There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

T6-3 倍返ししてやりたいけど我慢しなきゃいけない?

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今回は、テキストから、第五章の序論と第六章の三「攻撃の放棄」をご紹介します。





第五章 序論の方は、「癒しと全体性」というタイトルです。


短いですが、癒しの側面から簡潔にサンシップの本質を述べています。

聖書には「己をするが如く汝の隣人をせよ」(マタイによる福音書 /19章 19節、22章 39節)とあります。
「右の頬を打つ者があれば、左の頬も向けよ」(マタイによる福音書 / 5章 39節、ルカによる福音書 / 6章 29節)と共に、キリストの言葉が偽善的な処世訓として誤解されやすい聖句です。

はたして「敵」にいいように愚弄されてもへらへらしているような甘っちょろい「いい人」として生きよというのがイェシュアのメッセージだったなどということが考えられるでしょうか?

そんなはずはありません。

この序論では、
「It is impossible for a child of God to love his neighbour except as himself.
 神の子供にとって、隣人を自分自身としてすること以外は不可能なのです。」
として、その理由が解説されます。

ただし、この序論では、核心部分までははっきりとは明言されません。

奇跡講座を読まれたり、このブログを読んでくださっている方にはお分かりと思いますが、「敵」に見えるような他者(兄弟)の本当の姿は、実は(大いなる自己としての)自分だということです。

自分とは別人である敵や隣人を優しくあしらった方が、円満に遇してもらえる可能性が高いからとかいうのではなくて、単純に、自分と隔絶した他者に見えているだけで、自分自身なのだから、自分として大切に接しなければならないという至極明快なことを語っているということです。


末尾に癒しの祈りの言葉として次の言葉が紹介されます。

「Let me know this brother as I know myself.
私が自分のことを知るように、私がこの兄弟を知ることができますように。」



さて、このテーマは、具体的な事例として考えると、困難な問題を提起するので、よく話題とされます。

殺人鬼に襲撃された場面やレイプされそうな場面で、反撃の余地が残っているような場合に、極悪な犯人に「さあどうぞ」と身を差し出すべきなのでしょうか?

素朴に考えて、どう考えたっておかしな話です。

自分が迫り来る殺人鬼やレイプ魔に追われて転んだ先にたまたまナイフが落ちていた場面を思い浮かべて見ましょう。

通常の感覚を保っているかぎり、冷静にか度を失ってか程度差はあっても、反撃してしまうでしょう。

極限状態に近いほど、体が勝手に動くと表現すべきほど、自動的に反撃行為が起こってしまうでしょう。

このように無意識的に反撃が起こり、我に帰ってそのことに気づくというような場合に罪悪感を抱くべきでないのはたしかです。


では、冷静に行動できるような場合はどうなのでしょうか?

コースは、攻撃が正当化されることはないというんだから、攻撃しちゃいけない!と自分に言い聞かせて、殺されたりレイプされるべきだというのでしょうか?


兵士や警察官のように、国や市民を守るために攻撃をしなければならない職務について考えるとき、攻撃に一切の例外はないという考えは空論でしかないように響きます。

奇跡のコースを学ぶ警察官が、女性がレイプ魔に襲い掛かられている場面に遭遇して、奇跡のコースは攻撃には一切の例外はないと言っているからといって、幻想として見過ごすことは「赦し」ていることになるのでしょうか。

おそらくその警官は、(職務上の責任問題を抜きにしても)自分が被害者を助けもせずに見捨てたことについて、その後、罪悪感に苛まれつづけるでしょう。

コースは内心のことを問題にしているのであって、外部に投影された世界の出来事に働きかけるのではなくて、内側を変えなさいというのだから、殺人鬼もレイプ魔も実在しない幻想だと理解したうえでなら、反撃しても、本当に攻撃したことにはならないはずだと考えて攻撃すればよいのでしょうか。


私たちにできるのは、聖霊を選択して、聖霊に委ね切ることだけでした。

一見、ここで反撃すること=エゴ、反撃しない=聖霊という選択であるようにも思えますが、警官の例で考えてみると、反撃しないことのほうが、わけのわからない宗教にはまって思考停止に陥って兄弟を見捨ててしまうエゴ本位の選択であるようにも思えます。

