There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

奇跡ってなに?

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今回は、ワークブックパート2から、「奇跡とは何か」をご紹介します。






奇跡の原理が参考になると思います(できれば、奇跡の原理は何度も何度も読み返していただきたいものです)。


私たちは、通常、常識では起こりえないできごと、人の力や自然法則を超越するできごとが起こることを指して「奇跡」と呼びます。

奇跡のコースでいう「奇跡」も、当然、この常識的な意味を踏まえており、世間で言う奇跡とは違うものとして捉えるわけではありません。

当然、イエスが水の上を歩いたとか、病人を癒し、死者をよみがえらせたとか、自らが復活したことだとかといった奇跡として捉えられているエピソードも含めての奇跡です。

ただし、世界の常識からは奇跡であっても、奇跡のコースの側からすると、超常現象でも魔法でもなんでもない当然のできごとという位置づけになります。

なにせ、時間と空間のあるこの世界が実在すると思い込んで、しかも、たくさんに分裂した私たちがいると思い込んでいる「常識」のほうこそが、ありえない狂気の幻想であり、魔術の幻惑だというのですから、発想が逆転します。

魔法の世界で自分勝手に作り上げたルールで縛ることによって不可能としているだけのことを、本来の姿に修正して解き放つだけのことであっても、魔術に惑わされている人たちにとっては、理解の及ばない常識ではありえない超常現象だということになります。


このようなありえない幻の世界を歪んだ知覚によって、存在すると誤信しているわけなので、知覚を修正して正しい知覚をすることによって、癒しが起こり、贖罪がなされることになります。

その知覚の修正の過程をこの世界の観点から見ると、奇跡が起こったように見えるということになります。

ですので、奇跡を神聖視する必要はないし、むしろ奇跡をありがたがる心の状態は、miracle-mindedness(奇跡を志向する心の状態)とはいえないということになります。

むしろ、奇跡を特別視するのではなく、この世界で常識とされていることについて、奇異に感じられる観点のほうが大切なのかもしれません。

アラン・ワッツ先生の本でも、多くの人は空想上の動物や怪物には驚嘆するが、この世界にいる動物や物事に対して感嘆することこそ得がたい観点だという趣旨のことを述べられていました。

私たちはこの世界の常識に洗脳され、いったい何が本当で何が幻なのか、自分が本当は誰なのかわからなくなってしまっているということなのでしょう。

私たちは、この世界に小さな自己として参加した当初は、この世界の物事のすべてに驚嘆する感覚を備えていたのに、時間をかけた世界からの教育によって、この世界の押しつける常識を当然のこととして、自分の中に組み込んできました。

逆に、この時間をかけて組み込まれたエゴの思考システムを解除するのが奇跡のコースのカリキュラムの狙いなわけですが、聖霊は時間を学びを促進させる道具として使うことができます。

世界の常識を時間をかけて自分に信じ込ませたように、時間を味方にして、こびりついた常識を取り除いていくことができます。

もちろん、時間は幻想であり、今、この瞬間に即座にエゴの思考システムの解体が起こることはありうるわけですが、単に気づきの情報を得ることが自動的に気づきをもたらすわけではないことは、マトリックスでネオがジャンププログラムで落っこち、自分の固定観念を落としていく作業が必要だったことからもわかります。

ですので、単純に情報として奇跡のコースを読んだからといって、すぐに知覚の修正がもたらされるとはいえません。

特に、発想として、コースの言っていることを外部の情報として自分の中にインストールするという観点では、知覚の修正は困難でしょう。

自分だと思い込んでいる思考システムを解体するのが目的なのに、その自分の中に、自分を解体するための新たな思考システムを組み込もうとするわけです。


コンピューターで、模擬的に他の機械やOS等で動くソフトウェア等の動作をシミュレートして模倣するエミュレートという概念があります。

このエミュレーターを用いて、最新のゲーム機で、昔のファミコンのゲームを再生したり、マック上でウィンドウズを走らせたりすることができます。

外から真理を取り込んで悟り・覚醒を得ようという発想は、このエミュレートのようなものということができます。

エゴの思考システムは、自分の中に、一部の領域を割いて、新たに真理らしき別の思考システムを組み込んで、あたかもそれが独自に動作しているように見せかけるくらい容易にやってのける巧妙さを持ち合わせているし、私たち自身のマシンパワーは非常に強力なので、実際、このエミュレーションは可能です。

たしかに、奇跡のコースは、エゴの思考システムの取り消しのために、聖霊の思考システムとして、体系化されたプログラムの形にはなっています。

しかし、本当のところは、エゴの思考システムに対応するような形で、聖霊の思考システムというものを新たに作り上げることが目的なのではなく、エゴの思考システムという幻想を解体して取り消すことによって、本来ある自然の姿を露にする、元からある状態を回復するというのが目的なのです。






