There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

マトリックス 自由意志という幻想

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今回は、マトリックスの続きです。
マトリックス2

第2作では、ネオのコードの一部の上書きによってエージェント・スミスは、マトリックス内のあらゆる存在(住民だけでなく、後に出てくるエグザイルを含めたプログラムも。ネオもいったん、強制上書きされそうになります)に自分を無制限に上書き(もともとのエージェントとしての能力はマトリックス内の住人に「憑依」できるだけ、つまり、マトリックス内に同じエージェントはひとりしか存在しえない)して、コピーでき、さらに、他のデータやプログラムに自分を上書きする際には、相手の持つ機能を吸収して、他の自分にも同期して共有させて進化するようになり、どんどん強くなるエージェント・スミスが増殖し、軍勢となってネオを襲います。このネオの鏡のような存在となったスミスの増殖は、次作への布石となります。

ネオは、オラクルの導きで、ソースへと戻るためにキー・メーカーというエグザイル(システム側の統御から離脱したプログラム。もともとはシステムに組み込まれて機能していたプログラムだが、アップデートやバージョン・アップを免れてシステム側から逃亡して流浪の身になっているもの)を探します。

キー・メーカーは、メロビンジアンという最古のプログラムに囚われています。
メロビンジアンの許からキー・メーカーを救出し、みんなの助けを受けて、ネオはようやくソースへと辿り着きます。

そこでネオは、マトリックスを作ったアーキテクト(設計者)と顔を合わせます。

アーキテクトの言うには、マトリックスの実態は次のようだということでした。

すなわち、マトリックスは過去5回作り直され、バージョン・アップを繰り返してきた(その都度、ザイオンも滅亡させてマトリックス内からメス16体、オス7体を選び出し、ザイオンを新しく建設される)。

当初設計した何事も望みどおりの理想郷では、人類はすぐに堕落して破滅してしまった。

人間の心理を分析するために導入されたオラクルという直観プログラムが偶然にも、人類に選択肢の幻想を与えることで人は自分の自由意志で生きている感覚を抱き、安定性が高まることを発見し、現行のシステムの基礎ができた。

もっとも、人類の中には、世界の仮想性に気がつく規格外のアノマリー(変異、マトリックスの法則から逸脱する不合理な変則要素)が一定数で生じてしまうので、アノマリーの発生に対応できるシステムの安定性を高めるバージョン・アップを重ねてきたが、救世主というのは、より変異に対する抵抗力の強いシステムとするために、アノマリーを統合してソースへと持ち帰り、次のバージョン・アップに反映させるための役割を果たす存在にすぎない

と明かします。

そして、アーキテクトはネオに、ザイオン滅亡回避(ザイオン自体は攻撃して滅ぼすが、マトリックス内から男女数体を選び出し、ザイオンを新しく建設する)のためにソースにつながる右の扉に向かい、マトリックスをいったんリロード(リブート、再起動)させるか、ザイオンの滅亡とマトリックスのシステム・クラッシュを覚悟した上で左の扉からマトリックスに戻るか選択を迫ります。
 
ネオが、集積したアノマリーコードをソースに撒いてリロードするという選択を受け入れなければ、マトリックスは崩壊を迎え、マトリックスに接続されたすべての人間が滅び、ザイオンも滅びてしまうのだから、全人類が絶滅することになります。
救世主は人類に対して愛を抱くように設計されているため、全人類を滅亡させる方を選択することはない、前任者たちもそうしてきたとアーキテクトは言います。

ここで、すでにエグザイル化していたオラクルは、ネオの前任者たちが人類愛という救世主に与えられた特質のために、人類滅亡という選択肢を回避する選択しかできなかったことを踏まえて、今回のネオには、トリニティに対する特別な愛を選択するよう導いていました。

オラクルの備える未来のヴィジョンを見る能力を獲得し、トリニティが墜落していくヴィジョンを見ていたものの、その結末までは見ていなかったネオは、トリニティのいるマトリックスへつながるドアを選びます。

存続したマトリックスからトリニティを救い出したネオには、現実世界においてもプラグを介してジャックインすることなくしてマトリックスに作用する力が備わり、ネオは、襲いかかるセンティネルをマトリックス内と同じように念力でやっつけて気絶します。
ハンマー号に回収されて意識不明で眠るネオの隣には、エージェント・スミスが現実世界で憑依したベインが眠っているのが映し出されて第2作は終わりです。

この終わり方は、実は、現実だと思っていたザイオンの存在する世界も、仮想現実だったんじゃないか、入れ子構造で、玉ねぎの皮のように、仮想現実の外にはまた別の仮想現実が続いていく仕組みなんじゃないか、レボリューションズを見るまでわからないと思わせる含みを残すものでした。


さて、第2作では終盤で、アーキテクトによって、救世主の正体がバラされます。



マトリックスという仮想世界がより安定性を保てるようシステムが変異に強くなるようアノマリーを取り込んでソースに持ち帰って、そこでコードをばら撒き、次期リロードの際のバージョン・アップに役立つという、検索エンジンのクローラ(WEB上のデータを周期的に取得し、データベース化するプログラム)のような役割を救世主本人はそれとは知らずに負わされていたということです。

