There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

T6-intro,1 キリストの十字架刑の真の意味とは?

0   0

今回は、テキストから、第六章 愛のレッスンの序論と第一節 キリストの磔刑とそのメッセージをご紹介します。










Chapter 6 The Lessons of Love
第六章 愛のレッスン




Introduction
序論


1. The relationship of anger to attack is obvious, but the relationship of anger to fear is not always so apparent.
 怒りが攻撃につながるという関連性は明らかです。しかし、怒りが恐れにつながるという関連性は、必ずしもそれほど明白なわけではありません。

 Anger always involves projection of separation, which must ultimately be accepted as one's own responsibility, rather than being blamed on others.
 怒りはつねに分離しているとの思いの投影を伴いますが、それを他者のせいにして非難したりせずに、究極的には自分自身の責任として受け入れなければなりません。

 Anger cannot occur unless you believe that you have been attacked, that your attack is justified in return, and that you are in no way responsible for it.
 あなたが攻撃されたこと、それに対する報復としてあなたが攻撃することが正当化されること、そして、そんなことになった責任があなたにまったくないこと、この三つをあなたが信じていないかぎり、怒りが生じるはずがありません。

 Given these three wholly irrational premises, the equally irrational conclusion that a brother is worthy of attack rather than of love must follow.
 まったく不合理なことを、このように三つも前提にすれば、それと同様に、兄弟は愛するよりも攻撃するに値するといった不合理な結論が出ても、それは当然のことです。

 What can be expected from insane premises except an insane conclusion?
 狂気の前提からは、狂気の結論以外の何を期待できるというのでしょうか。

 The way to undo an insane conclusion is to consider the sanity of the premises on which it rests.
 狂気の結論を取り消す方法は、その結論が依拠する前提が正気で思いつかれたものなのかどうか、それをよく考えてみることです。

 You cannot be attacked, attack has no justification, and you are responsible for what you believe.
 あなたは攻撃されるはずがないし、攻撃が正当化される余地などないし、あなたが何を信じるかについてあなたに責任があるのは確かなことです。





2. You have been asked to take me as your model for learning, since an extreme example is a particularly helpful learning device.
 極端な実例はとくに学習に役立つ教材となるので、あなたが学ぼうとするなら私をモデルにするようにと勧めておきました。

 Everyone teaches, and teaches all the time.
 誰もがみんな教えており、それもつねに教えています。

 This is a responsibility you inevitably assume the moment you accept any premise at all, and no one can organize his life without some thought system.
 教えることは、あなたがなんらかの前提を少しでも受け入れた瞬間に、必然的に引き受けることになる責任です。そして、誰しも、なんらかの思考システムを持たずには、自らの生活にまとまりを持たせることはできません。

 Once you have developed a thought system of any kind, you live by it and teach it.
 いかなる種類の思考システムにせよ、いったん自分でそれを身につけると、あなたはその思考システムによって生き、その思考システムを教えることになります。

 Your capacity for allegiance to a thought system may be misplaced, but it is still a form of faith and can be redirected.
 あなたは、ある思考システムに忠実になる能力を見当違いのものに向けてしまっているかもしれません。しかし、それはそれで、なおも何かを信頼することができるということであり、その信頼をほかのものに向け直すことはできるのです。

名称未設定








I. The Message of the Crucifixion
一 キリストの磔刑のメッセージ


1. For learning purposes, let us consider the crucifixion again.
 学ぶ目的のために、私たちでもう一度、キリストの磔刑についてよく考えてみましょう。

 I did not dwell on it before because of the fearful connotations you may associate with it.
 前に私がこのことを長々と論じなかったのは、あなたが磔刑から連想して抱いてしまいかねない恐ろしいイメージのためでした。

 The only emphasis laid upon it so far has been that it was not a form of punishment.
 これまでのところ、磔刑について唯一強調しておいたのは、それが刑罰の一種ではなかったということだけでした。

 Nothing, however, can be explained in negative terms only.
 しかしながら、否定的な観点のみでは何も説明することはできません。

