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There Is No Spoon

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P2-VI 癒しの定義

理療法から癒し定義についての一節をご紹介します。



癒しとは赦しのことであり、理療法は赦しを達成しることです。

しかし、五感は、この世界は危険な場所で外部の勢力がなけなしの状態からさらにはぎ取ろうと攻撃してくるので、罪深い他者から身を守るために防衛しなければならないことを示す証拠を無数に運んできます。

しかし、真実は、五感の運ぶすべての証拠の背後には赦さない思いが潜んでいて、この思いが露呈しないよう攻撃と防衛の応酬が続くよう感覚器官は知覚を捻じ曲げて伝える役目を果たしているのです。

目や耳はそれ自体が見聞きしているわけではなく、感知したものをに運んで届けているだけです。

そして、パソコンにつながれたデジタルカメラのフォーカスや露出を調整して、美しいものを醜く、醜悪なものをさも美しいものであるかのように変換して画面上に表示することが容易であるように、五感の任務は、がみたいように対象を補正して見せる、認めたくない醜悪なものを容認できる美しいもののように見せかけることです。

したがって、エゴによると癒しとは、罪悪感と恐怖を生み出して、攻撃と防衛が循環するようにしてエゴを存続させるために、病気や攻撃や非難の背後には、赦さない思いが潜んでいることがありのままに認識されないように、五感が赦さない思いをありのままに伝えず、病気や攻撃という表面に見える物事だけを知覚するように調整することだということになります。

この観点では、表面に現れている病気の症状や攻撃を消去することが治癒や修正の対象となります。

しかし、これらの症状は、背後に隠れている赦さない思いの発露でしかないので、病気や攻撃は再び勢いを盛り返すことになり、真の治癒とはいえません。

恐ろしいものに思えている病気や攻撃それ自体は結果であり、治癒を必要としているものではなく、治癒が必要なのは原因である赦さない思いのほうなのです。

したがって、治癒は、ただひとつの気づきのみによって成就します。それは、ただ赦しだけが赦さない思いを癒し、ただ赦さない思いだけが、何らかの形で病気が生じることを可能にするという認識です。これが理療法の最終目標です。

誰も自分ひとりだけで癒されることはできません。

セラピストを辞任する者は誰でも、つねにこのことを思い出すようにすべきです。

理療法では、セラピストは、患者の中に自分の赦さない思いを見て、それを改めて見つめ直して赦す機会を得ている、つまり、患者はセラピストの罪を投影するスクリーンの役目を果たして、セラピストが自分の罪を手放せるようにセラピストの解放を助けているということです。




VI. The Definition of Healing
癒し定義



1. The process of psychotherapy, then, can be defined simply as forgiveness, for no healing can be anything else.
 それゆえ、理療法の目的は、単純に赦しであると定義できます。というのも、いかなる癒しも赦し以外の何ものでもありえないからです。

 The unforgiving are sick, believing they are unforgiven.
 赦そうとしない者は病んでいます。なぜなら、彼は自分が許されていないと信じているからです。

 The hanging-on to guilt, its hugging-close and sheltering, its loving protection and alert defense, -- all this is but the grim refusal to forgive.
 罪悪感にしがみつくこと、罪悪感に固執して保護しようとすること、罪悪感を大切に守って防衛しようと警戒すること、これらすべてはただ赦しに対する断固たる拒絶にほかなりません。

 "God may not enter here" the sick repeat, over and over, while they mourn their loss and yet rejoice in it.
 自分たちの失ったものを嘆きつつも、そのことに喜びながら、「神はここには入ってこられないだろう」と病人は何度も何度も繰り返します。

 Healing occurs as a patient begins to hear the dirge he sings, and questions its validity.
 癒しは、患者が自分のっている葬送のを聞くようになって、はたしてそれがふさわしいものなのか疑いはじめたときに起こります。

 Until he hears it, he cannot understand that it is he who sings it to himself.
 患者が自分のう挽を聞くようにならないかぎり、彼は、自分に向けて死を弔うっていたのが自分自身だと理解することができません。

