There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

M14 世界の終わり

0   0

今回もマニュアルからで、第14節をご紹介します。

教師のためのマニュアルは比較的平易な文で書かれており、全部でも数が少ないので、早めに全体をご紹介できればと思っています。

第14節は、世界の終わり方についてです。



ゲイリーレナードさんの「神の使者」の原題は「Disappearance of the universe」(宇宙の消滅)でした。

世界の終わりというと、私たちは、大災害であるとか隕石が地球に衝突して破滅するとか仰々しいものを想像しがちです。

でも、コースの言うところでは、世界の終焉は、世界が破壊されることなどではなく、世界が天国へと変容することのようです。

「1. これは、本当にシンプルなコースです。

 たぶんあなたは、最終的に神の現実だけが真実であることを教えるコースなど、自分が必要としているとは感じられないかもしれません。

 しかし、あなたは現実だけが真実であることを信じているでしょうか。

 あなたが真の世界を知覚するとき、あなたは、自分が神の現実だけが真実であることを信じていなかったことに気づくでしょう。

 しかし、あなたの新しい唯一の真なる知覚は、現実だけが真実だと悟るために一瞬を要するだけで、速やかに知識へと変換されることでしょう。

 そのあと、あなたの作ったあらゆるものは、善なるものも悪しきものも、偽りも真実も、すべて忘れ去られます。

 というのも、天と地がひとつになるに従い、真の世界さえも、あなたの視界から消え去るからです。

 この世界の終わりとは、世界が破壊されることではありません。そうではなくて、世界が天国へと変容することです。

 この世界を解釈し直すことは、すべての知覚を知識へと移すことなのです」(テキスト 第十一章 八 問題と答え)




そして、マニュアルは「罪についての思いがひとつも残らなくなったとき」に世界は終わるといいます。

罪についての思いがひとつも残らなくなるなんて、これだけの大勢の人類がいて、戦争もなくならないのに、いつになったら、そんなときが来るのか考えただけで気が遠くなってしまうという感想をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。

これに対しては、神の教師たちの内の誰であってもよいので、ただひとりの神の教師が完璧な赦しによって自分自身のための贖罪を完了できれば、その瞬間、罪についての思いはひとつも残らなくなるといいます。

ひとりの神の教師によって完璧に赦されたたったひとつの罪が、救済を完了させることを理解するのが最後のレッスンであるということです。

でも、たったひとりの教師がたったひとつの罪を赦したところで、そんなことは、この世界にいるほかの大勢の人たちにとっては関わりの無いことであり、意味をなさないのであって、その人たちが依然として罪悪感を解消できないかぎりは、罪についての思いが残ったままということになるはずなんじゃないの?というのがこの世界の常識的な考え方のはずです。

これに対しては、マニュアルでは、たしかにそのとおりで、この世界の考えによるかぎりは、このことは理解できるはずがないと言います。

そして「この世界の終焉をもたらす最終レッスンは、まだ世界を後にして、世界というちっぽけな広がりを超越する準備のできていない者たちには理解できないものです。」と言われてしまいます。私たち未熟者としては耳が痛いところです。


さて、上記のようにマニュアルでは、これこそが最終のレッスンであり、このレッスンをクリアすれば、神の子の一体性が回復されると言います。

いったいどういうことなのでしょうか。何で、何十億人もいるのにその中のひとりがたったひとつだけ完璧な赦しを遂げれば贖罪が完了できるというのでしょうか。

以前に、すでに神の現実においては、世界は終わっていて救済も完了しているとコースは説明するということをお話ししました。

これがその通りだとすれば、客観的にはすでに世界は終了し救いも完了しているにもかかわらず、ひとりの神の子が自分をばらばらに無数に分裂させ、それぞれに仮面を被って幻想の世界の中にいる身体という牢獄の中に幽閉されていると思いこんでいるせいで、夢から抜け出せなくなっているだけということになります。

このように本来の状態よりも劣った状態だと誤信して、本当であればできることができなくなってしまっている状況について、その誤解を解いて本来の状態を回復させようとするのがコースの神髄ですが、直接的に、そのことを述べている箇所を抜粋します。

「10. You are in an impossible situation only because you think it is possible to be in one.
 あなたがありえない状況の中にいるのは、ただあなたが自分で、そんな状況の中にいることが可能だと思っているからでしかありません。