 There is a positive interpretation of the crucifixion that is wholly devoid of fear, and therefore wholly benign in what it teaches, if it is properly understood.
 キリストの磔刑を肯定的に解釈することもできるし、そう解釈することにはまったく恐れは伴いません。したがって、正しく理解されさえすれば、磔刑が教えようとすることはまったく恵み深いものです。





2. The crucifixion is nothing more than an extreme example.
 キリストの磔刑は、極端な実例でしかありません。

 Its value, like the value of any teaching device, lies solely in the kind of learning it facilitates.
 磔刑の価値は、いかなる教えの道具についても同じことがいえるように、それがどのような種類の学びを促進するのかということの中にしか見出すことはできません。

 It can be, and has been, misunderstood.
 磔刑は誤解されやすく、現にずっと誤解されてきました。

 This is only because the fearful are apt to perceive fearfully.
 これはひとえに、怖がる者は何でも恐ろしいものとして知覚してしまいがちだからです。

 I have already told you that you can always call on me to share my decision, and thus make it stronger.
 すでに告げたように、あなたはいつでも私を呼び出して私の決断を分かち合うことができるし、そうすることで、その決断を強めることができます。

 I have also told you that the crucifixion was the last useless journey the Sonship need take, and that it represents release from fear to anyone who understands it.
 私はまた、キリストの磔刑は神の子全体が辿るべき最後の無益な旅路であり、磔刑を理解する者は誰でも恐れから解放されることを意味するとも言っておきました。

 While I emphasized only the resurrection before, the purpose of the crucifixion and how it actually led to the resurrection was not clarified then.
 私は以前、キリストの復活だけを強調しましたが、そのときには、キリストの磔刑の目的と磔刑がいかにして実際に復活へとつながって行ったのかについては明確にはしませんでした。

 Nevertheless, it has a definite contribution to make to your own life, and if you will consider it without fear, it will help you understand your own role as a teacher.
 それにもかかわらず、磔刑の目的と復活のつながりは、あなた自身の人生に役立つのは確かだし、もしあなたが恐れることなく磔刑の目的と復活のつながりをよく考えるなら、それは教師としてのあなたの役割を理解するうえで、あなたの役に立つはずです。


名称未設定


3. You have probably reacted for years as if you were being crucified.
 たぶん、あなたは長い間、まるで自分が十字架に磔にされているように反応してきたことでしょう。

 This is a marked tendency of the separated, who always refuse to consider what they have done to themselves.
 この反応は、分離している者たちに見られる顕著な傾向であり、分離している者たちはつねに、彼らが自分たち自身にしてきたことをよく考えてみることを拒んでしまいます。

 Projection means anger, anger fosters assault, and assault promotes fear.
 投影は怒りを意味します。怒りは攻撃を助長し、そして、攻撃は恐れを生み出します。

 The real meaning of the crucifixion lies in the apparent intensity of the assault of some of the Sons of God upon another.
 キリストが磔刑にされたことの真の意味は、幾人もの神の子が別の神の子のひとりに加えた陵辱の見かけ上の苛烈さのうちにこそあります。

 This, of course, is impossible, and must be fully understood as impossible.
 もちろん、これはそう見えただけで、実際には不可能であるし、不可能なことだと完全に理解する必要があります。

 Otherwise, I cannot serve as a model for learning.
 さもないと、私は学習のモデルとしての役目を果たせなくなってしまいます。





4. Assault can ultimately be made only on the body.
 暴行を加えることができるのは、究極的には身体に対してだけです。

 There is little doubt that one body can assault another, and can even destroy it.
 ひとつの身体が別の身体に暴行を加え、その身体を破壊することさえできることには疑いの余地はありません。

 Yet if destruction itself is impossible, anything that is destructible cannot be real.
 しかし、もし破壊それ自体が不可能なことだとすれば、破壊可能であるものは何であれ、実在するはずがないないということになります。

 Its destruction, therefore, does not justify anger.
 したがって、身体が破壊されることは怒りを正当化しないということになります。

