T19-2 罪から逃れる途はあるのか?


Hate the sin, love the sinner.
罪を憎み、罪人を愛せよ。

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Mahatma Gandhi
マハトマ・ガンジー

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The word sin means loveless perception.
罪という言葉は、愛のない知覚を意味します。

It is an archery term.
それは弓道の用語です。

It means “you missed the mark.”
それが意味するのは「的を外した」ということです。



Marianne Williamson A Return to Love
マリアン・ウィリアムソン(「愛への帰還」61ページ)

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あなたがこの世で教えられてきた「罪」という概念、一方的に与えられた「原罪」というものは、一切存在しません。ただここには、的外れな行為があるだけなのです。あらゆる的外れな行為、これを罪と定義して見てください。的外れな行為は、法則に準じてあなた自身にその結果を返すものであり、これは「神による罰」や「原罪」によるものでは、決してないのです。ここには、ただ原因と結果の法則が存在するだけなのです。

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イエス・キリスト(記述者匿名「あなたの内なるキリスト意識 キリスト意識の覚醒による神との境界の消滅について」10ページ)

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罪と誤りの関係性

今回は、罪と誤りについてのテキストの一節をご紹介します。


罪とは、戒律を破ること、法律や道徳といった規範(判断・評価・行為などの依るべき規則・規準)に違反することをいいます。

誤りとは、正しくないこと、間違い、失敗をいいます。

一般的には、誤りは罪よりも包括的な概念で、罪を包摂する大小関係を認めることができます。

しかし、コースが両者を用いる際には、誤りと罪は相互に相容れない排斥関係にある対概念として捉える必要があります。






矯正可能性の有無

両者の根本的な相違は、矯正可能性の有無にあります。


罪は、あらかじめそれをなすことは悪いことであると評価されている枠にあてはまることであり、一度犯したが最後、その事実が悪であることは明白であり、確固たるものとして取り返しがききません。

これに対して、誤りは、文字どおり正しくない状態をいうのですから、正しい状態に達していないだけで、修正によって、正しい状態に戻すことが可能です。

そして、この点から、罪と誤りに対するリアクションは、正反対のものになります。


罪と誤りそれぞれに相応するリアクション

罪に対しては、応報ないしは社会防衛(社会一般への威嚇(一般予防)と当該犯罪者の犯罪性の減少(特別予防))のための刑罰が必要となります。
罪を犯した者の内面では、過去の罪に対する後悔、現在においては罪悪感が起こり、将来における処罰を想定して恐怖を生み出します。

誤りに対しては、正しい状態に改善するための修正や教育が必要となります。
誤った者の内面では、過去の誤りに対する反省、現在においては気づきが起こり、将来における正しい状態への修正への期待を生み出します。


罪を犯した犯人は誰かではなく、罪は本当にあるのか

わが国の成人の犯罪に対する刑罰と少年の非行に対する保護処分の考え方と対比するとわかりやすいです。

成人は、すでに成熟して、新たに物事を物事の是非を判断する能力を備えているべきところ、罪を犯すことによって、それが不十分であることを窺わせており、被害者や社会の応報感情を鎮め、再犯を予防するうえでは、そもそも、成人して頭が固くなっているので、教育による改善はあまり期待できないので、社会に対する警告としても厳罰をもって臨むべきというわけです。

これに対して、少年には成長の過程で誤りを柔軟に修正していく可能性(可塑性)があり、しっかり教育をすれば更正させることができるので、罪を悪んで人を悪まずの発想で、応報感情には一歩引いてもらうことができるというわけです。

成人と少年の扱いの違いは、主体となる人の可塑性の有無ということですが、コースは、当然、成人でも少年でも関係なく、罪はなく誤りがありうるだけだといいます。

「誰」が罪や誤りを犯したのかという観点がありません。

罪や誤りの犯人を探すなら、それはエゴということになるでしょう。

そうではなくて、罪と誤りのどちらが本当にあるものなのかという観点です。


世界は現実か幻想かによって罪の実在性は決まる

そして、現実とは何かということがこれを決めることになります。

この世界が、分離した人々が生存競争を繰り広げる現実だとすれば、罪があるということを否定するのは困難です。

故意に人の命を奪った犯人が、しっかり反省して更生しました!なんて言ってのほほんと悪びれもせずに社会復帰しているさまを温かく見守ることのできる遺族はいないでしょう。