 You would be in an impossible situation if God showed you your perfection, and proved to you that you were wrong.
 もし神があなたの完全さをあなたに見せておきながら、そのうえで、あなたは間違っていたと証明したとすれば、それこそ、あなたはとうていありえない状況にいることになるでしょう。

 This would demonstrate that the perfect are inadequate to bring themselves to the awareness of their perfection, and thus side with the belief that those who have everything need help and are therefore helpless.
 このことは、完全である者が自らの完全さを自覚するためには、その完全性だけでは不十分であることを実証することになり、したがって、すべてを持っている者たちであるのに、自分には助けが必要であり、それゆえに、自分は無力な存在であると信じてしまうことがありうることを根拠づけることになってしまいます。

 This is the kind of "reasoning" in which the ego engages.
 これが、エゴが操ることに没頭する「理由づけ」の仕方です。」(テキスト 第六章 四 唯一の答え)



つまり、完全な力を持つ神の子は、自分が無力であると信じこむ力も当然備えているので、もしそんなふうに思ってしまったが最後、そのようになってしまう(エゴはこの理屈で神の子を無力化させることに没頭している)ということです。


そして、その状態から脱出するには、単に客観的に力があるという事実だけでは足りないということです。これはもっともなことでしょう。

そして、何十億人もいるのに、そのうちのたったひとりがたったひとつ赦しを完璧になしたところで、ほかのたくさんの人や無数にある残りの幻想とは関係ないでしょ?という発想になるのは、この世界は幻なんかではなく、何十億人もの個別の心がエゴという仮面を被り身体という服をまとっている状態の方が本当で、神の子がひとりということが本当ではないという前提に立っているからこそということになります。

つまり、神の子の大いなる心は、個別の心として眠りこけ、エゴ・身体として夢の中での人生を生きていますが、ひとりきりの世界を夢見ていようが、数十億人になっている世界を夢見ていようが、目を覚ますうえで重要なことは、夢の中での登場人物の数や世界の広さや複雑さなんかではないはずです。

重要なのは、幻想性を完璧に理解し、その幻を取り消すことです。

そして、そのためには、中途半端な赦し(この世界の概念としての「許し」(forgivenes-to-destroy 殺す許し、滅びの許し))が混じったようなもの)を大量に行うことなんかよりも、たったひとつの幻想であっても、完璧な赦しを実現することが要点となります。

そして、ここでは、前にお話しした奇跡に難しさの序列が無いという理解が絶対的に必要になります。
幻想なわけですから、幻の中のどれを取り上げようとも、すべて幻でしかないはずで、一部だけ真理が混じっているなどということはなく、程度差があるわけではありません。

しかし、客観的にそうだとしても、幻であると信じることができる程度には程度差があるのはたしかです。

一見、世界の中には、幻想100%で容易に作り物だと信じられるものから幻想50%真理50%のもの、さらには、幻想1%真理99%のものまで、いろいろ取り揃えがあるように見えはします。

幼児向けの絵本の中の怪獣であれば、幻想100%で安全ですが、地球の存在そのものや自分の家族や仕事、とくに自分の身体が幻想100%だなんて信じられません。

世界は幻であってもいいし、ほかの人たちも幻でいいから、せめて自分だけは実在するものであって幻想だなんてことはあるべきではない、身体は譲るにしても、魂だけは譲れない、身体の幻想度50%にするから、魂の幻想度は0%にしておきたいということにならないでしょうか。

このようなエゴ本位の視点を抜きにしても、一昔前には治療法が無かった難病でも、つい最近承認されたばかりの新薬を用いれば、助かるかもしれないという奇跡は50%くらいの難易度に見えるかもしれません。

日本人からアメリカ大統領を目指すであるとか、いろいろ難易度にはバリエーションがあるように見えます。

確実に死んでしまった人をよみがえらせたり、すでに火葬された人が身体を持って目の前に姿を現すというのは、難易度99.9%のように見えるでしょう。



それでも、世界が幻想であるとすれば、この世界に現れて移り行く出来事はすべて、パソコンのモニター上に、高精細なリアリティを持った画像が表示され、本物にしか見えないのと原理的に変わりはありません。