どちらもモヤモヤが残ります。



コースでは、攻撃が正当化されることには一切の例外はなく、余すところなく攻撃を放棄すべきであり、それこそが安全になることなのだと繰り返します。

「安全になるためには、完全に遺漏なく攻撃を放棄することです。

これに関しては、いかなる妥協もありえません。」(テキスト第六章、一、3)

難しい問題にしか見えませんが、エゴが絶対に承服しない結論がどちらなのかだけははっきりしています。

全面的に攻撃を放棄すべきなんてことは、きれいごととしては言えても、現実問題としてそんなことではこの厳しい世界の中で生きてはいけない、攻撃を放棄することが安全になる?そんな馬鹿なことを言っていないで自分に任せなさい、そうすれば、反撃して守ってやるからと。

攻撃が正当化されるという結論を「正当化」することなど容易なことです。

何しろ世界自体が安全のための攻撃という発想をとり、正当防衛という概念を容認しているのですから。


そして、コースの攻撃に一切の例外はないという言葉についても、解釈によって、私たちのエゴが喜んで承服するような例外の正当化はいくらでもありうるでしょうし、厳しい現実との折り合いを付けることのできたエゴはこぞって拍手喝采することでしょう。

とはいえ、コースが、ここまで徹底して強調することには意味がないわけがありません。いかなる妥協もありえないというのですから、妥協する必要もなければ、妥協しようとすることは真理に到達するうえで望ましくないということなのでしょう。

妥協する必要がないというのは、簡単に言えば、テレビ画面やスクリーンのうえで、恐怖映画の主人公が殺人鬼に襲われて危機一髪、そして、殺されてジ・エンドという場面でもテレビや客席の私たちが死んだり傷ついたりせずにピンピンしていて完全に安全なのと同じように、この幻想世界で登場人物である私たちに何が起ころうとも、真の自己である大いなる自己が完全無欠のままであるのはもちろん、小さな自己として輪廻している魂もまったく無傷でピンピンしているはずだということです。

もちろん、もしかしたら架空の存在でしかないとしても、この世界の中にいるエゴ・身体と一体化している私たち小さな自己にとっては、大問題の一大事であり、自分の身体という宝物がわけもわからない愚か者に愚弄されて壊されてしまうことなど到底許せることではないし、結局やられるにしても一矢報いたいというのが人情というものです。

ですが、このエゴ・身体との同一化から真の自己へのアイデンティティーのシフトこそ、奇跡のコースが目指すところです。

そして、このシフトを達成するうえで、攻撃が正当化される例外的な場合があるはずだと妥協してしまうことが妨げになり望ましくないということです。

それは、架空の主人公(エゴ・身体)に一体化して反撃することは、幻想の世界と幻想のキャラクターを本物にして、幻想を存続させる力を与えてしまうからです。

つまり、自己防衛が正当化されると考えるときは、必ず、身体は実在するとの誤った前提に乗っかっているということができます。

「あなたが身体が破壊されることについて怒りを正当化できると信じるならば、そう信じる程度において、あなたは間違った前提を受け入れて、他の者にもその誤りを教えていることになります。」(テキスト第六章、一、4)

あえて極論を言うならば(この幻想世界においてはとの留保つきで)、ラメッシ先生の言うように、「生命の本当の意味は、生命には意味がないことにあります。それは、ただ起こるだけです。」。したがって、人の命は地球よりも重くもなければ、個別の生命にはいくらでも代わりがあるし、価値も意味もないということになります(幻想世界において。永遠の生命の尊さはいうまでもないし、そもそも、傷つけうるものでもありません)。

もちろん、エゴからすれば、こんな極論は許せないはずです。私だって、大切な自分自身や家族が、こんな暴論でもってわけのわからない誰かに傷つけられたら黙っていられるはずがありません。

でも、この世界が幻想で、神の一人子があるだけならば、エゴにとっては絶対に承服しがたいことですが、これが真理なのでしょう。

映画の中の登場人物が死んだり傷ついたりしても、鑑賞している人は無傷のままです。

マリオがクッパにコテンパンにやっつけられて何回壮絶な死に様を見せようが、プレイしている人は無傷のままです。

どんなに壮大な悲喜こもごもの大河小説の登場人物たちの人生も幻でしかありません。

私たちが現実だと思って生きているこの世界のたくさんの人たちの人生も、時代が過ぎて歴史上の過去の出来事になったら、未来の人たちにとっては、小説や映画の中の出来事と同じような位置づけしかされません。