とはいえ、仮にこの世界での贖罪の発想に従って、起こした害悪に同等の害悪をぶつけて打ち消してバランスをとるという趣旨で、死に対して死をもって報いたとしても、(少なくとも社会が好ましくないとする異分子を社会から排除する効果はあるとしても)亡くなった人が生き返るわけではありません。

この世界が現実ではなく幻想で、しかも、その幻想の中で分離しているように見えている人々は仮面をつけた操り人形でしかなく、本当はたったひとりの神の子が壮大なひとり芝居をしているだけだとしたらどうでしょうか?

罪によって損なわれたように見えた者も自分、罪の報いとして罰せられるのも自分ということになります。

そして、罪の報いとして罰せられたと溜飲を下げている人々の影では、その罪人の家族が人知れず涙を流しており、その人たちもみんな自分です。

でも、罪があり、罰することが当然という発想でいるかぎりは、とうてい、みんなが自分だということに気づくことはできるはずもなく、むしろ、どんどん自他の分離感は深まるばかりでしょう。

もちろん、当の被害者にこの世界は幻想なんだから云々なんて説明をすることは、救いになるどころか、混乱の度を増すことにしかならないでしょう。

実際に、罪とされる出来事に関わる人は、加害者の側であれ被害者の側であれ、重大な試練に直面することになるということは確かです。

罪を他人事として生きることができている人にとっては、頭で理解することは比較的容易にできるかもしれませんが、罪とされる出来事に関わったうえで、罪はないのかもしれない、誤りとして修正できるのかもしれないという理解に到達しようとする人は、より深く、この世界の幻想性を見抜き、コースの言わんとするところを会得できるのかもしれません。



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テキスト 第十九章 

II. Sin versus Error  
二 罪 対 誤り



1. It is essential that error be not confused with sin, and it is this distinction that makes salvation possible.
 誤りを罪と混同しないことが絶対に必要です。そして、救済を可能にするのはこの区別です。

 For error can be corrected, and the wrong made right.
 というのも、誤りは修正できるし、間違いは正すことができるからです。

 But sin, were it possible, would be irreversible.
 しかし、罪というものは、もしそれがありうるとすれば、取り返しがつかないものです。

 The belief in sin is necessarily based on the firm conviction that minds, not bodies, can attack.
 罪を信じることは必ず、身体ではなく心が攻撃できるという強固な確信に基づいています。

 And thus the mind is guilty, and will forever so remain unless a mind not part of it can give it absolution.
 かくして、特定の心は有罪となり、その心とは関わりのない別の心がその心に免罪を与えてくれないかぎり、永遠に有罪のままであり続けます。

 Sin calls for punishment as error for correction, and the belief that punishment is correction is clearly insane.
 誤りには修正が必要になるのに対して、罪には処罰が必要になりますが、処罰することが修正になると信じるのは明らかに狂気の沙汰です。



2. Sin is not an error, for sin entails an arrogance which the idea of error lacks.
 罪は誤りではありません。というのも、罪には、誤りという観念には欠けている傲慢さが必然的に伴っているからです。

 To sin would be to violate reality, and to succeed.
 罪を犯すことは、現実を侵犯しようとして、それに成功することです。

 Sin is the proclamation that attack is real and guilt is justified.
 罪とは、攻撃は現実であり、罪悪感を抱くのは当然だと宣言することです。

 It assumes the Son of God is guilty, and has thus succeeded in losing his innocence and making himself what God created not.
 罪は、神の子を有罪だと決めつけ、そうすることで、神の子の潔白さを失わせて、神の子を神が創造したものではない別のものに作り変えることに成功したとみなすことです。

 Thus is creation seen as not eternal, and the Will of God open to opposition and defeat.
 こうして、創造されたものは永遠ならざるものとみなされ、神の大いなる意志は対立や挫折にさらされることになりました。

 Sin is the grand illusion underlying all the ego's grandiosity.
 罪は、エゴの尊大さのすべての根底に潜む最大の幻想です。

