M8 簡単な奇跡と難しい奇跡ってあるの?


この世界は焼き物師の轆轤(ろくろ)と同じです。たいへんな速さで回転しているにもかかわらず、静止しているように見えます。それと同じように、妄想に駆られた人の目には、実際は絶え間なく変化しているこの世界が安定したものと映るのです。この世界は毒のある木のようなものです。それに触れた人は意識を失い、知覚を麻痺させられてしまいます。この世界のあらゆる見解は穢れており、世界中の国々は悪の領域です。この世のすべての人が死を免れず、すべての行為は人を欺きます。

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スワミ・ヴェンカテーシャーナンダ英訳(「ヨーガ・ヴァーシシュタ」より)





Seeing a miracle will inspire you, but knowing you are a miracle will change you.
奇跡を目にすることは、あなたを心から感動させるでしょう。しかし、自分が奇跡だと知ることは、あなたを変えてしまうはずです。



Deborah Brodie
デボラ・ブロディー



Miracles do not, in fact, break the laws of nature.
奇跡は、実のところ、自然の法則を破るわけではない。



C. S. Lewis
C. S. ルイス





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今回は、奇跡の難易度に関する教師のためのマニュアル第8節をご紹介します。


「奇跡の難易度に序列がない」と理解するのは難易度が高い!

奇跡のコースは、奇跡の難しさに序列などないと繰り返しますが、私たちにとっては、このことがなかなか実感できないもので、頭でわかったつもりになっても、本当に理解するのが「難しい」ものです。


マトリックスで、ネオがそれまで現実だと思い込んでいたマトリックスから脱したあと、現実ではない架空のプログラム世界だとわかっているジャンプ・プログラムの中ですら、重力についての信念が悪さをして、ビルのジャンプができずに落っこちてしまったように、心にこびりついた世界認識、自己認識は容易には変わりません。

私たちは、ネオのように実際にマトリックスから脱した経験すら持たず、依然として幻想世界の中にとどまった状態のままなので、いくら世界は幻想だということを情報として得たところで、骨の髄から世界は現実だと信じきっているので、簡単に足もとをすくわれてしまいます。





幻想世界の中の物事はどれも幻想100%であって濃度差、序列はない

この節では、外の幻想世界には意味などなく、心が外の世界の物事に意味を付与するのであって、肉眼等の五感の作用は、心が抱く価値観の序列階層を外に向けて投影した網に、幻想の世界の相違して程度がある凸凹が引っかかって、持ち帰ってくる作用であり、心自体が欲する幻を心が欲するままに取りこむものであることが説明されます。

昔読んだ本に面白い挿絵がありました。何の本だったか忘れてしまってご紹介できないのが残念ですが、座禅しながら中空に浮かぶお坊さんの目から世界全体が映画の映写機のように飛び出して外に宇宙全体が広がっていくさまです。

私たちは、肉眼は受動的なもので、客観的に外に実在している世界からの情報を受け取っていると思っていますが、実は、私たちのほうが投影して外の世界を作り出している様子をわかりやすく描いたものでした。

外の世界を自分で映し出しているのだから、噂をすれば影であるとか、類は友を呼ぶとかいう現象は、当然のことになります。また、いわゆる「引き寄せの法則」的なものも、当たり前ということになります。

「私は望んだものを少しも引き寄せられていない!」という人もいるでしょうが、葛藤によって、いろんな望みがある混沌とした状況そのものが投影されてそのままそれを引き寄せているのは確かでしょう。

自他の区別をしたまま、他人を出し抜いて他人の犠牲のもとに自分だけによい状況を引き寄せようという発想で、葛藤のない心を持とうとしても、それ自体が困難なことなので、よほど強烈なエゴで、周囲のことなど知ったことかという強い信念を抱くことができる人物でもないかぎりは、自分の望み(表面的にそう思っている)どおりの現実を引き寄せるということは難しいものでしょう。

なお、「引き寄せの法則」をないがしろにするつもりは毛頭ありません。ひところの引き寄せの法則ブームによって、この法則は即物的な願望実現法則として手垢にまみれてしまいましたが、別名「愛の法則」と呼ばれるように、愛の原理と法則について語るものであり、奇跡のコースと矛盾するわけではありません。

