T6-5A 得ること=与えること


We have to possess before we can give.
私たちが与えるには、その前に私たちが得ていなければなりません。



Mother Teresa
マザー・テレサ

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When you give yourself, you receive more than you give.
自分自身を与えるなら、あなたは自分の与えた以上のものを受け取るだろう。



Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ



・豊かさマインド──Win-Winに不可欠な人格の三番目の特徴は、豊かさマインドというものである。この世にはすべての人に行きわたるだけのものがたっぷりあるという考え方だ。ほとんどの人は、欠乏マインドに深く脚本づけられている。パイはたった一個しかなく、誰かがひと切れ食べてしまったら、自分の取り分が減ってしまうと考える。物事はすべて限りがあると思い、人生をゼロサム・ゲームととらえる考え方である。欠乏マインドのままでは、手柄を独り占めし、名誉や評判、権力もしくは、利益をサポートしてくれた人とさえ分かち合おうとしない。だから、自分以外の人間の成功は喜べない。同僚や親しい友人、家族の成功さえも素直に祝福できない。誰かが褒められたり、思いがけない利益を得たり、大きな成果を出したりすると、まるで自分が損をしたような気分になるのだ。

他者の成功に口では「おめでとう」と言いながら、胸の内は嫉妬に食い尽くされている。周りの人間と比較して自分はどうなのかといつも気にしているから、程度の差こそあれ、人の成功は自分の失敗を意味するのである。成績表に「A」がつく生徒はたくさんいても、「一番」になれるのは一人しかいないと考えてしまうのだ。欠乏マインドの人にとって、勝つことは、人を負かすことに他ならない。

欠乏マインドに染まっている人はえてして、他人の不幸をひそかに望んでいる。もちろん、そんなにひどい不幸を望んでいるわけではないが、自分に影響が及ばない範囲で不幸に遭えばいいと思っている。他人が成功せずにいてくれれば、それでいいのである。彼らは、いつも誰かと自分を比較し、競争している。自尊心を持ちたいがために、モノを所有したり、他者を抑えつけたりすることにひたすら労力を費やしているのである。こういう人は、他人を自分の思いどおりにしたがる。自分のクローンをつくりたがり、イエスマンやご機嫌とりで自分の周りを固め、自分よりも強い人間は遠ざける。欠乏マインドの人が、相互を補完するチームの一員になることは難しい。彼らは自分との違いを不服従や反抗ととらえてしまうからだ。

それに対して豊かさマインドは、内面の奥深くにある自尊心と心の安定から湧き出るものである。この世にはすべてのものが全員に行きわたってもなお余りあるほどたっぷりとある、と考えるパラダイムである。だから、名誉も評判も、利益も、何かを決定するプロセスも、人と分かち合うことができる。こうして可能性、選択、創造力の扉が開かれるのだ。

豊かさマインドを持つには、まずは第1、第2、第3の習慣を身につけ、個人としての喜び、満足感、充足感を得ていなければならない。それがあって初めて、他者の個性、望み、主体性を認めることができる。前向きに人と接することが自分の成長にとって無限の可能性をもたらすとわかっているから、それまで考えてもいなかった新しい第3の案を生み出せるのだ。公的成功は、他者を打ち負かして手にする勝利のことではない。関わった全員のためになる結果に達するように効果的な人間関係を築くこと、それが公的成功である。協力し、コミュニケーションをとりながら、一緒にことを成し遂げることである。各自がばらばらにやっていたらできないことを、力を合わせて成し遂げる関係を築くことが公的成功なのだ。公的成功とはつまり、豊かさマインドのパラダイムから自然と生まれる結果なのである。

「誠実」「成熟」「豊かさマインド」を高いレベルで備えた人格は、あらゆる人間関係において、個性主義のテクニックにはとうてい及ばない本物の力を発揮する。Win-Loseタイプの人がWin-Winの人格を備えようとするときに、私が見出したことの一つは、Win-Winタイプの人と接してモデルやメンターにするのが一番効果的だということである。深くWin-Loseのパラダイムに脚本づけられた人々が、同じようなWin-Loseタイプの人とばかり付き合っていたら、Win-Winの態度を実際に見て学ぶ機会はそうない。それゆえ、私は文学を読むことを勧めたい。たとえば、アンワル・サダトの自伝『エジプトの夜明けを』を読んだり、映画『炎のランナー』や演劇『レ・ミゼラブル』を観たりすることも、Win-Winを知るきっかけになるだろう。

