There Is No Spoon

ARTICLE PAGE

T2-5 ミラクル・ワーカー



今回は、テキストから奇跡を行う者の役割という一節をご紹介します。

テキスト第2章


V.The Function of the Miracle Worker
五 奇跡を行う者の役割




1. Before miracle workers are ready to undertake their function in this world, it is essential that they fully understand the fear of release.
 奇跡を行う者たちが、この世界における自分たちの役割に取りかかる準備を整える前に、解放に伴う恐れについて十分に理解しておくことが絶対に欠かせません。

 Otherwise they may unwittingly foster the belief that release is imprisonment, a belief that is already very prevalent.
 さもないと、彼らは無自覚のままに、解放とは幽閉だというすでに広く蔓延している信念を心に抱いてしまいかねません。

 This misperception arises in turn from the belief that harm can be limited to the body.
 この解放は幽閉であるとの誤った知覚は、危害を被るのを身体だけに限定することができると信じることから生じます。

 That is because of the underlying fear that the mind can hurt itself.
 その理由は、心には心それ自体を傷つけることができるとの恐れが根底にあるからです。

 None of these errors is meaningful, because the miscreations of the mind do not really exist.
 これらの誤りは、いずれも意味をなしません。なぜなら、心が誤って創造するものなど実際には存在していないからです。

 This recognition is a far better protective device than any form of level confusion, because it introduces correction at the level of the error.
 このように心が誤って創造するものが実在しないと認識することは、どんな形でレベルを混同させることよりもはるかに優れた防御手段となります。というのは、心が誤って創造するものは実在しないとの認識は、誤りの生じたレベルにおいて修正を取り入れることになるからです。

 It is essential to remember that only the mind can create, and that correction belongs at the thought level.
 ただ心だけが創造でき、そして、修正は思考のレベルに属すると覚えておくことがきわめて重要です。

 To amplify an earlier statement, spirit is already perfect and therefore does not require correction.
 前に述べたことを強調しておきましょう。はすでに完全なものなので、修正される必要などありません。

 The body does not exist except as a learning device for the mind.
 身体は、心が学ぶための道具としてのみ存在します。

 This learning device is not subject to errors of its own, because it cannot create.
 この身体という学びの道具が、身体それ自体で誤ってしまう危険はありません。なぜなら、身体には創造することができないからです。

 It is obvious, then, that inducing the mind to give up its miscreations is the only application of creative ability that is truly meaningful.
 そうだとすれば、心に誤って創造することを諦めさせることこそが、本当に有意義なたったひとつの創造能力の使い方であることは明白です。


名称未設定

2. Magic is the mindless or the miscreative use of mind.
 魔術とは、心を込めることなく、誤った創造のために心を用いることです。

 Physical medications are forms of "spells," but if you are afraid to use the mind to heal, you should not attempt to do so.
 物質的な薬物療法は「呪術」の一種です。しかし、もしあなたが癒すために心を用いることが怖いようなら、あなたは癒すために心を用いようと試みるべきではありません。

 The very fact that you are afraid makes your mind vulnerable to miscreation.
 あなたが恐れているというまさにその事実が、あなたの心の誤創造に対する抵抗力を弱めてしまうからです。

 You are therefore likely to misunderstand any healing that might occur, and because egocentricity and fear usually occur together, you may be unable to accept the real Source of the healing.
 したがって、どのような癒しが起ころうとも、あなたはそれを誤解してしまうでしょう。また、自己中心的になることと恐れとは決まって一緒に起こるので、あなたは癒しの真の源を受け入れることができなくなってしまうでしょう。

 Under these conditions, it is safer for you to rely temporarily on physical healing devices, because you cannot misperceive them as your own creations.
 こんな事態にあっては、一時的に物質的な治療法に頼るほうが、あなたにとってはより安全なはずです。なぜなら、物質的な治療法を自分が創造したものだと誤って知覚する可能性はないからです。

 As long as your sense of vulnerability persists, you should not attempt to perform miracles.
 自分が脆弱だという感覚が持続する間は、奇跡を行おうとはしないほうがよいのです。




3. I have already said that miracles are expressions of miracle-mindedness, and miracle-mindedness means right-mindedness.
 すでに述べたように、奇跡を起こそうと志向する心の発露が奇跡であり、そして、奇跡を志向する心とは、心が正しい状態にあることを意味します。