 To the extent to which you believe that it does, you are accepting false premises and teaching them to others.
 あなたが身体が破壊されることについて怒りを正当化できると信じるなら、そう信じる程度において、あなたは間違った前提を受け入れて、他の者たちにもその誤った前提を教えていることになります。

 The message the crucifixion was intended to teach was that it is not necessary to perceive any form of assault in persecution, because you cannot be persecuted.
 キリストの磔刑が教えようとしたメッセージは、迫害をいかなる形の攻撃としても知覚する必要はないということです。なぜなら、あなたが迫害されることはありえないからです。

 If you respond with anger, you must be equating yourself with the destructible, and are therefore regarding yourself insanely.
 もしあなたが怒りをもって反応するなら、あなたは自分のことを破壊可能なものに等しいと見ているに違いありません。したがって、あなたは自分自身のことを正気を失って見ているということになります。


名称未設定


5. I have made it perfectly clear that I am like you and you are like me, but our fundamental equality can be demonstrated only through joint decision.
 私はあなたと同じものであり、あなたは私と同じであるということを、私は完璧に明白にしてきました。しかし、私たちが根本的に等しいものであることは、ただひとつに結びつく決断をすることを通してのみ実証できます。

 You are free to perceive yourself as persecuted if you choose.
 もしあなたがそう選択するなら、自分が迫害されていると知覚するのはあなたの自由です。

 When you do choose to react that way, however, you might remember that I was persecuted as the world judges, and did not share this evaluation for myself.
 しかしながら、あなたが自分で選んでそのように反応するときでも、あなたには、この世界が私が迫害されたと価値判断しているとしても、私自身はそのような世界の評価を共有しなかったということを覚えておいてほしいのです。

 And because I did not share it, I did not strengthen it.
 そして、私は自分が迫害されたというこの世界の評価を共有しなかったのだから、私はその評価を強めたこともありません。

 I therefore offered a different interpretation of attack, and one which I want to share with you.
 したがって、私は攻撃に関する異なった解釈を提案したのです。そして、私はこの解釈をあなたと共有したいと望んでいます。

 If you will believe it, you will help me teach it.
 もしあなたが私が迫害されてなどいないというこの解釈を信じるなら、あなたは、私がこの解釈を教える手助けをしてくれることになります。





6. As I have said before, "As you teach so shall you learn."
 私が以前に述べたように、「自分の教えるように、あなたは学ぶ」ことになります。

 If you react as if you are persecuted, you are teaching persecution.
 もしあなたが、まるで自分が迫害されているかのように反応するなら、あなたは迫害を教えていることになります。

 This is not a lesson a Son of God should want to teach if he is to realize his own salvation.
 もし神の子が自分の救いを実現したいのなら、彼はこんなレッスンを教えたいなどと望むべきではありません。

 Rather, teach your own perfect immunity, which is the truth in you, and realize that it cannot be assailed.
 それよりも、あなた自身が迫害から完全に免れていることを教えてください。あなたが迫害に対する完璧な耐性を備えている事実こそ、あなたの中の真実なのです。だから、自分は攻撃されようがないということを理解してください。

 Do not try to protect it yourself, or you are believing that it is assailable.
 自分で自分自身を守ろうとなどしないでください。さもなければ、あなたは、自分が迫害によって攻撃されうると信じることになってしまいます。

 You are not asked to be crucified, which was part of my own teaching contribution.
 あなたには十字架に磔にされることなど求められていません。磔刑は私自身が教えのために役立てたことの一部だったのです。

 You are merely asked to follow my example in the face of much less extreme temptations to misperceive, and not to accept them as false justifications for anger.
 あなたはただ、私の例ほど極端ではないとしても、誤って知覚しそうな誘惑に面したときに、私の実例に倣うように、そして、その誘惑を怒りを感じる正当な理由だと間違って受け入れたりしないようにと求められているだけです。

 There can be no justification for the unjustifiable.
 正当化する余地のないものを正当なものにする理屈など、成り立つはずがありません。

 Do not believe there is, and do not teach that there is.
 正当化しようのないものを正当化する余地があるなどと信じてはならないし、正当化できないものを正当化できると教えたりしてもなりません。

