There Is No Spoon

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癒しの定義

理療法から癒し定義についての一節をご紹介します。


VI. The Definition of Healing
癒し定義


1. The process of psychotherapy, then, can be defined simply as forgiveness, for no healing can be anything else.
 それゆえ、理療法の目的は、単純に赦しであると定義できます。というのも、いかなる癒しも赦し以外の何ものでもありえないからです。

 The unforgiving are sick, believing they are unforgiven.
 赦そうとしない者は病んでいます。なぜなら、彼は自分が許されていないと信じているからです。

 The hanging-on to guilt, its hugging-close and sheltering, its loving protection and alert defense, -- all this is but the grim refusal to forgive.
 罪悪感にしがみつくこと、罪悪感を抱き、守ろうとすること、罪悪感を大切に守って防衛しようと警戒すること、これらすべてはただ赦しに対する断固とした拒絶でしかありません。

 "God may not enter here" the sick repeat, over and over, while they mourn their loss and yet rejoice in it.
 自分たちの失ったものを嘆きつつも、病気になっていることを喜びながら、「神はここには入ってこないだろう」と病人は何度も何度も繰り返します。

 Healing occurs as a patient begins to hear the dirge he sings, and questions its validity.
 癒しは、患者が自分のう挽を聞いて、そして、はたしてそれがふさわしいものなのか疑いはじめたときに起こります。

 Until he hears it, he cannot understand that it is he who sings it to himself.
 患者が自分のう挽を聞くようにならないかぎり、彼には、自分にそのっていたのは、自分自身だったのだということが理解できません。

 To hear it is the first step in recovery.
 自らの歌う挽歌を聞くことは、回復のための第一歩です。

 To question it must then become his choice.
 それから、患者はそれに疑問を抱くことを選択しなければなりません。





2. There is a tendency, and it is very strong, to hear this song of death only an instant, and then dismiss it uncorrected.
 この死の歌を一瞬だけ耳にして、それから、それを修正しないまま放っておくことは、ありがちなことだし、この傾向は非常に強いものだといえます。

 These fleeting awarenesses represent the many opportunities given us literally "to change our tune."
 このような一瞬の自覚は、私たちに文字どおり「自分の調子を変える」ための多くの機会を与えてくれます。

 The sound of healing can be heard instead.
 死の歌の代わりに、癒しの音色を聞くことができるのです。

 But first the willingness to question the "truth" of the song of condemnation must arise.
 しかし、まずは、咎めの歌が「真実」であることに対する疑問を呈する必要があります。

 The strange distortions woven inextricably into the self-concept, itself but a pseudo-creation, make this ugly sound seem truly beautiful.
 偽りの創造物でしかない自己概念の中にほどきがたく織り込まれた奇妙な歪曲が、この不快な騒音があたかも本当に美しい音楽であるかのように思わせています。

 "The rhythm of the universe," "the herald angel's song," all these and more are heard instead of loud discordant shrieks.
 悲鳴のようにうるさい不協和に代わって、「宇宙の旋律」や「伝令の天使の歌」のすべて、そしてそれ以上の音楽が聞こえるようになります。





3. The ear translates; it does not hear.
 耳は翻訳しているだけであって、耳が聞いているのではありません。

 The eye reproduces; it does not see.
 目は再現しているだけで、目が見ているわけではありません。

 Their task is to make agreeable whatever is called on, however disagreeable it may be.
 五感の任務は、どんなものが呼び出されようとも、それがいかに気に入らない同意しがたいものであっても、快く同意できるものに変えることです。

 They answer the decisions of the mind, reproducing its desires and translating them into acceptable and pleasant forms.
 五感の決断に答えて、の欲望を再現し、その同意しがたいものを同意しうる快適な形態に変換します。

 Sometimes the thought behind the form breaks through, but only very briefly, and the mind grows fearful and begins to doubt its sanity.
 ときには、きわめて短い間だけですが、その形の背後にある思いが姿を現すこともあり、は恐怖を増大させて、自らの正気を疑いはじめることもあります。

 Yet it will not permit its slaves to change the forms they look upon; the sounds they hear.
 それでも、はその奴隷である五感が見る形や聞く音を変えることを許そうとはしません。

 These are its "remedies"; its "safeguards" from insanity.
 このようにすることが、の「治癒」であり、心の狂気からの「防御」だというのです。





4. These testimonies which the senses bring have but one purpose; to justify attack and thus keep unforgiveness unrecognized for what it is.
 感覚器官の持ってくるこれらの証拠には、ただ一つの目的しかありません。それは、攻撃することを正当化し、そうして、赦さないということが本当はどういうことなのか気づかせないまま、赦そうとしない状態を保つという目的です。

