There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

T8-2 ありそでなさそな自由意志。あるの?ないの?

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今回は、自由意志に関する箇所をテキスト第八章2節ご紹介します。第三十章2節自由意志に関する一節ですので、ご覧下さい。




自由意志の幻想性については、マトリックス 自由意志という幻想で触れていますので、ご一読ください。

私たちに自由意志はあるのでしょうか。


自由意志は、「一般に,外的な強制・支配・拘束を受けず,自発的に行為を選択することのできる意志のあり方をいい,〈意志自由freedom of will〉」(世界大百科事典第二版)と定義されます。
wikipedia


決定論


本当に、思うがままに意志を実現できるということまで意味するのではなく、単に、自発的に思いを抱いて行為を選択するというだけであれば、現に、私たちは、自分が内心の自由を持っており、自由意志に基づいて、何かをしたり、思ったりできていると実感しています。


ただし、それを持っているという感覚があるからといって、それが本当にあるとはいえない、錯覚しているだけということはよくある話です。




決定論と非決定論(意思自由論)は、人類の歴史でもずっと議論され続けている課題です。



現代社会は人が自由意志を持つということを前提に成り立っています。

個人は自由な意志決定ができるからこそ、彼には価値判断が求められ、社会的に正しいとされる行為をすれば褒められるし、悪いとされる行為をすれば非難されます。

人に自由意志がなくすべてが決まったとおりに運命の操り人形として動いているだけだとしたら、その人の行為を褒めることも非難することもできません。

もし人に自由意志がなく、個人に選択の自由がないのなら、生まれついての矯正不能な犯罪者がいるということになり、その人の存在自体が罪だということになり、改善させる教育は無意味で、罰して悪い部分を取り除くしかないということになります。


このような社会的な善悪にかかわる問題だけでなく、自由意志の有無は、個人の人生観にも影響します。

自分が自由な意思を持っていると思えばこそ、迷ったり失敗したりもするけれど、自分の力で人生を切り開いていくことにこそ喜びがあるのであって、自由意志がなく、すべてが決められているとすれば、運命論を受け入れ、希望のない人生を歩むしかないというのが常識的な感覚です。

このような要請に加えて、未来に目を向けたときに無限に広がっているように見える可能性・選択肢、過去を振り返ったときに見える選びえた多くの可能性、そして、何より、今現在、自らの行為を選択できるという実感から、私たちは、自分が自由意志を持つ存在であることを疑いません。


他方で、ラメッシ・バルセカール先生が痛快なまでに論証してくれるように、エゴという個人的行為者という感覚は幻想で、聖なる催眠の下で、あらゆる状況において神の意志がなされているとすれば、内心における意志すら錯覚でしかなく、個としての自由は失うようには感じるものの、そこには、個人的な行為者としての責任感、罪悪感からの解放(逆に優越感やプライドも同時に失うことにはなりますが)があることも理解できます。

未来に目を向けた際に開ける無限の可能性の感覚は確かにあるとしても、過去を振り返り、1日の終わりに、その日の出来事を回顧するだけでも、本当にじっくりと、はたして自分にその状況において選択の自由などあったのだろうかと考えてみるなら、自分にはそうするしかできなかったということが理解できるはずだといいます。



このように、人間は自由な意思を持つのか、運命の奴隷なのかということは、非常に深遠な哲学的テーマのように響きます。

ですが、「どこ」での「誰」の自由なのかということをはっきりさせないと、永遠に答えは出ません。

通常、自由意志を論じる場合、「どこ」でというのは、二元性のこの幻想世界において
「誰」がというのは、私たち分離した個別の自己が、自らの意志で選択・決定できる力を持つのかということになります。



さて、この自由意志の問題は、価値判断の問題と似ています。

私たちは、個人には価値判断を下す能力はあり、価値判断することは可能であり、判断をなすことは個人の責任ですらあるとの常識を受け入れていますが、奇跡のコースは、個人が真に価値判断を行うことは不可能であるとして、価値判断を放棄して聖霊に委ねることを求めます(価値判断の重圧から解放されるには?)。


個人に価値判断の力がないというコースが、個別の自己に、価値判断の力はないけれど、自由な意志だけはあるということがあるでしょうか。



この問題は、究極的には一元論と二元論の問題に収斂します。

二元論を前提とすれば、各自が独立した存在基盤を持つことを前提とするので、それぞれの衝突はあるにせよ、それぞれに拮抗しあう範囲で「自由」に限界はあるものの自由意志はあるということになります。