そして、こんな高精細のパソコン上の画像も、昔の8ビットパソコンやファミコンのような粗いドット絵で見るからに作り物でしかないとわかるものと比べると気づきにくいとしても、小さなドットの集まりにすぎないという点で、仕組み的には相違はないのです。

地上を歩く人は、空間上の一定の場所が次々に時間経過とともにオン・オフさせられているだけで、マリオたちゲーム・キャラクターが、モニター上のドットの各部位の集合が点滅することによって、画面上では実際に走っているように見える仕組みと同じです。モニター自体は静止したままであるように、時空間も個別の心がスクリーンとなっているだけで静止したままです。

マリオ


これは、ゲームセンターの3Dタイプのレーシング・ゲームやシューティング・ゲームなんかとまったく同じです。

人は自分が歩いて、世界の中を移動していると思っていますが、実際は、自分の心というスクリーンに映し出された世界が自分の方に向かって流れています。自分がどこかに行くとき、自分が行くのではなく、その場所が自分の方にやってくるのです。


これがマトリックスのネオのようなアノマリーが空を飛ぶ仕組みでもあります。
基本設定では人は空を飛ばないようになっていますが、地上であれ空中であれ、キャラクターが移動する設定にプログラムを変更したり、設定を免れるバグであれば、地上を歩くのとまったく同じように空を飛ぶことになります。




奇跡の難易度があるとの信念が生じるのは、知覚によって騙されることが原因です。
一般的に知能が高く、かつ、感覚器管の働きの鋭敏な人ほど、その優れた知覚ゆえに、幻想世界に騙されやすいという皮肉な面があります。
頭でっかちになりがちなタイプの方は、肚の人であるとかハートの人といった自分と違うタイプの人たちにも学ぶべきでしょう。
さらに言うならば、こと真理へのアクセスの容易さという観点で言うなら、特定の器官を封じる身体をまとう人たちは、それによって、感覚器管に惑わされることなく、真理に接近することができる点でずっと優位にあるということもできます。

いずれにせよ、みんなひとりの神の子が多様な形で現れている仮初めの姿にすぎないのであれば、それぞれが自分の持ち味を生かすことに専念し、得たものをみんなに還元できるようになりたいものです。


さて、この完璧な赦しが実現できれば、完璧な赦しのきっかけとなった赦しの対象となる幻想がたったひとつであろうとも、この世界そのものが、そんなひとかけらの幻想と同じような、エゴのでっちあげがフラクタル的に、同じ仕組みで展開して広がって存在するように見せかけて知覚させられているだけなわけですから、たったひとつの幻想を完璧に赦して取り消すことができた目(キリストのヴィジョン)には、ほかの世界全体も取り消されたひとつの幻想と同じように知覚されるので、自動的に幻想世界全体も取り消されることになるということです。


そして、この完璧な赦しを達成するのがたったひとりであったとしても、完璧な赦しを遂げた時点で、その個別の心はすでに、自分自身だと思いこんでいた個別の心は幻であって、それらの個別の心全体が一体となった大いなる自己こそが本当の自分だったのだと気づくことになるので、大いなる自己が投影してこの世界に影のように映し出していた無数の個別の身体たちは姿を消し、見る者であった彼はただ実在するだけとなります。


マトリックス・レボリューションズのアーキテクトのモニターのたくさん並んだ部屋を思い出してください。

個別の心になりきっているとはいえ、大いなる自己は、本当はひとりしかいません。

個別の心を一つひとつのモニター画面、そして、大いなる自己をアーキテクトのようなひとりの人物とすると、実際に、仮想世界の中のキャラクターの膨大な数に対応した魂のような存在(以前に魂は個別の心と同じで実在しないというお話をしました)があるとしか思えないけれど、究極的には、魂は実在せず、究極的に、見る者として存在するのは大いなる自己としてのひとりの神の子だけだという例になると思います。


見る者である大いなる自己は、たくさんのモニターという窓を通じて、それぞれの窓ごとに別々の自分が存在していると信じこんでいます。

ですが、どんな小さな窓を通じてであれ、窓の向こう側に見えている世界が自分で好きなように投影して作り出している幻であり、窓の向こう側にいると思いこんでいた登場人物たちは、実は、ほかの窓を通して幻の世界を覗いていた自分自身だったということにとことん気づいて、窓の中を覗きこんでいるのをやめて、モニターのたくさんある部屋の中に居る自分自身に気づいたなら、目を覚ますにはそれで十分なはずです。



