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M8 簡単な奇跡と難しい奇跡ってあるの?

今回は、奇跡難易度に関する教師のためのマニュアル第8節をご紹介します。

前々回の「時間2」でも触れましたが、奇跡のコースは、奇跡の難しさに序列など無いと繰り返しますが、私たちにとっては、このことがなかなか実感できない、頭でわかったつもりになっても、本当に理解するのが「難しい」ものです。



マトリックスで、ネオがジャンプ・プログラムで落っこちてしまったように、私たちも、世界は幻想だと念仏を唱えるように繰り返しても、心の底では、世界を現実であると信じ切っていて、足もとをすくわれてしまいます。
この節では、外の幻想世界には意味などなく、心が外の世界の物事に意味を付与するのであって、肉眼等の五官の作用は、心が抱く価値観の序列階層を外に向けて投影した網に、幻想の世界の相違して程度がある凸凹が引っかかって、持ち帰ってくる作用であり、心自体が欲する幻を心が欲するままに取り込むものであることが説明されます。

昔読んだ本に面白い挿絵がありました。何の本だったか忘れてしまってご紹介できないのが残念ですが、中空に座禅して浮かぶお坊さんの目から世界全体が映画の映写機のように飛び出して外に宇宙全体が広がって行く様です。

私たちは、肉眼は受動的なもので、客観的に外に実在している世界からの情報を受け取っていると思っていますが、実は、私たちのほうが投影して外の世界を作り出している様子をわかりやすく描いたものでした。

外の世界を自分で映し出しているのだから、噂をすれば影であるとか、類は友を呼ぶとかいう現象は、当然のことになります。また、いわゆる「引き寄せの法則」的なものも、当たり前ということになります。

私は望んだものを引き寄せられていない!という人もいるでしょうが、葛藤によって、いろんな望みがある混沌とした状況そのものが投影されてそのままそれを引き寄せているのは確かでしょう。

自他の区別をしたまま、他人を出し抜いて他人の犠牲のもとに自分だけによい状況を引き寄せようという発想で、葛藤のない心を持とうとしても、それ自体が困難なことなので、よほど強烈なエゴで、周囲のことなど知ったことかという強い信念を抱くことができる人物でもない限りは、自分の望み(表面的にそう思っている)どおりの現実を引き寄せるということは難しいものでしょう。

なお、「引き寄せの法則」をないがしろにするつもりは毛頭ありませんので、ご留意ください。価値中立の観点から見るかぎり、この法則は、一つの法則、プログラムとしてとても重要な働きをする法則であり、有益に活用できるものであることは確かです。

脱線しましたので、戻ります。


さて、続いて、五官が運んでくる外の幻想世界にあるように見えるものの情報について、知覚作用そのものが評価するのではなく、心が選別し分類して評価していること、知覚に誤りが入り込むのは、この心の選別と分類の過程においてであり、ここでこそ知覚の修正がなされなければならないことが説明されています。

そして、心の分類作用は、心があらかじめ抱いている価値の基準に従って肉眼が心へと持ってくるものが、あらゆる既知の感覚のどれに最も適合するか価値を判断するという働きということです。

ここで、ロバートシャインフェルドさんがエゴを「mind machine」として、サーチ・エンジンのような働きをすると譬えていることを以前にご紹介しました。まさに、サーチ・エンジンのように働く心の働きが誤りをもたらします。

自分のサーチ・エンジンがすでに集積し、ラベルづけし終えているカテゴリーに分類すべきものを外の世界に投影して五官に持ってこさせて、それを検索してヒットさせ、やったー!見つかった、というのです。完全な自給自足のマッチポンプ・システムです。

このように、エゴは、自分の欲するものを外の世界に投影して作り出して、それを知覚し、自分の望んだものが見つかったと喜ぶのです。何という欺瞞でしょうか。

ミヒャエル・エンデの「遠い旅路の目的地」で、主人公シリルが死に瀕した際の夢の中で出会う謎の老人が、本当は、世界は人間が自分たちで作り上げているのだが、人は神が創造したと言って神のせいにしている、シュリーマンはトロイを発見したと思い込んでいたが、本当は自分で作ったことを理解していなかったのだと告げる場面がありました。

自分の探すものを自分で作って用意して、さも苦心して探求し、ようやく見出すことができたというように見せかけ、それを信じ込むために、無数の仮面によって一人何役も同時進行でこなすことができ、一人芝居が真実味を持つことができるようにするための舞台装置をエゴはいくつも用意しています。