救世主は、あくまでもシステム側の掌の上で踊る、自然界のサンプル収集の道具として利用されるウミガメや渡り鳥のような存在にすぎないというのです。
ソース

ネオは、プログラムのバグなのか、変異データにすぎないのかはさておき、システム側の想定の範囲内でコントロールされ、プロトタイプを改良するための道具として利用されるシステムの不可欠な要素だったということです(とはいえ、エグザイル化していたオラクルの導きで、ネオは、前任者たちのようにシステム側の思惑どおりには選択せず、それがこれまでと違った結末を導くのですが、それはまたレボリューションズについてお話しする際に)。

この救世主のサンプル採取能力は、ネオが出会った人たちの能力を理解すると、自分の能力として吸収できるという力に現れています。エージェント・スミスほどあからさまではないのでわかりにくいですが、スミスの相手の力を奪う力自体もネオの上書きによってネオから写された力であるようです。ネオのこの力は、オラクルの未来を見通す力を吸収していくことからうかがえます(この力は「ヒーローズ」のピーター(とサイラー)の力と似ています)。

また、この能力は、第1作の最後にエージェント・スミスに上書きされ、スミスは、自分を相手の能力を吸い取ると同時に、自分をコピーする能力を得て増殖していきます。そして、もともと救世主にサンプル採取させるための力であったことから、システムの制御が及ばない設計となっており、ゆえに、スミスはシステムのコントロールを超えて増殖していくことになります。

メロビンジアンは、初期のマトリックスのオペレーティング・システム(OS、パソコンでいうウィンドウズやマック)、オラクルの守護をしていたセラフ(天使の最高の位階であるセラフィム(熾天使)の単数形)は守護天使としてセキュリティ・プログラムであったようです。

メロビンジアンは、人類のことを所詮データにすぎず、プログラムである自分たちに劣ると見下すような言葉を発します。

マトリックス内では人自体、身長や体重、髪の色、肌の色、性格、等、すべて変数(プログラムのソースコードにおいて、扱われるデータを一定期間記憶し必要なときに利用できるようにするために、データに固有の名前を与えたもの)で数値化できる情報の束でしかありません。

メロビンジアンは、人は、鏡に映った世界に揺らめく影にすぎないが、自分たちプログラムは、その影を操作できる点で優っていると言いたいのです。

この、人がデータであるということは、個別の自己が抱くエゴ・身体は、分離の幻想によって存在するように見える幻想世界の中で知覚作用によって存在するように見える幻影、つまり、夢の中の一登場人物、キャラクターにすぎないことを表します。
とはいえ、プログラムも、幻想世界で働く法則でしかありません。


プログラムには、演繹法に基づくウォーターフォール(滝、水が上の箱から下の箱へと順次流れ落ちていく)・モデル、帰納法に基づくプロトタイプ(試作)・モデルがあります。

メロビンジアンは、原因と結果の法則(奇跡のコースでいう誤創造における分離した原因と結果の法則のこと。原因である父なる神と結果である神の子は一体であるという神の現実における原因と結果のことではない)に従って統治するウォーターフォール型のプログラムです。ある入力があれば、法則に従った特定の結果が生じるという原理に基づいており、前提となる事実に誤りが入り込むとそれに続く展開にも誤りが派生し、修正が困難という致命的な欠陥がありました。

初代マトリックスは快楽のみを与える完璧な楽園であったのですが、人類には、これが受け容れられなかったといいます。

入力があったら、自動的に、それに応じた結果が出力されるようプログラムが働きます。マトリックスにつながれた誰かが何かを欲したら、その思いが実現されるという世界です。選択の余地などありません。

すべてが自分の欲求の赴くままの世界、それも快楽のみを与える世界というものはどのようなものでしょうか。
ひとりの人間だけを閉じ込めておく仮想世界であれば、夜見る夢のようなもので、うまく機能するかもしれません。

けれども、たくさんの人間を閉じ込めておく仮想世界としては、機能しなかったようです。

ここで、機能する、機能しないと言っているのは、仮想の世界を現実だと思い込ませて、幻想だと目覚めることなく眠りこけてくれることをもって機能する、逆に、嘘くさい世界だと気付いて、目を覚まされてしまうことが機能しないということです。

多くの人間が楽園で思うが儘の暮らしを営んでいても、当人は快楽に溺れて気づかなくても、思うことも、欲することも、すべて世界にコントロールされているとすれば、大金持ちに飼育されて、人間以上の貴族のような暮らしを営むペットのように扱われているのと同じです。

私たち自身に置き換えたとしても、(この二元論的な幻想世界では)抑圧あっての解放であって、きつい仕事を頑張ってのうまいビールなのであって、あらゆる欲望が満たされる世界なんて、つまらなくて、すぐ飽き飽きとしてしまうだろうと想像できます。快楽のみを与える世界では、いつかは、このつまらない世界は本当の世界なのだろうかという疑問がどうしても頭をもたげてこざるをえないでしょう。