冒頭で、客観的に完全なるものが、主観的に自分のことを不完全なものであると誤信して、無力なものへと自分の存在と力を制限してしまった場合、客観的に完全であることだけでは、本来の自分の姿と力を取り戻すには不十分であるというお話が出ました。

失った記憶を取り戻すことをテーマにする映画はたくさんあります。
多くは、過去を辿る旅などを経て、本当の自分を取り戻すという結末です。

これに対して、コースは、過去や未来も見ることなく、現在にあることによって、永遠へと帰還することを提案します。


とはいえ、主観面の問題だからと言って、ひたすら瞑想に耽り、「今ここ!」「我は神なり!」云々と唸りながらやっていたところで、人によっては長い長い苦行の末に、本来の力を取り戻すこともあるかもしれませんが、それはとても困難な道です。コースは、それは退屈で非常に時間を浪費することだといいます。

「4. あなたがほんの一瞬でも過去も未来も見ないでいようとの意欲を持たないかぎり、心置きなく神聖な瞬間を受け入れることなど不可能です。

 あなたは神聖な瞬間を未来に置くことなくして、神聖な瞬間の準備をすることはできません。

 解放は、あなたがそれを強く望んだ瞬間に与えられるものです。

 数多くの者たちが準備のために一生を費いやし、確かに成功の一瞬を達成してきました。

 このコースは、彼らが時間の中において習得したもの以上のことを教えようとはしていませんが、習得にかかる時間を節約することに狙いを定めています。

 あなたは、自らの受け入れた目標に向かって、とても長い道程を辿ろうとしているかもしれません。

 罪に対して戦いを挑むことによって贖罪に到達しようとするのは、困難きわまりないことです。

 忌み嫌われ、蔑まれたものを神聖にしようとして、気の遠くなるような努力が費やされることになります。

 肉体からの解脱を目指して、生涯を沈思黙考に明け暮れることも、長期間の瞑想を繰り返すことも必要ではありません。

 そのような試みはすべて、目的のゆえに、最終的には成功はするでしょう。

 しかし、その手段は退屈な上に非常に時間を浪費することになります。というのも、そのような試みはどれもすべて、現在の自分が目標に値せず、不適格であるとの心境から解放されることを求めて未来に目を向けるものだからです。」(テキスト第十八章 七 私は何もする必要はない)

それでは、瞑想や修行以外にやることがあるとするなら、いったい何をすればよいのでしょうか。

その答えはコース全体であるというしかないところですが、テキストから参考になりそうな箇所を三つ抜粋します。

それは、聖霊にすべてを明け渡して聖霊の導きを受けながら、自分がひとりきりではない(みんなで神の子)ということを思い出す意欲を持ち、自分がすべてを持っているということを、兄弟に与えることによって知るということです。

「6. 聖霊があなたに求めることは次のことだけです。それは、あなたが聖霊に対してしまいこんできた秘密をひとつ残らず打ち明けて欲しいということです。

 聖霊に対してすべての扉を開いてください。そして、聖霊に、闇の中に入って、光によって闇を払拭してもらってください。

 あなたの願いに応じて、聖霊は喜んで闇に入ってきてくれます。

 もしあなたが聖霊に闇をさらけ出すならば、聖霊は闇に光を当てくれます。

 しかし、あなたが隠しているものを聖霊は見ることができません。

 聖霊は、あなたのために見てくれるとはいえ、あなたが一緒に見ようとしないかぎりは、聖霊には見ることができません。

 キリストのヴィジョンは聖霊だけのものではありません。それは、あなたと一緒になった聖霊のためのものなのです。

 それゆえに、あなたの暗くて秘密にしている思いのすべてを聖霊に渡し、聖霊と一緒にその闇をよく見てください。

 聖霊が光を掲げ、あなたが闇を持っています。

 あなたと聖霊が揃って闇と光を見つめれば、闇と光は共存することなどできません。

 聖霊の裁きが勝利するに違いありません。そして、あなたが自分の知覚を聖霊の知覚に結び合わせれば、聖霊は自らの価値判断をあなたに与えてくれるでしょう。」(テキスト 第十四章 七 聖霊と知覚を分かち合う)


