M12 キリストの言葉(世界を救うために必要な教師の数)


We are not held back by the love we didn’t receive in the past, but by the love we’re not extending in the present.
私たちが前に進めなくなるのは、私たちが過去に愛してもらえなかったせいでではなく、私たちが今、愛を差し延べていないせいなのです。



Marianne Williamson
マリアン・ウィリアムソン

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If you cannot please everyone with your deeds and your art, please a few.
もし君の行為や君の作品で、君が万人を満足させられないなら、少数の人たちを喜ばせればいい。

To please many is bad.
万人受けするようなものは粗悪なものなのだから。

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Friedrich von Schiller
フリードリヒ・フォン・シラー



If you can't feed a hundred people, feed just one.
もしあなたが百人の人たちに食べさせてあげられないなら、たったひとりに食べさせてあげてください。

Never worry about numbers.
決して数のことは気にしないでください。

Help one person at a time and always start with the person nearest you.
一度にひとりだけ助けることにして、つねに自分に最も近しい人から始めてください。



Mother Teresa
マザー・テレサ

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Today we see more and more that all the suffering in the world has started from the home.
現代、私たちは、これまでにまして、世界のあらゆる苦悩は家庭から始まるということがわかっています。

Today we have no time even to look at each other, to talk to each other, to enjoy each other, and still less to be what our children expect from us, what the husband expects from the wife, what the wife expects from the husband.
今日、私たちは、お互いに話し合ったり、一緒に楽しく過ごすための時間はもちろん、お互いに顔を合わせる時間すらまったく持てなくなっています。そうして、子供たちが私たちから、妻が夫から、夫が妻から、本来なら一緒に過ごすことを望んでもおかしくないはずの時間がどんどん奪われてゆきます。

And so more and more we are out of our homes and less and less in touch with each other.
そうして、どんどん私たちは自分たちの家を空けるようになり、家族はお互いにますます接点を持たなくなってしまうのです。

Maybe in our own family we have somebody who is feeling lonely, who is feeling sick, who is feeling worried.
もしかしたら、私たち自身の家族の中に孤独を感じている人、苦悩している人、不安を感じている人がいるかもしれません。

Are we there?
はたして私たちは、その人のそばに寄り添っているでしょうか。

Let us know the poor in our own families first.
まず何よりも、自分自身の家族の中の貧困を知るように心がけましょう。

We have old people : they are put in institutions and they are never visited; with less and less time even to smile at each other, with less and less time to be together.
私たちの家族には年老いた人たちがいるかもしれません。彼らは施設に入れられて、ほとんど訪問してもらえず、次第に私たちと一緒に過ごす時間がなくなって、私たちと微笑みを交わすことすらなくなっていないでしょうか。

Love begins at home, if we can only make our own homes temples of love.
もし私たちが自分自身のわが家を愛の神殿に変えることができるなら、愛は家から始まるのです。



Mother Teresa
マザー・テレサ



It is more noble to give yourself completely to one individual than to labor diligently for the salvation of the masses.
大衆を救うために懸命に働くことよりも、ひとりの個人のために完全に自分自身を捧げきることのほうがいっそう崇高なことなのだ。



Dag Hammarskjold
ダグ・ハマーショルド



Enjoy the little things, for one day you may look back and realize they were the big things.
ささやかなことを楽しみ喜びなさい。なぜなら、いつの日か、人生を振り返って、ささやかなことこそが大きなことだったのだということが、あなたにもわかるはずだから。



Robert Breault
ロバート・ブロイルト(テノール歌手)



アトレーユは、さらにほかの思い出についてたずねた。母さんがまだ生きていたころのことや、父さんのこと、家でのこと、学校のことや町のことなど、覚えているだけはなした。
三人の騎士はとっくに寝入っていた。バスチアンはなおもはなしつづけた。アトレーユがよりによって日常の細々したことにひどく興味を示すのが、バスチアンにはふしぎだった。けれどもアトレーユがじっと耳を傾けて聞いてくれるからか、日常のごく平凡なことでもしだいにあたりまえとは思えなくなり、そこにこれまでは気がつかなかった秘密が隠されているような気がしてくるのだった。

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」381ページ)

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Your daily life is your temple and your religion.
あなたの日常生活こそが、あなたの神殿であり、そこであなたは神と結ばれるのです。

When you enter into it take with you your all.
あなたは自らの全身全霊をこめて日々の生活に従事すべきなのです。

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Kahlil Gibran
ハリール・ジブラーン





千人の苦しみは、一人の苦しみより、大きな苦しみでしょうか?