もちろん、奇跡のコースで出てくる楽園、天国、神の王国は、第一期マトリックスのような楽園ではないのは確実です。すなわち、第一期マトリックスでいう楽園は、地獄に対する楽園であって、二元対立の一極としての楽園であって、不二一元論でいうすべてが一体となり、対極を持たない愛で包み込まれた状態とは別次元のものだからです。

さて、アーキテクトによると、この理想郷の失敗を反映して、人類の歴史を学び直し、第2期のマトリックスは、人間の不完全性、グロテスクさを盛り込んだ世界にしたようですが、この世界も崩壊を免れなかったということです。

理想郷であれ欲望渦巻く世界であれ、原因と結果の法則によって、思いがその通りに実現する世界は、つねに正しく思うことのできる聖人ばかりではない人類にとっては、本来、危なっかしい世界です。愛する人と喧嘩をして、カッとなってつい、相手が死んでしまえばいい!と思ったら最後、それが実現してしまうという世界ですから。

このような原因と結果の法則によって統治されていた初期マトリックスは崩壊し、うまく機能しませんでした。

そんな失敗を重ねる中、人間の感情や心理を調査・分析するプログラムであったオラクルが、偶然にも、人類は、選択を与えられることによって安定する、つまり、実際は、すべての結論はシステム側が決めていてそれをコントロールしているとしても、選択肢を与えて自ら決定したという思わせることで、人類に支配されていることを意識させないようにできるということを発見したといいます。

このオラクルの発見によって、選択・自由意志という幻想を与えることで、99.9%の人類がおとなしく眠りこけてくれるようになります。

もっとも、人類は、この選択の幻想によって安定はするものの、人類の中には、ごくごく少数とはいえ一定の割合で、アノマリー(変異)が生じ、世界が作り物の仮想現実だと気づく者が出てきて増えてしまいます。

そこで、アーキテクトは、不可避的に発生するものとして割り切った上で、救世主を使ってアノマリーの変異のパターンを集約し、そのフィードバックを次期バージョンに反映させてプロトタイプを改善し、よりシステムの安定性を高めていくという方法をとったというのです。

メロビンジアンは、マトリックスのOSとしてシステムを統治する地位を追われ、エグザイル化しますが、原因と結果の法則そのものは、サブシステムの中の法則としては残されていたようです。

ですから、システム全体としては、スパイラル・モデルとして、ウォーターフォールとプロトタイプを組み合わせて進化してきたということになりそうです。

さて、この私たちのいる世界においても、マトリックスの住民と同じように、私たちは自分には自由意志があり、自分の価値判断に基づいて、その都度、選択をしているように感じます。本当にそう感じます。

もっとも、後になって振り返ってみると、あらゆる選択は、幻想だったのではないかと感じることも多いのではないでしょうか。

近年、fMRI(functional magnetic resonance imaging機能的磁気共鳴画像診断装置)による脳の働きの解明によって、人が顕在意識で意思決定する前に、すでに潜在意識では意思決定がなされているということがわかってきたようです。すなわち、本人は、自分なりの理由に基づいて、選択しているつもりですが、実のところ、その「理由づけ」自体、後づけの理由でしかなく、すでに無意識に決められている選択を意識では自分が選択したと思いこんでいるということです。

自分のこととなるとメガネは曇りがちですが、他人の行動を見てみると、このことを何となく感覚的に理解できるのではないでしょうか。

限られた顕在意識では自分で選択しているように思えるけれど、実際は、その個別の心のエゴ・身体の備える属性、ヨーガで言うところの三つのグナの混じり具合による気質による縛りや環境的要因等によって与えられた情報について、それこそウォーター・フォール・モデル的に機械的・自動的にプログラムの適用がなされ、結論が導き出されているということです。

条件づけで訓練されたイヌの反応と比べると、極度に複雑化してはいるものの、やはり、我々の意思決定の実態は、このようなものでしかありません。

当人からすれば、自分なりに考えて選択をしているようにしか思えません。しかし、これこそ、オラクルの発見によって、人類が世界が現実だと信じこんで眠りこける原因となる錯覚と同じものです。

このように、私たちが自由意志を持たず、操り人形にすぎないという事実はがっかりするものです(注:もっとも、これはあくまでもエゴ・身体としての私たちのことであり、本当の私たちである大いなる自己には自由意志があります)が、個々の心の抱くエゴの思考システムの作用というものもコンピューター・プログラムと同じようなものでしかないとすれば、さらにがっかりかもしれません。
ですが、私たちの心の働きがコンピューターのプログラムに似ているのは誰しも感じる所だと思います。