しかし覚えておいてほしい。誰でも自分の内面の奥深くを見つめれば、これまで従っていた脚本、これまでに身につけた態度や行動を乗り越え、他のすべての原則と同じように、Win-Winの本当の価値を自分の生き方で証明できるのである。




Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー(「7つの習慣」第4の習慣/Win-Winを考える/Win-Winの5つの側面より)

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The value of a man should be seen in what he gives and not in what he is able to receive.
人の価値は、その人が何を受け取ることができるかではなく、彼が何を与えるかによって測られるべきである。



Albert Einstein
アルベルト・アインシュタイン





Happiness is not found in things you possess, but in what you have the courage to release.
幸福は、君が何を所有しているかにかかっているのではない。逆に、君がそれを手放す勇気を持てるかどうかにかかっているのだ。

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Nathaniel Hawthorne
ナサニエル・ホーソーン



受け手の存在こそが、自分の人生の意味や生まれてきた意味を与えてくれる。つまり、私たちはただ存在するだけで他者に贈与をすることができると言えるでしょう。

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孫泰蔵(「冒険の書」291ページ)



The miracle is this: the more we share the more we have.
奇跡とはこれだ。私たちが分かち合えば分かち合うほど、よりいっそう私たちは得ることになる。

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Leonard Nimoy
レナード・ニモイ(スタートレックのスポック役で有名なアメリカ映画俳優・監督)



映像構築の大原則はこれです。「世の中に文句を言うよりも、愛せ」。現実に必要なものは、「愛」だけです。ただ、その言葉は正しい文脈で受け止められていないだけなのです。あなたは周りの人に愛されたいと思っています。「愛されて初めて、この世界を愛せるのに」と。でも、それは逆なのです。何の見返りも求めることなく、まず自分から愛を放ちます。そうすることで、初めて愛があなたのもとにやってくるのです。



ヴァジム・ゼランド(「タフティ・ザ・プリーステス 世界が変わる現実創造のメソッド」167ページ)

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今回はテキストから、持っているためには与えることだという一節をご紹介します。


持っているために、みんなにすべてを与えなさい

聖霊のレッスンは、つぎの教えで始まります。

5.「To have, give all to all.
持っているために、みんなにすべてを与えなさい。」

欠乏マインドでいるかぎり、この教えには納得できないままです。

客観的にはすべてを持っているというのが事実だとしても、主観的にそのうちの砂粒のような一点だけしか自分は持っていないと信じているかぎり、すべてを持っていることは事実であっても自覚できないままです。

自分が持っているものについて自分が持っていないと信じる状態は、自分のものであることを返上して拒絶し受け入れない状態です。

必要なのは、獲得して持っている状態に達することではなく、すでに持っていることに気づくプロセスです。

与えることがこのプロセスとなります。

自分が持っていないものを与えることはできないので、与えることによって自分が持っていたことに気づくことになるからです。


与えることで自分がすでに持っていることに気づく

「1. No one can give what he has not received.
 自分が受け取っていないものを与えることは、誰にもできません。

 To give a thing requires first you have it in your own possession.
 あるものを与えるには、まずあなたが、それを自分の所有物として持っていなければなりません。

 Here the laws of Heaven and the world agree.
 この点については、天国の法も地上の法則も同じです。

 But here they also separate.
 しかし、天の法と地の法則が分離するのもまた、この点においてです。

 The world believes that to possess a thing, it must be kept.
 この世界では、あるものを所有するには、そのものを持ち続けなければならないと信じられています。

 Salvation teaches otherwise.
 救済は、これは違うと教えます。

 To give is how to recognize you have received.
 すなわち、与えることは、自分がすでに受け取っていることに気づくための方法だということです。

 It is the proof that what you have is yours.
 与えることは、あなたが持っているものがあなたのものであると証明することなのです。」(レッスン159「私は、自分が受け取った奇跡を与える」

豊かさマインドと欠乏マインドに関連するので、レッスン105「神の平安と喜びは私のものだ」T1-6 欠乏感はどうしてなくならない?をご覧いただければと思います。


アイデンティティー障害が生む誤解

私たちの錯覚は、自分の占有状態を解消して他者の占有状態に移すことが、自分の所有状態まで解消することになると信じていることです。

アイデンティティーが正しく大いなる自己に据えられたなら、万物の所有は大いなる自己に帰属することになります。

けれど、私たちはアイデンティティー障害を抱えて、小さな自己である特定のアバターである自分という人間が自分だとしか思えません。

この自己認識では、自分が持っているあるものを他の人間に与えると、自分の手元からそのものはなくなるので、与えることは失うことだという解釈となり、この解釈によるかぎり、限られた自分の持ち合わせを失ってなるものかと、アイデンティティーは小さな自己に縮小したままになります。

