There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

T19-2 罪から逃れる途はあるのか?

0   0

今回は、と誤りについてのテキストの一節をご紹介します。





とは、戒律を破ること、法律や道徳といった規範に違反することをいいます。

誤りとは、正しくないこと、間違い、失敗をいいます。

一般的には、誤りは包括的な概念でを包摂する大小関係を認めることができます。

しかし、コースが両者を用いる際には、排斥関係にある対概念として捉える必要があります。



この場合の根本的な相違は、矯正可能性の有無にあります。

は、あらかじめそれをなすことは悪いことであると評価されていることにあてはまることであり、一度犯したが最後、その事実が悪であることは明白であり、確固たるものとして取り返しがききません。

これに対して、誤りは、文字どおり正しくない状態をいうのですから、正しい状態に達していないだけで、修正によって、正しい状態に戻すことが可能です。

そして、この点から、と誤りに対するリアクションは、正反対のものになります。

に対しては、応報ないしは社会防衛(社会一般への威嚇(一般予防)と当該犯者の犯性の減少(特別予防))のための刑罰が必要となります。
を犯した者の内面では、過去の罪に対する後悔、現在においては罪悪感が起こり、将来における処罰を想定して恐怖を生み出します。

誤りに対しては、正しい状態に改善するための修正や教育が必要となります。
誤った者の内面では、過去の誤りに対する反省、現在においては気づきが起こり、将来における正しい状態への修正への期待を生み出します。


わが国の成人の犯罪に対する刑罰と少年の非行に対する保護処分の考え方と対比するとわかりやすいです。

成人は、すでに成熟して、新たに物事を物事の是非を判断する能力を備えているべきところ、罪を犯すことによって、それが不十分であることを窺わせており、被害者や社会の応報感情を鎮め、再犯を予防するうえでは、そもそも、成人して頭が固くなっているので、教育による改善はあまり期待できないので、社会に対する警告としても厳罰をもって臨むべきというわけです。

これに対して、少年には成長の過程で誤りを柔軟に修正していく可能性(可塑性)があり、しっかり教育をすれば更正させることができるので、罪を悪んで人を悪まずの発想で、応報感情には一歩引いてもらうことができるというわけです。

成人と少年の扱いの違いは、主体となる人の可塑性の有無ということですが、コースは、当然、成人でも少年でも関係なく、罪はなく誤りがありうるだけだといいます。

「誰」が罪や誤りを犯したのかという観点がありません。

罪や誤りの犯人を探すなら、それはエゴということになるでしょう。

そうではなくて、罪と誤りのどちらが本当にあるものなのかという観点です。

そして、現実とは何かということがこれを決めることになります。

この世界が、分離した人々が生存競争を繰り広げる現実だとすれば、罪があるということを否定するのは困難です。

故意に人の命を奪った者が、しっかり反省して更生しました!なんて言ってのほほんと悪びれもせずに社会復帰している様を温かく見守ることのできる遺族はいないでしょう。

とはいえ、仮にこの世界での贖罪の発想に従って、起こした害悪に同等の害悪をぶつけて打ち消してバランスをとるという趣旨で、に対してをもって報いたとしても、亡くなった人が生き返るわけではありません(少なくとも社会が好ましくないとする異分子を社会から排除する効果はあるとしても)。

この世界が現実ではなく幻想で、しかも、その幻想の中で分離しているように見えている人々は仮面をつけた操り人形でしかなく、本当はたったひとりの神の子が壮大なひとり芝居をしているだけだとしたらどうでしょうか?