エゴにとっては、幻想が存続してくれなければ、私たち個別の心が分離したまま宿主でいてくれなくなってしまうので、生きながらえることができません。

そのためには、私たちがばらばらに分離して隔絶した個別の存在であるということを信じ込ませなければなりません。

その上では、私たちはもちろん、幻想世界にあるありとあらゆるものが、ばらばらで、重要なものと不要なもの、善と悪等々に分離、対立していて、個々の心が、自分こそは優れた存在で、ほかの心は劣った存在意義の無いものだと思わせることが非常に有効なのです。

みんなが平等で、世界のすべてもみんな幻として一様であるという観点は、みんなが一体であるということに気がつくための出発点になってしまうのです。これだけは、エゴにとっては隠し通さなければならない真実です。

だから、エゴは個々の心が自分の中に取り込むように、幻想世界を価値の序列化した階層化した社会にし、個々の心が過去の経験から、自分の中に価値観を序列化させて、新たに外の世界から情報を取り込むに際しても、程度や序列のあるものとして「知覚」するように教育するのです。

では、この知覚の誤りを修正するには、どうすればよいのでしょうか。

この節は、このような過去の経験に基づいて、自分の中に形成した価値観の序列化された階層による基準に基づいて、それを外から五官が運んでくる情報にあてはめて、選別し分類するという知覚の作用をやめる必要があるといいます。

そして、幻想と真理というたった二つのカテゴリーだけを用意して、そのいずれかに分類するようにするということです。

この分類をするとなれば、程度や差異があるようなものはすべて、幻想のカテゴリーに分類されることになります。つまり、私たちの見ている世界のすべてが幻想に分類されることになるはずです。

やり方はこの通りだとしても、これだけで難易度の序列を知覚しなくて済むようになるという人はあまりいないでしょう。

やはり、モーフィアスの言うように、道を知ることと実際に道を歩むことは違います。
実践あるのみです。


でも、起こる前には、絶対にあり得ないと断言できたことでも、実際に起こったあとになってみると、そういうこともあるもんだなあというふうに思う体験は誰でもしていると思います。

そして、奇跡と呼べるような出来事や大惨事と呼ぶべきことなど、とにかく、それまでの心の枠組みではとうてい信じられない出来事でも、起こったあとでは、認知的不協和を解消するためか、とにかく、そんなことも「あり」という風に結論づけることになるのは確かです。

宇宙人が襲ってきたということが実際に起こったら、私たちは、そのときには、宇宙人が存在することなど当たり前のこととして、その後の世界と向き合うことでしょう。

ここに、一つの鍵があるような気もします。ご自分なりに考えてみていただければと思います。





Section 8
How Can Perception of Order of Difficulties Be Avoided?
第8節 どうやって難しさに序列があると知覚することを避けることができるか


1. The belief in order of difficulties is the basis for the world's perception.
 難しさに程度があるとの信念は、この世界での知覚の基盤となります。

 It rests on differences; on uneven background and shifting foreground, on unequal heights and diverse sizes, on varying degrees of darkness and light,and thousands of contrasts in which each thing seen competes with every other in order to be recognized.
 この世界での知覚は、相違に依拠しています。それは、一様ではない背景や移り変わる近景、不揃いな高さや多様な大きさ、移り変わる暗さと明るさの度合い、そして、気づいてもらうためにほかのものたちと競い合うように見える一つひとつの物事が相互に織りなす無数のコントラストです。

 A larger object overshadows a smaller one.
 より大きな物体は、より小さな物体の影を薄くします。

 A brighter thing draws the attention from another with less intensity of appeal.
 より明るい物は、より訴えかける強烈さの乏しいほかのものよりも、目を引きます。

 And a more threatening idea, or one conceived of as more desirable by the world's standards, completely upsets the mental balance.
 そして、より恐ろしげな想念、あるいは、この世界の標準に照らしてより望ましいものとして考えられる想念は、完全に心理的なバランスを混乱させてしまいます。

 What the body's eyes behold is only conflict.
 肉眼が見るものは葛藤でしかありません。

 Look not to them for peace and understanding.
 平安と理解のためには、葛藤なんかを当てにしてはなりません。



2. Illusions are always illusions of differences.
 幻想はつねに、相違があると錯覚することです。

 How could it be otherwise?
 幻想が、相違の錯覚以外の何ものでありうるでしょうか。

 By definition, an illusion is an attempt to make something real that is regarded as of major importance, but is recognized as being untrue.
 定義からして、幻想とは、とても重要視されつつも真実ではないと認識されている何かを本物のように見せかける試みのことです。