 Remember always that what you believe you will teach.
 あなたは自らの信じることを教えるようになるということを、つねに忘れないでください。

 Believe with me, and we will become equal as teachers.
 私と一緒に信じてください。そうすれば、私たちは教師として等しいものになるでしょう。



名称未設定

7. Your resurrection is your reawakening.
 あなたの復活とは、あなたが再び目を覚ますことです。

 I am the model for rebirth, but rebirth itself is merely the dawning on your mind of what is already in it.
 私は生まれ変わるためのモデルですが、再生それ自体は、単に、あなたの心の中にすでにあるものが姿を現しはじめることでしかありません。

 God placed it there Himself, and so it is true forever.
 神自ら再生をあなたの心に置いたのだから、再生は永遠に真実です。

 I believed in it, and therefore accepted it as true for me.
 私は再生を信じ、それゆえに、再生することこそ、私にとっての真実であるとして受け入れたのです。

 Help me to teach it to our brothers in the name of the Kingdom of God, but first believe that it is true for you, or you will teach amiss.
 神の王国の名において、再生を私たちの兄弟たちに教えるために私を助けてください。ただし、まずはじめに、あなたにとって再生が真実であると信じてください。さもなければ、あなたは間違って教えることになってしまいます。

 My brothers slept during the "agony in the garden", but I could not be angry with them because I knew I could not be abandoned.
 「ゲッセマネの園での苦悶」の間、私の兄弟たちはずっと眠っていました。しかし、私は自分が見捨てられることはありえないとわかっていたので、私が彼らに対して腹を立てることができたはずがないのです。





8. I am sorry when my brothers do not share my decision to hear only one Voice, because it weakens them as teachers and as learners.
 私の兄弟たちが、ただひとつの大いなる声だけを聞くという私の決断を分かち合おうとしないとき、私は残念に思います。なぜなら、ひとつの大いなる声だけを聞こうとしないことが、教師として、そして、学ぶ者としての彼らの力を弱めてしまうからです。

 Yet I know they cannot really betray themselves or me, and that it is still on them that I must build my church.
 それでも、私は兄弟たちが、彼ら自身や私を真の意味で裏切ることはできないとわかっています。そして、私はなおも、私の教会をその兄弟たちの上に建てなければならないことを知っています。

 There is no choice in this, because only you can be the foundation of God's church.
 このことに選択の余地はありません。なぜなら、あなたがただけが神の教会の土台になることができるからです。

 A church is where an altar is, and the presence of the altar is what makes the church holy.
 教会とは祭壇のある場所を指します。そして、その祭壇の存在こそが教会を神聖なものにします。

 A church that does not inspire love has a hidden altar that is not serving the purpose for which God intended it.
 愛を呼び起こさない教会には、神が意図した目的のために奉仕することのない秘密の祭壇があるのです。

 I must found His church on you, because those who accept me as a model are literally my disciples.
 私は、あなたがたの上に神の教会を建てなければなりません。なぜなら、私をモデルとして受け入れる者たちこそ、文字どおり私の弟子たちだからです。

 Disciples are followers, and if the model they follow has chosen to save them pain in all respects, they are unwise not to follow him.
 弟子とは従う者です。だから、もし従うべき模範となる師が、あらゆる面で弟子たちが苦痛を味わわずに済むようにすることを選んだのだとすれば、弟子たちが師の選択に従わないのは賢明なことではありません。

名称未設定



9. I elected, for your sake and mine, to demonstrate that the most outrageous assault, as judged by the ego, does not matter.
 私は、あなたと私のためになるようにと、エゴの価値判断によれば、最も悪虐無道な蛮行でさえ問題ではないと実証することを選びました。

 As the world judges these things, but not as God knows them, I was betrayed, abandoned, beaten, torn, and finally killed.
 この世界が評価するところによると、この蛮行においては、私は裏切られ、見捨てられ、鞭打たれ、身を裂かれ、ついには殺されたということになっています。もちろん、そんなことは神の関知するところではありません。