これに対して、一元論を基盤とするなら、意志が帰属するのは一者だけということになるし、そもそも、二元対立はなくなるので、「選択」「決定」という観念がなくなります

もし一元論に立つなら、「私たち」分裂した個別の心に自由意志があるのかないのか考えること自体が頓珍漢な冗談でしかなくなります。

なぜなら、一元論からすれば、個別に分離した「私たち」自体が幻想にすぎないので、個々の幻想が自由な意思を持つのかどうかということは、幻想の中で空想されているキャラクターが自由な意志を持つのかと考えるようなことでしかないからです。

小説の中の登場人物に自由意志はあるのかということを考えるのは、滑稽なことです。


私たちは、自分たちの自由意志の有無を疑うことはありえても、「私たち」という個別の自己意識のほうについては、その幻想性を疑うことすらしません。

これは、自他を分け隔てる身体による分離の感覚が根深いためですが、個別の自己自体が偽りの幻想だということになれば、個別の自己とは、真の自己を分裂させて幽閉する自由意志の否定だということになります。


「It is not your will to be imprisoned because your will is free.
 囚われの身となることは、あなたの意志ではありません。なぜなら、あなたの意志は自由だからです。

 That is why the ego is the denial of free will.
 だから、エゴとは自由意志の否定なのです。」(テキスト第八章 二 幽閉と自由との違い 3)

端的に言えば、この世界において、エゴ・身体と一体化しているかぎり、私たちには感覚としての自由意志はあっても、真の自由意志はないということです。


夢との類比で考えるかぎり(打ち砕かれた欠片の中に潜むものはをご覧ください)、この結論は当然のものです。

すなわち、夢の中の登場人物たちは、主人公も含めてみんな、夢見る者が作り出して操っている存在であり、夢見る者から独立した意志自体を持っていません。

舞台とその上で動き回る操り人形、そして、それを上から操っている人形遣い、舞台上の劇を眺める観客、これらすべてを夢見る者がこなしています。

きっちりと筋書きの定まった脚本のある劇が上演されているとすれば、当然、操り人形に自由意志はありません。

仮に劇が即興劇であったとしても、操り人形に「意識」はあっても、自由意志はありません。

個別の自己へと自分自身を縮小して狭める「意識」によって知覚が生まれ、自由意志の感覚が生じはします。

そして、この意識により、操り人形は、自分の自由な意志で歩き、他の人形と関わって生きていると思いはします。

しかし、本当のところ、操り人形の振る舞いは、当の人形の意識とは関わりなく、夢見る者によって起こっているだけです。


操り人形の感じる自由意志は、真の自分である夢見る者が本当の自分の自由な意志を忘れて、夢の中の一主人公という制約の中に自分を幽閉した中での自由の感覚にすぎません。

そして、この夢見る者と夢の中の登場人物の関係は、一元論に立つかぎり、夢見る者を一者(神の子=神)に、登場人物を個別に分離した私たちエゴ・身体に、完全にスライドさせて考えることができます。

つまり、夢の中の登場人物たちみんなに自由意志がないように、この幻想世界の登場人物である私たちに自由意志があるはずがないということです。



さて、これが「私たち」つまり、分離した個別の心としてエゴに従う私たちだとしても、まったく選択の自由が残されていないというわけではありません。


「It is impossible that the prayer of the heart remain unanswered in the perception of the one who asks.
心の中での祈りが、求めた者の知覚において、答えられないままになるということはありえません。

If he asks for the impossible, if he wants what does not exist or seeks for illusions in his heart, all this becomes his own.
もしその人が不可能なことを求めたり、存在しない物を欲したり、自分の心の中で幻想を探すなら、それらのすべては彼のものになります。

The power of his decision offers it to him as he requests.
彼の決定する力が、彼が求めた通りに、彼にそのものを差し出してくれます。

Herein lie hell and Heaven.
ここにこそ、地獄と天国を見出すことができます。

The sleeping Son of God has but this power left to him.
眠り続ける神の子は、この力だけは自分に残しているのです。」(マニュアル第21節