 The right-minded neither exalt nor depreciate the mind of the miracle worker or the miracle receiver.
 心が正しい者は、奇跡を行う者や奇跡を受け取る者の心を称揚することもなければ貶めることもありません。

 However, as a correction, the miracle need not await the right-mindedness of the receiver.
 とはいえ、修正を行うために、奇跡を受け取る者の心が正しい状態になるまで奇跡が待つ必要などありません。

 In fact, its purpose is to restore him to his right mind.
 それどころか、奇跡を受け取る者を彼自身の正しい心へと戻すことこそが奇跡の目的なのです。

 It is essential, however, that the miracle worker be in his right mind, however briefly, or he will be unable to re-establish right-mindedness in someone else.
 けれども、奇跡を行う者のほうは、いかに短い時間であろうとも、正しい心の状態にあることが絶対に欠かせません。そうでなければ、彼にほかの誰かの心を正しい状態に回復させることなどできないでしょう。


名称未設定

4. The healer who relies on his own readiness is endangering his understanding.
 自分自身の準備が整うことを頼みとして癒そうとする者は、自分の理解力を危険にさらしていることになります。

 You are perfectly safe as long as you are completely unconcerned about your readiness, but maintain a consistent trust in mine.
 あなたが自分の準備ができているかどうかをまったく心配することなく、ただ私に準備ができていることだけをつねに一貫して信頼してくれるかぎり、あなたは絶対に大丈夫です。

 If your miracle working inclinations are not functioning properly, it is always because fear has intruded on your right-mindedness and has turned it upside down.
 もしあなたが行おうとする奇跡の成り行きが思わしい方向に作用しないとしたら、それはつねに、あなたの心の正しい状態に恐れが入り込んで、心を上下逆転させてしてしまっているのです。

 All forms of not-right-mindedness are the result of refusal to accept the Atonement for yourself.
 心が正しい状態にないなら、いかなる形態であれ、それはすべて、あなたが主体的に贖罪を受け入れることを拒否した結果です。

 If you do accept it, you are in a position to recognize that those who need healing are simply those who have not realized that right-mindedness is healing.
 もしあなたが贖罪を確かに受け入れたなら、あなたは、癒しを必要とする者たちというのは、単に正しい心の状態こそが癒しなのだとまだ理解していない者たちのことでしかないと認識できるようになります。




5. The sole responsibility of the miracle worker is to accept the Atonement for himself.
 奇跡を行う者の唯一の責任は、主体的に贖罪を受け入れることだけです。

 This means you recognize that mind is the only creative level, and that its errors are healed by the Atonement.
 このことは、ただ心だけが唯一の創造のレベルであって、心の誤りは贖罪によって癒されるとあなたが認めることを意味します。

 Once you accept this, your mind can only heal.
 いったんあなたが、このことを受け入れてしまえば、あなたの心はただ癒すことしかできなくなります。

 By denying your mind any destructive potential and reinstating its purely constructive powers, you place yourself in a position to undo the level confusion of others.
 あなたの心の破壊的な潜在能力を一切否定し、あなたの心が宿している純粋に建設的な力をあなたの心に回復させることによって、あなたは自分自身を他の人たちのレベルの混同を取り消すことができる立場に置くことになります。

 The message you then give to them is the truth that their minds are similarly constructive, and their miscreations cannot hurt them.
 そのとき、あなたが彼らに伝える次のメッセージは真実です。そのメッセージとは、「あなたたちの心は私の心と同様に建設的なものなのだから、あなたたちが誤って創造したものがあなたたちを傷つけることなどありえないのだ」というものです。

 By affirming this you release the mind from over evaluating its own learning device, and restore the mind to its true position as the learner.
 このように宣言することによって、あなたは、心をそれが所有する身体という学びの道具を過大に評価することから解放し、心を学ぶ者としての正しい位置へと戻すことになります。


名称未設定

6. It should be emphasized again that the body does not learn any more than it creates.
 あらためて強調しておかなければならないのは、身体は、創造することも学習することもないということです。