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ



The higher we soar the smaller we appear to those who cannot fly.
われわれがより高く飛翔するほど、飛ぶことのできない者たちには、われわれは小さく見えるものだ。



Friedrich Nietzsche, Thus Spoke Zarathustra
ニーチェ

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イェシュアの声に耳を澄ます

もし今の時代にイエス・キリスト(当時の発音に近いものとして「イェシュア」と呼称されることが多いので、そう呼ばせていただいています。イェシュアってなんだか可愛らしくていい響きだと思います)が生きていて、話を聞くことができるチャンスがもらえるなら、アラム語であろうと何語であろうと頑張って一から学んで、直接、生の言葉を受け取りたいと思います。


いかに有能な通訳の人がいたとしてもそうしたいと思わないでしょうか。言葉を理解できるようになるまでの仲立ちの手立てとしてはもちろん通訳を利用しますが、せっかく真理に生で触れる偉大なる機会をみすみすふいにしたくなどありません。絶対にフル活用したいからです。


実は、今の私たちにも、イェシュアの生の声(に近いもの)を聴く、そのチャンスが与えられています。奇跡のコースという書物の形で。

ぜひ、みなさんも原文で直接イェシュアの声に耳を澄ましてみてください。





神の子と人の子

さて、聖書では、イエス・キリストのことを指して、「神の子」と呼ぶこともあれば、「人の子」と呼ぶこともあります。

「人の子」(Son of man)は、福音書でイエス・キリストが自身のことを指す呼称として用いられている言葉で、キリスト教的には、旧約のダニエル書7章13-14節の預言(であると同時に予言でもある)で、
「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
14 彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。 」
と、到来するメシアの称号として「人の子」が用いられており、イエスが自らがそのメシアであることを示す表現として用いた特別な意味を持つ用語で「神の子」と同義と言ってよい言葉です。

この「神の子」と「人の子」という言葉は、奇跡のコースでもよく出てきまます。

本節の次の文章では、人の子と神の子がイコールであるかのような表現も出てきます。

「2. Thus does the son of man become the Son of God.
 こうして、人の子は神の子となります。

 It is not really a change; it is a change of mind.
 それは実際に、何かが変わることではありません。それは心の変化です。」


しかし、奇跡のコースでは、「人の子」という呼称は、原則的に、「神の子」に対置して、この幻想世界で贖罪を果たして神の子としての自覚を取り戻すまで、神の子が自分であると誤信してアイデンティティーを抱く幻想世界内での偽りの自己像、エゴ・身体というアバター、この世界に生きる人間としての私たちを指す用語として用いられています(T13-2 罪のない神の子)。

ですので、コースを読む際に「人の子」という言葉が出てきたら、私たちエゴ・身体のことを指しているものといえます。


人の子=エゴ・身体というアバター

さて、このサイトでは、この人の子、私たち個としての人間のことを、夢見る者である神の子が夢物語の世界を体験するための主人公、アバターと見て、実在する神の子に対して、本来、無である消え去るべき架空の登場人物と位置づけています。

これはある種ショック療法的な効果を意図してのものです。というのも、私たちが神の子よりも人間としての自分にアイデンティティーを抱き、人間としての自分の実在性を確信しており、それが簡単には揺るがないことは言うまでもないことだからです。

とはいえ、コースが私たちに「あなたは神の子である」と語るのは、もちろんその通りの真理であり、アバターである人間になりきっている神の子に対して私たちアバターを介して、私たちの内なる真の自己である「私」(= I AM)に語りかけているのです。