「6. The Holy Spirit calls you both to remember and to forget.
 聖霊はあなたに、(神を)思い出すようにと呼びかけ、また、(エゴを)忘れるようにとも呼びかけます。

 You have chosen to be in a state of opposition in which opposites are possible.
 あなたは、そこにおいては正反対の物事が存在しうる対立する状態に居ることを選択してきました。

 As a result, there are choices you must make.
 その結果として、そこでは、あなたは選択をしなければなりません。

 In the holy state the will is free, so that its creative power is unlimited and choice is meaningless.
 神聖な状態においては、意志は自由です。だから、意志の創造する力には限界がないので、選択には意味はありません。

 Freedom to choose is the same power as freedom to create, but its application is different.
 選択する自由は、創造する自由と同じ力です。もっとも、それらの使い方には違いがあります。

 Choosing depends on a split mind.
 選択することは、分裂した心に依拠します。

 The Holy Spirit is one way of choosing.
 聖霊は、選択するためのひとつの方法です。

 God did not leave His children comfortless, even though they chose to leave Him.
 神は、自分の子供たちが神から離れることを選んだにもかかわらず、自らの子供たちを慰みのないままにはしませんでした。

 The voice they put in their minds was not the Voice for His Will, for which the Holy Spirit speaks.  
 子供たちが自分の心に置いた声は神の意志を代弁する声ではありませんでしたが、聖霊は神の意志を代弁するものです。」(テキスト 第五章 2)



「Would you be hostage to the ego or host to God? you will accept only whom you invite.
 あなたはエゴの人質になりたいのですか、それとも神をもてなす主人になりたいのですか。

 You are free to determine who shall be your guest, and how long he shall remain with you.
 あなたは、自ら招くものだけを受け入れます。あなたには、誰を客として招待するか、そして、その客がどれくらいの間あなたと共に留まるか、決定する自由があります。

 Yet this is not real freedom, for it still depends on how you see it.
 しかし、このようなことは本当の自由意志ではありません。というのは、その決定は、依然として、あなたが客として招く存在をどう見るのかということに、左右されているからです。」テキスト 第十一章 二 7)



「In this world the only remaining freedom is the freedom of choice; always between two choices or two voices.
 この世界では、唯一残存している自由意志は選択の自由に関するものだけです。その選択肢は、つねに二つの選択肢、つまり二つの声の間でどちらを選ぶのかというものです。」(用語解説 Mind - Spirit 心-霊


このように、私たち個別の心の中にいる決定者(decision-maker)には、聖霊を選ぶかエゴを選ぶかについての選択肢が残されています。




さて、これからご紹介する2つの節では、私たちに自由意志があるということが説明されています。

ここまで、さんざん自由意志はないって言っといてそれはないんじゃないの?と思われるかもしれませんが、ここで奇跡のコースが言う「自由意志」は、冒頭に出てきた一般的な定義とは違うものです。

一般的な自由意志は冒頭にあげたように、内心での選択・決定の自由なので、厳密に言えば、そもそも一元論において対立する複数の選択肢から何かを選んで決定するということ自体がありえない神の子には、この通常の意味での自由意志はありません。

しかし、何の制約もなく思うがままという意志は、真に自由な意志ということができます。

真の私たちである神の子は神とひとつの意志を共有するものであり、当然、制限のないという意味で「自由な」意志を持っています。


今日ご紹介する2つの節で「自由意志」という言葉で表現されている趣旨は、このような意味です。

私たちは、神の思いであり、私たちの意志は、神の意志と同一のものです。

最後にまとめると、
神の現実においては、そもそも選択ということ自体観念できないので、一般的な意味での自由意志自体ないが、真に無制限な意志という意味での自由意志はある、
この世界においては、個別の自己には自由意志はない、ただし、聖霊とエゴの選択肢についてのみ自由意志がある、
ということになります。



この結論のもたらす功徳、福音には次のように二面あります。

エゴに従う者として、自由意志はないということは、未来に選択肢が無限に広がっているように見えていながらも、自分が選択することはすべて「すでに書かれている」必然の出来事だということです。逆に言えば、「もしあのときこうしていれば」はありえないということです。

だから、どんなに先のことを計画したり、楽しみにしたり、悩んだり、心配したりしようが、刹那的に、その場その場で成り行き任せに生きようと、なるようにしかならないということです。