 For by it God himself is changed, and rendered incomplete.
 というのは、罪という幻想によって神自身が変えられ、不完全な存在とされてしまったわけだからです。

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3. The Son of God can be mistaken; he can deceive himself; he can even turn the power of his mind against himself.
 神の子は間違うことができます。神の子は、思い違いをしたり、自らの心の力を自分自身に不利に用いることすらできます。

 But he cannot sin.
 それでも、神の子には罪を犯すことだけはできません。

 There is nothing he can do that would really change his reality in any way, nor make him really guilty.
 神の子には、本当の自分を少しでも真に変えてしまうようなことは何もできないし、自分を真に有罪にすることもできません。

 That is what sin would do, for such is its purpose.
 神の子の本質を罪深いものに変えることは罪がしようとすることです。というのも、そうすることこそ罪の目的だからです。

 Yet for all the wild insanity inherent in the whole idea of sin, it is impossible.
 しかし、罪という想念全体に本来的に備わっている突拍子もない狂気のすべてを結集しても、神の子を有罪にするのは不可能です。

 For the wages of sin is death, and how can the immortal die?
 というのは、罪の報いが死であるとしても、不滅の存在が死ねるはずがないからです。



4. A major tenet in the ego's insane religion is that sin is not error but truth, and it is innocence that would deceive.
 エゴの狂気の信仰の根本教義は、罪は誤りではなくて真理であり、潔白さのほうこそ欺瞞だというものです。

 Purity is seen as arrogance, and the acceptance of the self as sinful is perceived as holiness.
 清廉であるなど傲慢だとみなされ、自分を罪深い者として受け入れるほうが神聖なことだとみなされます。

 And it is this doctrine that replaces the reality of the Son of God as his Father created him, and willed that he be forever.
 そして、こんな教義が、大いなる父が創造し、永遠にそうあるようにと意図した神の子の真実の姿に取って代ります。

 Is this humility?
 こんなことが謙虚さでしょうか。

 Or is it, rather, an attempt to wrest creation away from truth, and keep it separate?
 これはむしろ、創造されたものを真理から奪い去って、分離したままにさせておこうと試みることではないでしょうか。

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5. Any attempt to reinterpret sin as error is always indefensible to the ego.
 罪を誤りだと解釈し直そうとどんなに試みたとところで、エゴにはまったく通じません。

 The idea of sin is wholly sacrosanct to its thought system, and quite unapproachable except with reverence and awe.
 罪という概念は、エゴの思考システムにとっては全面的に神聖不可侵なるものであり、崇拝と畏敬の念なくしてはきわめて近寄りがたいものだからです。

 It is the most "holy" concept in the ego's system; lovely and powerful, wholly true, and necessarily protected with every defense at its disposal.
 罪という概念は、エゴの思考システムの中で最も「神聖」な概念であり、素晴らしくて強力なうえに完全な真実であって、エゴが講じうる防衛手段を総動員してでも守られるべきものです。

 For here lies its "best" defense, which all the others serve.
 というのも、罪という概念こそ、エゴの「最高」の防衛体制であり、ほかの防衛手段はみなこの概念に奉仕するものだからです。

 Here is its armor, its protection, and the fundamental purpose of the special relationship in its interpretation.
 罪という概念こそが、エゴの甲冑であり、エゴの守護者であり、そして、エゴの解釈する形で特別な関係を結ぶ根本的な目的です。



6. It can indeed be said the ego made its world on sin.
 エゴはまさしく自らの世界を罪の上に築き上げたと言ってよいでしょう。

 Only in such a world could everything be upside down.
 というのも、罪の上に築かれた世界の中でしか、すべてのものを逆さまに転倒させることはできないからです。

 This is the strange illusion that makes the clouds of guilt seem heavy and impenetrable.
 罪の世界は、重厚な罪悪感の暗雲で見通しが利かないように思わせる奇妙な幻想です。

 The solidness that this world's foundation seems to have is found in this.
 この世界が堅固な土台を持っているように思える理由はここにあります。

