There Is No Spoon

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時間を消す2

貴重なコメントをいただきました。質問者さんありがとうございました。改めてお礼申し上げます。

私たちの抱く当然の疑問として有益な指摘をいただいたものとして取り上げさせていただきます。




質問者さんの論旨を整理すると、

① 時間は幻想であり、順序は変更可能である。
② この世のあらゆる現象はあの世の投影である。
③ 個別の心は、DVDを選ぶように、望みどおりの映像をあの世からこの世に投影することができる
とすれば、
④ 「徳川家康が天下を取らなかった日本」等、望めば今すぐ目の前の現実として創造できるのか

ということになります。

まず、①です。
これについては、質問者さんご指摘のとおり、奇跡のコースは、時間は幻想であり、奇跡は時間の順序は変更するといいます。

「13. 奇跡は、始まりであるとともに、終わりでもあります。それゆえに、奇跡は時間の順序を変えることができます。
奇跡は、後退するように見えながらも、実際には前進する再生を常に肯定します。
奇跡は、現在において過去を取り消し、そうすることによって、未来を解き放ちます。」(テキスト第一章、一 奇跡の原理)

罪悪感によって、未来は過去と同じようなものでしかないという信念を抱くことで、過去から未来へと続く連続性を時間の観念に押し付け、現在を過去と未来の取次ぎ地点でしかなくさせて時間を存続させるというのがエゴの計画でした。




次に②この世のあらゆる現象はあの世の投影かという点についてです。

まず、質問者さんの言われる「あの世」が「神の現実」つまり永遠の世界、天国を指すものだとすれば、永遠の投影がこの世界というわけではありません。

すなわち、神の子が、自分が神から分離しているという真実とは異なる思いを抱いた結果、罪悪感と処罰される恐怖を抱き、自分を無数の個別の心へと分裂させて生み出されたのが幻想世界ということでした。
したがって、この世界は、神の子の分離の思いが投影されたものではあっても、神の現実を投影するものではありません。

このことを、コースは、この世界は神の与り知るところでないという風によく言います。

よって、この意味では、神の現実を「あの世」と見るとした場合、この世は「あの世」の投影ではないということになります。


つぎに、幻想としての「あの世」を仮定した場合について考えます。

「時間を消す」の記事で、存在を仮定した「あの世」は、魂(個々の心)が、この人生を終えた後に戻る控室としての世界というような意味合いでした。

奇跡のコースの言うところでは、究極的には、神の子、つまり大いなる自己しか実在せず、神の子がばらばらになった個別の心(魂)は幻想であって実在しません。

となれば、実在しない魂の控室としての「あの世」も、究極的には実在しない幻想だということになります。

この意味で、「あの世」は「この世」と同じく、個別の自己の抱く幻想の一部ということになります。

したがって、「この世」も「あの世」も、いずれも個別の自己が投影によって生み出す世界であり、「あの世」を投影したものが「この世」というわけではありません。


さて、③個別の心はDVDを選ぶように、望みどおりの映像をあの世からこの世に投影できるという点はどうでしょうか。

幻想のお話として、実在しない魂がこれまた幻想の「あの世」から「この世」へと生まれては戻りまた生まれ、という輪廻転生を繰り返すという幻想について考える際の譬え話がDVDでした。

そして、見たいDVDを選ぶことを譬えとして用いて想定していたのは、「あの世」において、魂が、人生を選ぶ場面としてのことでした。

ですので、「時間を消す」の記事において念頭に置いていたのは、私たちが「あの世」で選んだ映画・人生を「この世」として見始めた後に、その物語の内容を別のDVDに取り換えることができるということではありませんでした。

もっとも、この譬えでいう「あの世」も「この世」も幻想なので、本当にその魂がそう信じ込んだり、時空感覚に関する知覚に異常が生じたり、前回お話しした時空操作に関する「超能力」が発現したような場合には、魂自体が別の人生へと今この瞬間にも移動するということがあってもおかしくはありません。
なにせ幻想だとすれば、夢の世界ですから、何でもありです。

「5. 夢は、あなたには自分がそうしたいように望み通りの世界を作る力があることを示します。また、夢は、あなたがそのような世界を望むがゆえに、あなたにはそんな世界が見えるのだということを示してくれます。
 そして、あなたが夢を見ている間は、あなたは、その世界が現実だと信じて疑いません。」(テキスト第十八章 二 夢の基盤)

とはいえ、そのような超能力と無縁で、時間の知覚に異常もないのが普通の私たちにとって、そして特に、この人生の仮想性を情報として疑うことはできても、実感としてはむしろ、この世界が幻想であるはずがないと浮世にどっぷりと浸かりきって、世界の実在性を心底信じ切ってしまっているマトリックスの住民のような私たちにとっては、今この瞬間、別のパラレルワールドへと移行するということは困難です。

