておくべきだろう。

the ego must come to a peak, it must be strong, it must have attained an integrity – only then can you dissolve it.
エゴは頂点まで成熟させなければならない。エゴは強くならなければならないし、エゴは完全な状態に達しなければならない。そのときにだけ、あなたはエゴを消滅させられるのだから。

A weak ego cannot be dissolved.
弱いエゴを消滅させることはできない。

And this becomes a problem.
だから、エゴが未熟で弱いことが問題の種なのだ。



OSHO

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エゴは私たちの大親友

エゴが敵ではないとしたらどうなるでしょう? もしエゴを避けて抑圧すべきだという信念こそが問題だとしたら?

私は、何が何でもエゴは否定されなければならないという思い込みが、まったくの逆効果を生み出すことに気づいたのです。私自身がエゴのことで頭がいっぱいだったのは、いつもエゴに注意を向けてそれを否定し、窒息させ、抑制していたからでした。このことが様々なやり方で私自身を束縛し、本当の自分を表現できなくしていたのです。

けれど、自分を愛してエゴを受け入れ、それが物質世界にいるのに必要な部分だと理解すればするほど、エゴを超えた無限の自己――エゴを含みつつ、同時にそれを超越している自己――に気づくことが容易になってきたのです。
自分を愛すれば愛するほど、自分の権力を拡大したり自慢したりしてエゴを膨張させる必要が少なくなるとしたらどうでしょうか?

そして、本当に自分を愛するということが、エゴによる防衛や保護の必要を感じなくなり、他人に自分を愛してもらったり、エゴを喜ばせる行動をとってもらう必要が減るということを意味するとしたら?

少なくとも、私の人生にはそれが当てはまりました。私が自分を愛すれば愛するほど、エゴだけと同一化することが少なくなります。なぜなら、自分ははるかに大きな存在であること、エゴの有無にかかわらず存在していることを知っているからです。

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Anita Moorjani
アニータ・ムアジャーニ(「もしここが天国だったら?」206ページ)





 一般的に信じられていることとは正反対ですが、エゴは私たちの敵ではありません。この点を誤解していると、あなたは一生苦悩から抜け出せないでしょう。私たちはみな、本当の自分を表現できるようになるまで、自分を守るためにエゴという殻を作ります。これは、自分への無条件の愛から生まれる反応です。エゴの基本的な役割とは、毛虫が蝶に変貌を遂げる際のさなぎのように、私たちの心と魂を守ることです。エゴは私たちが恐れを克服し、人生を自分らしく、自由に生きられるようになるまで、保護者の役割を果たすのです。
 私たちの成長と進化の過程において、エゴが生まれるのはごく自然なことです。毛虫が蝶に変容するために、さなぎを作って自分を守らなければならないように、私たちも進化と目覚めの過程においてエゴに守られる必要があります。毛虫はさなぎを作りはしますが、さなぎそのものではありません。それと同じで、私たちもエゴをもってはいますが、エゴそのものではありません。エゴは精神的に築かれた目に見えない鎧のようなもので、私たちが決心しさえすれば、いつでも脱ぎ捨てることができるものです。自分を無条件に愛することにより、エゴに守ってもらっていた精神的、感情的、または肉体的な苦痛を癒すことができます。具合が悪いときや憂うつなとき、私たちの体や心は自分で築いた精神的な壁で自分を覆うように促します。それは私たちが自分を大切にして、自分らしく生きられるようになるまで生き延びるための壁です。心の自由と平安を手に入れたければ、私たちは精神的な防衛メカニズムを取り除いた先にある大いなる現実、正しくありたい、人より優れていたい、人から認められたいという欲求を超越した大いなる現実に心を開く必要があるのです。

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Blake D. Bauer
ブレイク・D・バウアー(「あなたは苦しむために生まれたんじゃない―恐れ、不安、うつを乗り越え、ありのままの幸せな自分で生きる-」164ページ)

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A man who is not a good friend to himself cannot be so to any one else.
自分自身にとってよい友ではない人物は、誰にとってもよい友になることはできない。

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John Lubbock
ジョン・ラボック




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今回は、ワークブックのパート2特別解説からエゴとは何かについてご紹介をします。



参考ページ

T4-5 悪名高きエゴですが、打ち倒すべき強敵なのでしょうか?

T4-2 エゴの起源

T11-Intro 私たちはエゴの子?神の子?

