レッスン244「私は、世界のどこにいようとも危険にさらされることはない」
レッスン244です。
今日のテーマは「私は、世界のどこにいようとも危険にさらされることはない」です。

まず、世界とは何かをご覧ください。
再三出てくることですが、神の子が安全なのは、現実においては神の子は神の庇護下から離れたことなどなく、夢の世界を旅しているだけだからです。
テレビのゲームの世界の中でマリオが絶体絶命の危機にさらされても画面の前でプレイしている子供は無事なままです。
「1. Your Son is safe wherever he may be, for You are there with him.
あなたの子は、どこにいようとも安全です。というのも、あなたがそこに彼とともにいてくれるからです。」
この文章は一見、神がこの世界の中で私たちと一緒にいるということを述べているように思えます。
神は、幻想世界など関知しないので、神が神の子と一緒に幻想世界の中に入り込んで偽りの自己像であるアバターになりきっている神の子を幻想から守るということはありません。
神の子が世界のどこにいようとそこに神が一緒にいてくれるというのは、ゲームをしている子供とは別に親もアバターを用いてゲーム世界に入り込んで、子供に付いて守ったり、親がゲーム世界の管理・運営を行って子に危険がないようにゲームの進行を見守るというのではなく、画面の前でプレイしている子供の傍に親がつねについているというニュアンスに近いと思います。
普通のテレビゲームよりも、子供がプレイしているのがVRゲームで、VRゴーグルやグローブどころか、マトリックスの人間栽培場ののネオたちのように、子供が寝たきり状態でゲーム世界に意識が行っちゃってる状態でイメージしてもらえればと思います。
幻想世界の中のエゴ・身体というアバターが自分だと信じ込んでいる神の子は、まさにこの状態、現実には親が自分と一緒にいてくれるということを忘れることで、この世界にいるわけです。
なので、この世界の中で神が支援してくれているから、私は安全だという捉え方は、かえってエゴ・身体への一体化を強めかねないことになります。
それよりも、世界の中でアバターをどこにいさせようとも、本当の自分は、本来の居場所である天国において自分が神に包まれて神とともにあるがゆえに、世界という幻から害されることなく安全だという自覚を持つことで、神の子は、エゴ・身体を自分と同一視することなく、単なるアバター、道具として位置付けることになります。
そうすれば、この自覚が世界を危険な場所ではなく、神の計画に従って自分自身の救済を果たすことのできる場所として捉え直すことになります。
したがって、世界は危険に満ちた場所ではなく、愛に満ち溢れる場所となります。
Lesson 244
I am in danger nowhere in the world.
私は、世界のどこにいようとも危険にさらされることはない。
1. Your Son is safe wherever he may be, for You are there with him.
あなたの子は、どこにいようとも安全です。というのも、あなたがそこに彼とともにいてくれるからです。
He need but call upon Your Name, and he will recollect his safety and Your Love, for they are one.
神の子は、ただあなたの大いなる名を呼ぶだけでよいのです。そうすれば、彼は自分が安全であることとあなたの大いなる愛を思い出すでしょう。というのも、神の子の安全とあなたの愛とはひとつのものだからです。
How can he fear or doubt or fail to know he cannot suffer, be endangered, or experience unhappiness, when he belongs to You, beloved and loving, in the safety of Your Fatherly embrace?
愛され、愛に満ち溢れている神の子があなたの愛情に満ちた保護に包まれて、あなたの安全な庇護の下にあるというのに、どうして神の子が、自分には苦しんだり、危険にさらされたり、不幸を経験したりできないと知ることを恐れたり、疑ったり、知り損ねたりできるでしょうか。
2. And there we are in truth.
そして、そこでは私たちは真理の中にあります。
No storms can come into the hallowed haven of our home.
聖なる避難所である私たちの家の中には、いかなる嵐も入りこむことはできません。
In God we are secure.
神の中にいる私たちは安全です。
For what can come to threaten God Himself, or make afraid what will forever be a part of Him?
いったい何が神自身を脅かしたり、永遠に神の一部であるものを怖がらせることができるというのでしょうか。