アバターの数の多寡は問題か

さて、本節では、数の問題がテーマとなっています。

このテーマは、人に難題を突き付けます。

人助けを志して医師になったけれど、救っても救っても同じ病で苦しむ患者が絶えないことに絶望して、臨床を離れて基礎医学研究に転向する人、地域の現場での問題解決に壁を感じ、政治家に転身する人等々、目の前の個人から大衆へと観点を切り替えて問題解決を図ろうとするスタンスが近代社会の進化を支える発想でした。

これに対して、マザー・テレサのスタンスは、終始一貫して、目の前の個人、それも最も恵まれない人たちと直接向き合うというものでした。

それだけに、この姿勢は、貧困等の社会問題の根本原因に目を向けずに表面に現れている病理現象に対処するだけの食糧配給所の規模を大きくした活動でしかない、弱者を真に助けるのは魚を与えることではなく、魚の採り方を教えることのはずだ、というような批判もあったようです。

しかし、マザーは揺らぐことなく、目の前の人たちの助けとなることに邁進しました。

私たちは、時代の価値観に毒されて、そもそも魚の採り方を教えることのほうが大切だという価値観が正しいことを疑いません。自分ひとりの力だけで生活することが困難な人は存在する価値がないのでしょうか。そのような人は、自立して生きる人ほどには生きる権利を持たないのでしょうか。そうではないはずです。病いや障害や不遇にあえぐ生き様を通して、ほかの人たちに自他一体の愛が自分たちの本質なのだという大きな気づきを与えるために、弱者の姿で生きることを通して人を助けている魂は劣っているどころか、尊い存在と言うべきです。

ひとりを救っても意味はなく大衆を救わねば意味はない、とか、魚を与えるよりも採り方を教えなければ意味がない、とか、コスパ重視、タイパ重視(笑)とかいう効率重視の発想(スティーブン・R.コヴィー先生が教えてくれているように、人には効果性、モノには効率性があてはまるのであり、人に対して効率をあてはめると人をモノ扱いすることにつながります)の根本には、人間をモノとしてみなす唯物論的な価値観があり、この発想の行き着く先は、優れた命と劣った命があり優れた人間を選別して劣った人間は淘汰すべきとの優生思想です。

さらに、コスパ重視、タイパ重視をとことん突き詰めていけば、そもそも人間として生きているなんていう無駄なことはやめたほうがよっぽどコスパがいいしタイパもすこぶるよい!という狂気の沙汰にたどり着くはずです。

自分も他人もモノではなく人間として尊重する観点を大切にしたいものです。

さて、レッスン63「私の赦しを通じて、世界の光がすべての心に平安をもたらす」のエッセイで、自分が大衆の中に埋もれて自分の相対的重要性が希釈されてしまうように感じる感覚、自己の断片化、細分化による価値減少の錯覚がきわめて強い目くらまし効果を強く発揮する、エゴにとって分離幻想を維持するための強力な武器であるということを述べました。



大規模さの美名や数の目くらましに幻惑されない

この数の目くらましがあればこそ、目の前のひとりの力になれても、同じような事象がほかに生じたときに永遠のモグラたたきをしているような無力感を覚えることが可能となります。

どうしても目の前のひとりだけよりも多くの人を、人類を、世界を、宇宙を救うことのほうが壮大で尊いことのように思えてしまいます。

真理を突いているような感覚を味わえるので、よく「やらない善よりやる偽善」のほうがよほどいいというキャッチフレーズが受けて共感を持たれがちです。

たしかに、この世界かぎりでは、当然ながら、心がこもっていようがいまいが、困っている人のところに施しが行き届くほうがいいに決まっています。

しかし、分離幻想によって、愛の不在が存在するかのような錯覚が生み出され、それが深刻化することで、分裂が細分化を遂げているのだとしたら、細分化したことで増えている数に応じたフォローが必要で、しかも、それができさえすれば、少しも愛がこもっている必要はないという発想は、エゴと身体の実在性を真正面から是認することにしかなりません。

マザーが、私たちには壮大なことはできず、小さなことに大きな愛を込めることが偉大なのだと語るのは、数の幻想に惑わされることなく、影ではなく実在する光である愛にのみ向き合うことの大切さがわかっていたからです。

「やらない善よりやる偽善」への共感は、鋭い洞察のような見せかけを持っているだけで、実は、浅薄な昔ながらの結果主義、規模の大きさだけに価値を見出すさもしい発想といえるかもしれません。