コースのいう神の法は「自分の拡張するものが自分の現実となる」で、愛の法は「兄弟に与えるものは自分が受け取ることになる」で、神の法がこの世界では「自分が投影するものを自分は信ずる」という法則に変容されるということでした。

コースは、投影を拡張に戻して実在しない幻想を知覚して信じる状態から実在のみを確信して知る状態の回復を目指します。

いわゆる引き寄せの法則は、「自分が投影するものを自分は信ずる」というこの世界の法則をエゴが願望実現法則として捉えて活用するもので、エゴを増長させることにしかならない危険があるのも確かです。

もっとも、「●●とハサミは使いよう」というように、法則というものは世界を成り立たせている原理として目に見えなくても確固として作用しているものであって、法則自体に善悪はなく、それを何のために使うかで善にもなれば悪にもなります。そして、ハサミの切れ味が鋭ければ鋭いほど、間違った使い方をした場合のダメージは甚大です。


思い通りの人生って本当にすばらしいこと?

さて、エゴにとって思い通りの現実を引き寄せて、エゴ全開で思うがままの人生を謳歌できたとして、はたしてそれは幸せで素晴らしいことでしょうか?

単純に、人間馬車説的に自分を捉えても、そのような人生で満たされるのは、馬や御者だけで、馬車の奥で主人が眠りこけているうちに、馬や御者が好き放題のかぎりを尽くして、主人が気がついたときには、主人がなすべきことをなすには手遅れになっているだけでしょう。

思い通りの人生を謳歌することは、神の子としての真の自己を思い出すことを遠のけるのはもちろんのこととして、(究極的には実在しない)個としての魂の成長の機会を自ら放棄するだけでなく、単純に言って、期待とは裏腹に、テレビゲームの無敵モードのつまらなさと同じつまらない人生を歩むことにしかならないかもしれません。

私たちが面白みを感じるのは、だいたい始める前に期待していた筋書きや展開とは違ってそれまでの思考枠組みをリフレーミングさせられるような想定外の体験ができた場合です。その想定外の経験によって世界が変わり自分が変わるという醍醐味、玉ねぎの皮が剥けるようにより芯に近い本当の自分が出てくる喜びです。

これに対して、想定内のものは予定調和的な安心感はあっても、それほど面白い、楽しい!とは感じないものです。思い通りに望みを達成することによっては、自分をより凝り固まらせることはあれ、自分が変化することはないからです。

そして、願望に駆り立てられた個人的な栄達は、エゴの勝利ではあっても、魂の敗北となることは少なくないはずです。

そもそも、霊的な世界(といっても、単に身体をまとわないというだけで個としての魂が一なる霊には戻っていない分離したままの霊魂の世界)は、物質的制約がないので、想いが即座に実現する、思うがままの世界のはずです。

分離を信じる魂が思うがままの世界にいるとどうなるか考えてみると、他の霊を犠牲にしてでも、自分の好き放題に我利我欲を追い求め、それがすぐさまその通りに実現してしまうわけですから、分離をよりいっそう促進することこそあれ、自他一体の真理にたどり着くなんて到底不可能な地獄世界がすぐにできあがることが容易に想像できます。

私たちの住むこの世界は、想念を抱いてから物質世界で想念が現実化するまで時間がかかるバッファーを設ける仕組みによってエゴの振り落としと魂の成長を図ることができる魂の学校とみなすこともできます。



The secret of reaping the greatest fruitfulness and the greatest enjoyment from life is to live dangerously.
人生から最も偉大な成果と最大限の喜びを獲得する秘訣は、危険を冒して生きることだ。



Friedrich Nietzsche
ニーチェ






思うがままの引き寄せは実は魂にとっての逆境かも

この観点では、引き寄せの法則をエゴの目標達成の道具として活用することは、カンニングをする学生と同じように学力はあがらないまま見せかけの評価だけを得ようとするさもしい発想で、実のところ自分で自分の首を絞めているだけということになります。

あまり受難礼賛気味になるのも困りものですが、思い通りに人生が進まず、不幸や苦労に直面する人のほうが魂にとっては順調な人生を歩んでいるといえるのかもしれません(その逆境が与えてくれている学びの機会を生かして気づきを得て学べればの話ですが)。