これはラメッシ先生のいう罪悪感からの解放です。そして、選択肢はあるように見えはするけれど、選択肢など存在しないわけですから、最善の選択はどれかという価値判断からの解放でもあります。

「すでに書かれている」をとことん受け入れるなら、悪あがきに注いでいたエネルギーをもう失わない、重圧から解放されるということになります。

個人として、人生を楽しむ余裕が与えられることにもなるでしょう。

これに対して、聖霊とエゴを選択することについては自由意志があるということは何を意味するのでしょうか。


聖霊を選択することは、個としての自己を否認するということなので、それによって、個人として、なにか具体的な行動を選ぶとか、心の中で計画する自由が得られるということではありません。

したがって、聖霊を選ぶ自由が残されていることが、「それはすでに書かれている」ということを個々の自己が「自分の自由に書くことができる」ということに変更するものではないということになります。

エゴを選択するかぎり、自動的に、それまで再生していた映画をそのまま再生しつづけることになり、聖霊を選択することで、よりショートカットされたバージョンの筋書きへの切り替えがなされるという感覚です。

聖霊は、個々の自己のための神の救済計画を保ってくれているということはワークブックでも出てきます。

この計画をどのように導入するかは、各人の中にいる聖霊が、それぞれの個別の心の特性に応じて完璧なタイミングで選択してくれます。

私たちにできるのは、ただ価値判断することなく、聖霊を選択し、任せきるということだけです。

そして、聖霊を選択する中で、聖霊と一体化の程度の深まり次第では、本当の大いなる自己を思い出し、それまで見ていた分離の世界、敵にしか見えなかった誰かもみんな自分であるということを思い出すときが、今にも訪れるというのですから、聖霊を選ばないという手はありません。




参考




テキスト第八章 

II. The Difference between Imprisonment and Freedom
二 幽閉と自由との違い


1. There is a rationale for choice.
 教師を選択するための理論的根拠はあります。

 Only one Teacher knows what your reality is.
 ただひとりの大いなる教師だけがあなたの真の姿が何であるのか知っています。

 If learning to remove the obstacles to that knowledge is the purpose of the curriculum, you must learn it of him.
 もしその知識に至る障害を取り除くことを学ぶことがカリキュラムの目的だとすれば、あなたは唯一の大いなる教師である聖霊からそれを学ばなければなりません。

 The ego does not know what it is trying to teach.
 エゴは自分が何を教えようとしているのかわかっていません。

 It is trying to teach you what you are without knowing what you are.
 エゴは、あなたが本当は何者なのか知らないまま、あなたが何者なのか、あなたに教えようとしているのです。

 It is expert only in confusion.
 エゴは混乱させることに関してだけは熟練しています。

 It does not understand anything else.
 しかし、エゴはそれ以外のことは何も理解していません。

 As a teacher, then, the ego is totally confused and totally confusing.
 それゆえ、教師としてのエゴは、完全に混乱しているし、生徒をまったく混乱させるだけの存在です。

 Even if you could disregard the Holy Spirit entirely, which is impossible, you could still learn nothing from the ego, because the ego knows nothing.
 もちろんそれは不可能なことなのですが、仮にあなたが聖霊を完全に無視できたとしても、あなたは依然として、エゴからは何も学ぶことはできません。なぜなら、エゴは何も知らないからです。

名称未設定

2. Is there any possible reason for choosing a teacher such as this?
 こんな教師を選ぶべきどんな理由がありうるというのでしょうか。

 Does the total disregard of anything it teaches make anything but sense?
 エゴが何を教えようと、それを全面的に無視することだけが意味をなすのではないでしょうか。

 Is this the teacher to whom a Son of God should turn to find himself?
 こんなエゴが、大いなる神の子が自分自身を見出すために頼るべき教師といえるでしょうか。

 The ego has never given you a sensible answer to anything.
 エゴはこれまで、どんなことに対してであれ、あなたに意味をなすような答えを与えてくれたためしがありません。

 Simply on the grounds of your own experience with its teaching, should not this alone disqualify it as your future teacher?
 単純に、あなた自身がエゴに教えられてきた経験に基づいて考えてみるだけでも、エゴはあなたの今後の教師として不適格とすべきではないでしょうか。

 Yet the ego has done more harm to your learning than this alone.
 しかし、エゴはこんなことにはとどまらず、あなたの学びにとって、もっとたくさんの害を及ぼしてしまっています。