これに対して、同じように人間が自分だという自己認識に立ったままでも、与えることは得ることだという解釈は、所有が帰属するのは全体であり、個に帰属するのは占有のみだという基盤に立たなければ成り立たないので、この解釈によって他者に自分の持ち合わせを与えることは、自分が所有することを自覚できる範囲を自分のアバター以外に拡大することになります。

与えることで自分がそれによって得られたのと同じ喜びを他者も自分と同じように享受することを知り、喜びを分かち合うことで、アイデンティティーが自分のエゴ・身体という枠に縛られずに拡大してゆくことになります。





奇跡の平等性

さて、コースは、奇跡に難易度の序列はないと繰り返します。

4.「This is familiar enough to you by now, but it has not yet become believable.
 奇跡の難しさに程度がないことは、今ではもう、あなたも十分に聞き慣れているはずですが、まだ信じられるようにはなっていません。

 Therefore, you do not understand it and cannot use it.
 信じることができないので、あなたは奇跡に難しさの序列がないという概念を理解していないし、この概念を活用することもできていません。」

M8 簡単な奇跡と難しい奇跡ってあるの?奇跡ってなに?が参考になると思います。

奇跡は、すべては愛に結ばれたひとつであるという真理に気づく結果として起こる知覚の変化として、虚構である世界の法則を超えて現実を反映する物事がこぼれ出すように現れる現象です。

幻想には、純度100%の幻想から現実を20%織り交ぜた80%の幻想等、現実と幻想の混じり具合を変えたさまざまな取り合わせがあるわけではありません。

幻想であるかぎり、張りぼてだとすぐバレるようなお粗末なものであれ、高精細でリアリティーに溢れる迫力満点のものであれ、まがい物である点に相違はないし、ひとたび幻想だと見破られさえすれば、リアルなもののほうが手作り感満載のものよりも退けるのが難しいということはありません。


リアリティの解像度によって騙されやすさに程度差はある

ただし、幼児が信じる絵本の怪獣よりもVRゲームに出てくるリアルな恐竜のほうが、本物だと騙したままにする力が強い、つまり、私たちが気づきにくい、見破りにくいという点での程度差があるのは事実です。

したがって、大切なのは、どんなにリアルで現実としか思えないとしても、自分が幻惑されている可能性は大いにありうると認識すること、そして、もしそれが幻想だとしたら、それが現実だと思い込ませる舞台装置や作り込みがいかに壮大なものであったとしても、見破りさえすれば、見る者を束縛するうえで、幻想はまったく力を持たないと認識することです。

というのも、幻想は私たちを強制的にねじ伏せて従わせることはできず、ただ私たちが虚構の設定を現実だと誤信して、無でしかないはずの幻に自分たちを縛ったり制限したりする力を付与しているだけだからです。


兄弟に与えるために手放す勇気

冒頭のナサニエル・ホーソーンの

「幸福は、君が何を所有しているかにかかっているのではない。逆に、君がそれを手放す勇気を持てるかどうかにかかっているのだ。」

という言葉の通り、自分のアバターのものとして独り占めしようと握りしめているかぎり、自分のアイデンティティーは小さなアバターに限定されたままで愛は訪れず不幸なままです。

けれど、兄弟に与えるために手放すことによって、自分はその兄弟たちへと広がるので、愛の同義語である幸福がやってきてくれます。




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テキスト 第六章 

V. The Lessons of the Holy Spirit
五 聖霊のレッスン 

A. To Have, Give All to All
A 持っているためには、全員にすべてを与えることだ



1. When your body and your ego and your dreams are gone, you will know that you will last forever.
 あなたの身体やエゴや夢が消え去ったときにこそ、あなたは自分が永遠に存続することを知るでしょう。

 Perhaps you think this is accomplished through death, but nothing is accomplished through death, because death is nothing.
 もしかするとあなたは、こうしたことは死を通して成し遂げられるものだと思っているかもしれません。しかし、死を通して成就されるものなど何もありません。なぜなら、死とは無だからです。