それでは、ブリトニーさんのレッスンです。

今日のテーマは「私は、世界のどこにいようとも危険にさらされることはない」です。

まず、世界とは何かをご覧ください。
再三出てくることですが、神の子が安全なのは、現実においては神の子は神の庇護下から離れたことなどなく、夢の世界を旅しているだけだからです。
テレビのゲームの世界の中でマリオが絶体絶命の危機にさらされても画面の前でプレイしている子供は無事なままです。
「1. Your Son is safe wherever he may be, for You are there with him.
あなたの子は、どこにいようとも安全です。というのも、あなたがそこに彼とともにいてくれるからです。」
この文章は一見、神がこの世界の中で私たちと一緒にいるということを述べているように思えます。
神は、幻想世界など関知しないので、神が神の子と一緒に幻想世界の中に入り込んで偽りの自己像であるアバターになりきっている神の子を幻想から守るということはありません。
神の子が世界のどこにいようとそこに神が一緒にいてくれるというのは、ゲームをしている子供とは別に親もアバターを用いてゲーム世界に入り込んで、子供に付いて守ったり、親がゲーム世界の管理・運営を行って子に危険がないようにゲームの進行を見守るというのではなく、画面の前でプレイしている子供の傍に親がつねについているというニュアンスに近いと思います。
普通のテレビゲームよりも、子供がプレイしているのがVRゲームで、VRゴーグルやグローブどころか、マトリックスの人間栽培場ののネオたちのように、子供が寝たきり状態でゲーム世界に意識が行っちゃってる状態でイメージしてもらえればと思います。
幻想世界の中のエゴ・身体というアバターが自分だと信じ込んでいる神の子は、まさにこの状態、現実には親が自分と一緒にいてくれるということを忘れることで、この世界にいるわけです。
なので、この世界の中で神が支援してくれているから、私は安全だという捉え方は、かえってエゴ・身体への一体化を強めかねないことになります。
それよりも、世界の中でアバターをどこにいさせようとも、本当の自分は、本来の居場所である天国において自分が神に包まれて神とともにあるがゆえに、世界という幻から害されることなく安全だという自覚を持つことで、神の子は、エゴ・身体を自分と同一視することなく、単なるアバター、道具として位置付けることになります。
そうすれば、この自覚が世界を危険な場所ではなく、神の計画に従って自分自身の救済を果たすことのできる場所として捉え直すことになります。
したがって、世界は危険に満ちた場所ではなく、愛に満ち溢れる場所となります。
Lesson 244
I am in danger nowhere in the world.
私は、世界のどこにいようとも危険にさらされることはない。
1. Your Son is safe wherever he may be, for You are there with him.
あなたの子は、どこにいようとも安全です。というのも、あなたがそこに彼とともにいてくれるからです。
He need but call upon Your Name, and he will recollect his safety and Your Love, for they are one.
神の子は、ただあなたの大いなる名を呼ぶだけでよいのです。そうすれば、彼は自分が安全であることとあなたの大いなる愛を思い出すでしょう。というのも、神の子の安全とあなたの愛とはひとつのものだからです。
How can he fear or doubt or fail to know he cannot suffer, be endangered, or experience unhappiness, when he belongs to You, beloved and loving, in the safety of Your Fatherly embrace?
愛され、愛に満ち溢れている神の子があなたの愛情に満ちた保護に包まれて、あなたの安全な庇護の下にあるというのに、どうして神の子が、自分には苦しんだり、危険にさらされたり、不幸を経験したりできないと知ることを恐れたり、疑ったり、知り損ねたりできるでしょうか。
2. And there we are in truth.
そして、そこでは私たちは真理の中にあります。
No storms can come into the hallowed haven of our home.
聖なる避難所である私たちの家の中には、いかなる嵐も入りこむことはできません。
In God we are secure.
神の中にいる私たちは安全です。
For what can come to threaten God Himself, or make afraid what will forever be a part of Him?
いったい何が神自身を脅かしたり、永遠に神の一部であるものを怖がらせることができるというのでしょうか。

それでは、ブリトニーさんのレッスンです。

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