 It was clear that this was only because of the projection of others onto me, since I had not harmed anyone and had healed many.
 これは単に他の者たちが私に投影したからでしかないのは明らかでした。なぜなら、私は誰ひとり傷つけることはなかったし、多くの人々を癒したからです。






10. We are still equal as learners, although we do not need to have equal experiences.
 私とあなたは、今なお学ぶ者として同等の存在です。だからといって、あなたが私と同等の経験をしなければならないということにはなりません。

 The Holy Spirit is glad when you can learn from mine, and be reawakened by them.
 あなたが私の経験から学ぶことができて、その学びによって再び目覚めるとき、聖霊は喜びます。

 That is their only purpose, and that is the only way in which I can be perceived as the way, the truth and the life.
 このように、あなたが私の経験から学んで再び目覚めることこそが、私の経験の唯一の目的です。そして、これこそ、私が道であり、真理であり、生命であるとして知覚されうるための唯一の方法です。

 When you hear only one Voice you are never called on to sacrifice.
 あなたがひとつの大いなる声にのみ耳を傾けるなら、あなたは決して犠牲を要求されることはありません。

 On the contrary, by being able to hear the Holy Spirit in others you can learn from their experiences, and can gain from them without experiencing them directly yourself.
 それどころか、他の者たちの中にいる聖霊からも聞くことができるようになるので、あなたは、他者の経験から学ぶことができるようになり、自分自身で直接的に経験をしなくても、他者の経験から学びを得ることができるようになります。

 That is because the Holy Spirit is One, and anyone who listens is inevitably led to demonstrate His way for all.
 その理由は、聖霊がひとつだからであり、聖霊に耳を傾ける者は誰でも、必然的に、聖霊の道をすべての者たちに実証する結果となるからです。


名称未設定






11. You are not persecuted, nor was I.
 あなたは迫害されていないし、私も迫害されたことなどありません。

 You are not asked to repeat my experiences because the Holy Spirit, Whom we share, makes this unnecessary.
 あなたには、私の経験を繰り返すことなど求められてはいません。なぜなら、私たちが共有する聖霊がそんな必要を無くしてくれるからです。

 To use my experiences constructively, however, you must still follow my example in how to perceive them.
 しかしながら、私の経験を建設的に使うために、私の経験をどのように理解するかという点においては、あなたは依然として私の例に倣うべきです。

 My brothers and yours are constantly engaged in justifying the unjustifiable.
 私の兄弟であり、あなたの兄弟でもある者たちは、道理に合わないことを正当化しようとして、始終、躍起になっています。

 My one lesson, which I must teach as I learned it, is that no perception that is out of accord with the judgment of the Holy Spirit can be justified.
 私がそれを私が学んだがゆえに教えなければならないレッスンのひとつは、聖霊の価値判断に一致しない知覚は、それがどのようなものであっても、正当化することはできないということです。

 I undertook to show this was true in an extreme case, merely because it would serve as a good teaching aid to those whose temptation to give in to anger and assault would not be so extreme.
 私は、このことが極端な事例においてさえも真実であると示すことを引き受けたのです。それはひとえに、それほど極端ではないにせよ、怒ったり攻撃したりしたくなるような誘惑に駆られる者たちにとって、私の実例がよい教えの助けとして役に立つはずだからです。

 I will with God that none of His Sons should suffer.
 私は神と共に、神の子らのうちの誰ひとりとして苦しまないようにと意図しています。





12. The crucifixion cannot be shared because it is the symbol of projection, but the resurrection is the symbol of sharing because the reawakening of every Son of God is necessary to enable the Sonship to know its Wholeness.
 キリストの磔刑は、分かち合うことはできません。なぜなら、それは投影の象徴だからです。しかし、復活は、分かち合いの象徴です。なぜなら、神の子全体が自らの完全さを知るためには、一人ひとりの神の子がみんな再び目覚めることが必要だからです。