が参考になると思います。


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エゴという幻想は、神の子という主体の側面に生まれた影

「All that the ego is, is an idea that it is possible that things should happen to the Son of God without his will; and thus without the Will of his Creator, Whose Will cannot be separate from his own.
 エゴとは単に、神の子の意志に関わりなく、したがって、神の子自身の意志と不可分であるはずの創造主の大いなる意志とは無関係に、物事が神の子に起こることが可能だという想念にすぎません。」(T21-2 見ることについての責任、6.)

エゴとは、実在の不在に名をつけただけの実在の影である幻想のひとつです。


実在の不在には、愛の不在である恐れ、生命の不在である死、光の不在である闇、平安の不在である戦争、天国の不在である世界、永遠の不在である時間等々、切り取る側面によりさまざまな形の影があります。

この実在の不在という影の中でも、エゴという幻想は、神の子という主体の側面に生まれた影であり、神の子の不在が、身体の中に生まれ、すべてから分離した制限された小さな自己が存在するという狂気が形をとった影であり、それに名前をつけたものです。

本当は、神の子は、すべてを持つと同時にすべてでもある存在として神の王国である天国と同義であり、愛である大いなる自己が在るだけなので、主体としての自己、客体としての世界という主客の分離はありません。

このひとつの分離幻想という実在の不在が、それを見る観点次第で、その切り口によって、死となったり、エゴとなったり、世界となったりして、異なる様相を呈するだけです。

エゴは、神の子の不在であるので、当然、神の子にエゴはありません。

エゴの不在が神の子の実在です。

とはいえ、エゴを抹殺すべくエゴとの格闘をはじめなければならないという発想は、かえってエゴをのさばらせる利敵行為になることはほかの箇所でも再三述べている通りです。

実在しない妄想を現実扱いして空想上の存在を打ち倒して消し去ろうとすることは、本質的に無であり実在しないエゴをあたかもあるものとして格上げしてリアリティーを付与することであり、放っておけば何もできないはずの空想に自分を左右する力を与えて妄想を持続させることです。




エゴを落とすためには、まずエゴを成熟させなければならない

冒頭のOSHOの言葉は斬新に感じるのではないでしょうか?

もちろん、OSHOはエゴが実体のない無であり幻想であることは当然の前提にしており、落とすというのは比喩的な表現です(「エゴは落とすことのできる実体ではないから、これまでエゴを落とすことのできた人はひとりもいない。落とされるには、少なくともそれが現実にあるもの、実在するものでなければならない。エゴは観念、概念にすぎない。それを落とすことはできない、できるのはそれを理解することだけだ。あなたは自分の影を落とせるかね?」Theologia Mystica)。

私たちは、コースを学んで、エゴが絶対悪で諸悪の根源だからエゴを根絶しなければならないと思っていたのに、エゴを根絶するには、まずはエゴを成長させなければならないなんて、聞いてないよー!と、これまでの頑張りが逆効果だったのかと考えさせられる指摘です。

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OSHOは、この言葉に続けて、西洋では個人は自我を堅固に成長させるように教育されるのに対して、東洋では、自我をなくすように教育されるので、西洋人は強いエゴに支配されはするが、いざ落そうとすると、すんなり落ちやすいが、東洋人は自我が未熟なために、エゴを落とそうにも枝から離れず落とせない、ほとんど不可能だ、というパラドックスが生じるということを語っています。

「ほとんど不可能」という過激な表現にはズコっとずっこけてしまいますが、それくらい西洋と東洋の文化的な背景の相違が個人の自意識に与える影響が大きいのは確かなのでしょう。

もともと西洋人は、放っておいてもエゴが大きく堅固に成長しているので、それを落とすことに焦点を絞ることができ、コースもこのスタンスで述べられています。

しかし、自我の強い西洋人向けの奇跡のコースを自我が弱い日本人が学ぶと、下手をすると、花開き、実を結び、熟すというプロセスを辿ることなく自我の成長を止めてしまい、徒花(あだばな)と散った自我の果実が未熟なエゴのしこりとしてこびりついたまま落とそうにも落とせない厄介な状態になる危険があるというのは自戒すべき注意点かもしれません。

この点で、勉強仲間を作ってコースを学んでいるような方は、コースの学びの結果、かえってエゴが「絶妙な具合により強く進化してしまう」ことがあるのを身をもって実感できているのではないでしょうか。

蝶の幼虫が5齢まで自己中心的に健全に自我を成熟させることではじめて、変態ホルモンが働いて、蛹になって蝶に姿を変えられるように、自我が健全に成熟しない限り、聖霊に従って自らの内なる光を解放することができないのだとしたら、自我が未熟なまま自分の外に光を求めることで生まれる影であるエゴを無理やり消そうとするのは、自分から真の変容をきたす機会を返上する自滅行為となります。