エゴが栄達を遂げるカタルシスを味わいたいなら、わざわざ自分の貴重な人生を(犠牲に)捧げなくとも、エゴの欲求を発散させてやる素材となる小説やドラマ、映画等の物語は世界の中に腐るほどあります。

エゴの願望を現実として「引き寄せ」てしまうくらいなら、不遇な身を嘆くことなく運命として受け入れて、与えられる出来事を良いも悪いも区別せずに、大理石の塊から本当の自分が姿を現せるよう彫り出す鑿(のみ)として「引き受け」て、自分のやるべきことを喜んでこなすほうが、きっと人生を終えたあとに魂が喜ぶはずです。


”A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED”と「二ーバーの祈り」

「ある無名兵士の詩」または「病者の祈り」、「叶えられた祈り」という呼称でよく紹介される作者不詳の言葉”A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED”と、これまた有名なニーバーの祈り(静穏の祈り)を引用しておきます。




Viktor E. Frankl
ヴィクトール・フランクル




「ある無名兵士の詩」の逆説的な表現は、ヴィクトール・フランクル先生の言葉「終局において、人は人生の意味は何であるかを問うべきではない。むしろ自分が人生に問われていると理解すべきである。一言で言えば、すべての人は人生に問われているのだ。自分の人生の責任を引き受けることによってしか、その問いかけに答えることはできない」(人生の意味のコペルニクス的転回)に通じる真理を表していると思います。




A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED
苦悩する者のための信条

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I asked God for strength, that I might achieve
私は、自分が何かを成し遂げられるようにと、神に力を求めたが、

I was made weak, that I might learn humbly to obey...
私は、謙虚に神に従うことを学ぶようにと、弱き者とされた



I asked for health, that I might do greater things
私は偉大なことをなしうるようにと、健康を求めたが、

I was given infirmity, that I might do better things...
私は、より良いことをなしうるようにと、病弱を授かった



I asked for riches, that I might be happy
私は、自分が幸福になれるようにと、富を求めたが、

I was given poverty, that I might be wise
私は、賢明になれるようにと、貧しさを授かった



I asked for power, that I might have the praise of men
私は、人々からの賞賛を得られるようにと、力を求めたが、

I was given weakness, that I might feel the need of God...
私は、神が必要だと感じられるようにと、弱さを授かった



I asked for all things, that I might enjoy life
私は、私が人生を謳歌できるようにと、すべてのものを求めたが、

I was given life, that I might enjoy all things...
私は、私が万物を喜ばせられるようにと、生命を賜った



I got nothing I asked for-but everything I had hoped for;
私が表向きに求めたものは何ひとつ得られなかったが、私が心の底で待ち望んでいたものはすべて得られた

Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
まるで不本意とも言うべき形で、私の魂からの祈りは聞き入れられたのだ



I am, among all men, most richly blessed!
私は、どこの誰よりも、最も豊かに祝福されているのだ






Serenity Prayer
静穏の祈り

ラインホルド・ニーバー_1220110933

Reinhold Niebuhr
ラインホルド・ニーバー


God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.
神よ、我に与え給え。変えられないものを静かに受け入れる雅量を、変えられるものを変える勇気を、そして、両者を見分ける賢明さを。

Living one day at a time,
Enjoying one moment at a time,
Accepting hardship as a pathway to peace,
いっときに一日だけを生き、いっときに一瞬だけを楽しみ、苦難を平安に至る道として受け入れさせてください。

Taking, as Jesus did,
This sinful world as it is,
Not as I would have it,
イエスがそうしたように、この罪深き世を自分がこうあらしめたいと思うようにではなく、あるがままに受け入れさせてください。


Trusting that You will make all things right,
If I surrender to Your will,
もし私があなたの意志に身を委ねるなら、あなたがすべてを正しい状態にしてくれると信頼します。

So that I may be reasonably happy in this life,
And supremely happy with You forever in the next.
そうすれば、今生で私はほどよく幸せになり、そして、来世ではあなたとともに永遠にこの上ない幸せを得ることでしょう。

Amen.
アーメン。


エゴのサーチ・エンジンのマッチポンプ・システム

脱線しましたので、戻ります。


さて、本節では、続いて、五感が運んでくる外の幻想世界にあるように見えるものの情報について、知覚作用そのものが評価するのではなく、心が選別し分類して評価していること、知覚に誤りが入りこむのは、この心の選別と分類の過程においてであり、ここでこそ知覚の修正がなされなければならないことが説明されます。