 Only this is knowledge.
 ただこれだけが知識です。





13. The message of the crucifixion is perfectly clear:
 キリストの磔刑の伝える次のメッセージは完全に明瞭なものです。


Teach only love, for that is what you are.
愛だけを教えなさい。というのも、あなたは愛そのものだからです。





14. If you interpret the crucifixion in any other way, you are using it as a weapon for assault rather than as the call for peace for which it was intended.
 もしあなたがキリストの磔刑について、少しでもこれとは違った解釈の仕方をするなら、あなたは磔刑を、それが本来意図されていた平安への呼びかけとしてではなく、攻撃のための武器として使っていることになります。

 The Apostles often misunderstood it, and for the same reason that anyone misunderstands it.
 使徒たちですら、たいていこのことについて誤解していたし、同じ理由で誰もが誤解してしまいます。

 Their own imperfect love made them vulnerable to projection, and out of their own fear they spoke of the "wrath of God" as His retaliatory weapon.
 使徒たち自身の不完全な愛が投影に対する彼らの耐性を弱めてしまい、彼らは自分たちの恐れゆえに、神からの報復攻撃として「神罰」が降り懸かるなどと述べたりもしました。

 Nor could they speak of the crucifixion entirely without anger, because their sense of guilt had made them angry.
 また、彼らはキリストの磔刑について完全に怒りを感じないで話すことができませんでした。それというのも、彼らの罪の意識が彼らに怒りを覚えさせたからです。



名称未設定

15. These are some of the examples of upside-down thinking in the New Testament, although its gospel is really only the message of love.
 次に述べるのは、新約聖書の中にある倒錯した考え方のいくつかの例です。とはいえ、それらの福音は、本当はただ愛のメッセージでしかないのです。

 If the Apostles had not felt guilty, they never could have quoted me as saying, "I come not to bring peace but a sword. "
 もし使徒たちが罪悪感を抱いていなかったなら、私の言った言葉として「私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」と引用することなど彼らには決してできなかったはずです。

 This is clearly the opposite of everything I taught.
 この言葉が、私が教えたすべての対極であることは明らかです。

 Nor could they have described my reactions to Judas as they did, if they had really understood me.
 また、もし使徒たちが私を真に理解していたなら、ユダに対する私の反応を聖書にあるようには描写できなかったはずです。

 I could not have said, "Betrayest thou the Son of man with a kiss? " unless I believed in betrayal.
 もし私が裏切りを信じていたのでもないかぎり、私が「汝は口づけをして人の子を裏切るのか」と言ったはずがありません。

 The whole message of the crucifixion was simply that I did not.
 磔刑のメッセージ全体が伝えようとすることを単純に言うならば、私は裏切りを信じてなどいなかったということになります。

 The "punishment" I was said to have called forth upon Judas was a similar mistake.
 私がユダに「罰」を呼び起こしたことになっているのも、同じ間違いです。

 Judas was my brother and a Son of God, as much a part of the Sonship as myself.
 ユダは私の兄弟であり、神の子でした。そして、私自身と同じように神の子全体の欠かせない一部でした。

 Was it likely that I would condemn him when I was ready to demonstrate that condemnation is impossible?
 有罪を宣告することなど不可能だと実証する用意のできていたこの私が、ユダに対して罰を科そうとしたなどということがありえたでしょうか。





16. As you read the teachings of the Apostles, remember that I told them myself that there was much they would understand later, because they were not wholly ready to follow me at the time.
 あなたが使徒たちの教えを読むに際しては、私自身が使徒たちに対して、あとになって彼らに理解できるようになることがたくさんあると彼らに告げていたことを思い出すようにしてください。というのも、使徒たちはその当時、私に従う準備が完全にはできていなかったからです。

 I do not want you to allow any fear to enter into the thought system toward which I am guiding you.
 私はあなたに、私があなたを導こうとしている思考システムの中に、どのような恐れも入り込ませないようにしてほしいのです。

 I do not call for martyrs but for teachers.
 私は殉教者を求めてなどいません。そうではなくて、私は教師を求めているのです。

 No one is punished for sins, and the Sons of God are not sinners.
 誰ひとり、罪について罰を受ける者はありません。神の子たちは罪人ではないのです。

 Any concept of punishment involves the projection of blame, and reinforces the idea that blame is justified.
 処罰という概念は、どれも必然的に責任転嫁のための投影を伴います。そして、責任を問うことは正当なことであるという考え方を強化します。