100%自分に非がなく、100%相手が悪いんだから、この身体を守ることだけは特別に正当化できるとの価値判断は、分離した自他の幻想を認め、相手の価値を自分より低いものとして判断することです。


そもそもゲーム自体、他のキャラクターを攻撃することによって、ゲームの世界が展開していく仕組みになっています。

攻撃することによって、ゲームの世界に引き込まれて、キャラクターと一体化して、幻想を現実として生きる度合いを深めることになります。

ここで、一生懸命敵をやっつけていたのを中断して、攻撃をしないことにすると、ゲームはどうなるでしょうか。

ゲームの場面次第でしょうが、敵の攻撃によって、殺される、敵の攻撃を免れて制限時間までゲーム世界に滞在するという、どんどんステージを進行してゲーム世界へののめり込みを深めるという本来ゲームの想定していた展開は辿らないことになります。

無防備になる結果として殺された場合、これまで一生懸命戦って、マリオのストックが大量に溜まっているでしょうから、ゲームは終わってはくれず、再度、別の身体を使ってのゲームのやり直しを余儀なくされるだけでしょう。リセットして心機一転なわけですから、プレイヤーは性懲りもなく、ゲームに没頭し続けることでしょう。

他方、殺されずに済んだ場合、戦いのなくなったゲーム世界は、平穏になって、それまでとは違った視点でゲーム世界を楽しめるでしょう。

でも、そのうち、そこは、天国なんかではなく、むしろ、かつて地獄だった幻想世界の成れの果てなのだと気付くでしょうし、平穏になった今でも、長居し続けたいような場所でもなくなることでしょう。


「霊的な視力は、正しい防衛の仕方を十分に弁えているので、他のあらゆるものを無視して、誤りを越えて真理を見通します」(テキスト第二章、三、4)

「 あなたは本当の自己防衛ということがまったくわかっていないどころか、最も自分を傷付けかねないようなものこそが、まさしく自分が必要としているものだと決めてしまいがちです。

 けれども、あなたが今それに気づいているかどうかは別として、あなたは、危害を加えずにいながらも、防衛に役立つ存在となれるように努力し協力することに同意してくれているのです。この無害性と有用性とは両立できる属性なのです。

 あなたが、無害であることと有用であることのいずれにも等しい態度で臨もうとすると、葛藤を生じてしまうはずです。なぜなら、どのような態度もみなエゴに基づくものだからです。」(テキスト第四章、二、5) 

ゲーム画面の中のマリオのような主人公がどんなにひどい目に遭わされても、ゲームをしている人はまったく傷つきません。

主人公の身体を守ろうと、我を忘れて、がんばって、ゲームの中の主人公の生命力や経験値や武器や服装等々のパラメーターをどんどん上げて、ゲーム内で主人公が強く立派になっても、そのために、画面の前のゲームをしている人は、飲まず食わずで、学校や仕事をさぼり、衰弱して死にそうになっているという様は笑うよりも哀れさが漂わないでしょうか。


「The body is in need of no defense.
身体は、何の防衛も必要としていません。

This cannot be too often emphasized.
身体が防衛を必要としていないということは本当に何度でも強調すべきことです。

Defend the body and you have attacked your mind.
身体を防衛しようとするなら、あなたは自分の心を攻撃してしまったのです。

For you have seen in it the faults, the weaknesses, the limits and the lacks from which you think the body must be saved.
というのも、あなたは身体のことを、身体がそれから救われなければならないと思うような、不完全で、脆弱で、制限されて欠落したものとして見てしまっているからです。

You will not see the mind as separate from bodily conditions.
あなたは、身体的な条件から離れたものとして心を見ようとはしないでしょう。

And you will impose upon the body all the pain that comes from the conception of the mind as limited and fragile, and apart from other minds and separate from its Source.
だから、あなたは、制限されて脆弱で、他の心から隔絶し、その源からも切り離されているものとしての小さな心という概念に由来するすべての苦痛を身体に押し付けることになります。」(ワークブック レッスン132)