コースを学ぶ私たちも、ともすれば、人類愛であるとか世界の救済というようなたいそうな美名や博愛主義であることに惹かれてしまいがちなこともあるかもしれませんが、そんなものはメサイア・コンプレックスであって、エゴがよだれを流してほしがっているだけだと思ったほうがよいでしょう。

マトリックスでは、メサイア=救世主としてのネオの前任者たちは、人類愛に縛られることでアーキテクトの想定の範囲内で踊らされて、真の救済を成し遂げることはできませんでした。



It is interesting reading your reactions.
君の反応を観察するのは興味深い。

Your five predecessors were by design based on a similar predication, a contingent affirmation that was meant to create a profound attachment to the rest of your species, facilitating the function of the one.
君の5人の前任者たちは、救世主の使命を果たすために、いかに条件が変動しようとも、自の属する種の他の者たちに対する深い愛情を引き起こすよう規定された同一の条件公式に基づいて設計されていた。

While the others experienced this in a very general way, your experience is far more specific. Vis-a-vis, love.
前任者たちは、この愛をきわめて一般的な人類愛という形で体験したのに対して、君の体験はよりはるかに特殊なものだ。それは1対1の愛だ。

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The Architect
アーキテクト


ネオは、博愛ではなく、トリニティに対する一対一の愛、すべての人たちが抱くのと同じ具体性を持った愛に身を捧げることで、結果として機械と人間が和解し、生命に満ちる予感に溢れる新たな世界を生み出しました。



「愛するというのは、ただ単に、一般に愛するなどということではないのだ。」

「バスチアン・バルタザール・ブックス、よく聞くのだぞ。」ヨルはいった。

「わしは多く語るのを好まぬ。沈黙のほうがよい。だが、今は、一度だけおまえにはなす。よいか、おまえは生命の水をさがしておる。おまえの世界にもどるために、愛することができるようになりたいと望んでおる。愛するーーいうのは簡単だ!だが生命の水はおまえにたずねるだろう、だれを?とな。つまり愛するというのは、ただ単に、一般に愛するなどということではないのだ。」

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」より)


一般に愛する、つまり、博愛精神を発揮することは、さして難しいことではありません。

私たち(=エゴ)は美しい理念や大義名分が大好きだし、とくにスピリチュアル方面に関心の向く私たちなんかは、喜んで世のため人のために身を投げ打って自己犠牲を払う尊い博愛に気を引かれてしまうものです。

しかし、血の通った格別の個性や意志を持った生身の存在とひとりも触れ合うこともなく抽象的な人類に対する愛を抱き、崇高な理念に殉ずる自らの尊さに酔いしれるその人は、自分以外の誰かを真に愛していると言えるでしょうか。

もちろんイェシュアが、はてしない物語の女王幼ごころの君と同じように、聖者や賢者や善人だけでなく、悪人も愚者も道化者も含めたすべての存在を自分の分身として愛しているのは言うまでもありません。

そして、一人も残すことなく万人を愛しているというこの事実を言葉で表現すれば、博愛という同じ言葉があてはまるのは確かです。

けれど、愛の対象が遍く存在すべてに向けられているとはいえ、私たちが頭で理念として捉える他者愛の極致としての人類愛などとは違って、イェシュアの愛は究極の自己愛です。

イェシュアの愛は、私たちが家族や友人に向ける愛に劣らないどころかより強く、各人が自分の身体を構成する細胞たちを大切に思い慈しむのと同じくらい深い自分自身に対する愛です。

イェシュアのように他者を自分として愛することができるようになるには、一般的に万人を等しく愛さなければならないという博愛精神を育むのではなく、とことん身近な存在を強く深く愛することを通じてしか気づくことが困難な、他者は実は自分なのだという愛の本質に到達することが必須であるはずです。

名前を持ち温かみを持った自分にとって最も近しい目の前の人を愛することも忘れて、名ばかりの「神の子の救済」、「世界の救済」という大事業に乗り出してしまうことがないように気をつけたいものです。