 The result is a lesson in blame, for all behavior teaches the beliefs that motivate it.
 その結果として、非難することを学ぶことになります。というのも、いかなる振る舞いであっても、その振る舞いの動機となっている信念を教えることになるからです。

 The crucifixion was the result of clearly opposed thought systems; the perfect symbol of the "conflict" between the ego and the Son of God.
 キリストの磔刑は、明確に対立する思考システムの帰結であり、エゴと神の子の「葛藤」を完璧に象徴するものです。

 This conflict seems just as real now, and its lessons must be learned now as well as then.
 この葛藤は、今でも、まさに現実のものように思えます。だから、そのレッスンを当時と同じように、今、学ばなければならないのです。


名称未設定


17. I do not need gratitude, but you need to develop your weakened ability to be grateful, or you cannot appreciate God.
 私は感謝を必要としません。しかし、あなたは、衰えてしまった感謝するという自分の能力を改めて発達させなければなりません。さもないと、あなたは神の真価を認めることができないからです。

 He does not need your appreciation, but you do.
 神は、あなたに真価を認めてもらうことを必要としてはいません。しかし、あなたには、神の真価を認める必要があるのは確かです。

 You cannot love what you do not appreciate, for fear makes appreciation impossible.
 あなたは、自分が真価を認めないものを愛することができません。なぜなら、恐れが正しく評価することを不可能にしてしまうからです。

 When you are afraid of what you are you do not appreciate it, and will therefore reject it.
 あなたが自分の本来の姿に恐れを抱くとき、あなたは自分の真価を認めてはいないし、それゆえに、あなたは自分の真価を受け入れようとはしないでしょう。

 As a result, you will teach rejection.
 その結果、あなたは拒絶を教えることになってしまうのです。





18. The power of the Sons of God is present all the time, because they were created as creators.
 神の子たちの力はつねに存在します。なぜなら、神の子たちは創造者として創造されたからです。

 Their influence on each other is without limit, and must be used for their joint salvation.
 神の子同士がお互いに与える影響力には限りがありません。そして、その影響力は彼らが一緒に救済されるためにこそ用いられるべきものです。

 Each one must learn to teach that all forms of rejection are meaningless.
 神の子の一人ひとりは、どんな形であれ、拒絶することは無意味であると教えることを学ばなければなりません。

 The separation is the notion of rejection.
 分離とは、拒絶するという観念です。

 As long as you teach this you will believe it.
 あなたが拒絶することを教えるかぎり、あなたは分離を信じることでしょう。

 This is not as God thinks, and you must think as He thinks if you are to know Him again.
 これは神の考え方ではないし、もしあなたが再び神を知ろうとするなら、あなたは神が考えるように考えなければなりません。





19. Remember that the Holy Spirit is the Communication Link between God the Father and His separated Sons.
 聖霊は、父なる神と分離した神の子たちとのコミュニケーションの絆であることを思い出してください。

 If you will listen to His Voice you will know that you cannot either hurt or be hurt, and that many need your blessing to help them hear this for themselves.
 もしあなたが聖霊の大いなる声に耳を澄ますならば、あなたは、自分が誰かを傷つけることも誰かに傷つけられることも不可能だと知るでしょう。そして、大勢の者たちがこのことを自分で聞けるようになるための助けとして、あなたからの祝福を必要としていることもわかってくるでしょう。

 When you perceive only this need in them, and do not respond to any other, you will have learned of me and will be as eager to share your learning as I am.
 あなたがただ、彼らの中にこの必要性だけを知覚し、ほかのことには何も反応しなくなったなら、あなたは私から学んだということです。そうなれば、あなたは私と同じように、自分の学んだことを分かち合いたいと熱望するようになるはずです。

名称未設定


いつも読んでいただき、ありがとうございます!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ ACIMへ
ポチリよろしく!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村


ポチッとお願いします!

2air_rankクリックお願いします
関連記事

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

trackbackURL:http://thereisnospoon.jp/tb.php/304-ac5e4ea5
該当の記事は見つかりませんでした。