圧倒的なリアリティを持つこの「現実」世界と作り物と意識できるゲーム世界とでは、リアリティの程度差はあるとしても、もし仕組みが同じならば、この世界でプレイするためのキャラクターでしかない身体と同一化して、身体を守るために力を注ぐことは、ゲームを存続させることにしかならないといえます。

さて、こう考えると、コースは、文字どおりの意味で、レベル1、レベル2といった形而上の問題か、この幻想世界の話かという区別なくして、単に内心で攻撃心を一切抱かないようにというに留まらず、実際の攻撃も一切しないようにと言っているように私は感じます(もちろん到底実践できないのはたしかですが)。

だって、とてつもなく大切なものとしか思えない自分や仲間の身体ですが、本当は、マリオやクリボーと同じような架空のキャラクターにすぎないとすれば、どうしたって、この結論になってしまいます。

「お前たちは架空のゲームキャラにすぎないんだぞ」と言いながら、どんどん敵キャラをやっつけ続けているようなもので、むしろ悪趣味というか迷いの元でしかないからです。

もっとも、冒頭の例のような場面に直面すれば、依然として幻想世界に身を置き、エゴ・身体と同一化している私たちとしては、「現実」問題として、一律に非暴力主義を貫徹をしながら、罪悪感や後悔をしないでいられるとは思えません。

このような問題は個々のエゴに決められるものではありません。

エゴとしての自分に決断がつかないというような際には、「イェシュアだったらどうするだろう?」と考えてみることは解決の糸口になります。

イェシュアはこの問題について、身をもって模範を示してくれています。

病を癒し死者を蘇らせ、水の上を歩き、様々な奇跡をなす力を持っていたイェシュアです。

自らに不合理な罪を着せて咎めようとする者たちに対して、反撃することもできたでしょうし、少なくとも、逃げて十字架刑を回避することくらいはいくらでもできたはずです。

それでも、彼は従容として十字架にかかりました。

身をもって真理を示す目的あってのことですが、本当にこの世界の幻想性を見通し、神の子キリストとなっていた彼にとって、身体としての自分は、テレビ画面の中のマリオのようなゲームを展開させるための一キャラクターとして以上の重要性はなかったはずです。


「Let this day bring the last chapter closer to the world, that everyone may learn the tale he reads of terrifying destiny, defeat of all his hopes, his pitiful defense against a vengeance he can not escape, is but his own deluded fantasy.
今日は、物語の最終章をこの世界により近付けて、恐ろしい運命やすべての希望が挫かれたり、逃れようのない報復に対する哀れな防衛についての物語を読んでいる全員が、それらの話が自分自身を惑わす空想でしかなかったのだと学ぶことができるようにしましょう。

God's ministers have come to waken him from the dark dreams this story has evoked in his confused, bewildered memory of this distorted tale.
神の使者たちは、この物語を読む者を、歪んだ物語の混乱して迷い込むような記憶の中に引き起こされる暗い夢の数々から目覚めさせるために来ているのです。

God's Son can smile at last, on learning that it is not true.
神の子は、この物語が本当のことではないと学んで、ついに笑うことができます。」(ワークブック レッスン153)

では、冒頭の警察官は、職務放棄をすべきなのでしょうか?

イェシュアならどうするでしょうか?

兄弟の気づきの度合いに応じて、お釈迦様のような待機説法的に臨機応変に対応するのではないでしょうか。幻想にどっぷり浸かっている人たちに、この世界は幻想で・・・という話を一からしている場面ではありません。

頭ごなしに非暴力万歳!というスローガンを押しつけたりしないのではないでしょうか。

とうのも、教条主義的に、非暴力を無理強いすることは、かえって個々の心に罪悪感を抱かせる危険が伴うからです。

この点について、バガヴァッド・ギーターでは、戦いの場で親族でもある敵将たちへの情から、戦うことへのためらい、ひるみを見せるアルジュナに対して、クリシュナ神は、クシャトリヤとして戦い相手を殺して戦士の務めを果たすことは罪ではない、むしろ自らの務めを回避することのほうが迷いであり罪となると語ります。

奇跡のコースがこうしなさいと言っているからそれに盲目的に従うという発想、特に、確信の持てない自分なりの解釈に従うという観点は、迷いの元でしかないのは確かでしょう。