罪によって損なわれたように見えた者も自分、罪の報いとして罰せられるのも自分ということになります。

そして、罪の報いとして罰せられたと溜飲を下げている人々の影では、その罪人の家族が人知れず涙を流しており、その人たちもみんな自分です。

でも、罪があり、罰することが当然という発想でいる限りは、とうてい、みんなが自分だということに気づくことはできるはずもなく、むしろ、どんどん自他の分離感は深まるばかりでしょう。

もちろん、当の被害者にこの世界は幻想なんだから云々なんて説明をすることは、救いになるどころか、混乱の度を増すことにしかならないでしょう。

実際に、罪とされる出来事に関わる人は、加害者の側であれ被害者の側であれ、重大な試練に直面することになるということは確かです。

罪を他人事として生きることができている人にとっては、頭で理解することは比較的容易にできるかもしれませんが、罪とされる出来事に関わったうえで、罪はないのかもしれない、誤りとして修正できるのかもしれないという理解に到達しようとする人は、より深く、この世界の幻想性を見抜き、コースの言わんとするところを会得できるのかもしれません。





テキスト 第十九章 

II. Sin versus Error  
二 罪 対 誤り


1. It is essential that error be not confused with sin, and it is this distinction that makes salvation possible.
 誤りを罪と混同しないようにすることはきわめて重要です。そして、この区別こそが救済を可能にします。

 For error can be corrected, and the wrong made right.
 というのも、誤りは修正できるし、間違いは正すことができるからです。

 But sin, were it possible, would be irreversible.
 しかし、罪というものは、もしそれがありうるとすれば、取り返しがつかないものです。

 The belief in sin is necessarily based on the firm conviction that minds, not bodies, can attack.
 罪を信じることは必然的に、攻撃できるのは身体ではなくて心だという強固な確信に基づいています。

 And thus the mind is guilty, and will forever so remain unless a mind not part of it can give it absolution.
 かくして、心は有罪ということになり、その心の一部分ではない別の心がその心に免罪を与えてくれないかぎり、永遠に有罪のままであり続けます。

 Sin calls for punishment as error for correction, and the belief that punishment is correction is clearly insane.
 誤りが修正を要求するのに対して、罪は処罰を要求します。そして、罰することが修正することになると信じるのは明らかに狂気の沙汰です。





2. Sin is not an error, for sin entails an arrogance which the idea of error lacks.
 罪は誤りではありません。というのも、罪には誤った想念には欠けている傲慢さが必然的に伴っているからです。

 To sin would be to violate reality, and to succeed.
 罪を犯すということは現実を侵犯しようとして、それに成功するということです。

 Sin is the proclamation that attack is real and guilt is justified.
 罪とは、攻撃は本当のことであり、有罪とすることが正当化されると宣言することです。

 It assumes the Son of God is guilty, and has thus succeeded in losing his innocence and making himself what God created not.
 罪は、神の子を有罪だと決めつけ、そうすることで、神の子の潔白さを失わせることに成功し、神の子を神が創造したものではない別のものに作り替えてしまったとみなすことです。

 Thus is creation seen as not eternal, and the Will of God open to opposition and defeat.
 こうして創造されたものは永遠ならざるものとみなされます。そうして、神の大いなる意志は、対立するものや挫折にさらされることになりました。

 Sin is the grand illusion underlying all the ego's grandiosity.
 罪は、エゴの尊大さのすべての根底に潜む誇大妄想です。

 For by it God himself is changed, and rendered incomplete.
 というのは、その幻想によって神自身が変えられ、不完全な存在とされてしまったわけだからです。


名称未設定


3. The Son of God can be mistaken; he can deceive himself; he can even turn the power of his mind against himself.
 神の子は間違えることが可能です。彼には、思い違いをしたり、自らの心の力を自分自身に不利に用いることすらできます。

 But he cannot sin.
 しかし、神の子には罪を犯すことはできません。

 There is nothing he can do that would really change his reality in any way, nor make him really guilty.
 神の子には、自分の真実の姿をどのようにも本当に変えてしまうようなことは何もできないし、自分を本当に有罪にすることもできはしません。

 That is what sin would do, for such is its purpose.
 神の子の本来の姿を罪深いものに変えることは罪がしようとすることです。というのも、罪はそのようにすることを目的とするものだからです。