 Learning is joyful if it leads you along your natural path, and facilitates the development of what you have.
 学ぶことは、もしそれがあなたが自然に歩むべき道に沿ってあなたを導き、あなたの持っているものを発達させることを促進してくれるなら、喜びに満ちたものになるはずです。

 When you are taught against your nature, however, you will lose by your learning because your learning will imprison you.
 しかしながら、あなたが自分の天性に逆らって教えられるとき、あなたは自分の学びによって自分の天分を見失うことになってしまいます。なぜなら、あなたの学ぶことがあなたを囚われの身にしてしまうからです。

 Your will is in your nature, and therefore cannot go against it.
 あなたの意志はあなたの天性の中にあります。したがって、あなたの意志は、あなたの天性に逆らうことはできません。




3. The ego cannot teach you anything as long as your will is free, because you will not listen to it.
 あなたの意志が自由であるかぎり、エゴはあなたに何も教えることはできません。なぜなら、そのとき、あなたがエゴに耳を貸すようなことはないはずだからです。

 It is not your will to be imprisoned because your will is free.
 幽閉されることは、あなたの意志ではありません。なぜなら、あなたの意志は自由だからです。

 That is why the ego is the denial of free will.
 だから、エゴとは自由意志の否認なのです。

 It is never God Who coerces you, because he shares his will with you.
 あなたを強制するような存在が神であることは絶対にありません。なぜなら、神は自らの意志をあなたと共有しているからです。

 His voice teaches only in accordance with his will, but that is not the Holy Spirit's lesson because that is what you are.
 神の声は、ただ神の意志に従って教えるだけです。しかし、神の意志そのものは、聖霊が教えるレッスンではありません。なぜなら、神の意志は、あなたの本質そのものだからです。

 The lesson is that your will and God's cannot be out of accord because they are one.
 聖霊のレッスンは、あなたの意志と神の意志とはひとつなのだから、両者が一致しないでいることなどありえないことを教えてくれます。

 This is the undoing of everything the ego tries to teach.
 あなたの意志と神の意志が一致していると学ぶことは、エゴが教えようと試みることをことごとく取り消すことです。

 It is not, then, only the direction of the curriculum that must be unconflicted, but also the content.
 したがって、カリキュラムの方向だけでなく、カリキュラムの内容も矛盾のないものでなければなりません。


名称未設定

4. The ego tries to teach that you want to oppose God's Will.
 エゴは、あなたは神の大いなる意志に対抗することを望んでいるのだと教えこもうとしています。

 This unnatural lesson cannot be learned, and the attempt to learn it is a violation of your own freedom, making you afraid of your will because it is free.
 こんな不自然なレッスンなどとても学べるものではありません。そして、こんなレッスンを学ぼうと試みることは、あなた自身の自由を侵害することになりますが、あなたの意志が自由であるがゆえに、あなたは自分の意志のことを恐れるようになってしまいます。

 The Holy Spirit opposes any imprisoning of the will of a Son of God, knowing that the Will of the Son is the Father's.
 聖霊は、神の子の意志をどのようにであっても幽閉することには反対します。それは、神の子の意志こそ父の大いなる意志だと知っているからです。

 The Holy Spirit leads you steadily along the path of freedom, teaching you how to disregard or look beyond everything that would hold you back.
 聖霊は、しっかりとした足取りで、あなたを自由の道に沿って導き、あなたを引き戻そうとするすべてのものを、どのように無視して、その向こう側を見通したらよいのか、教えてくれます。




5. We have said that the Holy Spirit teaches you the difference between pain and joy.
 聖霊はあなたに苦痛と歓喜の違いを教えてくれると以前に述べたことがあります。

 That is the same as saying he teaches you the difference between imprisonment and freedom.
 それは、聖霊が幽閉と自由の違いを教えてくれると言うのと同じことです。

 You cannot make this distinction without him because you have taught yourself that imprisonment is freedom.
 聖霊なくしては、あなたにはこのような区別はできません。なぜなら、あなたは幽閉状態こそが自由であると自分自身に教えこんでしまっているからです。

 Believing them to be the same, how can you tell them apart?
 幽閉と自由が同じことだと信じているというのに、そのあなたに、どうやって両者の見分けがつけられるというのでしょうか。