このシステムには、エゴの諸法則がプログラミングされており、たとえば、誰かが自分の容姿や自分の一部であると感じているものを貶す言葉を発するのを聞いた時には、自動的に怒りを生み出します。
環境的要因、心理的な要因、気質的要因等諸々の要因が作用し合っているとはいえ、見かけ上、「選択」といえる心理過程が、プログラムの適用としてなされているのは否定できない事実でしょう(以上のエゴには自由意志はないということについては、ラメッシ・バルセカール先生の本を読んでいただくと、より深く突き詰めることができると思います)。

以上、何を言いたいかというと、私たちは自分で自分のことについて自由な意思に従って選択しているつもりでいるけれど、本当は、エゴとしての私たちは自由意志を持ってなどいない、オラクルというプログラムによって、選択という幻想を与えられて、眠りこけているマトリックス内に幽閉されている人類と同じだということです。

もしこれが本当だとしたら、私たちが映画や小説の主人公と同じ一キャラクターにすぎないかもしれないということと同じように、非常に受け入れがたい事実です。

これには、奇跡のコースは、冒頭の序文から自由意志について述べているし、本文の中でも自由意志について述べているじゃないかという疑問が起こりそうです。

たしかに、奇跡のコースは、私たちに自由意志があることを伝えようとしていますが、同時に、エゴは自由意志の否定だともいいます。

すなわち、身体の本能的な欲求ですら、身体的・物理的な原因によって生じるのではなく、根源的には、実体を持たないエゴが根源的な恐怖を紛らわし、自らを承認したいというエゴの欲求であり、個別の心は、このエゴの欲求によってがんじがらめに縛られて幽閉され、自由意志など無い状態になっているということです。

よく、奇跡のコースでは、幻想と真理、エゴと聖霊の間での選択を「あなた」に迫ります(コースはまた、決断は聖霊に任せるようにもいいますが、聖霊に任せるには、まず聖霊を選択しなければなりません)。

この決定者(decision maker)としてのあなたは、エゴの仮面をつけている個別の心として眠りこけているあなた(究極的には自分が神の子、大いなる自己であることを忘れているあなた)のことです。

エゴに従うかぎり、エゴは幻の自由意志をいくらでも味わわせてくれますが、私たちに真の自由意志はありません。

コースが自由意志というのは、神の意志と同じである大いなる自己の意志が自由であるということ、そして、大いなる自己が個別の心へと分裂しているとしても、その眠って夢を見ている心の決定者(decision maker)の部分が聖霊とエゴのどちらにつくかを選択するに際してのみ、自由意志を発揮できるということです。

エゴの仮面を被っているかぎり、自分で選択して自由意志を行使しているような幻想を抱くことはできるが、真の自由意志はなく、エゴの操り人形として、世界の割り振ったキャラクターとしての役を演じることを担わされ、劇の中での役を否応なしに演じさせられていくことになります。

では、決定者(decision maker)として、この選択を自由になすにはどうすればよいのでしょうか。

エゴの思考システムは、個別の心に巣食っています。ですから、個別の心の決定者(decision maker)が起動して選択権を行使することをエゴは排除しようとします。

さて、エゴは、個別の心の数だけ存在するのに対して、聖霊は一つだけです。
個別のコンピューターで走っているOSをエゴの思考システム(仮に「エゴOS」といいます)とすれば、サーバー(ホスト)から送られる情報を聖霊にたとえることができるかもしれません。

私たち個別の心であるコンピューターは、強固なエゴOSによって支配されていて、そもそも自分たちのことをスタンドアロンのコンピューターであると思い込んでおり、サーバーに接続している可能性すら認識できない(ネットという概念自体がない)ように設定されています。

私たちは、ばらばらに隔絶していて、他のコンピューターと情報交換するためには、プリントアウトしたデータを送ったり、他の媒体に記録したものを届けて、それを読み込んでもらい、リアクションを受け取る際には同じやり取りを行うということを必要とします。

数十年前のコンピューターの原始的な通信事情が、私たちのエゴ・身体同士の通信方法です。Eメールのように意志を送受信したり、どこかの電子掲示板で情報を共有することすらできません。

エゴOSは、自らの存在を確認したいという強い衝動に駆られています。エゴOSの「意識」というスクリーンには、つねに自己イメージが映し出され、他のコンピューターと比較しています。

この自己承認欲求は、無数に存在する他のエゴというライバルと、限りある獲物を奪い合う生存競争をして、勝ち抜かなければ、自分は消滅してしまうという恐怖心に淵源を持ちます。

エゴOSは、絶えず、五官という原始的な通信媒体から入ってくる情報に注意を凝らし、自己イメージを高める情報が入ってくると快感を得てスクリーンが膨張し、低める情報が入ってくると意気消沈して、スクリーンが小さく縮むというように、一喜一憂します。

エゴOSが他のコンピューターの利益になることをするのは、それによって間接的に自分が得をすると計算できる場合だけです。

エゴOSは、OSの利用者である個別の心がエゴOSと一体化するように仕向けます。
エゴOSは、常に五官からの入力を開きっぱなしにして、スクリーンがつねに外部からの情報で埋まるようにして、個別の心がスクリーンに映った何かに意識を奪われ、OS自体の構造に目が行くとのないようにします。