バートランド・ラッセルのつぎの言葉を肝に銘じましょう。

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Bertrand Russell
バートランド・ラッセル


One of the symptoms of an approaching nervous breakdown is the belief that one's work is terribly important.
自分の仕事はものすごく重要だと信じることは、精神の崩壊が近づいている兆候のひとつだ。



大きなことに憧れるのは、自らの真の壮大さを忘れてエゴの尊大さが増長しているサインです(T9-8 自信喪失と自惚れの行ったり来たりから抜け出すには?)。

日常のごく平凡なことが実は当たり前のことではなく、奇跡なのだと気づくことが、世界という投影先に愛を送るためには欠かせません。

マザーの言うように、自分や誰かが大事業をなして大衆を導いたりしなくても、みんなが自宅をきれいにすれば世界中がきれいになるのであり、家族を大切にすれば世界が平和になります。

マザーの勧めるように、まずは家に帰って家族に優しく愛を届けましょう!







We must know that we have been created for greater things, not just to be a number in the world, not just to go for diplomas and degrees, this work and that work.
私たちは、自分たちが、ただ単に世界の頭数のひとつになるためでもなく、学位や卒業証を取得するためでもなく、この仕事やあの仕事をするためでもなく、より偉大なことのために創造されたのだということを知らなければなりません。

We have been created in order to love and to be loved.
私たちは、愛し愛されるために創造されたのです。

Mother Teresa
マザー・テレサ



大きなことはもうたくさん、小さくおなり 今はまた


もう百年ものながいあいだ
待っていたのよ お客さま。
ここへの道を見つけたのだから、
あなたにちがいはありません。
のどがかわいたでしょう。
おなかがすいたでしょう。
みんな用意ができてますよ。
さがしているものも 欲しいものも、
やすらぎも なぐさめも。
つらいことがいっぱいだったわね。
いい子だったにしろ わるい子だったにしろ、
あるがままでいいのです。
だって あなたは
遠い遠い道をきたのですから。
・・・
さあ 大いなる君、また小さくおなり!
子どもにかえって 入っていらっしゃい!
いつまでも 戸口の外に立っていないで、
待っているお客さまは、あなたなんだから!
みんなみんな あなたのために
ずうっと昔から
用意して 待っていたのよ。
・・・
大きなことはもうたくさん、
小さくおなり 今はまた
おやすみ わたしのいとしい子!

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」526~538ページ)




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Section 12
第12節

How Many Teachers of God Are Needed to Save the World?
世界を救うには、どれだけ多くの神の教師が必要なのか



1. The answer to this question is--one.
 この質問に対する答え、それは、ひとりです。

 One wholly perfect teacher, whose learning is complete, suffices.
 たったひとり、学びを完了したまったく完璧な教師がいれば十分です。

 This one, sanctified and redeemed, becomes the Self Who is the Son of God.
 贖罪を完了し聖なる存在となったこのひとりの教師は、神の子である大いなる自己となります。

 He who was always wholly spirit now no longer sees himself as a body, or even as in a body.
 つねに完全に霊であった彼は、今ではもはや自分自身を身体とみなすことはないし、自らを身体の中にいる存在とみなすことすらありません。

 Therefore he is limitless.
 それゆえ、彼には限界はありません。

 And being limitless, his thoughts are joined with God's forever and ever.
 そして、無限であるがゆえに、彼の思考は神の思考と永遠にこれからもずっと結びついたままです。

 His perception of himself is based upon God's Judgment, not his own.
 彼の自分自身についての知覚は、彼自身の価値判断にではなく、神の裁きに基礎を置いています。

 Thus does he share God's Will, and bring His Thoughts to still deluded minds.
 こうして、彼は神の大いなる意志を共有し、いまだに幻想に惑わされている個々の心たちに神の大いなる思いをもたらします。

 He is forever one, because he is as God created him.
 彼は永遠に一なるものです。なぜなら、彼は神の創造したままの彼だからです。

 He has accepted Christ, and he is saved.
 彼はキリストを受け入れたので、彼は救われているのです。



2. Thus does the son of man become the Son of God.
 こうして、人の子は神の子となります。

 It is not really a change; it is a change of mind.
 それは実際に、何かが変わることではありません。それは心の変化です。