 Everything is accomplished through life, and life is of the mind and in the mind.
 あらゆることは生命を通して成し遂げられます。そして、生命は心に属するものであり、そして、心の中にあるものです。

 The body neither lives nor dies, because it cannot contain you who are life.
 身体には生命であるあなたを封じこめることなどできないので、身体は生きることも死ぬこともありません。

 If we share the same mind, you can overcome death because I did.
 もし私たちが同じ心を共有しているのなら、私が死を乗り越えたのだから、あなたも死を乗り越えられるはずです。

 Death is an attempt to resolve conflict by not deciding at all.
 死とは、何も決着をつけないことによって葛藤を解決しようと試みることです。

 Like any other impossible solution the ego attempts, it will not work.
 エゴが企てるほかの諸々の見込みのない解決策と同じように、死が葛藤を解決するために役立つことはないでしょう。



2. God did not make the body, because it is destructible, and therefore not of the Kingdom.
 神は身体を作りませんでした。なぜなら、身体は破壊しうるものであり、したがって、王国に属するものではないからです。

 The body is the symbol of what you think you are.
 身体は、あなたが自分だと思っているものの象徴です。

 It is clearly a separation device, and therefore does not exist.
 身体は、明らかに分離のための仕掛けです。したがって、身体は存在しません。

 The Holy Spirit, as always, takes what you have made and translates it into a learning device.
 いつものように、聖霊の手にかかれば、あなたが作り出したものも学びのための道具へと変換されます。

 Again as always, He reinterprets what the ego uses as an argument for separation into a demonstration against it.
 さらに、いつものように、聖霊は、エゴが分離が真実だと主張するために用いる論拠を、分離が真実ではないことを示す実証として解釈し直します。

 If the mind can heal the body, but the body cannot heal the mind, then the mind must be stronger than the body.
 もし心は身体を癒せるのに身体は心を癒せないとすれば、心は身体よりも強力であるに違いありません。

 Every miracle demonstrates this.
 すべての奇跡は、このことを実証します。

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3. I have said that the Holy Spirit is the motivation for miracles.
 私はすでに、聖霊こそが奇跡を呼び起こす存在であると述べました。

 He always tells you that only the mind is real, because only the mind can be shared.
 聖霊はつねにあなたに、心だけが実在すると告げます。なぜなら、共有できるのはただ心だけだからです。

 The body is separate, and therefore cannot be part of you.
 身体は別々に分離しています。したがって、身体があなたの一部であるはずがありません。

 To be of one mind is meaningful, but to be one body is meaningless.
 ひとつの心に属することには意味があります。けれども、ひとつの身体になることは無意味です。

 By the laws of mind, then, the body is meaningless.
 よって、心の法則によれば、身体は無意味なのです。



4. To the Holy Spirit, there is no order of difficulty in miracles.
 聖霊にとっては、奇跡の難易度に序列はありません。

 This is familiar enough to you by now, but it has not yet become believable.
 奇跡の難しさに程度がないことは、今ではもう、あなたも十分に聞き慣れているはずですが、まだ信じられるようにはなっていません。

 Therefore, you do not understand it and cannot use it.
 まだ信じることができていないので、あなたは奇跡に難しさの序列がないことを理解していないし、この概念を活用することもできていません。

 We have too much to accomplish on behalf of the Kingdom to let this crucial concept slip away.
 私たちには、王国のために成し遂げるべきことがあまりにもたくさんあるので、このきわめて重要な概念を等閑視しておくわけにはいきません。

 It is a real foundation stone of the thought system I teach and want you to teach.
 この概念こそ、私が教え、あなたに教えてもらいたいと望んでいる思考システムの真の礎石だからです。

 You cannot perform miracles without believing it, because it is a belief in perfect equality.
 この概念を信じることなしには、あなたは奇跡を起こすことができません。なぜなら、これこそ完璧な平等性を信じることだからです。

 Only one equal gift can be offered to the equal Sons of God, and that is full appreciation.
 対等である神の子たちに捧げることができるのは、唯一の平等な贈り物だけです。その平等な贈り物とは完全に相手の真価を認めることです。

 Nothing more and nothing less.
 それ以上でもなければ、それ以下でもありません。

 Without a range, order of difficulty is meaningless, and there must be no range in what you offer to your brother.
 値の変動しうる範囲で区切る制限というものを観念しないかぎり、難しさに序列があると考えることは意味をなしません。したがって、あなたが兄弟に差し延べるものには一切の制限を設けてはなりません。