そして、心の分類作用は、心があらかじめ抱いている価値の基準に従って肉眼が心へと持ってくるものが、あらゆる既知の感覚のどれに最も適合するか価値を判断するという働きということです。

ここで、ロバート・シャインフェルドさんがエゴを「mind machine」として、サーチ・エンジンのような働きをすると譬えていることを以前にご紹介しました。まさに、サーチ・エンジンのように働く心の働きが誤りをもたらします。

自分のサーチ・エンジンがすでに集積し、ラベルづけし終えているカテゴリーに分類すべきものを外の世界に投影して五感に持ってこさせて、それを検索してヒットさせ、やったー!見つかった、というのです。完全な自給自足のマッチポンプ・システムです。

このように、エゴは、自分の欲するものを外の世界に投影して作り出して、それを知覚し、自分の望んだものが見つかったと喜ぶのです。何という欺瞞でしょうか。

ミヒャエル・エンデの「遠い旅路の目的地」で、主人公シリルが死に瀕した際の夢の中で出会う謎の老人が、本当は、世界は人間が自分たちで作りあげているのだが、人は神が創造したと言って神のせいにしている、シュリーマンはトロイを発見したと思いこんでいたが、本当は自分で作り出したことを理解していなかったのだと告げる場面がありました。

自分の探すものを自分で作って用意して、さも苦心して探求し、ようやく見出すことができたというように見せかけ、それを信じこむために、無数の仮面によってひとり何役も同時進行でこなすことができ、ひとり芝居が真実味を持つことができるようにするための舞台装置をエゴはいくつも用意しています。


エゴには世界を成り立たせる風が凪いでしまわないよう気圧差が必要

エゴにとっては、幻想が存続してくれなければ、私たち個別の心が分離したまま宿主でいてくれなくなってしまうので、生きながらえることができません。

そのためには、私たちがばらばらに分離して隔絶した個別の存在であるということを信じこませなければなりません。

そのうえでは、私たちはもちろん、幻想世界にあるありとあらゆるものが、ばらばらで、重要なものと不要なもの、善と悪等々に分離、対立していて、個々の心が、自分こそは優れた存在で、ほかの心は劣った存在意義の無いものだと思わせることが非常に有効なのです。

世界という幻の劇場は、振り子やブランコ、ドミノ、トントン相撲といったおもちゃのように、つねに風に吹かれて揺らしてもらっていなければ、持続できない仕組みであり、大いなる心の個別に区分された各地に高低差を設けることで気圧に差を作り出して罪悪感や恐怖による風を生み出すことで維持されています。

みんなが平等で、世界のすべてもみんな幻として一様であるという観点は、みんなが一体であるということに気がつくための出発点になってしまい、そうなると、気圧差による風が吹かなくなります。

完全に風が凪いでしまうと、それまで立って踊っていた偶像がみな倒れて二度と立ち上がれなくなって、本来の平安が姿を現し、世界は消滅してしまいます。これだけは、エゴにとっては隠し通さなければならない真実です。

だから、エゴは個々の心が自分の中に取りこむように、幻想世界を価値の序列化した階層化した社会にし、個々の心が過去の経験から、自分の中に価値観を序列化させて、新たに外の世界から情報を取りこむに際しても、程度や序列のあるものとして「知覚」するように教育します。


知覚の誤りを修正するには?

では、この知覚の誤りを修正するには、どうすればよいのでしょうか。

この節は、このような過去の経験に基づいて、自分の中に形成した価値観の序列化された階層による基準に基づいて、それを外から五感が運んでくる情報にあてはめて、選別し分類するという知覚の作用をやめる必要があるといいます。

そして、幻想と真理というたったふたつのカテゴリーだけを用意して、そのいずれかに仕分けて分類するようにするということです。

この分類をするとなれば、程度や差異があるようなものはすべて、幻想のカテゴリーに分類されることになります。つまり、私たちの見ている世界にある物事は漏れなく幻想に分類されることになるはずです。

このカテゴリー分類は、T14-10 奇跡の平等性で出てくる愛と愛を求める呼び声のカテゴリー分けに通じる発想です。




「7. The only judgment involved is the Holy Spirit's one division into two categories; one of love, and the other the call for love.
 そのために必要な唯一の価値判断は、 こうした呼び声をふたつのカテゴリーに振り分ける聖霊のなす唯一の区別だけです。カテゴリーの区分は、ひとつは愛、もうひとつは愛を求める呼び声です。