 As a learning device it merely follows the learner, but if it is falsely endowed with self-initiative, it becomes a serious obstruction to the very learning it should facilitate.
 学びの道具として、身体は単に学び手である心に従うだけですが、もし間違って身体に主導権が与えられたとしたら、身体が促進すべきはずの当の学びにとって、身体そのものが深刻な足かせとなってしまいます。

 Only the mind is capable of illumination.
 ただ心だけが光明を放つことができます。

 Spirit is already illuminated and the body in itself is too dense.
 はすでに光明に満たされているし、身体は光明を放つにはそれ自体あまりにも濃密にすぎるのです。

 The mind, however, can bring its illumination to the body by recognizing that it is not the learner, and is therefore un-amenable to learning.
 しかし、身体は学ぶものではなく、したがって、学ぶことには適していないのだと認めることによって、心は自らの光明を身体へともたらすことができます。

 The body is, however, easily brought into alignment with a mind that has learned to look beyond it toward the light.
 いかに学びに不向きな身体といえども、身体を越えて光を見つめることを学んだ心とであれば、容易に調和するようになります。




7. Corrective learning always begins with the awakening of spirit, and the turning away from the belief in physical sight.
 矯正のための学習は必ず、性に目覚め、肉体的な視覚への信仰を捨て去ることから始まります。

 This often entails fear, because you are afraid of what your spiritual sight will show you.
 あなたは自分の的な視力があなたに見せるであろうものを恐れているので、肉眼への信仰を捨て去ることには、しばしば恐れを伴います。

 I said before that the Holy Spirit cannot see error, and is capable only of looking beyond it to the defense of Atonement.
 私が前に述べたように、聖は誤りを見ることはできず、ただ誤りを越えて贖罪という防衛手段に目を向けることができるだけです。

 There is no doubt that this may produce discomfort, yet the discomfort is not the final outcome of the perception.
 誤りを越えて贖罪を見ようとすると、不快感が生じるであろうことに疑いの余地はありません。しかし、いつまでも不快感のままで知覚が固定してしまうわけではないこともまた確実なことです。

 When the Holy Spirit is permitted to look upon the defilement of the altar, he also looks immediately toward the Atonement.
 聖が祭壇の穢れを見る機会を与えられたなら、聖霊はすぐさま贖罪のほうにも目をやります。

 Nothing he perceives can induce fear.
 何であれ、聖霊が知覚するものが恐れを生じさせることはありえません。

 Everything that results from spiritual awareness is merely channelized toward correction.
 霊的な自覚から起こることはすべて、ただ修正に向けて導かれるだけです。

 Discomfort is aroused only to bring the need for correction into awareness.
 不快感は、単に修正が必要であることを自覚させるためにだけ生じるのです。



名称未設定

8. The fear of healing arises in the end from an unwillingness to accept unequivocally that healing is necessary.
 結局のところ、癒しに対する恐れが生ずるのは、癒しが必要だということをあなたが断固として受け入れる気持ちになれないからです。

 What the physical eye sees is not corrective, nor can error be corrected by any device that can be seen physically.
 肉眼で見えているものは修正できるものではありません。また、誤りは、物質的に見ることができるいかなる手段によっても修正できません。

 As long as you believe in what your physical sight tells you, your attempts at correction will be misdirected.
 あなたが、肉体の視力が自分に告げることを信じるかぎり、修正しようとするあなたのいかなる試みも的外れなものになってしまうでしょう。

 The real vision is obscured, because you cannot endure to see your own defiled altar.
 あなたが自分自身の穢れた祭壇を見ることに耐えられないために、真のヴィジョンは不明瞭になってしまっています。

 But since the altar has been defiled, your state becomes doubly dangerous unless it is perceived.
 しかし、祭壇が穢されてしまった以上は、まずは祭壇の穢れをちゃんと知覚しなければ、あなたの心の状態は二重に危険なものになってしまいます。




9. Healing is an ability that developed after the separation, before which it was unnecessary.
 癒しは分離の起こった後に発達した能力であって、分離が起こる前には癒しは必要ありませんでした。

 Like all aspects of the belief in space and time, it is temporary.
 時間と空間に対する信仰のすべての側面がそうであるように、癒しは一時的なものにすぎません。

 However, as long as time persists, healing is needed as a means of protection.
 しかしながら、時間が持続するかぎりは、保護の手段として癒しが必要です。