 Can you ask the part of your mind that taught you to believe they are the same, to teach you how they are different?
 あなたは、幽閉と自由が同じものだと信じるように自分に教えこんだ自分の心の部分に対して、幽閉と自由がどう違うのか自分に教えてくれとなど頼むことができるでしょうか。




6. The Holy Spirit's teaching takes only one direction and has only one goal.
 聖霊の教えは、ひとつの方向にだけ向かい、ひとつの目標だけを持っています。

 His direction is freedom and his goal is God.
 聖霊の向かう方向は自由であり、聖霊の目標は神です。

 Yet he cannot conceive of God without you, because it is not God's will to be without you.
 しかし、聖霊には、あなたを抜きにして神を思うことすらできません。なぜなら、あなたなしでいることなど神の意志ではないからです。

 When you have learned that your will is God's, you could no more will to be without him than he could will to be without you.
 あなたの意志こそが神の意志だとあなたが学び終えたなら、神があなたなしに在ることを意図できないのと同じように、あなたはもはや神と共に居ないことを意図できなくなるはずです。

 This is freedom and this is joy.
 これこそが自由であり、これこそが喜びです。

 Deny yourself this and you are denying God his Kingdom, because he created you for this.
 あなたが神と共に在ることを自分自身に拒むとき、あなたは神に対して、神の王国を拒んでいることになります。なぜなら、神はあなたと共に王国に在るためにあなたを創造したからです。


名称未設定

7. When I said, "All power and glory are yours because the Kingdom is his," this is what I meant:
 私が「すべての力と栄光はあなたのものである。なぜなら、王国は神のものだから」と述べたとき、私が意味したのは次のことです。

 The Will of God is without limit, and all power and glory lie within it.
 すなわち、神の大いなる意志には限界はないので、すべての力と栄光は神の大いなる意志の中にあるということです。

 It is boundless in strength and in love and in peace.
 神の大いなる意志は、力強さにおいても、愛においても、平安においても果てしのないものです。

 It has no boundaries because it created all things.
 神の大いなる意志は、あらゆるものを創造したがゆえに、神の意志には限界などありません。

 By creating all things, it made them part of itself.
 すべてのものを創造することによって、神の大いなる意志は、創造されたものをその大いなる意志そのものの一部としました。

 You are the Will of God because that is how you were created.
 あなたこそが神の大いなる意志なのです。なぜなら、このようにしてあなたは創造されたからです。

 Because your Creator creates only like himself, you are like him.
 あなたの大いなる創造主は、ただ自分自身と同じものとしてのみあなたを創造したのだから、あなたは神と同じものなのです。

 You are part of him who is all power and glory, and are therefore as unlimited as he is.
 あなたはすべての力と栄光である神の一部です。したがって、あなたは、神が無限であるのと同じように、無限なる存在なのです。




8. To what else except all power and glory can the Holy Spirit appeal to restore God's Kingdom?
 神の王国を修復するために、聖霊は、すべての力と栄光に向かって以外に、いったい何に対して求めることができるというのでしょうか。

 His appeal, then, is merely to what the Kingdom is, and for its own acknowledgment of what it is.
 したがって、聖霊の訴えは、単に、神の王国の本質に向かって、王国の本質を自ら承認するように求めるものにすぎません。

 When you acknowledge this you bring the acknowledgment automatically to everyone, because you have acknowledged everyone.
 あなたがこれを承認するなら、あなたは自動的にその承認をすべての者にもたらすことになります。なぜなら、あなたはすべての者を承認したことになるからです。

 By your recognition you awaken theirs, and through theirs yours is extended.
 あなたが認識することによって、あなたは、すべての者たちの認識を目覚めさせます。そして、彼らが認識することを通して、あなたの認識は拡張されることになります。

 Awakening runs easily and gladly through the Kingdom, in answer to the Call for God.
 神を代弁する呼びかけに呼応して、目覚めが軽々と喜びのうちに神の王国の隅々にまで広がっていきます。

 This is the natural response of every Son of God to the Voice for his Creator, because It is the Voice for his creations and for his own extension.
 これこそ、創造主に代わって語る大いなる声に対する神の子一人ひとりの自然な反応です。なぜなら、その声こそ、神の子が創造したものたちと神の子自身を拡張するようにと求める大いなる声だからです。


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