そんな観点なんかよりも、人を助けたいという気持ちから警官になったはずでしょうから、素直に自分の直感と使命感に従って、襲われている人を助けるために実力行使するほうが、その警官にとって罪悪感は残らないはずだし、被害者は救われるし、犯人にも反省の機会が与えられます。

解釈が必要な時点で、それは価値判断を要するということになります。

つまり、この場面で反撃するのが妥当なのかそうでないのかという裁きを迫られるということです。

ですから、反撃しないことが聖霊を選択することになるわけでも、反撃することがエゴを選択することになるわけでもなく、私たちには価値判断を手放して、聖霊にそれを委ねる選択しかできないということなのではないでしょうか。

もちろん、殺人鬼やレイプ魔も被害者も自分も、究極的には神の子として一体だという基盤は持ちつつ、自分にはどのように対処するのが最善なのかわからないので、聖霊に全託する、聖霊が裁いてくれる結果として起こることについては、潔く受け入れるということです。

ただし、エゴの声に気付いたら、極力それに従わないという姿勢は必要でしょう。

たとえば、その場面において、自分の中で、自分と分離した憎たらしい敵に対する報復感情に駆られてそれを晴らすために攻撃しようとしていると気づくなら、それはエゴの声として退けることができます。


エゴの声を排して聖霊の声を聞くことに誠意を尽くし、その結果として起こることについては、罪悪感を抱かないことしかできないのではないでしょうか。





Chapter 5
HEALING AND WHOLENESS

第五章 癒しと全体性

Introduction
序論





1. To heal is to make happy.
 癒すことは、幸せにすることです。

 I have told you to think how many opportunities you have had to gladden yourself, and how many you have refused.
 私はあなたに、あなたには自分自身を喜ばせる機会がいかに多くあったか、それなのに、いかに多くの機会をあなたが拒絶してきたか考えてみるようにと告げたことがあります。

 This is the same as telling you that you have refused to heal yourself.
 これは、あなた自身を癒すことを拒んできたのはあなただと言っているのと同じことです。

 The light that belongs to you is the light of joy.
 あなたに属するは、喜びです。

 Radiance is not associated with sorrow.
 輝き悲しみと結びつくことはありません。

 Joy calls forth an integrated willingness to share it, and promotes the mind's natural impulse to respond as one.
 喜びは、それを進んで分かち合いたいという一つに結び合わされた思いを呼び起こします。そして、喜びは、それに呼応して一つになろうとする心の自然な衝動を促進させます。

 Those who attempt to heal without being wholly joyous themselves call forth different kinds of responses at the same time, and thus deprive others of the joy of responding wholeheartedly.
 自分自身が完全な喜びに満たされないままで癒そうと試みる者たちは、異なった種類の反応を同時に呼び起こしてしまい、そのために、他の者たちから全身全霊反応する喜びを奪ってしまうことになります。



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2. To be whole-hearted you must be happy.
 全身全霊を傾けるには、あなたは幸福であらねばなりません。

 If fear and love cannot coexist, and if it is impossible to be wholly fearful and remain alive, the only possible whole state is that of love.
 もし恐れとが共存できないとすれば、そして、もし完全に恐怖に慄きながら生きながらえることが不可能だとすれば、唯一ありうる完全な状態とは、に満ちた状態だけだということになります。

 There is no difference between love and joy.
 喜びの間には、何の違いもありません。

 Therefore, the only possible whole state is the wholly joyous.
 それゆえ、唯一可能な完全な状態とは、完全に喜びに満ち溢れた状態だけだということになります。

 To heal or to make joyous is therefore the same as to integrate and to make one.
 したがって、癒すこと、つまり、喜ばせることは、統合して一つにすることと同じことなのです。

 That is why it makes no difference to what part or by what part of the Sonship the healing is offered.
 それゆえに、神の子全体の内の誰に対して癒しが差し延べられようが、誰によって癒しが差し延べられようが、そんなことは何の違いも生みはしないのです。

 Every part benefits, and benefits equally.
 各自がみんな恩恵を被るのだし、それも、平等に恩恵を被ることになるのです。






3. You are being blessed by every beneficent thought of any of your brothers anywhere.
 どこにいるどの兄弟であろうとも、そのあなたの兄弟の慈に富む思いの一つひとつによって、あなたは祝福されているのです。