「10. 密かに自分ひとりだけで神を思いだそうとしても、それは不可能というものです。

 なぜなら、神を思い出すということは、あなたがひとりきりではないことを意味し、あなたが自発的に自分がひとりきりではないことを思い出そうと意欲することだからです。

 どんな思いでも、それを自分だけのものにしてはなりません。なぜなら、あなたが抱く思いは何ひとつあなたひとりのものではないからです。

 もしあなたが父を思い出したいのなら、聖霊に自分の思いを秩序立ててもらい、そのうえで、聖霊があなたに答えてくれる答えだけを兄弟に与えるようにするだけでいいのです。

 誰もがみな、あなたが愛を探すのと同じように愛を探し求めています。しかし、あなたと一緒に愛を探求するようにならないかぎり、彼が愛を知ることはありません。

 もしあなたが一緒に愛の探求に取りかかるならば、あなたが持っていくことになる非常に強力な光によって、あなたたちが目にするものに意味が与えられることになります。

 ひとりでの旅は、旅路において見出すであろうものを排除してしまっているために、失敗に終わってしまうのです。」(テキスト 第十四章 十 奇跡の平等性)


「1. もしあなたが恵まれているにもかかわらず、自分が恵まれていることを知らないとすれば、あなたは自分が恵まれているに違いないということを学ぶ必要があります。

 知識は教えられるものではありませんが、知識を得るための条件は習得されなければなりません。なぜなら、投げ捨てられてしまっているのはこれらの知識の条件だからです。

 あなたは恵みを与えることを学ぶことができますが、あなたは自分の持っていないものを与えることはできません。

 そうだとすれば、もしあなたが恵みを差し延べるなら、恵みは最初にあなた自身の許へとやってくるに違いありません。

 そうなれば、あなたもまた、その恵みを自分のものとして受け入れるに違いありません。なぜなら、そうでなければ、あなたにはその恵みを人に与えることができないからです。

 だから、奇跡はあなたに対して、あなたが恵まれていることを証明してくれるのです。

 もし、あなたが捧げるものが完全な赦しであるとすれば、あなたは罪悪感を放棄し、自分自身のために贖罪を受け入れ、自分が罪なき者であると学ぶに違いありません。

 恵みがあなたのために差し延べられていたとしても、あなたが人に恵みを差し延べるという自分のなすべきことをしない限り、あなたは、自分の知らないうちに、自分に恵みが差し延べられていたということを知ることができないでしょう。」(テキスト 第十四章 一 学びのための条件)


これが旅が必要な理由です。青い鳥はいつでも自分の部屋にはいましたが、チルチルたちが旅に出ることがなければ、その真価がわからないままでした。


では、そろそろ、マニュアル本文を読んでいただくとして、この節では、神の教師が最終レッスンを遂げることについて、述べられています。
謙虚な方は、自分はどちらかといえば生徒であって、神の教師になんてなれないという考えを持ってしまうかもしれません。

またの機会に、神の教師と生徒についてのマニュアルの節をご紹介しますが、与えることと受け取ることは同じで、教えることによって学ぶのであり、究極的に教師も生徒も同じひとりの神の子であるのであって、生徒は教師になるとされます。

ですから、ぜひ自分のこととして読んでいただきたいと思います。






Section 14
How Will the World End?
第14節
どのようにして世界は終わるのか


1. Can what has no beginning really end?
 始まりを持たないものが本当に終わるということができるでしょうか。

 The world will end in an illusion, as it began.
 世界は、それが始まったときと同じように幻想の中で終わりを迎えるでしょう。

 Yet will its ending be an illusion of mercy.
 しかし、世界の終焉は慈悲に満ちた幻想となることでしょう。

 The illusion of forgiveness, complete, excluding no one, limitless in gentleness, will cover it, hiding all evil, concealing all sin and ending guilt forever.
 完璧で誰ひとり除外することなく、優しさに限りのない赦しという幻想が、世界を包みこみ、あらゆる邪悪の姿を見えないようにし、すべての罪が目にされることがないようにして、罪悪感に永遠に終止符を打ちます。

 So ends the world that guilt had made, for now it has no purpose and is gone.
 こうして、罪悪感が作り上げてきた世界は終わりを迎えます。というのも、今や世界は何の目的も持たなくなったので、世界は去ってしまうからです。