 The mind therefore seeks to make it true out of its intensity of desire to have it for itself.
 それゆえに、心は、幻想を自分のものにしたいという欲望の強烈さに駆られて、幻想を本物にしようと努めます。

 Illusions are travesties of creation; attempts to bring truth to lies.
 幻想とは、真理を偽りの中に持ち込もうと試みる、創造のお粗末なまがい物です。

 Finding truth unacceptable, the mind revolts against truth and gives itself an illusion of victory.
 真理を受け容れがたいものとみなした心は真理に対して反抗し、自分自身に勝利の幻を贈ろうとするのです。

 Finding health a burden, it retreats into feverish dreams.
 健やかさを重荷と見て、心は熱狂した夢の中へと引きこもります。

 And in these dreams the mind is separate, different from other minds, with different interests of its own, and able to gratify its needs at the expense of others.
 そして、このような夢の中で、心は分離して、他の心とは異なったものとなり、それぞれ独自の異なった利害を持ち、他の心の犠牲の下に、それぞれの必要性を満たすことができるようになります。




3. Where do all these differences come from?
 このような相違はすべて、どこからやってくるのでしょうか。

 Certainly they seem to be in the world outside.
 たしかに、このような相違は外の世界の中にあるように見えます。

 Yet it is surely the mind that judges what the eyes behold.
 しかし、肉眼が見るものを価値判断するのが心なのは確かです。
  
 It is the mind that interprets the eyes' messages and gives them "meaning."
 肉眼の伝えるものを解釈し、それに「意味」を与えるのは心です。

 And this meaning does not exist in the world outside at all.
 そして、この意味というものは、外の世界にはまったく存在しません。

 What is seen as "reality" is simply what the mind prefers.
 「現実」として見えているものは、単に心が選別しているものでしかありません。

 Its hierarchy of values is projected outward, and it sends the body's eyes to find it.
 心の抱く価値の序列は外側に向けて投影されます。そして、心は肉眼に投影したものを見つけてくるように送り出します。

 The body's eyes will never see except through differences.
 肉眼は相違を通してでなければ、決して何も見ることができません。

 Yet it is not the messages they bring on which perception rests.
 しかし、肉眼の持ち帰ってくるメッセージによって何を知覚するかが左右されるわけではありません。

 Only the mind evaluates their messages, and so only the mind is responsible for seeing.
 ただ心だけが肉眼の持ってくるメッセージを評価することができます。だから、心だけが見ることに関する責任を負っているといえます。

 It alone decides whether what is seen is real or illusory, desirable or undesirable, pleasurable or painful.
 心だけが見えるものが本物なのか錯覚なのか、望ましいものか望ましくないものか、喜ばしいものか苦痛に満ちたものか、いずれなのか決めることになります。




4. It is in the sorting out and categorizing activities of the mind that errors in perception enter.
 知覚に誤りが入り込むのは、選別し、分類する心の働きの中でのことです。

 And it is here correction must be made.
 だから、ここでこそ修正がなされるべきなのです。

 The mind classifies what the body's eyes bring to it according to its preconceived values, judging where each sense datum fits best.
 心は、心があらかじめ抱いている価値基準に従って肉眼が心へと持ってくるものを分類します。その価値判断は、肉眼のもたらすものが、あらゆる既知の感覚のうちどこに最も適合するかという働きです。

 What basis could be faultier than this?
 これほど誤った判断の基準などあるでしょうか。

 Unrecognized by itself, it has itself asked to be given what will fit into these categories.
 自分自身でも気づかずに、心は自分で何がこのような分類にぴったりあてはまるか答えるように自分に求めているのです。

 And having done so, it concludes that the categories must be true.
 そして、そのようにすることで、心はその分類は真実であるに違いないと結論づけます。

 On this the judgment of all differences rests, because it is on this that judgments of the world depend.
 このような分類作業にあらゆる相違についての価値判断が依拠しています。なぜなら、この世界の価値判断がなりたっているのは、こんな分類を基盤としてのものだからです。

 Can this confused and senseless "reasoning" be depended on for anything?
 このような混乱して無意味な「論理運び」を何のためであれ、当てになどできるでしょうか。