 You should want to bless them in return, out of gratitude.
 そうであれば、兄弟たちの思いに対して、あなたも感謝の念からお返しに兄弟たちを祝福したいと思うはずです。

 You need not know them individually, or they you.
 あなたは兄弟のことを個人的に知る必要はないし、彼らもあなたのことを個人的に知る必要はありません。

 The light is so strong that it radiates throughout the Sonship and returns thanks to the Father for radiating His joy upon it.
 そのは非常に強いので、神の子全体の隅から隅まで輝きを降り注ぎ、自らの喜びをみんなの上に振り注いでくれていることに対する神の子みんなからの感謝の念を大いなる父へと照らし返します。

 Only God's holy children are worthy channels of His beautiful joy, because only they are beautiful enough to hold it by sharing it.
 神の素晴らしい喜びを伝える使者となるにふさわしいのは神の聖なる子供たちだけです。なぜなら、ただ彼らだけが神の喜びを分かち合うことによって保持するに十分な素晴らしさを備えているからです。

 It is impossible for a child of God to love his neighbor except as himself.
 神の子供にとっては、隣人を自分自身としてしかすることはできません。

 That is why the healer's prayer is:
 ゆえに、癒す者の祈りは次のようになります。



"Let me know this brother as I know myself."
「私が自分自身を知るように、私がこの兄弟を知ることができますように」




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テキスト第六章 

III. The Relinquishment of Attack
三 攻撃の放棄



1. As we have already emphasized, every idea begins in the mind of the thinker.
 すでに強調しておいたように、いかなる想念も、思考する者の心の中で始まります。

 Therefore, what extends from the mind is still in it, and from what it extends it knows itself.
 したがって、心から拡張したものは、依然としてその心の中にあり、自らが拡張したものによって、その心は自分自身を知ることになります。

 The word "knows" is correct here, because the Holy Spirit still holds knowledge safe in your mind through His impartial perception.
 ここでは「知る」という言葉を用いるのが適切です。なぜなら、聖霊は自らの公平な知覚を通して、今なお、あなたの心の中に知識を安全に保っているからです。

 By attacking nothing, He presents no barrier to the communication of God.
 何ものをも攻撃することがないので、聖霊は神からのコミュニケーションを一切妨げることはありません。

 Therefore, being is never threatened.
 したがって、実在するものが脅かされることは決してありません。

 Your Godlike mind can never be defiled.
 あなたの神に似た心は、絶対に穢されえないものです。

 The ego never was and never will be part of it, but through the ego you can hear and teach and learn what is not true.
 エゴは決してあなたの神と同質の心の一部であったことはなかったし、これからも、あなたの神と同じ心の一部になることもありえません。しかし、エゴを介するなら、あなたは真実ではないことを聞いたり教えたり学んだりすることができてしまいます。

 You have taught yourself to believe that you are not what you are.
 あなたたちは自分自身に、本当の自分ではないものを自分だと信じるように教え込んできました。

 You cannot teach what you have not learned, and what you teach you strengthen in yourself because you are sharing it.
 あなたは、自分が学んでいないことを教えることはできません。そして、あなたは自分の教えることをあなた自身の中で強めることになります。なぜなら、あなたは自分が教えることを共有することになるからです。

 Every lesson you teach you are learning.
 あなたは自分の教える一つひとつのレッスンを、自分で学んでいることになるのです。




2. That is why you must teach only one lesson.
 だからこそ、あなたはただ一つのレッスンだけを教えなければなりません。

 If you are to be conflict-free yourself, you must learn only from the Holy Spirit and teach only by Him.
 もしあなた自身、葛藤から解放されたいなら、あなたはただ聖霊からのみ学び、そして、聖霊によってのみ教える必要があります。

 You are only love, but when you deny this, you make what you are something you must learn to remember.
 あなたはであるのみです。しかし、あなたが自分がただ愛のみであることを否認するなら、あなたは自分のことを、それを学んで覚えておかなければならないような何ものかに作り変えてしまうことになります。

 I said before that the message of the crucifixion was, "Teach only love, for that is what you are. "
 以前に私が述べたように、キリストの磔刑が伝えようとしたメッセージは「愛だけを教えなさい。あなたは愛そのものだからです」という教えでした。