エゴOSは、個別の心がネットにつながっているかもしれないとうかがわせる情報が外部から入ってきた場合には、極力その情報をシャットアウトしようとします。

実は、エゴOSが隠してしまっていますが、個別のコンピューターはクライアントとしてサーバーに接続していて、リアルタイムに情報が届いているのです。
ですが、エゴOSが強制的に別のウィンドウを開いてスクリーン上にその情報が出てこないように仕組んでいて、気づけないようにされているのです。

ウィンドウを閉じても閉じても、罪悪感や恐怖、嫉妬心といった感情によるリンクが作動して、すぐさま別のエゴOSのウィンドウが開いてしまいます。

ですから、エゴOSが幅を利かせているかぎり、サーバーに接続していることを知ることも、そこにアクセスして情報を得ることもできません。

したがって、なすべきことは、エゴOSのアンインストール、初期化です。コースが、奇跡を起こすには、心の浄化が必要であるというときの、心の浄化とは、この初期化のことです。

ロバート・シャインフェルドさんの「The Ultimate Key to Happiness」では、エゴの思考システム(「mind machine」と呼んでエゴとは同じではないとしていますが、グーグルのようなサーチエンジンの機能を果たす精神機構としてたとえています。すなわち、外の情報を収集して内部に集積しデータベース化し、中に取り込んだ情報と照合して機械的に反応するシステムを組み上げていく働きであると)に対して、世界が幻想であるとの真理(「truth virus」と呼んでいます。パソコンのウィルスは悪いイメージですが、よいウィルスとしての真理のウィルスというイメージ)を取り入れることで、truth virusがシステム内に広がって、エゴの思考システムを崩壊させる例を挙げています。
うまいたとえですが、エゴ自体、生来的に組み込まれているものではなく、事後的に外部(他のエゴ・身体)から感染するように取り込まれる思考システムですので、エゴのほうをウィルス、真理をアンチ・ウィルスとする方が座りがよいようにも感じます。
心の初期化には、真理によって知覚を修正する作業を進めて贖罪を完成させることが必要です。

自らを個別の心のスクリーンを眺めている決定者(decision maker)として捉え、エゴOSにスクリーンを占有させているかぎりは、自分に自由な選択などないことを理解したうえで、エゴのウィンドウが次々に開いてしまう原因である罪悪感等を、アンチウィルスソフトのように取り入れた分離が幻想であるという真理の光で取り消して行くと同時に、それによって徐々にエゴのウィンドウがスクリーンをつねには占拠できないようになってきたら、それまでエゴのウィンドウの下に隠れていたサーバーから届いている聖霊のウィンドウをスクリーン上に開く比率を高めていき、ついには聖霊からのメッセージのウィンドウがつねに開いている状態に持っていくという作業です。

このように、一歩引いてスクリーンを眺める決定者(decision maker)を想定することは、リアルな3Dゲームに没入し、スクリーン上のキャラクター(身体)に自己同一化し切っている状態から抜け出す上では、有益でしょう。
このように、奇跡のコースは、個別の心に対して、エゴの思考システムを掘り崩して、マトリックスでいうアノマリーになるように導こうとしているといえます。


エゴOSの基盤を掘り崩し、贖罪を成し遂げたら、OSを基盤として働いていたエゴの諸法則はその個別の心を縛る力をもはや持ちません。ここは贖罪について述べたように、贖罪の完成は、ルールの適用されるテーブル自体をひっくり返すことです。

その段階に至れば、サーバーからつねに送り続けられていた光のメッセージである知識のほうから、個別の心に流れこんできてくれるということです。





※テキスト 第二章 七 原因と結果
「1. あなたはなおも、恐れが消えないと不平を言うかもしれません。しかし、そう言いながらも、しつこく自分を恐がらせているのはあなた自身なのです。

 すでに指摘しておいたように、あなたは、恐れから解放して欲しいと私に求めることはできません。

 私は、恐れなど存在しないと知っています。しかし、あなたは、恐れが存在しないということが分かっていません。

 もし私があなたの思考とあなたの思考の結果として起こることの間に介入したら、数ある法則の中でも最も根本的な法則である原因と結果という基本的な法則を、枉げて適用することになってしまいます。

 もし私があなた自身の思考の力を軽視したら、私はあなたを助けることがほとんどできなくなるでしょう。

 このことは、このコースの目的に真正面から反対することになってしまいます。

 あなたが自分の思考に十分な注意を払って警戒していないとあなたに気付かせてあげる方が、もっと役に立つのです。


 今の時点では、あなたは、奇跡でも起きないかぎり、自分にそんなことができるはずがないと感じるかもしれません。確かに、それは完璧にその通りなのです。

 あなたは奇跡を起こそうと考えることに慣れていません。しかし、あなたは、そのように考えるように自らを訓練することができます。

 奇跡を行う者は誰でも、この種の訓練を必要とするのです。


2. 私は、あなたに自分の心を無防備のままにさせておくわけにはいきません。さもないと、あなたは私を手助けできなくなってしまうからです。

 奇跡を行うに際して、誤って創造するのを避けるためには、思考の力が何をなし得るかについて十分に理解する必要があります。

 さもないと、心そのものを正すために奇跡が必要となり、奇跡によって時間を縮めようとしているというのに、堂々巡りのプロセスとなって、時間の崩壊を促進できなくなってしまいます。