5. There can be no order of difficulty in healing merely because all sickness is illusion.
 癒しをなすのに難しさの程度などありえません。それは単に、病はすべて幻想でしかないからです。

 Is it harder to dispel the belief of the insane in a larger hallucination as opposed to a smaller one?
 狂気に陥った者の信念に関して、より誇大な幻覚はより控え目な幻覚よりも追い払うのが難しいといえるでしょうか。

 Will he agree more quickly to the unreality of a louder voice he hears than to that of a softer one?
 狂気の者は、自分が耳にする非現実的な事柄について、より大きな声で告げられたほうが、より穏やかな声で言われるよりも、より早々に同意するでしょうか。

 Will he dismiss more easily a whispered demand to kill than a shout?
 彼は、殺すようにとのささやき声での求めのほうを大声で言われるよりも容易に無視するでしょうか。

 And do the number of pitchforks the devils he sees carrying affect their credibility in his perception?
 そして、彼が目にする悪魔が持っている三叉槍の数の多さが、彼が悪魔を知覚したことを信頼する上で影響を及ぼすでしょうか。

 His mind has categorized them all as real, and so they are all real to him.
 彼の心は、そんなものをすべて本物として分類してしまっているので、そのために、それらはすべて彼にとって本物になっているのです。

 When he realizes they are all illusions they will disappear.
 彼がそんなものはすべて幻だと気づいたら、それらは消え失せてしまうでしょう。

 And so it is with healing.
 だから、癒しについても、それと同じことがあてはまるのです。

 The properties of illusions which seem to make them different are really irrelevant, for their properties are as illusory as they are.
 個々の幻想を違ったものに見せている幻想それぞれの特性など、本当に取るに足りないものです。なぜなら、そんな幻想の特性は幻想自体と同様、幻でしかないからです。




6. The body's eyes will continue to see differences.
 肉眼は、違いを目にし続けることでしょう。

 But the mind that has let itself be healed will no longer acknowledge them.
 しかし、自身を癒されるに任せた心は、もはや相違を認めることはありません。

 There will be those who seem to be "sicker" than others, and the body's eyes will report their changed appearances as before.
 ほかの者よりも「より病んでいる」ように見える者たちはいるだろうし、そして、肉眼は以前と変わらず、病んでいるように見える者たちの表面上の病状の変化を報告するでしょう。

 But the healed mind will put them all in one category; they are unreal.
 しかし、癒された心は、それらの外観上の変化をまとめて一つのカテゴリーに分類します。それは、彼らが病んでいるのは本当の姿ではないというものです。

 This is the gift of its Teacher; the understanding that only two categories are meaningful in sorting out the messages the mind receives from what appears to be the outside world.
 これは、癒された心の大いなる教師からの贈り物です。それは、心が外の世界にあるように見えるものから受け取るメッセージを選別する上で、ただ二つのカテゴリーだけが意味を持つと理解することです。

 And of these two, but one is real.
 そして、この二つのカテゴリーのうち、一方だけが本物なのです。

 Just as reality is wholly real, apart from size and shape and time and place--for differences cannot exist within it--so too are illusions without distinctions.
 ちょうど現実が、その中に相違が存在することなどありえないゆえに、大きさや形や時間や場所といったものとは関係なく完全に本物であるように、同じようにまた、幻想にも何の差異もないということです。

 The one answer to sickness of any kind is healing.
 いかなる種類の病気であっても、それに対する唯一の答えは、癒しです。

 The one answer to all illusions is truth.
 あらゆる幻想に対するたった一つの答えは、真理なのです。

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Comments 1

Kino

ken様いつも有難うございます。
奇跡のコース、まだ読み始めで恐縮ですが本稿について質問です。
奇跡のコースと私との出会いをどのように評価するかについてです。
現実世界が全て幻想であるとして、「奇跡のコース」の存在はどのように捉えるべきか。
現実世界を超越した"絶対存在/神"が自分を招いて引合わせて下さったのか、
それとも本稿に書かれているようにおこがましくも自らが創りだした側面もあると言えるのでしょうか。
また、エゴは、奇跡のコースに触れようとする私をどう眺めるのでしょう。
宿主で居続けさせるため干渉・妨害の手を尽くすのでしょうか。
奇跡のコースを触れるに際し、エゴと対峙する心構えをご指南頂ければ幸いです。
何卒どうぞ宜しくお願い致します。

2013-06-04 (Tue) 06:37 | EDIT | REPLY |   

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