 Seen undisguised it is intolerable.
 あらわな状態で見れば、感覚器官のもたらす証拠は反証に耐えられないものです。

 Without protection it could not endure.
 保護されることがなければ、そんな証拠は持ちこたえられません。

 Here is all sickness cherished, but without the recognition that this is so.
 ここにこそ、ただ単に保護されなければ感覚器官の示す証拠はまったく信用できないということが気づかれていないせいで、あらゆる病気が大切にされてしまう理由があります。

 For when an unforgiveness is not recognized, the form it takes seems to be something else.
 というのも、赦さないことが気づかれないでいるとき、それがとる形は、何かそれ以外のものであるように見えるからです。

 And now it is the "something else" that seems to terrify.
 そして、今、恐れを抱かせるように見えるのは、その「何かほかのもの」なのです。

 But it is not the "something else" that can be healed.
 しかし、癒されることができるのは、その「何かほかのもの」ではありません。

 It is not sick, and needs no remedy.
 それは、病気ではないし、何の治癒も必要とはしないのです。

 To concentrate your healing efforts here is but futility.
 あなたの癒そうとする努力をここに集中させることは、徒労に終わります。

 Who can cure what cannot be sick and make it well?
 いったい誰が、病気になることのできないものを治し、それを具合よくできるというのでしょうか。






5. Sickness takes many forms, and so does unforgiveness.
 病気は、多様な形態をとります。そして、赦そうとしない思いも多様な形態をとります。

 The forms of one but reproduce the forms of the other, for they are the same illusion.
 病気の形は、ただ赦そうとしない思いの形を再現ているだけです。というのも、それらは、同じ幻想だからです。

 So closely is one translated into the other, that a careful study of the form a sickness takes will point quite clearly to the form of unforgiveness that it represents.
 赦さない思いは病気に本当に近いものとして変換されるので、病気が取る形を入念に研究することは、きわめて明確に、病気が表現している赦さない思いの形を示すことにはなります。

 Yet seeing this will not effect a cure.
 しかし、病気が象徴する赦さない思いの形を見ることは、治癒には効果がありません。

 That is achieved by only one recognition; that only forgiveness heals an unforgiveness, and only an unforgiveness can possibly give rise to sickness of any kind.
 治癒は、ただ一つの気づきのみによって成就します。それは、ただ赦しだけが赦さない思いを癒し、ただ赦さない思いだけが、あらゆる種類の病気が生じることを可能にするということです。





6. This realization is the final goal of psychotherapy.
 このことを理解することが、心理療法の最終目標です。

 How is it reached?
 どうやってこの最終目標に到達できるのでしょうか。

 The therapist sees in the patient all that he has not forgiven in himself, and is thus given another chance to look at it, open it to re-evaluation and forgive it.
 セラピストは、自分自身の中で赦してこなかったことのすべてを患者の中に見ています。こうして、セラピストには、自分の赦さない思いを見つめて、それを再評価して赦すことができる新たな機会が与えられているのです。

 When this occurs, he sees his sins as gone into a past that is no longer here.
 これが起こるとき、セラピストは自分の罪がもはやここにはない過去へと去ったものとして見るようになります。

 Until he does this, he must think of evil as besetting him here and now.
 彼がこの赦しをなすまでは、セラピストは、今ここで自分に害悪がつきまとっていると思うに違いありません。

 The patient is his screen for the projection of his sins, enabling him to let them go.
 その患者は、セラピストの罪を投影するスクリーンなのであって、セラピストに自分の罪を手放せるようにさせてくれているのです。

 Let him retain one spot of sin in what he looks upon, and his release is partial and will not be sure.
 セラピストの見るスクリーンに一点でも罪が残るなら、彼の解放は不完全なものになり、確実なものにはならないでしょう。




8. No one is healed alone.
 誰もひとりだけで癒されることはありません。

 This is the joyous song salvation sings to all who hear its Voice.
 これは、救済の大いなる声を聞く者みんなに救済が歌う喜びの歌です。

 This statement cannot be too often remembered by all who see themselves as therapists.
 この宣言は、自分をセラピストとみなすすべての者たちが頻繁に思い出すようにしなければならない宣言です。

 Their patients can but be seen as the bringers of forgiveness, for it is they who come to demonstrate their sinlessness to eyes that still believe that sin is there to look upon.
 彼らの患者たちは、ただ赦しをもたらす者としてしか見ることはできません。というのも、患者こそが、彼らの罪のなさを、依然としてそこに罪があると信じている目に実証するためにやってくる者たちだからです。

 Yet will the proof of sinlessness, seen in the patient and accepted in the therapist, offer the mind of both a covenant in which they meet and join and are as one.
 しかし、罪のなさを証明するものを患者の中に見て、セラピストの中に受け入れられた無罪の証拠は、患者とセラピストの両者の心に、彼らが出会って結びついて一つのものとなるという聖約を差し延べてくれます。



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