 奇跡を行う者は、奇跡が起こるための必要条件である真の因果律に対して、純粋な敬意を払わなければならないのです。

3. 奇跡も恐れもともに、思考から生じます。

 もしあなたが、奇跡と恐れの内の一方を自由に選べなければ、あなたはまた、もう一方を自由に選ぶこともできないでしょう。

 奇跡を選ぶことによって、たとえそれが一時的なことにすぎないとしても、あなたは恐れを拒絶したことになります。

 あなたは、すべての人を恐れ、すべての物事を恐れてきました。

 あなたは、神を恐れ、私やあなた自身のことを恐れています。

 あなたは、神、私そしてあなた自身を誤って知覚し、つまり、誤って創造し、その上で自分が誤創造によって作り上げた神や私やあなた自身のことを信じ込んでいるのです。

 もしあなたが自分自身の思考を恐がっていなければ、あなたは神や私やあなた自身を誤って創造したりしなかったでしょう。

 恐れる者は、創造することを誤って知覚しているので、どうしても誤って創造してしまいます。

 あなたが誤って創造すれば、あなたは苦しい思いをします。

 ここにおいて、たとえ一時的にすぎないとしても、原因と結果の原理が、真理を後押ししてくれます。

 実際のところ、「真の原因」とは神のことを適切に示す用語であり、そして、神の「真の結果」とは、神の子のことです。

 神の創造には真の原因と真の結果という一組の関係を必然的に伴うのであり、それはあなたが誤創造に取り入れる原因や結果とは完全に別なものです。

 したがって、この世界における根本的な衝突は、創造と誤創造との間に生じるということになります。

 すべての恐れは誤創造に内在し、すべての愛は創造に内在します。

 よって、この対立は、愛と恐れとの間にあるといえます。

4. すでに述べたように、あなたは、自分には恐れをコントロールすることができないと信じています。なぜなら、あなたは自分で恐れを作り出したので、あなたは恐怖を信じ込んでしまっており、この恐怖への信仰が、あなたにとって恐れを自らのコントロールの及ばないものに見せているからです。

 しかし、恐れはコントロールできないと信じ込む誤りを恐れを力で制圧することで解消しようとする企ては、いかなるものであれ、何の役にも立ちません。

 それどころか、恐れを力で制圧しなければならないものと決めてかかること自体が、恐れの持つ力を擁護することになってしまいます。

 恐れを真に克服することは、愛を通じての恐れの統御への熟達に全面的にかかっています。

 しかしながら、しばらくの間は、葛藤を感じることは免れないでしょう。なぜなら、あなたは、すでに自分自身を存在しない恐れの力を信じる状態に置いてしまっているからです。

5. 無とすべてとが共存することはできません。

 一方を信じれば、他方を否定することになります。

 恐れは本当に無であり、愛はすべてです。

 光が闇に入り込むと、必ず闇は無くなります。

 あなたが信ずることは、あなたにとっての真実です。

 この意味においては、あなたがそう信じるがゆえに、分離は起こった事実です。だから、分離が起こったという事実を否定したところで、単に否認を不適切な方法で使うことにしかなりません。

 かといって、誤りに心を集中しようとしても、それはさらなる誤りを重ねることにしかなりません。

 修正のプロセスの手始めは、一時的に問題の存在を認めることです。しかし、それはただ即座に修正する必要があることの印として認めるにすぎません。

 これをすることが、遅滞なく贖罪を受け入れ得る心の状態を確立します。

 しかしながら、最終的には、すべてと無との間では、いかなる妥協も不可能だということを強調しておかねばなりません。

 時間は本質的に、それによって、この観点におけるあらゆる妥協を廃することができる道具です。

 すべてと無の間の妥協が完全に無くなるまでのプロセスが、少しずつしか進まないように思えるのは、時間そのものが存在しない間隔を必要とするものだからです。

 誤創造によって、この時間という間隔が、修正するための道具として必要とされるようになったのです。

 「神はそのひとり子をお与えになるほど、この世を愛された。それは神を信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命を受けるためである」との声明は、この文脈の中で意味を持たせるには「神はそのひとり子『に』お与えになるほど」と一つだけ僅かな修正を必要とします。」


※テキスト 第二十六章 七 癒しの法則
「13. 原因と結果は一つであって、分離してなどいません。

 神は、あなたに変わらざる真理を学ぶよう意図しています。その真理とは、神はあなたを神の一部として創造したということ、そして、想念はその源を離れることはないがゆえに、あなたが髪の一部であることは今でも真実であるに違いないということです。