コースによると幻想の世界は既に終わっていて、私たち個別の心の救済も完了しているといいます。
つまり、魂の見るDVDは既に完成した終わったものということです。
DVDを見ている主人公と一体化している魂は、自分のつまらない人生をもっと面白い人生に取り換えたいと思うことはあるでしょうが、DVDや小説は既に筋書が決まっていて、書かれているものなので、見ている人がDVDの中の映画の筋書きを書き変えることはできません。


自分の自由意志による選択によって、別の筋書きを味わっているような錯覚を味わわされてはいますが、既に決められている製作者側の用意した筋道を辿っているにすぎません。

この点については、エゴとしての私たちには自由意志がないというお話を以前にしたところです。

そして、無数の物語が、「あの世」においては既に完成し、終了した形で再び展開されるのを待って眠っているのです。

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パウロ コエーリョ

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「それは既に書かれている」という言葉があります。
「既に書かれている」は、パウロ・コエーリョさんのアルケミスト(「マクトゥーブ」というアラブの言葉でした)でも出てきますし、先日ご紹介させていただいたヘルメス・J・シャンブさんら覚者の多くが繰り返す言葉でもあります。

この既に書かれているということは、誰と結婚するかとか入社試験に合格するかどうかといった人生の一大事のようなメインの筋書きだけでなく、鼻がムズムズするから鼻に手をやるとか偶然道路に飛び出してきたネコを避けてハンドルを切るとかいうことまで含めてすべて書かれているという意味です。

筋書きがいくつかある形だとしても、すでに終わっている物語である以上は、DVDで全ての場面が記録されているというだけのことです。

この意味で、エゴの仮面を被り身体を自分と思い込んで、映画の主人公になりきっている個別の心には自由意志はなく、何も選択できないのです。

この自由意志の無さ、選択肢の無さによって、私たちは、自由意志に基づいて自分の意志を選んでいるという幻想を与えられながら、きっちり規定通りの上映時間の映画を再生して人生を終えることになります。

これがエゴに従う場合の個別の心の生きる人生です。

そして輪廻を信じる魂にとっては、人生で昼の日常と夜の夢見をしながら一日一日を繰り返すのと同じように、「あの世」と「この世」の行き来をしながら一つ一つの人生を繰り返すことも、同じようなもので、大いなる自己が目を覚ますまでは、既に終わっているたくさんの人生を繰り返す輪廻の全体も、ある魂にとっての大きな「人生」のようなものとしてつながりを持った連鎖となっているのかもしれません。

ですから、「この世」である人生を生きて、「あの世」に戻り、次に「この世」で別の時代の別の人物の仮面を付けて生きるということまで含めて既に書かれている筋書といえるのかもしれません。

ただし、それにもかかわらず、奇跡のコースは、奇跡によって、本来なら数千年かかったかもしれない時間を短縮して節約できるといいます。

つまり、エゴに従う場合には、固定されたストーリーを上映時間通りに見ることになるけれども、聖霊の導きを受けることによって、本来の上映時間よりも時間を短縮できるというのです。
この奇跡による時間短縮は、「この世」人生の中でも、また、輪廻を繰り返す複数の人生全体の中でもあるのでしょう。

既に書かれて終わっている筋書ではあっても、再生する際に、本来の映画館での公開版とは違うディレクターズ・カットやアナザーストーリーへと、スキップするように、「幸せな夢」という特別編のチャプターが用意されているようです。


そして、この時間短縮を実現する手段は、贖罪ということでした。

そのためには、私たちは、唯一、自由意志を行使して選択できる場面である、幻想と真理、エゴと聖霊の選択肢において真理、聖霊を選ぶ必要があるということでした。

本来、DVDの筋書きとして用意されているストーリーを辿る限りは、映画館できっちり決まった上映時間の公開版の映画を受け入れるしかなかった人生(一つの人生だけでなく、何度も輪廻を繰り返すことも含めて)ですが、聖霊の導きに従う選択をすることによって贖罪を完了することで、短縮された筋書(一つの人生で終わることもあれば、その後のわずかな回数の輪廻で大いなる自己へと帰る)へと移行することができるということです。

魂は、幸せな夢を経て神の現実へと目覚めることになります。

「9. あなたはまず平安を夢見るようになります。そのあと、あなたは平安へと目覚めます。

 あなたが自分で作ったものを自分の願うものと交換するに際して、まず初めにする交換は、悪夢を愛に満ちた幸せな夢に取り替えることです。

 この悪夢の幸せな夢への交換の中に、あなたの正確な知覚を見出すことができます。なぜなら、聖霊は、全ての知覚が存在する夢の世界を修正してくれるからです。

 知識は修正を必要としません。

 しかし、愛の夢は知識へと導いてくれます。

 愛の夢の中で、あなたは恐ろしいものを何一つ見ることはありません。そして、それゆえに、愛の夢はあなたが知識へと捧げる歓迎の挨拶といえます。

 愛は歓迎されることを待ち受けているのであって、時間に奉仕するのではありません。だから、現実の世界とは、常にあったものをあなたが歓迎することに他なりません。

 したがって、そこには喜びへの呼び掛けがあり、あなたが喜びに満ちてその呼び掛けに応じることは、あなたが失ってなどいなかったものへとあなたが目覚めることなのです。」(テキスト 第十三章 七 現実の世界への到達)