 To hear it is the first step in recovery.
 自らの歌う挽歌を聞くことは、回復のための第一歩です。

 To question it must then become his choice.
 それから、患者はそれに疑問を抱くことを選択しなければなりません。



2. There is a tendency, and it is very strong, to hear this song of death only an instant, and then dismiss it uncorrected.
 この死の歌を一瞬だけ耳にして、それから、それを修正しないまま放っておくことは、ありがちなことだし、そうなってしまうことが大いにありえます。

 These fleeting awarenesses represent the many opportunities given us literally "to change our tune."
 このような一瞬の自覚は、文字どおり自分の歌う旋律を変えて「生きる姿勢を変える」ための多くの機会が私たちに与えられていることを示しています。

 The sound of healing can be heard instead.
 死の歌の代わりに、癒しの音色を聞くこともできるのです。

 But first the willingness to question the "truth" of the song of condemnation must arise.
 しかし、まずは、咎めの歌が「本当」であることに対する疑問を呈する意欲が生じなければなりません。

 The strange distortions woven inextricably into the self-concept, itself but a pseudo-creation, make this ugly sound seem truly beautiful.
 偽りの創造物でしかない自己概念の中にほどきがたく織りこまれた奇妙な歪曲が、この不快な騒音をあたかも本当に美しい音楽であるかのように思わせています。

 "The rhythm of the universe," "the herald angel's song," all these and more are heard instead of loud discordant shrieks.
 悲鳴のようにうるさい不協和音の代わりに、「宇宙のリズム」や「天の伝令の歌」といったすべて、そしてそれ以上の音楽が聞こえてはいます。



3. The ear translates; it does not hear.
 しかし、耳は翻訳しているだけであって、耳が聞いているわけではありません。

 The eye reproduces; it does not see.
 目は再現しているだけで、目が見ているわけではありません。

 Their task is to make agreeable whatever is called on, however disagreeable it may be.
 五感の任務は、たとえどんなものが呼び出されようとも、それがいかに不愉快なものであっても、地よいものに変えることです。

 They answer the decisions of the mind, reproducing its desires and translating them into acceptable and pleasant forms.
 五感の決断に答えて、の欲望を再生し、その同意しがたいものを受け入れられる快適な形へと変換します。

 Sometimes the thought behind the form breaks through, but only very briefly, and the mind grows fearful and begins to doubt its sanity.
 ときには、きわめて短い間だけですが、その形の背後にある思いがこぼれ出して姿を現すこともあり、は恐怖を増大させて、自らの正気を疑いはじめることもあります。

 Yet it will not permit its slaves to change the forms they look upon; the sounds they hear.
 それでも、は自らの奴隷である五感に、見る形や聞く音を変えることを許しません。

 These are its "remedies"; its "safeguards" from insanity.
 このようにすることが、心を「治癒」することであり、心を狂気に陥ることから「保護」することになるというのです。



4. These testimonies which the senses bring have but one purpose; to justify attack and thus keep unforgiveness unrecognized for what it is.
 感覚器官の持ってくるこれらの証拠には、ただひとつの目的しかありません。それは、攻撃することを正当化し、そうすることで、赦さない思いがありのままに認識されないように保つことです。

 Seen undisguised it is intolerable.
 露わな状態で見られたら、感覚器官のもたらす証拠は反証に耐えられないものです。

 Without protection it could not endure.
 保護されることがなければ、そんな証拠は持ちこたえられません。

 Here is all sickness cherished, but without the recognition that this is so.
 この感覚器官のもたらす証拠がすべての病気を大切に保っているのですが、これがその通りだと気づかれることはありません。

 For when an unforgiveness is not recognized, the form it takes seems to be something else.
 というのも、赦さない思いが気づかれないでいるとき、それは、何かそれ以外のものの形をとっているように見えるからです。

 And now it is the "something else" that seems to terrify.
 そうなるともはや、恐ろしいのは、その「何かほかのもの」であるように見えてしまいます。

 But it is not the "something else" that can be healed.
 しかし、癒されることができるのは、その「何かほかのもの」ではありません。