 For sin has changed creation from an idea of God to an ideal the ego wants; a world it rules, made up of bodies, mindless and capable of complete corruption and decay.
 これは罪が、創造物を神の想念からエゴの望む理想像に変えてしまったからです。エゴが望む理想像とは、心を持たない完全に堕落し腐敗することの可能な無数の身体で成り立つ、エゴが支配する世界です。

 If this is a mistake, it can be undone easily by truth.
 もしこれが間違いなら、その間違いは真理によって容易に取り消すことができます。

 Any mistake can be corrected, if truth be left to judge it.
 もしその間違った価値判断が真理に委ねられるなら、どのような間違いでも修正してもらえます。

 But if the mistake is given the status of truth, to what can it be brought?
 しかし、もしひとたび間違いに真理としての権威が与えられたなら、間違いを修正するために、いったいどこに間違いを持って行けばよいのでしょうか。

 The "holiness" of sin is kept in place by just this strange device.
 罪の「神聖さ」は、まさに間違いに真理の地位を与えて罪を現実のものとするという異様な仕組みでもって、その地位が維持されているのです。

 As truth it is inviolate, and everything is brought to it for judgment.
 罪が真理とされるなら、罪は不可侵のものとなり、すべてのものが罪の下に裁きを受けるためにもたらされます。

 As a mistake, it must be brought to truth.
 罪が間違いとされるなら、罪のほうが真理の下にもたらされるべきことになります。

 It is impossible to have faith in sin, for sin is faithlessness.
 罪とは信頼の欠如のことなので、罪を信頼することは不可能です。

 Yet it is possible to have faith that a mistake can be corrected.
 しかし、間違いが修正されうると信頼することは可能です。

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7. There is no stone in all the ego's embattled citadel that is more heavily defended than the idea that sin is real; the natural expression of what the Son of God has made himself to be, and what he is.
 エゴが防備を固めるあらゆる要塞の中でも、罪が実在するという想念ほど厳重に擁護されている礎石はほかにありません。罪が実在するという想念は、神の子が自分のことを罪深い存在とみなし、現に神の子が有罪であることの自然な発露だというのです。

 To the ego, this is no mistake.
 エゴにとっては、神の子が有罪で罪深いことは、まったく間違いではありません。

 For this is its reality; this is the "truth" from which escape will always be impossible.
 というのも、神の子が有罪であることこそ、エゴにとっての現実であり、決して逃れることができない「真理」だからです。

 This is his past, his present and his future.
 有罪であることが、神の子の過去であり、現在であり、未来だというのです。

 For he has somehow managed to corrupt his Father, and change His Mind completely.
 というのも、神の子は、自らの大いなる父をどういうわけか堕落させることに成功して、神の大いなる心を完全に変えさせてしまったからだというのです。

 Mourn, then, the death of God, Whom sin has killed!
 そうだとすれば、罪に殺された神の死を悼むがよいでしょう。

 And this would be the ego's wish, which in its madness it believes it has accomplished.
 この罪による神の死こそがエゴの願望であり、エゴは狂気のあまり自分が神の殺害をやってのけたものと信じています。



8. Would you not rather that all this be nothing more than a mistake, entirely correctable, and so easily escaped from that its whole correction is like walking through a mist into the sun?
 あなたはむしろ、こんなことすべてが単なる間違いであって、完全に修正可能であってほしいとは思わないでしょうか。そして、その修正のプロセスの全体が、間違いから本当に簡単に逃れられるので、まるで霧の中を通り抜けて日差しの中に向けて歩むようなものであってほしいとは思わないでしょうか。

 For that is all it is.
 というのも、実際に修正とはただそれだけのことだからです。

 Perhaps you would be tempted to agree with the ego that it is far better to be sinful than mistaken.
 もしかしたら、あなたは間違っているよりも罪深いほうがよほどいいといって、エゴに同意したい誘惑に駆られるかもしれません。

 Yet think you carefully before you allow yourself to make this choice.
 しかし、あなたには、自分がそんな選択を下してしまう前に、じっくり考えてみてほしいのです。

 Approach it not lightly, for it is the choice of hell or Heaven.
 罪と誤りの間の選択に軽々しく取り組んではなりません。なぜなら、これこそ地獄と天国のどちらを選ぶかの選択だからです。


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