さて、④「徳川家康が天下を取らなかった日本」等、望めば今すぐ目の前の現実として創造できるのかについてです。


聖霊の導きに従う限りは、「この世」や「あの世」の幻想性への気付きが深まって行くはずです。

「この世」や「あの世」の幻想性に真に気付いていくということは、どれだけリアリティがあっても、過去の人類の歴史や今起こっている出来事、将来起こる出来事も全て幻想であることに違いが無いということを理解していくということです。

このことが本当に難しいことは事実です。

凄惨な無差別殺人や残虐極まる虐殺、大災害などで被害を受けて亡くなった人や遺族、今も苦しんでいる人たちに、面と向かって被害は幻にすぎないなんて言えるわけがありません。

奇跡に難しさの序列がないということをコースは強調しますが、それは、難しさに程度があるという私たちの知覚が本当に根深く深刻なものだからです。

奇跡といえるようなことについて、私たちは、実現可能性に程度があると思います。

人間はどんなことをしたって空を飛ぶことができないけれど、マラソンの世界記録が10分短縮されることであれば、奇跡的ではあるものの、超人的な選手が登場したら実現できそうな気はします。
オリンピックに出て優勝することは不可能でも、県大会で優勝することならまだ実現しそうに感じます。

このように、この世界の出来事には、普通に考えて難易度があるとしか思えません。
だから、幻想だと言われても、幻想と信じられることと信じ難いことがあるようにしか思えません。

映画の中の出来事であったり、宇宙のどこか、あるいは地球の裏側での出来事として聞いたときには、比較的、突飛なことであっても、その出来事の幻想性を理解することはまだ可能です。

しかし、自分の身近な出来事になればなるほど、リアリティに圧倒されて、それが幻想だとは到底思えなくなります。

また、時間的に離れている出来事ほど、まだ幻想性を理解しやすくても、直近の出来事となると、幻想とは思いにくくなります。

歴史的に数千年前や数百年前の出来事に比べると数カ月先の出来事が幻想とは思えません。

コースは、個々の心の信念の力は創造の力でもあり極めて強力なものであって、誤って創造すると、その個人にとっての現実を作り出してしまうといいます。

その意味では、時間の知覚に関する異常や能力のある人であれば、望めば今すぐに、社会的に客観的にあったとされる歴史とは違う経過をたどっている今へと移行することもあり得ることになります。

ただし、この誤創造する力は、その人だけが持っているわけではなく、私たち個別の心みんなが備えています。
ですから、私たちは、誤創造によって空想を自分にとっての現実にすることはできますが、他の魂にとっての現実にすることはできません。

ただし、個人としては妄想に過ぎないことでも、そう信じる人が多ければ、それが真実味を持つことになります。

アレックス・マーチャンドさんの本で出てくるのですが、「真理のヒエラルヒー」として、ある信念についてそれを信じる人が、一人しか信じていなければ、その信念は妄想と呼ばれ、小さな集団が信じているとカルトと呼ばれ、ある程度の大規模な人々の信念になると宗教、哲学、文化と呼ばれ、特定の地域全体の信念になると政府と呼ばれ、ほとんど人類みんなが信じる常識になると、真理と呼ばれるようになるという話が出てきます。

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現に、この世界においても、過去の歴史の改ざん(修正?)はよくあることです。

足利尊氏の肖像画とされていたものが、疑わしいとされるようになったという程度のことから、第二次大戦中の日本軍の行為まで、いろんな解釈がありますが、信じる人の数が多いことが歴史的真実となります。

徳川家康が天下を取らなかった日本だって、今後時代が進んで専制国家となって、鎖国状態となり、国家の御用学者がお墨付を与えて、幼いころからの洗脳教育をして数世代を経れば、全国民が信じる真実であり常識となることだってあり得ます。


ただし、これは時間の中に居て、時間を経た場合の話であって、今すぐにDVDを切り替えてということではありません。

時間知覚の異常等によって、そのような幻想を体験する場合や、SF作家等が想像の中で異世界を垣間見ることとしてはあり得ても、いくら望んだところで、今すぐ目の前の現実が別の歴史の世界に変わるということはないということになります。

超能力等によって以外で、時間を超越できるとすれば、贖罪を完了して自分が大いなる自己であることを「知る」ことができた場合でしょうが、その時点ではエゴの仮面を付けた個別の自己は居なくなっているはずであり、ある魂が「この世」で生きている人生の歴史設定とは違う別の世界へと瞬時に移行させることなど関知しないことでしょう。

この無関心は、神がこの世界のことなど与り知らない、知ったことではないという風にコースがいうのと同じことです。




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