 You cannot safely make this division, for you are much too confused either to recognize love, or to believe that everything else is nothing but a call for love.
 あなたには間違わずにこの区別をすることができません。というのは、あなたはあまりに混乱しすぎていて、愛を見分けられないばかりか、愛以外のすべてのものが愛を求める呼び声にほかならないとは信じられないからです。」(T14-10 奇跡の平等性

愛には愛で応じるのは容易にできても、愛を求める哀訴のほうは、非難や攻撃という形をとって現れてくるので、不平不満や反撃ではなく、愛と助けで返すのはきわめて困難です。

それと同じように、幻想と真理のカテゴリー分類をしたうえで、それに即して生きることは決して容易な道ではありません(T12-3 現実への投資)。



道を歩む

やはり、モーフィアスの言うように、道を知ることと実際に道を歩むことは違います。
実践あるのみです。

でも、起こる前には、絶対にあり得ないと断言できたことでも、実際に起こったあとになってみると、そういうこともあるもんだなあというふうに思う体験は誰でもしていると思います。

そして、奇跡と呼べるような出来事や大惨事と呼ぶべきことなど、とにかく、それまでの心の枠組みではとうてい信じられない出来事でも、起こったあとでは、認知的不協和を解消するためか、とにかく、そんなことも「あり」というふうに結論づけることになるのは確かです。

コロナ禍を生きた私たちです。

もう宇宙人が襲ってきたとか、異次元に通じるゲートがどこかで開いたいうことが実際に起こっても、たぶん私たちは、宇宙人や異世界が存在することなど当たり前のこととして、その後の世界と向き合うことでしょう。

冒頭のデボラ・ブロディ―さんの言葉にあるように、奇跡に感動するだけでなく、自分が奇跡だと知ることで私たちは変わります。

おそらく、歴史上、今生きる私たちほど、奇跡を受け入れやすい環境に恵まれている時代はなかったはずです。

アインシュタインの教えてくれる第二の生き方、すべてを奇跡と見る生き方を選択し、自分が奇跡であることを知る幸せを体験しましょう。



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Section 8
第8節



How Can Perception of Order of Difficulties Be Avoided?
どうやって難しさに序列があると知覚するのを避けることができるか



1. The belief in order of difficulties is the basis for the world's perception.
 難しさに程度があるという信念は、この世界での知覚の基盤です。

 It rests on differences; on uneven background and shifting foreground, on unequal heights and diverse sizes, on varying degrees of darkness and light,and thousands of contrasts in which each thing seen competes with every other in order to be recognized.
 この世界での知覚は、多様な相違に依拠しています。それは、一様ではない背景や移り変わる近景、不揃いな高さや多様な大きさ、移り変わる暗さと明るさの度合いであり、その無数のコントラストの中では、一つひとつの物事が相互に気づいてもらおうと競い合っているように見えます。

 A larger object overshadows a smaller one.
 より大きな物体は、より小さな物体の影を薄くします。

 A brighter thing draws the attention from another with less intensity of appeal.
 より明るい物は、より訴えかける力の弱いほかのものよりも、目を引きます。

 And a more threatening idea, or one conceived of as more desirable by the world's standards, completely upsets the mental balance.
 そして、より恐ろしげな想念、あるいは、この世界の標準に照らしてより望ましいものとして考えられる想念は、完全に心理的なバランスを混乱させてしまいます。

 What the body's eyes behold is only conflict.
 肉眼が目にするのは葛藤ばかりです。

 Look not to them for peace and understanding.
 葛藤に頼って、平安と理解に至ることを期待してはなりません。



2. Illusions are always illusions of differences.
 幻想はつねに、相違があると錯覚することです。

 How could it be otherwise?
 幻想が、相違の錯覚以外の何ものでありうるでしょうか。

 By definition, an illusion is an attempt to make something real that is regarded as of major importance, but is recognized as being untrue.
 定義からして、幻想とは、とても重要だとみなされてはいるものの、本物ではないとわかっている何かを本物のように見せかけようとすることです。