 The father of illusions is the belief that they have a purpose; that they serve a need or gratify a want.
 幻想の生みの親は、幻想には目的があるという信念です。その目的というのは、幻想を必要性に奉仕させるとか、幻想によって不足を満たすということです。

 Perceived as purposeless, they are no longer seen.
 目的のないものと知覚されることで、もはや幻想は見えなくなります。

 Their uselessness is recognized, and they are gone.
 幻想が何の役にも立たないことが気づかれたなら、幻想は消え去ることになります。

 How but in this way are all illusions ended?
 このようにして以外に、どのようにして幻想が終わるというのでしょうか。

 They have been brought to truth, and truth saw them not.
 幻想は、真理の許へともたらされてきましたが、真理は幻想に目もくれませんでした。

 It merely overlooked the meaningless.
 真理は単に無意味なものを無視しただけでした。



2. Until forgiveness is complete, the world does have a purpose.
 赦しが完了するまでは、この世界は確かに目的を持ちます。

 It becomes the home in which forgiveness is born, and where it grows and becomes stronger and more all-embracing.
 この世界は、赦しが生まれ、そして、育ち、より強く、よりいっそうすべてを包みこむようになるまでの赦しの家となります。

 Here is it nourished, for here it is needed.
 この世界において、赦しは育まれます。というのも、この世界においてこそ、赦しが必要とされているからです。

 A gentle Savior, born where sin was made and guilt seemed real.
 赦しは、罪が作り出され、罪悪感が実在するように見えた場所に生まれた優しい救い主です。

 Here is His home, for here there is need of Him indeed.
 ここが救い主の家です。なぜなら、この世界こそ本当に彼のことを必要としているからです。

 He brings the ending of the world with Him.
 救い主は、彼と一緒に世界に終焉をもたらすのです。

 It is His Call God's teachers answer, turning to Him in silence to receive His Word.
 救い主の呼び声に神の教師たちは答え、救い主の大いなる言葉を受け取るために静寂の中で彼のほうに向き直ります。

 The world will end when all things in it have been rightly judged by His judgment.
 世界の中のあらゆる物事が救い主の判断によって正しく裁かれたとき、世界は終わりを迎えます。

 The world will end with the benediction of holiness upon it.
 世界に対する神聖さの祝福とともに、世界は終わることでしょう。

 When not one thought of sin remains, the world is over.
 罪についてひとつの思いも残らなくなったとき、世界は終わります。

 It will not be destroyed nor attacked nor even touched.
 世界は破壊されるのでもなく、攻撃されるのでもなく、ましてや触れられることすらありません。

 It will merely cease to seem to be.
 世界は、単に存在するように見えていたことをやめるだけです。



3. Certainly this seems to be a long, long while away.
 たしかに、世界が存在するように見えるのをやめることには、長い長い時間がかかるように見えます。

 "When not one thought of sin remains" appears to be a long-range goal indeed.
 「罪についての思いがひとつも残らなくなったとき」というのは、実に、長期間を要する目標のように見えてしまいます。

 But time stands still, and waits on the goal of God's teachers.
 しかし、時間は静止し、そして、神の教師たちが目標に到達するのを待ち受けています。

 Not one thought of sin will remain the instant any one of them accepts Atonement for himself.
 神の教師たちのうちの誰であれ、自分自身のために贖罪を受け入れた瞬間、罪についての思いはひとつも残らなくなることでしょう。

 It is not easier to forgive one sin than to forgive all of them.
 あらゆる罪を赦すことに比べると、ひとつの罪を赦すことのほうが簡単ではないのです。

 The illusion of orders of difficulty is an obstacle the teacher of God must learn to pass by and leave behind.
 難易度に序列があるとの幻想は、神の教師が通り過ぎてあとにすべきひとつの関門です。

 One sin perfectly forgiven by one teacher of God can make salvation complete.
 ひとりの神の教師によって完璧に赦されたたったひとつの罪が、救済を完了させることができます。

 Can you understand this?
 あなたはこのことを理解できるでしょうか。

 No; it is meaningless to anyone here.
 できないはずです。ひとりの教師がたったひとつの罪を赦したところで、そんなことは、この世界にいる誰にとっても意味をなさないからです。

 Yet it is the final lesson in which unity is restored.
 しかし、これこそが最後のレッスンであり、これを学ぶことで、神の子の一体性が回復されることになります。