 It is not sick, and needs no remedy.
 その「何かほかのもの」は病んでいるわけではないので、それは何の治癒も必要とはしないからです。

 To concentrate your healing efforts here is but futility.
 あなたが癒そうとする努力をここに集中させるなら、それは徒労に終わります。

 Who can cure what cannot be sick and make it well?
 いったい誰が、病気になることのできないものを治したり、それを具合よくできるというのでしょうか。



5. Sickness takes many forms, and so does unforgiveness.
 病気は多様な形をとり、赦そうとしない思いも多様な形をとります。

 The forms of one but reproduce the forms of the other, for they are the same illusion.
 病気の多様な形は、ただ赦そうとしない思いの形を再生しているだけです。というのも、それらは、同じ幻想だからです。

 So closely is one translated into the other, that a careful study of the form a sickness takes will point quite clearly to the form of unforgiveness that it represents.
 赦さない思いは本当に近似した形で病気へと変換されるので、ある病気がとる形を入念に研究することは、きわめて明確に、病気が表現している赦さない思いの形を示すことにはなります。

 Yet seeing this will not effect a cure.
 しかし、病気が象徴する赦さない思いの形を見たところで、それは治癒には効果がありません。

 That is achieved by only one recognition; that only forgiveness heals an unforgiveness, and only an unforgiveness can possibly give rise to sickness of any kind.
 治癒は、ただひとつの気づきのみによって成就します。それは、ただ赦しだけが赦さない思いを癒し、ただ赦さない思いだけが、何らかの形で病気が生じることを可能にするという認識です。



6. This realization is the final goal of psychotherapy.
 この理解こそが、心理療法の最終目標です。

 How is it reached?
 どうやってこの最終目標に到達できるのでしょうか。

 The therapist sees in the patient all that he has not forgiven in himself, and is thus given another chance to look at it, open it to re-evaluation and forgive it.
 セラピストは、自分自身の中でまだ赦していないことのすべてを患者の中に見ています。こうして、セラピストには、自分の赦さない思いを見つめて、それを改めて評価し直して赦すことができる新たなチャンスが与えられているのです。

 When this occurs, he sees his sins as gone into a past that is no longer here.
 これが起こるとき、セラピストは自分の罪がもはやここにはない過去へと去ったものとして見るようになります。

 Until he does this, he must think of evil as besetting him here and now.
 彼がこの赦しをなすまでは、セラピストは、害悪のことを今ここで自分につきまとっているものだと思うに違いありません。

 The patient is his screen for the projection of his sins, enabling him to let them go.
 その患者は、セラピストの罪を投影するスクリーンとなって、セラピストが自分の罪を手放せるようにしてくれているのです。

 Let him retain one spot of sin in what he looks upon, and his release is partial and will not be sure.
 セラピストの見る患者にひとつでも罪の汚点が残るなら、彼の解放は不完全なものになり、確実なものにはならないでしょう。



8. No one is healed alone.
 誰もひとりだけで癒されることはありません。

 This is the joyous song salvation sings to all who hear its Voice.
 これは、救済の大いなる声を聞く者みんなに救済が歌う喜びの歌です。

 This statement cannot be too often remembered by all who see themselves as therapists.
 自分をセラピストとみなすすべての者たちは、本当に頻繁にこの宣言を思い出すようにしなければなりません。

 Their patients can but be seen as the bringers of forgiveness, for it is they who come to demonstrate their sinlessness to eyes that still believe that sin is there to look upon.
 彼らの患者たちは、ただ赦しをもたらす者としてしか見ることはできません。というのも、そこに罪が見えるものとして存在すると未だに信じている目に、自らの罪のなさを実証するためにやってくるのが患者たちだからです。

 Yet will the proof of sinlessness, seen in the patient and accepted in the therapist, offer the mind of both a covenant in which they meet and join and are as one.
 それだけでなく、患者の中に見られて、セラピストの中に受け入れられた無罪の証拠は、患者とセラピストの両者の心に、彼らが出会って結びついてひとつのものとなるという聖約を差し延べてくれるでしょう。


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