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5. The Holy Spirit, Who leads to God, translates communication into being, just as He ultimately translates perception into knowledge.
 神の下へと導いてくれる聖霊は、コミュニケーションを実在へと変換してくれます。それはちょうど聖霊が究極的には知覚を知識へと変換するのと同じです。

 The ego uses the body for attack, for pleasure and for pride.
 エゴは、攻撃するために、快楽を得るために、そして自尊心を保つために身体を利用します。

 The insanity of this perception makes it a fearful one indeed.
 このように身体を知覚する狂気は、身体を実に恐れに満ちたものとして知覚させてしまいます。

 The Holy Spirit sees the body only as a means of communication, and because communicating is sharing it becomes communion.
 聖霊は、身体をコミュニケーションの手段としてのみみなします。そして、コミュニケーションを行うことは分かち合うことなので、それは聖餐となります。

 Perhaps you think that fear as well as love can be communicated; and therefore can be shared.
 おそらくあなたは愛と同じように恐れも伝えることができ、したがって、恐れを共有することもできると思っているはずです。

 Yet this is not so real as it may appear.
 しかし、恐れを伝達したり共有したりすることは、一見、可能なように思えても、実際は不可能です。

 Those who communicate fear are promoting attack, and attack always breaks communication, making it impossible.
 恐れを伝えようとする者たちは攻撃を助長しているのであって、攻撃はつねにコミュニケーションを断絶させてコミュニケーションを不可能にしてしまうからです。

 Egos do join together in temporary allegiance, but always for what each one can get separately.
 たしかに、エゴとエゴが一時的に忠誠を誓い合って協力することはあります。しかし、それはいつでも、エゴ各自が別々に手に入れることのできる何かのために一緒に結びつくだけです。

 The Holy Spirit communicates only what each one can give to all.
 聖霊は各自がみんなに与えることができるものだけを伝えます。

 He never takes anything back, because He wants you to keep it.
 聖霊は、自分があなたに与えたものを持っていてほしいので、何であれ聖霊が一度あげたものを取り返すようなことはしません。

 Therefore, His teaching begins with the lesson:
 したがって、聖霊の教えは次のレッスンから始まることになります。


To have, give all to all.
持っているために、みんなにすべてを与えなさい。



6. This is a very preliminary step, and the only one you must take for yourself.
 これはまさしく準備のための一歩であり、そして、あなたが自分で踏み出す必要がある唯一の歩みです。

 It is not even necessary that you complete the step yourself, but it is necessary that you turn in that direction.
 あなたは自分自身でこの歩みを完了する必要すらありません。ただし、その一歩を踏み出す方向にあなたが向きを変えることは必要です。

 Having chosen to go that way, you place yourself in charge of the journey, where you and only you must remain.
 すでにその道を進むことを選んだ以上、あなたは自分自身をその旅路の責任者としての立場に置いたのであり、あなたが、それも、ただあなただけが旅路の責任者であり続けなければなりません。

 This step may appear to exacerbate conflict rather than resolve it, because it is the beginning step in reversing your perception and turning it right-side up.
 この段階は葛藤を解消するよりも、むしろ葛藤を募らせるように思えるかもしれません。なぜなら、これは、あなたの知覚を逆転させて、正しい方向に向け直すための第一歩だからです。

 This conflicts with the upside-down perception you have not yet abandoned, or the change in direction would not have been necessary.
 このことは、あなたがまだ完全に捨て去ってはいない倒錯した知覚と衝突します。とはいえ、そもそも知覚が転倒していなかったなら、あなたが方向を変える必要もなかったはずです。

 Some remain at this step for a long time, experiencing very acute conflict.
 この段階に長い間留まって、きわめて深刻な葛藤を経験する者もいます。

 At this point they may try to accept the conflict, rather than take the next step towards its resolution.
 この時点で、彼らはそんな葛藤の解消に向けて次の一歩を踏み出すよりも、葛藤を受け入れようとするかもしれません。

 Having taken the first step, however, they will be helped.
 それでも、すでに一歩を踏み出しているので、彼らは助けてもらえるでしょう。

 Once they have chosen what they cannot complete alone, they are no longer alone.
 彼らがひとたび自分だけでは完了できないことを選んだ以上は、彼らはもはやひとりきりではないのです。


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