 It goes against all the thinking of the world, but so does Heaven.
 ひとりの教師がひとつの罪を赦すことが救済を完了させるということは、この世界のどのような考え方にも逆らうものです。しかし、そうすることで天国は実現されるのです。

 


4. The world will end when its thought system has been completely reversed.
 この世界の思考システムが完全にひっくり返されたとき、世界は終わるでしょう。

 Until then, bits and pieces of its thinking will still seem sensible.
 そのときまでは、この世界の考え方の断片が依然として意味を持つように見えるでしょう。

 The final lesson, which brings the ending of the world, cannot be grasped by those not yet prepared to leave the world and go beyond its tiny reach.
 この世界の終焉をもたらす最終レッスンは、まだ世界をあとにして、世界というちっぽけな広がりを超越する準備のできていない者たちには理解できないものです。

 What, then, is the function of the teacher of God in this concluding lesson?
 そうだとすれば、この救済を完了させるレッスンにおける神の教師の役割は何なのでしょうか。

 He need merely learn how to approach it; to be willing to go in its direction.
 彼は単に、どのように最終レッスンにアプローチすればよいか、つまり、最終レッスンに向けて進む意欲の持ち方を学ぶ必要があるだけです。

 He need merely trust that, if God's Voice tells him it is a lesson he can learn, he can learn it.
 彼に必要なことは、単に、もし神の大いなる声が彼にこの最終レッスンを彼が学ぶことができると告げているのなら、自分はこのレッスンを学ぶことができるはずだと信頼することだけです。

 He does not judge it either as hard or easy.
 彼がするのは、最終レッスンのことを困難であるとも簡単であるとも判断することではありません。

 His Teacher points to it, and he trusts that He will show him how to learn it.
 彼の内なる教師である聖霊が最終レッスンを指し示してくれます。だから、彼は、聖霊が自分にどのように最終レッスンを学べばよいか示してくれるだろうと信頼してよいのです。

 


5. The world will end in joy, because it is a place of sorrow.
 世界は、喜びの中で終わるでしょう。なぜなら、世界は、悲しみの場所だからです。

 When joy has come, the purpose of the world has gone.
 喜びがやってくるとき、世界の目的は去っています。

 The world will end in peace, because it is a place of war.
 世界は平安のうちに終わるでしょう。なぜなら、この世界は争いの場所だからです。

 When peace has come, what is the purpose of the world?
 平安がやってくるとき、この世界に何の目的があるというのでしょうか。

 The world will end in laughter, because it is a place of tears.
 世界は笑い声の中で終わるでしょう。なぜなら、この世界は涙の溢れる場所だからです。

 Where there is laughter, who can longer weep?
 笑い声の溢れるところで、誰が長々と涙を流してなどいられるでしょうか。

 And only complete forgiveness brings all this to bless the world.
 そして、ただ完全な赦しだけが、これらすべてを、世界を祝福するためにもたらします。

 In blessing it departs, for it will not end as it began.
 祝福の中で、世界は去ることになります。というのも、世界は始まったようには終わらないからです。

 To turn hell into Heaven is the function of God's teachers, for what they teach are lessons in which Heaven is reflected.
 地獄を天国へと転換させることこそ、神の教師たちの役割です。なぜなら、彼らが教えるのは、その中に天国が反映されているレッスンだからです。

 And now sit down in true humility, and realize that all God would have you do you can do.
 そして、今こそ、真の謙虚さの中に腰を下ろして、神があなたにさせようとすることはどんなことでも、あなたには成し遂げられるのだと理解してください。

 Do not be arrogant and say you cannot learn His Own curriculum.
 傲慢になって、自分には神自ら立ててくれたカリキュラムを学ぶことができないなどと言ってはなりません。 

 His Word says otherwise.
 神の大いなる言葉はそのようには言っていません。
 
 His Will be done.
 神の大いなる意志がなされることになります。

 It cannot be otherwise.
 神の大いなる意志がなされないことなど不可能です。

 And be you thankful it is so.
 だから、あなたは、神の大いなる意志のままに自分が成し遂げられることについて感謝するがよいのです。




いつも読んでいただき、ありがとうございます!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ ACIMへ
ポチリよろしく!


ポチッとお願いします!
関連記事

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

trackbackURL:http://thereisnospoon.jp/tb.php/32-7ee4a4a3
該当の記事は見つかりませんでした。