 This is because healing rests on charity, and charity is a way of perceiving the perfection of another even if you cannot perceive it in yourself.
 その理由は、癒しは慈悲の心による思いやりに基づくものだからです。そして、思いやりとは、たとえあなたが自分自身の中に完全性を見出すことができなくても、他者の完全性に気づくことができるようになるための方法です。

 Most of the loftier concepts of which you are capable now are time-dependent.
 あなたが現時点で持つことができる崇高な概念のほとんどは、時間に依存するものです。

 Charity is really a weaker reflection of a much more powerful love-encompassment that is far beyond any form of charity you can conceive of as yet.
 実のところ、この思いやりすら、今のあなたに想像できるどのような形の思いやりをもはるかに越えた、いっそう力強い愛の包容力のかすかな反映にすぎません。

 Charity is essential to right-mindedness in the limited sense in which it can now be attained.
 思いやりは、その中で、今、力強い愛の抱擁に到達しうるという限られた意味において、正しい心の状態でいるために不可欠なものといえます。



名称未設定


10. Charity is a way of looking at another as if he had already gone far beyond his actual accomplishments in time.
 思いやりは、ほかの人のことを、あたかも彼が時間の中で現に到達しているところよりもはるか遠くまですでに進み終えているかのようにみなす方法です。

 Since his own thinking is faulty he cannot see the Atonement for himself, or he would have no need of charity.
 その人自身の考え方は不完全なので、彼には自分自身では贖罪を理解することができません。そうでなければ、彼には思いやりなど必要なかったことでしょう。

 The charity that is accorded him is both an acknowledgment that he needs help, and a recognition that he will accept it.
 彼に対して抱くのがふさわしい思いやりとは、彼には助けが必要であると認めること、そして、彼がその助けを受け入れるだろうと認めることの両方です。

 Both of these perceptions clearly imply their dependence on time, making it apparent that charity still lies within the limitations of this world.
 この二つの認識はいずれも、思いやりがまだこの世界の制約の中にあることを明らかにしているので、思いやりが時間に依存していることをはっきりと示しています。

 I said before that only revelation transcends time.
 私が前に述べたように、ただ啓示だけが時間を超越します。

 The miracle, as an expression of charity, can only shorten it.
 慈悲の発露としての奇跡にできるのは、時間を短縮することだけです。

 It must be understood, however, that whenever you offer a miracle to another, you are shortening the suffering of both of you.
 それでも、あなたは自分が他の人に奇跡を捧げるたびに、自分と相手の両方の苦しみを短くしているのだと理解しておく必要があります。

 This corrects retroactively as well as progressively.
 この奇跡は、未来に向かって修正するのはもちろん、過去に遡っても修正することになるのです。




名称未設定



A.Special Principles of Miracle Workers
A 奇跡を行う者にとっての特別な規範




1. The miracle abolishes the need for lower-order concerns.
 奇跡は低い次元の関心事の必要性を根絶します。

 Since it is an out-of-pattern time interval, the ordinary considerations of time and space do not apply.
 奇跡は型通りの時間の間隔に縛られることがないので、時間と空間についての常識など奇跡には通用しません。

 When you perform a miracle, I will arrange both time and space to adjust to it.
 あなたが奇跡をなすときには、私が奇跡に適合するように時間と空間の両方を調整してあげましょう。




2. A clear distinction between what is created and what is made is essential.
 創造されたものと作られたものとの間に、はっきりと区別をつけることが肝心です。

 All forms of healing rest on this fundamental correction in level perception.
 いかなる形態の癒しも、レベル認識に関するこの根本的な修正に基盤を置きます。




3. Never confuse right- and wrong-mindedness.
 正しい心の状態と誤った心の状態を決して混同してはなりません。

 Responding to any form of error with anything except a desire to heal is an expression of this confusion.
 どのような形の誤りに応ずるにしても、癒したいという願い以外の気持ちで臨むとすれば、それは心の状態の正誤を混同していることの印です。




4. The miracle is always a denial of this error and an affirmation of the truth.
 奇跡はつねにこの誤りを否認し、真理を肯定します。

 Only right-mindedness can correct in a way that has any real effect.
 心が正しい状態にあるときにのみ、なんらかの現実的な効果を伴う方法で修正することができます。