 Nothing external alters, but everything internal now reflects only the Love of God.
 外側のものは何も変わりません。しかし、内側のものはすべて、いまや、ただ神の大いなる愛だけを反映しています。

 God can no longer be feared, for the mind sees no cause for punishment.
 もはや神が恐れられることはありえません。というのは、その心はいかなる処罰の根拠も見てはいないからです。

 God's teachers appear to be many, for that is what is the world's need.
 神の教師たちはたくさんいるように見えます。というのも、それがこの世界に必要なことだからです。

 Yet being joined in one purpose, and one they share with God, how could they be separate from each other?
 しかし、ひとつの目的、それも、彼らが神と分かち合うひとつの目的で結び合わされていているのだとすれば、どうして神の教師たちがお互いから分離した存在でいられるでしょうか。

 What does it matter if they then appear in many forms?
 だから、もし神の教師たちが多様な形で現れるとしても、そんなことの何が問題でしょうか。

 Their minds are one; their joining is complete.
 神の教師たちの心はひとつであり、彼らの結びつきは完璧なものだからです。

 And God works through them now as one, for that is what they are.
 そして神は、いまや一なるものとしての神の教師たちを通じて働きます。というのも、一なるものであることこそ、神の教師たちのありのままの姿だからです。



3. Why is the illusion of many necessary?
 なぜ数多くの教師がいるという幻想が必要となるのでしょうか。

 Only because reality is not understandable to the deluded.
 それはただ、妄想に囚われている者にとって、現実が理解しがたいものだからでしかありません。

 Only very few can hear God's Voice at all, and even they cannot communicate His messages directly through the Spirit which gave them.
 少しでも神の大いなる声を聞くことができる者はきわめてわずかしかないし、その者たちですら、それを自分たちに与えてくれた霊を介して直接他者に神のメッセージを伝えることはできません。

 They need a medium through which communication becomes possible to those who do not realize that they are spirit.
 彼らには、自分が霊であると理解していない者たちに神のメッセージを伝えることを可能にする媒体が必要です。

 A body they can see.
 自分が霊であると理解しない者でも、誰かの身体であれば見ることができます。

 A voice they understand and listen to, without the fear that truth would encounter in them.
 自分が霊であると理解しない者にも、誰かの声であれば、自分が真理に出くわしてしまうと恐れずに、理解し、耳を傾けることができます。

 Do not forget that truth can come only where it is welcomed without fear.
 次のことを忘れないでください。それは、真理は、恐れられずに歓迎してもらえるところにしか訪れることができないということです。

 So do God's teachers need a body, for their unity could not be recognized directly.
 だから、神の教師たちには身体が必要なのです。なぜなら、彼らがひとつに結びついていることがありのまま認識されることはありえないからです。



4. Yet what makes God's teachers is their recognition of the proper purpose of the body.
 しかし、神の教師を神の教師たらしめるのは、彼らが身体の適切な用途を認識していることです。

 As they advance in their profession, they become more and more certain that the body's function is but to let God's Voice speak through it to human ears.
 神の教師たちが自分たちの任務を遂行するにつれ、彼らは、身体の役割は、神の大いなる声が身体を通じて人の耳に語りかけられるようにする点に尽きるとますます確信するようになります。

 And these ears will carry to the mind of the hearer messages that are not of this world, and the mind will understand because of their Source.
 そして、このような人の耳は、この世界からのものではないメッセージを聞き手の心へと運んでくれます。そうすれば、心はそのようなメッセージの大いなる源のゆえに理解するようになります。

 From this understanding will come the recognition, in this new teacher of God, of what the body's purpose really is; the only use there really is for it.
 この理解から、この新たな神の教師の中に、身体の真の目的は何なのか、つまり、身体の唯一の正しい使いみちについての気づきがもたらされます。

 This lesson is enough to let the thought of unity come in, and what is one is recognized as one.
 このレッスンは、ひとつに結びつく思いを招来するために十分なものであり、そして、ひとつであるものは確かにひとつなのだと認識されることになります。