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アニータ・ムアジャーニさんの言うように、エゴを大親友とみなすくらいがちょうどよいスタンスなのかもしれません。

M2 生徒とは誰かのエッセイが参考になると思います。



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Workbook Part2


12. What is the Ego ?
エゴとは何か



1. The ego is idolatry; the sign of limited and separated self, born in a body, doomed to suffer and to end its life in death.
 エゴとは偶像崇拝です。身体の中に生まれ、苦しみと身体の死によって生命が尽きることを運命づけられている、制限されて分離した小さな自己の印です。

 It is the will that sees the Will of God as enemy, and takes a form in which It is denied.
 エゴは、神の大いなる意志を敵とみなす意志であり、神の大いなる意志を否認する形をとります。

 The ego is the “proof ” that strength is weak and love is fearful, life is really death, and what opposes God alone is true.
 エゴとは、強さが弱さであり、愛が恐怖に満ちたものであり、生命が本当は死であり、神に反対するものだけが真実であることを示す「証拠」です。



2. The ego is insane.
 エゴとは狂気です。

 In fear it stands beyond the Everywhere, apart from All, in separation from the Infinite.
 大いなる無限性からの離脱という想念であるエゴは、万物から分離し、大いなる遍在からかけ離れた僻遠の地に恐怖に怯えながら身を置いています。

 In its insanity it thinks it has become a victor over God Himself, and in its terrible autonomy it “sees” the Will of God has been destroyed.
 その狂気の中で、エゴは自分がまさしく神を打ち負かした勝者となったと思い込み、その凄まじいまでの身勝手さで、神の大いなる意志は滅ぼされたと「みなし」ています。

 It dreams of punishment, and trembles at the figures in its dreams, its enemies who seek to murder it before it can ensure its safety by attacking them.
 エゴは、処罰される夢を見て、自分を殺そうとしている敵を攻撃してエゴが自らの安全を確保する前に、敵である夢の中の登場人物たちがエゴを殺してしまうのではないかと恐怖に震えています。



3. The Son of God is egoless.
 神の子には、エゴなどありません。

 What can he know of madness and the death of God, when he abides in Him?
 自分が現に神の中に留まっているというのに、神の子がどうして神が狂気に陥っているとか神が死んだと知ることができるというのでしょうか。

 What can he know of sorrow and of suffering, when he lives in eternal joy?
 自分が永遠の喜びの中に生きているというのに、どうして神の子に悲しみや苦しみを知ることができるというのでしょうか。

 What can he know of fear and punishment, of sin and guilt, of hatred and attack, when all there is surrounding him is everlasting peace, forever conflict-free and undisturbed, in deepest silence and tranquility?
 最も深い静寂と安らぎの中で、神の子を永遠に葛藤から自由で心乱されることのない永遠に続く平安だけが取り巻いているというのに、その神の子にどんな恐れや処罰、どんな罪と罪悪感、どんな憎しみと攻撃を知ることができるというのでしょうか。



4. To know Reality is not to see the ego and its thoughts, its works, its acts, its laws and its beliefs, its dreams, its hopes, its plans for its salvation, and the cost belief in it entails.
 現実を知るということは、エゴを見ないことです。エゴの思考、エゴのなしたこと、エゴの活動、エゴの法則、そして、エゴの信念、エゴの夢、エゴの希望、自らの救済のためのエゴの計画とそれを果たすために必要な代償だとエゴが信じているものに目を向けないことです。

 In suffering, the price for faith in it is so immense that crucifixion of the Son of God is offered daily at its darkened shrine, and blood must flow before the altar where its sickly followers prepare for death.
 苦しみの中で、エゴの救済計画を信仰する代償はあまりにも甚大なものなので、エゴの闇の神殿では神の子が毎日十字架にかけられ、エゴの病んだ信奉者たちが死ぬために用意を整えている祭壇の前には血が流れ出すに違いありません。



5. Yet will one lily of forgiveness change the darkness into light; the altar to illusions to the shrine of Life Itself.
 しかし、たった一輪の赦しの百合の花が闇を光へ、幻想への祭壇を大いなる生命そのものへの神殿に変えるでしょう。

 And peace will be restored forever to the holy minds which God created as His Son, His dwelling-place, His joy, His love, completely His, completely one with Him.
 そして、神が自らの住処であり、自らの喜びであり、自らの愛であり、完全に神のものであり、完全に神と一体のものであるわが子として創造した聖なる心たちに、永遠に平安が回復されることになります。


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