 Pragmatically, what has no real effect has no existence.
 実用的にみて、現実的な効果を伴わないものは存在しているとはいえません。

 Its effect, then, is emptiness.
 ゆえに、現実的な効果を伴わないものの結果は内容のない空疎なものとなります。

 Being without substantial content, it lends itself to projection.
 実質的な内容がないので、この空疎な誤った心の状態は、それ自体を投影させるようになるのです。




5. The level-adjustment power of the miracle induces the right perception for healing.
 奇跡の持つレベルを調整する能力が、癒しのために正しい知覚がなされるよう仕向けてくれます。

 Until this has occurred healing cannot be understood.
 この正しい知覚が生じないかぎり、癒しを理解することはできません。

 Forgiveness is an empty gesture unless it entails correction.
 それが修正を引き起こさないのであれば、そのような許しなど、空しいジェスチャーでしかありません。

 Without this it is essentially judgmental, rather than healing.
 修正を伴わない許しは本質的には、癒しというよりも価値判断による裁きです。


名称未設定


6. Miracle-minded forgiveness is only correction.
 奇跡を志向する赦しは、ただ修正するだけです。

 It has no element of judgment at all.
 奇跡を志向する赦しには、価値判断を下す要素がまったくありません。

 The statement "Father forgive them for they know not what they do" in no way evaluates what they do.
 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちが何をしているかわかっていないのです」との言葉は、決して彼らの行いの価値を評価したものではありません。

 It is an appeal to God to heal their minds.
 この言葉は、彼らの心を癒してくれるようにと神に訴えたものです。

 There is no reference to the outcome of the error.
 彼らの誤りがもたらした結末についての言及はどこにもありません。

 That does not matter.
 そのようなことは問題ではないのです。




7. The injunction "Be of one mind" is the statement for revelation-readiness.
 「心をひとつにせよ」という訓令は、啓示を受ける準備をさせるための言明です。

 My request "Do this in remembrance of me" is the appeal for cooperation from miracle workers.
 「私の記念として、これを行うように」という私の頼みは、奇跡を行う者たちの協力を求める訴えです。

 The two statements are not in the same order of reality.
 この二つの言明は、現実の同じ次元に属するものではありません。

 Only the latter involves an awareness of time, since to remember is to recall the past in the present.
 ただ後者の言明だけが時間を自覚することを必要とします。なぜなら、何かを覚えて思い出すというのは、現在において過去のことを呼び起こすことだからです。

 Time is under my direction, but timelessness belongs to God.
 時間は私の命令に従いますが、時間の無い状態は神に属します。

 In time we exist for and with each other.
 時間の中にいる間は、私たちはお互いのために、そして、お互いと共に存在します。

 In timelessness we coexist with God.
 時間の存在しない状態においては、私たちは神と共に存在するのです。




8. You can do much on behalf of your own healing and that of others if, in a situation calling for help, you think of it this way:
 助けを要する事態において、もしあなたが次に述べるように考えるなら、あなたは、自分自身を癒し、ほかの者たちをも癒すために、大いに力になることができます。


I am here only to be truly helpful.
私は、真に役立つためにだけ、この世界にいる。

I am here to represent him who sent me.
私がここにいるのは、私を遣わした聖霊の代理を務めるためだ。

I do not have to worry about what to say or what to do, because he who sent me will direct me.
私には、何を言ったらよいのか、何をしたらよいのかと心配する必要はない。なぜなら、私を遣わした聖霊が私を導いてくれるからだ。

I am content to be wherever he wishes, knowing he goes there with me.
聖霊が私と一緒にそこに行ってくれるとわかっているので、私はどこであれ、聖霊が私を居させたいと望むところに居ることに満足する。

I will be healed as I let Him teach me to heal.
私が聖霊に癒し方を教えてもらうようにすれば、私も癒されることになる。


名称未設定



いつも読んでいただき、ありがとうございます!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ ACIMへ
ポチリよろしく!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアルメッセージへ
にほんブログ村


ポチッとお願いします!

2air_rankクリックお願いします
関連記事
奇跡役割癒し思いやり時間修正贖罪身体創造

Comments 0

Leave a reply