 This is the one lesson that is perfectly unified, because it is the only lesson that is one.
 この愛のレッスンこそ、完全に統一されたただ一つのレッスンです。なぜなら、一つになっている唯一のレッスンは、愛のレッスンだけだからです。

 Only by teaching it can you learn it.
 ただ愛のレッスンを教えることによってのみ、あなたは愛を学ぶことができます。

 "As you teach so will you learn. "
 「あなたが教えるように、あなたは学ぶ」ことになります。

 If that is true, and it is true indeed, do not forget that what you teach is teaching you.
 もしこれが本当なら、もちろん、これはまさにその通り真実なのですが、あなたは自分が教えることを自分自身に教えていることになるということを忘れてはなりません。

 And what you project or extend you believe.
 だからこそ、あなたは自分が投影したり拡張することを信じるのです。


名称未設定


3. The only safety lies in extending the Holy Spirit, because as you see His gentleness in others your own mind perceives itself as totally harmless.
 唯一の安全は、聖霊を拡張することの中にあります。なぜなら、あなたが他の者たちの中に聖霊の優しさを見るようになると、あなた自身の心は、自分のことを完全に危害を免れた存在として知覚するようになるからです。

 Once it can accept this fully, it sees no need to protect itself.
 いったん心がこのことを完全に受け入れることができれば、心は自分を守る必要などないことを理解するようになります。

 The protection of God then dawns upon it, assuring it that it is perfectly safe forever.
 そうなると、心には、自分が神に守護されていることがわかりはじめるので、心は永遠に自分が完全に安全であると安心させられることになります。

 The perfectly safe are wholly benign.
 絶対に安全である者は、まるっきり温和で善良です。

 They bless because they know that they are blessed.
 彼らは、自分たちが祝福されていると知っているがゆえに、祝福することになります。

 Without anxiety the mind is wholly kind, and because it extends beneficence it is beneficent.
 何の不安もない心は本当に親切であり、そして、そんな心は慈愛を拡張するので、慈悲心に満ち溢れています。

 Safety is the complete relinquishment of attack.
 安全であるには、完全に遺漏なく攻撃を放棄することです。

 No compromise is possible in this.
 これに関しては、いかなる妥協もありえません。

 Teach attack in any form and you have learned it, and it will hurt you.
 どのような形であれ攻撃することを教えるなら、あなたは攻撃することを学び、攻撃はあなたを傷つけることになってしまいます。

 Yet this learning is not immortal, and you can unlearn it by not teaching it.
 しかし、このようにして学んだことが、永久にあなたの心に居座りつづけるわけではありません。あなたは、学んだことを教えないことによって、学んでしまったことを意図的に忘れ去ることができます。


4. Since you cannot not teach, your salvation lies in teaching the exact opposite of everything the ego believes.
 とはいえ、あなたは教えずにいることなどできないのだから、あなたの救いは、エゴの信じることのすべてに対して、正確に対極にあることを教えることに見出せます。

 This is how you will learn the truth that will set you free, and will keep you free as others learn it of you.
 エゴの信念の対極を教えることこそ、あなたが真理を学ぶための方法です。その真理はあなたを自由にし、そして、他の者たちがその真理をあなたから学ぶことによって、あなたを自由なままに保ってくれます。

 The only way to have peace is to teach peace.
 平安を得るための唯一の方法は、平安を教えることです。

 By teaching peace you must learn it yourself, because you cannot teach what you still dissociate.
 平安を教えることによって、あなたは自分でも平安を学ぶことになるはずです。なぜなら、あなたは自分から解離させたままのものについて教えることはできないからです。

 Only thus can you win back the knowledge that you threw away.
 ただこうして平安を教えることによってのみ、あなたは自分が投げ捨ててしまった知識を取り戻すことができます。

 An idea that you share you must have.
 あなたがある想念を分かち合うなら、あなたはその想念を持っているに違いないのです。

 It awakens in your mind through the conviction of teaching it.
 知識を教えることに確信を持つことを通して、知識があなたの心の中で目を覚まします。

 Everything you teach you are learning.
 あなたが教えるすべてを、あなたは学んでいるのです。

 Teach only love, and learn that love is yours and you are love.
 ただ愛だけを教えなさい。そして、愛はあなたのものであり、あなたこそが愛であると学びなさい。


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