 The teachers of God appear to share the illusion of separation, but because of what they use the body for, they do not believe in the illusion despite appearances.
 神の教師たちは、分離の幻想を共有しているように見えます。しかし、仮にそのように見えたとしても、彼らの身体の用途ゆえに、彼らが分離の幻想を信じていないことは確かなのです。



5. The central lesson is always this; that what you use the body for it will become to you.
 レッスンの核心はいつでも次のようなものです。すなわち、あなたが身体を何のために用いるかが、あなたにとって身体が何であるかを決めるということです。

 Use it for sin or for attack, which is the same as sin, and you will see it as sinful.
 身体を罪や罪と同じものである攻撃のために用いるなら、あなたは身体を罪深いものとみなすようになります。

 Because it is sinful it is weak, and being weak, it suffers and it dies.
 身体が罪深いものとされるがゆえに、身体は脆弱になり、脆弱であるがゆえに、身体は苦しみ、そして、身体は死ぬのです。

 Use it to bring the Word of God to those who have it not, and the body becomes holy.
 神の言葉を得ていない者たちの許へと神の大いなる言葉を届けるために身体を用いるなら、身体は神聖なものになります。

 Because it is holy it cannot be sick, nor can it die.
 身体が神聖であるがゆえに、身体は、病むことも死ぬこともできません。

 When its usefulness is done it is laid by, and that is all.
 身体が役目を終えたらなら、身体は横たえられることになりますが、それだけのことです。

 The mind makes this decision, as it makes all decisions that are responsible for the body's condition.
 身体の状態を左右する原因であるすべての決断をなすのは心なので、心がこの決断を下します。

 Yet the teacher of God does not make this decision alone.
 しかし、神の教師はひとりでこの決断を下すわけではありません。

 To do that would be to give the body another purpose from the one that keeps it holy.
 ひとりでこの決断を下すなら、身体を神聖に保つ目的とは別の目的が身体に与えられることになります。

 God's Voice will tell him when he has fulfilled his role, just as It tells him what his function is.
 神の大いなる声が彼にその役割を告げるのと同じように、彼が自分の役割を果たしたときには、神の大いなる声が彼に告げるでしょう。

 He does not suffer either in going or remaining.
 彼は、去るにしても残るにしても苦しむことはありません。

 Sickness is now impossible to him.
 いまや彼にとって、病むということは不可能だからです。



6. Oneness and sickness cannot coexist.
 一体性と病気は両立できません。

 God's teachers choose to look on dreams a while.
 神の教師たちは、しばらくの間、夢を見ることを選んでいるのです。

 It is a conscious choice.
 それは意識的な選択です。

 For they have learned that all choices are made consciously, with full awareness of their consequences.
 というのも、教師たちは、すべての選択は、自らの選択の結果を完全に自覚して意識的になされるものだと学んだからです。

 The dream says otherwise, but who would put his faith in dreams once they are recognized for what they are?
 夢はそれは違うと言います。しかし、ひとたびそれが夢だと気づいていながら、夢のことを信じ続けようとする者などいるでしょうか。

 Awareness of dreaming is the real function of God's teachers.
 夢見ていることを自覚することこそ、神の教師の真の役割です。

 They watch the dream figures come and go, shift and change, suffer and die.
 教師たちは、夢の登場人物たちが来ては去り、姿を移り変わらせ、苦しんで死ぬさまを見守ります。

 Yet they are not deceived by what they see.
 しかし、教師たちは、自分たちの目にすることによって惑わされることはありません。

 They recognize that to behold a dream figure as sick and separate is no more real than to regard it as healthy and beautiful.
 教師たちには、夢の登場人物のことを病んでいて一人ひとりが離ればなれになっているものと見るのは、夢の登場人物のことを健やかで美しいものと見るのと同じくらい現実離れしたことだとわかっているからです。

 Unity alone is not a thing of dreams.
 ただすべてがひとつに結ばれている一体性だけが夢に属さないものなのです。

 And it is this God's teachers acknowledge as behind the dream, beyond all seeming and yet surely theirs.
 だから、神の教師たちが、すべての見せかけを超越しながらもなお確かに彼らのものであると承認するのは、夢の背後にあるこの一体性だけなのです。








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