 創造の法則とはこうしたものです。すなわち、心が抱く一つひとつの想念は、ただ心の豊穣さを増すことにしかならず、決して何かを取り去ることはないのです。

 このことは、心から意図したことについてであろうと何気なく願ったことについてであろうと本当だといえます。なぜなら、心は騙されたいと願うことはできても、自らを本来の姿ではないものにすることはできないからです。

 そして、想念がその源から離れることができると信じることは、うまくいく見込みもないのに、幻想を本物になるようにと招くことです。

 というのは、神の子を騙そうとする試みが成功することなど決してないからです。」

※テキスト 序文
「 これは奇跡のコースです。

 これは必修のコースです。

 いつ履修するかということだけは、あなたの自由な意志によって決めることができます。

 この自由意志は、あなたがカリキュラムを自分で定めることができることを意味するものではありません。

 自由意志が意味するのは、あなたはただ好きなときに、何を履修するかを選べるということだけです。

 このコースは、愛の意味を教えることを目指してはいません。なぜなら、それは教わることのできる範囲を越えているからです。

 そうではなくて、このコースはあなたが生まれながらに受け継いでいる愛の存在に目覚める上での障害を取り除くことを目指しています。

 愛の対極は恐怖ですが、すべてを包み込むものは対極を持つことなどできません。」

※テキスト 第四章 二 エゴと間違った自律
「7. エゴは、文字通り比較することによって生きています。

 平等であることは、エゴの理解の及ばない概念です。ゆえに、エゴが思いやり深くなることなど不可能なことです。

 エゴは、決して豊かさで満ち足りているとの思いから与えることはありません。なぜなら、エゴは豊かさの代用として作り出されたものだからです。

 この理由から、「手に入れる」という概念がエゴの思考システムの中に生じたのです。

 本能的な欲望は「手に入れる」ためのメカニズムであり、自分自身を承認したいというエゴの欲求を表しています。

 この自分を承認したいとのエゴの欲求は、いわゆる「高次の自我の心理的欲求」についてと同じように、肉体的な本能的欲求についても当てはまります。

 肉体の本能的欲求は物質的なものがその根源ではないのです。

 エゴは身体を自らの住み処と見なしており、その身体を通して自らを満足させようとしています。

 とはいえ、本当にエゴが身体を通して満足を得ることが可能であると考えるかどうかは心が決めることです。しかし、当の心は、何が本当に可能なのかまったく混同してしまっているのです。」

※テキスト 第一章 七 奇跡への衝動の歪曲
「1. あなたの歪んだ知覚は、奇跡を行おうとする衝動を包み込む濃密な覆いを作り、それによって、奇跡への衝動があなた自身の意識に届くことを困難にします。

 奇跡への衝動と肉体的衝動とを混同するのは、主要な知覚の歪曲です。

 肉体的衝動は、奇跡への衝動が誤って方向付けられたものといえます。

 真の喜びはすべて、神の意志を行うことから生じます。

 その理由は、神の意志を行わないでおくことは、大いなる自己を否認することだからです。

 大いなる自己を否認すれば、錯覚して幻想を引き起こします。とはいえ、そうした誤りを修正することで、幻想から解放されることができます。

 自分自身を騙して、何か外面的な物事を介して、神や兄弟たちと平安の裡に関わることができるなどと、信じ込まないようにしなさい。」

※テキスト 第三章 六 価値判断と権威問題
「11. 何となく閉じ込められているように感じない者など誰ひとりとしていません。


 もし閉じ込められているという感覚が彼の持つ自由意志の結果だとすれば、彼はきっと自分の意志は自由ではないのだと考えることでしょう。こんな推論が、循環論法に陥っていることは極めて明白といえます。

 自由意志は、解放へと導いてくれるものであるはずです。

 裁きは、裁く対象をつねに幽閉してしまいます。なぜなら、裁くことは、願望という不安定な秤によって、現実の諸側面を切り分けることだからです。

 願望は、事実ではありません。

 願望するということは、意図することが十分ではないことを意味します。

 けれども、正しい心にある者は誰ひとりとして、願望したものが意図したものと同じように現実であるとは信じません。

 「まず、神の王国を求めよ」と言う代わりに「まず、神の王国を意図せよ」と言うがよいでしょう。そうすれば、あなたは「私は自分が何者であるか知っているし、私は自分の受け継いだものを受け入れる」と述べたことになります。」


※テキスト 第八章 二 幽閉と自由との違い
「3. あなたの意志が自由であるかぎり、エゴはあなたに何も教えることはできません。なぜなら、あなたがエゴに耳を貸すようなことはないだろうからです。