 Yet for all the wild insanity inherent in the whole idea of sin, it is impossible.
 しかし、罪という想念全体に本来的に備わっている手に負えないような狂気をすべて結集しても、神の子を本当に変えて有罪にすることは不可能です。

 For the wages of sin is death, and how can the immortal die?
 というのは、罪の報いが確かにであるとしても、不滅の存在がんだりできるはずがないからです。





4. A major tenet in the ego's insane religion is that sin is not error but truth, and it is innocence that would deceive.
 エゴの狂気の信仰の主な教義は、罪は誤りではなくて真実であり、潔白さのほうこそ欺こうとするものだというものです。

 Purity is seen as arrogance, and the acceptance of the self as sinful is perceived as holiness.
 清らかであることは傲慢だとみなされ、自分を罪深い者として受け入れることこそが神聖なことだとみなされます。

 And it is this doctrine that replaces the reality of the Son of God as his Father created him, and willed that he be forever.
 そして、こんな教義が、大いなる父が創造し、永遠にそうあるようにと意図した神の子の真実の姿に取って代ります。

 Is this humility?
 こんなことが謙虚さといえるでしょうか。

 Or is it, rather, an attempt to wrest creation away from truth, and keep it separate?
 これはむしろ、創造されたものを真理から奪い去って、分離したままにさせておこうとする試みというべきではないでしょうか。


名称未設定


5. Any attempt to reinterpret sin as error is always indefensible to the ego.
 罪を誤りだと解釈し直そうとする試みはどれも、エゴにとってはつねに弁護のしようのないものです。

 The idea of sin is wholly sacrosanct to its thought system, and quite unapproachable except with reverence and awe.
 罪という概念は、エゴの思考システムにとっては全面的に神聖不可侵なるものであり、崇拝と畏敬の念なくしてはきわめて近づきがたいものです。

 It is the most "holy" concept in the ego's system; lovely and powerful, wholly true, and necessarily protected with every defense at its disposal.
 罪という概念は、エゴの思考システムの中で最も「神聖」な概念であり、素晴らしくて強力なうえに完全な真実であって、エゴが講じうるあらゆる防衛手段を動員してでも守られる必要があるとされるものです。

 For here lies its "best" defense, which all the others serve.
 というのも、罪という概念こそ、エゴの「最高」の防御であり、他の防衛手段はみなこの概念に奉仕するものだからです。

 Here is its armor, its protection, and the fundamental purpose of the special relationship in its interpretation.
 罪という概念こそが、エゴの甲冑であり、エゴの守護者であり、そして、エゴの解釈する形で特別な関係を結ぶ根本的な目的です。





6. It can indeed be said the ego made its world on sin.
 エゴは確かに自らの世界を罪の上に築き上げたといえます。

 Only in such a world could everything be upside down.
 罪の上に築かれた世界においてのみ、すべてのものが逆さまになりえます。

 This is the strange illusion that makes the clouds of guilt seem heavy and impenetrable.
 罪の世界は、重厚な罪悪感の暗雲で見通しが利かないように思わせる奇妙な幻想です。

 The solidness that this world's foundation seems to have is found in this.
 この世界が堅固な土台を持っているように思える理由はここにあります。

 For sin has changed creation from an idea of God to an ideal the ego wants; a world it rules, made up of bodies, mindless and capable of complete corruption and decay.
 これは罪が、創造されたものを神の想念からエゴの望む理想像に変えてしまったからです。エゴが望む理想像とは、心を持たない完全に堕落し腐敗することの可能な数々の身体で成り立つ、エゴが支配する世界です。

 If this is a mistake, it can be undone easily by truth.
 もしこれが間違いなら、その間違いは真理によってたやすく取り消すことができます。

 Any mistake can be corrected, if truth be left to judge it.
 もしその間違った価値判断が真理に委ねられるなら、どのような間違いであっても、すべての間違いは修正してもらえます。