 The mind therefore seeks to make it true out of its intensity of desire to have it for itself.
 それゆえに、心は、幻想を自分のものにしたいという欲望の強烈さに駆られて、幻想を本物にしようと努めます。

 Illusions are travesties of creation; attempts to bring truth to lies.
 幻想とは、真理を虚偽の中に持ちこもうと試みる、創造のお粗末なまがい物です。

 Finding truth unacceptable, the mind revolts against truth and gives itself an illusion of victory.
 真理を受け容れがたいものとみなした心は真理に対して反抗し、自分自身に勝利の幻を贈ろうとします。

 Finding health a burden, it retreats into feverish dreams.
 健やかさを重荷と見て、心は熱狂した夢の中へと引きこもります。

 And in these dreams the mind is separate, different from other minds, with different interests of its own, and able to gratify its needs at the expense of others.
 そして、このような夢の中では、心は分離して、ほかの心とは異なったものとなり、それぞれ独自の異なった利害を持ち、ほかの心の犠牲の下に、それぞれの必要性を満たすことができるようになります。



3. Where do all these differences come from?
 このような相違はすべて、どこからやってくるのでしょうか。

 Certainly they seem to be in the world outside.
 たしかに、このような相違は外の世界の中にあるように見えます。

 Yet it is surely the mind that judges what the eyes behold.
 しかし、肉眼で見るものを価値判断するのは間違いなく心です。
  
 It is the mind that interprets the eyes' messages and gives them "meaning."
 肉眼の伝えるものを解釈し、それに「意味」を与えるのは心です。

 And this meaning does not exist in the world outside at all.
 そして、この意味というものは、少しでも外の世界に存在するものではありません。

 What is seen as "reality" is simply what the mind prefers.
 「現実」として見えているものは、単に心が好んで選んだものでしかありません。

 Its hierarchy of values is projected outward, and it sends the body's eyes to find it.
 心の抱く価値の序列は外側に向けて投影されます。そして、心は、自らが外側に投影したものを見つけてくるようにと肉眼を送り出します。

 The body's eyes will never see except through differences.
 肉眼は相違を通してでなければ、決して何も見ることができません。

 Yet it is not the messages they bring on which perception rests.
 しかし、肉眼の持ち帰ってくるメッセージによって何を知覚するかが左右されるわけではありません。

 Only the mind evaluates their messages, and so only the mind is responsible for seeing.
 ただ心だけが肉眼の持ってくるメッセージを評価することができるので、見ることに関する責任を負っているのはただ心だけだからです。

 It alone decides whether what is seen is real or illusory, desirable or undesirable, pleasurable or painful.
 ただ心だけが、見えるものが本物なのか幻なのか、望ましいものか望ましくないものか、喜ばしいものか苦痛に満ちたものか、いずれなのかを決めるのです。



4. It is in the sorting out and categorizing activities of the mind that errors in perception enter.
 知覚に誤りが入りこむのは、選別し、分類する心の働きの中でのことです。

 And it is here correction must be made.
 だから、ここでこそ、修正がなされるべきなのです。

 The mind classifies what the body's eyes bring to it according to its preconceived values, judging where each sense datum fits best.
 心は、心があらかじめ抱いている価値基準に従って肉眼が心へと運んでくるものを分類します。その価値は、肉眼のもたらすそれぞれの感覚的なデータが、既知の価値基準のうちのどこに最も適合するかで判断されます。

 What basis could be faultier than this?
 これほど不完全な判断基準がありうるでしょうか。

 Unrecognized by itself, it has itself asked to be given what will fit into these categories.
 自分自身でも気づかずに、心は自分でこのような分類にぴったりあてはまるものが与えられるように求めたのです。

 And having done so, it concludes that the categories must be true.
 そして、そのようにすることで、心はその分類は真実であるに違いないと結論づけます。

 On this the judgment of all differences rests, because it is on this that judgments of the world depend.
 あらゆる相違についての価値判断は、このような分類作業に依拠しています。なぜなら、この世界の価値判断は、このような分類を基盤としているからです。

 Can this confused and senseless "reasoning" be depended on for anything?
 このような混乱して無意味な「論理運び」を何のためであれ、当てになどできるでしょうか。



5. There can be no order of difficulty in healing merely because all sickness is illusion.
 癒しをなすのに難しさの程度などありえません。それは単に、病いはすべて幻想でしかないからです。