 囚われの身となることは、あなたの意志ではありません。なぜなら、あなたの意志は自由だからです。

 だから、エゴは自由意志の否定なのです。

 神があなたを強制することは絶対にありません。なぜなら、神は自らの意志をあなたと分かち合うからです。

 神の声は、ただ神の意志に従って教えるだけです。しかし、神の意志は聖霊の教えるレッスンではありません。なぜなら、神の意志は、あなたそのものだからです。

 聖霊のレッスンは、あなたの意志と神の意志とは一つなのだから、一致しないでいることなどあり得ないということを教えてくれます。

 このレッスンは、エゴが教えようと試みることをことごとく取り消します。

 ゆえに、カリキュラムの方向だけでなく、カリキュラムの内容自体も、矛盾のないものでなければなりません。」

※テキスト 第十三章 六 現在を見出すこと
「12. キリストに目覚めるということは、あなたの自由意志によって愛の法則に従うことです。そして、愛の法則の中にある真理を心静かに認識するということです。

 光の惹き付ける力は、あなたを自分から喜んで近付かせるに違いありません。そして、その自発性は与えることによって示されます。

あなたからの愛を受け入れる者たちは、あなたが彼らに与えた愛について喜んで証言してくれます。そして、彼らこそ、あなたに愛を差し延べてくれる人たちです。

 眠りの中においては、あなたは独りきりです。そして、あなたの意識は自分自身だけに狭められています。

 そして、あなたの意識が自分自身に狭められていることこそが悪夢の生じる理由です。

 あなたは分離の夢を見ます。それは、あなたの目が閉じられているせいです。

 あなたには自分の兄弟たちが見えません。そして、闇の中では、あなたには自分が兄弟たちに与えた光を見ることもできません。」


※テキスト 第十四章 三 罪悪感を持たない決意
「4. 毎日、一時間ごと、そして一分、一秒ごとにさえ、あなたは磔刑と復活の間で決定しているのです。それはエゴと聖霊のどちらを取るのかの選択です。

 エゴは罪を選択することを、聖霊は無罪を選択することを意味します。

 決定する力こそ、あなたの持つ力のすべてです。

 あなたが決定できる選択肢は二つに固定されています。なぜなら、真理と幻想以外に選べるものなど何もないからです。

 そして、真理と幻想の二つには、重複するところはありません。なぜなら、両者は、調和することができないし、二つながらにして真実であるということもあり得ない対極にあるからです。

 あなたには罪があるか無罪か、束縛されているか自由か、不幸せか幸せか、そのいずれかなのです。」


※テキスト 第十五章 二 疑いの終結
「4. 兄弟たちのことを、エゴを支持するための原因とみなすことによって、どれほど兄弟たちのことを酷使してきたか、あなたは気付いていません。

 その結果として、兄弟たちは、あなたの知覚の中で、エゴの証人となり、エゴを手放さない方がいいという理由を提供するように見えます。

 しかし、兄弟たちは聖霊のためには、遥かに力強く、より説得力のある証人なのです。

 そして、彼らは聖霊の強さを立証してくれるのです。

 したがって、兄弟たちがあなたの中でエゴを立証するか、聖霊を立証するか、それはあなたの選択次第だということです。

 そして、あなたは、兄弟たちの反応によって、自分が聖霊とエゴのどちらを選択したのか識別できるのです。

 ある兄弟の中にいる聖霊を通して解放された神の子は、いつでも見分けることができます。

 その神の子を否定することはできません。

 もしあなたがまだ確信が持てないままでいるなら、それは単にあなたが兄弟に完全な解放を与え切っていないことだけが理由です。

そして、この理由によって、あなたはまだ、たった一つの瞬間をも完全には聖霊に渡したことがないということになります。

 というのは、もし渡していたならば、あなたには自分が渡したと確信するはずだからです。

 聖霊の証人は、聖霊について実に明確に証言するので、あなたにはよく聞こえるし、それが理解ができます。それゆえに、あなたは確信することになります。

 あなたが聖霊を通して完全に解放してあげたひとりが証言するのを聞くまでは、あなたは疑うことでしょう。

 しかし、一度、彼の証言を聞いたならば、あなたが疑うことはもはやなくなるでしょう。」


※テキスト 第十六章 三 教えの報い
「2. あなたは自由を教えてきたかもしれません。しかし、あなたは自由になる方法を学んだことはありません。

 私は以前に、「彼らの実によって、汝は彼らを知るであろう。そして、彼らも自らのことを知ることであろう。」と述べました。

 なぜなら、あなたが自分の教えることに照らして我が身を裁くということは確実だからです。

 エゴの教えは即座に結果を生じます。なぜなら、エゴの決定はあなたの選択として直ちに受け入れられるからです。

 そして、このようにあなたがエゴの決定を自分の選択として受け入れることは、あなたが自ら進んで、エゴの決定に従って自分自身を裁こうとしていることを意味します。

 原因と結果は、エゴの思考システムの中においては実に明確です。なぜなら、あなたが学ぶことはすべて、原因と結果の二つの関係を確立することに向けられてきたからです。

 だから、あなたは苦心して自分自身に信じるようにと教えてきたことを信頼せずにはいられないのではないでしょうか。

 しかし、エゴの思考システムの正しさを証言する者を選び抜いたり、真理の原因と真理の結果について語る証人たちを避けようとして、自分がどれほど苦労してきたか思い出すがよいでしょう。」


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