 But if the mistake is given the status of truth, to what can it be brought?
 しかし、もし間違いに真理の地位が与えられたなら、間違いを修正するために、いったいどこに間違いを持って行けばよいというのでしょうか。

 The "holiness" of sin is kept in place by just this strange device.
 罪の「神聖さ」は、まさに罪に真理の地位を与えて罪を現実のものとするという異様な仕組みでもって、その地位が維持されているのです。

 As truth it is inviolate, and everything is brought to it for judgment.
 真理とされるなら、罪は不可侵のものとなり、すべてのものが真理である罪の下に裁きを受けるためにもたらされることになります。

 As a mistake, it must be brought to truth.
 間違いとされるなら、罪のほうが真理の下にもたらされるべきということになります。

 It is impossible to have faith in sin, for sin is faithlessness.
 罪を信頼することは不可能なことです。なぜなら、罪とは信頼の欠如のことだからです。

 Yet it is possible to have faith that a mistake can be corrected.
 しかし、間違いが修正されうると信頼することは可能なことです。


名称未設定


7. There is no stone in all the ego's embattled citadel that is more heavily defended than the idea that sin is real; the natural expression of what the Son of God has made himself to be, and what he is.
 エゴが布陣したすべての要塞の中でも、罪が本物であるという想念ほど厳重に擁護されている礎石はほかにありません。罪が実在するという想念は、神の子が自分を罪深い存在とみなし、現に有罪であることの当然の表現だというのです。

 To the ego, this is no mistake.
 エゴにとっては、神の子が罪深く有罪であることは、まったく間違いではありません。

 For this is its reality; this is the "truth" from which escape will always be impossible.
 というのも、神の子が有罪であることこそ、エゴにとっての現実であり、決して逃れることができない「真理」だからです。

 This is his past, his present and his future.
 有罪であることが、神の子の過去であり、現在であり、未来だというのです。

 For he has somehow managed to corrupt his Father, and change His Mind completely.
 というのも、神の子は、自らの大いなる父をどういうわけか堕落させることに成功して、神の大いなる心を完全に変えさせてしまったからだというのです。

 Mourn, then, the death of God, Whom sin has killed!
 そうだとすれば、罪に殺された神のを悼むがよいでしょう。

 And this would be the ego's wish, which in its madness it believes it has accomplished.
 この罪による神のこそがエゴの願望であり、エゴは狂気のあまり自分が神の殺害をやってのけたものと信じています。





8. Would you not rather that all this be nothing more than a mistake, entirely correctable, and so easily escaped from that its whole correction is like walking through a mist into the sun?
 あなたはむしろ、神の子が罪深いものであるなどということはすべて単なる間違いであって、完全に修正可能であってほしいとは思わないでしょうか。そして、そんな間違いからは、あまりに容易に逃れられるので、その修正のプロセスの全体が、まるで霧の中を通り抜けて日差しの中に向けて歩むようなものであってほしいとは思わないでしょうか。

 For that is all it is.
 というのも、実際に修正とはただそれだけのことだからです。

 Perhaps you would be tempted to agree with the ego that it is far better to be sinful than mistaken.
 もしかしたら、あなたは間違っているよりも罪深いほうがよほどいいといってエゴに同意したいという誘惑に駆られるかもしれません。

 Yet think you carefully before you allow yourself to make this choice.
 しかし、自分がそんな選択を下してしまう前に、じっくり考えてみてください。

 Approach it not lightly, for it is the choice of hell or Heaven.
 罪と誤りの間の選択に軽々しく取り組んではなりません。なぜなら、これこそ地獄と天国のどちらを選ぶかの選択だからです。


名称未設定

いつも読んでいただき、ありがとうございます!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ ACIMへ
ポチリよろしく!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村


ポチッとお願いします!

2air_rankクリックお願いします
関連記事

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

trackbackURL:http://thereisnospoon.jp/tb.php/297-1a35fe4d
該当の記事は見つかりませんでした。