What is a Miracle ?
奇跡とは何か



1. A miracle is a correction.
 奇跡とは、修正です。

 It does not create, nor really change at all.
 奇跡は、創造することではないし、実際には、何かを変化させるわけではまったくありません。

 It merely looks on devastation, and reminds the mind that what it sees is false.
 奇跡はただ荒廃を見て、心にそれが見ているものが本物ではないと気づかせるだけです。

 It undoes error, but does not attempt to go beyond perception, nor exceed the function of forgiveness.
 奇跡は誤りを取り消します。しかし、知覚することを超えて進もうと試みることも、赦しという役目からはみ出そうともしません。

 Thus it stays within time’s limits.
 こうして、奇跡は、時間の制限の枠内に留まります。

 Yet it paves the way for the return of timelessness and love’s awakening, for fear must slip away under the gentle remedy it gives.
 とはいえ、奇跡は、時間のない永遠を回復し、愛を目覚めさせるための道ならしをします。というのも、奇跡の与える優しい治療の下では、恐れは滑るように消え去ってしまうに違いないからです。





2. A miracle contains the gift of grace, for it is given and received as one.
 奇跡には、恵みの贈り物が含まれています。というのも、奇跡はひとつのものとして与えられ、そして、受け取られるからです。

 And thus it illustrates the law of truth the world does not obey, because it fails entirely to understand its ways.
 こうして、奇跡は、この世界が従ってはいない真理の法則を導入します。なぜなら、この世界には、真理の法則の適用の仕方を理解することがまったくできないからです。

 A miracle inverts perception which was upside-down before, and thus it ends the strange distortions that were manifest.
 奇跡は、以前には、上下が逆転していた知覚をひっくり返します。そうして、奇跡は、それまで発現していた異常な歪曲を終わらせます。

 Now is perception open to the truth.
 今や、知覚は真理に対して開かれることになります。

 Now is forgiveness seen as justified.
 今や、赦しは正当なものとして見られるようになります。




3. Forgiveness is the home of miracles.
 赦しが、奇跡を生み出します。

 The eyes of Christ deliver them to all they look upon in mercy and in love.
 キリストの目は、思いやりと愛を込めて見るものすべてに奇跡をもたらします。

 Perception stands corrected in His sight, and what was meant to curse has come to bless.
 キリストの視界の中で、知覚は修正され、呪いとして意図されていたものは、祝福へと変わります。

 Each lily of forgiveness offers all the world the silent miracle of love.
 赦し百合の一本一本が、全世界に、静かな愛の奇跡を差し延べます。

 And each is laid before the Word of God upon the universal altar to Creator and creation, in the Light of perfect purity and endless joy.
 そして、奇跡の百合の一本一本が、完璧な清らかさの光と終わりのない喜びの中で、創造主と創造物に捧げられた普遍的な祭壇の上の神の大いなる言葉の前に供えられます。





4. The miracle is taken first on faith, because to ask for it implies the mind has been made ready to conceive of what it cannot see and does not understand.
 奇跡は、最初は、信頼することで理解されることになります。なぜなら、奇跡を求めることは、その心が自分には見ることができないものや理解もできないものを宿す準備がすでに整っていることを暗に示しているからです。

 Yet faith will bring its witnesses to show that what it rested on is really there.
 しかし、信頼することは、それが依拠するものが本当に存在することを示す証拠をもたらすようになります。

 And thus the miracle will justify your faith in it, and show it rested on a world more real than what you saw before; a world redeemed from what you thought you saw.
 こうして、奇跡は、あなたが奇跡を信頼することの正しさを裏づけるようになります。そして、奇跡は、あなたが以前に見たものよりもずっと本物である世界、自分が見ているとあなたが思い込んでいたものから救われた世界に自らの基盤を置いていることを示します。



5. Miracles fall like drops of healing rain from Heaven on a dry and dusty world, where starved and thirsty creatures came to die.
 奇跡は、飢えて渇きを覚える生き物たちが死ぬために訪れる乾いた埃っぽい世界に、天国から降り注ぐ癒しの雨粒のようなものです。

 Now they have water.
 今や、飢えた者たちは水を得ました。

 Now the world is green.
 今や、その世界は緑に覆われています。

 And everywhere the signs of life spring up, to show that what is born can never die, for what has life has immortality.
 そして、あらゆるところに、生命の印が芽吹き、生まれ出たものは決して死ぬことはありえないということを示してくれます。というのも、生命を持つものは不滅性を備えているからです。



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