 Is it harder to dispel the belief of the insane in a larger hallucination as opposed to a smaller one?
 狂気に陥った者が抱く信念のうちで、より誇大な幻覚はより控え目な幻覚よりも追い払うのが難しいでしょうか。

 Will he agree more quickly to the unreality of a louder voice he hears than to that of a softer one?
 狂気の者は、自分に聞こえる声が小さいよりも大きいほうが、それが実在しないことにより早く同意するでしょうか。

 Will he dismiss more easily a whispered demand to kill than a shout?
 彼は、殺すようにとの要求が、大声で言われるよりもささやき声で言われるほうがより容易に無視するでしょうか。

 And do the number of pitchforks the devils he sees carrying affect their credibility in his perception?
 そして、彼が目にする悪魔が持っている槍の先が数多く枝分かれしているかどうかが、自分は悪魔を知覚したと彼が信じるかどうかに影響するでしょうか。

 His mind has categorized them all as real, and so they are all real to him.
 彼の心はすでに、それらすべてを本物として分類してしまっているので、そのために、それらはすべて彼にとって本物になっているのです。

 When he realizes they are all illusions they will disappear.
 彼がそんなものはすべて幻だと気づいたら、それらは消え失せてしまうでしょう。

 And so it is with healing.
 だから、癒しについても、それと同じことがあてはまるのです。

 The properties of illusions which seem to make them different are really irrelevant, for their properties are as illusory as they are.
 個々の幻想を違ったものに見せている幻想それぞれの特性など、まったく重要ではありません。なぜなら、幻想の持つそれらの特性は幻想自体と同様、幻でしかないからです。




6. The body's eyes will continue to see differences.
 肉眼は、違いを目にし続けることでしょう。

 But the mind that has let itself be healed will no longer acknowledge them.
 しかし、自身を癒されるに任せた心は、もはや相違を認めることはありません。

 There will be those who seem to be "sicker" than others, and the body's eyes will report their changed appearances as before.
 ほかの者に比べて「より病んでいる」ように見える者たちはいるだろうし、以前と変わらず、肉眼は病んでいるように見える者たちの表面上の病状の変化を報告するでしょう。

 But the healed mind will put them all in one category; they are unreal.
 しかし、癒された心は、それらの外観上の変化をまとめてひとつのカテゴリーに分類します。それは、彼らが病んでいるのは真実ではないというものです。

 This is the gift of its Teacher; the understanding that only two categories are meaningful in sorting out the messages the mind receives from what appears to be the outside world.
 これは、心の癒しを教える大いなる教師からの贈り物です。それは、心が外の世界にあるように見えるものから受け取るメッセージを選別するうえで、ただふたつのカテゴリーだけが意味を持つという理解です。

 And of these two, but one is real.
 そして、このふたつのカテゴリーのうち、一方だけが本物です。

 Just as reality is wholly real, apart from size and shape and time and place--for differences cannot exist within it--so too are illusions without distinctions.
 ちょうど現実が、その中に相違が存在することなどありえないがゆえに、大きさや形や時間や場所といったものとは関係なく全面的に本物であるのと同じようにまた、幻想同士の間にも何らの差異もないのです。

 The one answer to sickness of any kind is healing.
 いかなる種類の病気であっても、それに対する唯一の答えは癒しです。

 The one answer to all illusions is truth.
 あらゆる幻想に対するたったひとつの答えは、真理なのです。





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Kino
2013/06/04 (Tue) 06:37

ken様いつも有難うございます。
奇跡のコース、まだ読み始めで恐縮ですが本稿について質問です。
奇跡のコースと私との出会いをどのように評価するかについてです。
現実世界が全て幻想であるとして、「奇跡のコース」の存在はどのように捉えるべきか。
現実世界を超越した"絶対存在/神"が自分を招いて引合わせて下さったのか、
それとも本稿に書かれているようにおこがましくも自らが創りだした側面もあると言えるのでしょうか。
また、エゴは、奇跡のコースに触れようとする私をどう眺めるのでしょう。
宿主で居続けさせるため干渉・妨害の手を尽くすのでしょうか。
奇跡のコースを触れるに際し、エゴと対峙する心構えをご指南頂ければ幸いです。
何卒どうぞ宜しくお願い致します。

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