T12-1 聖霊の審判


あら探しの好きな方、わがままな方、厄介な質問をする方に申し上げます。ありがとうございます!

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マイケル・デル



The hunger for love is much more difficult to remove than the hunger for bread.
食べ物を求める飢えよりも、愛を求める飢えのほうが取り除くのが難しいのです。



Mother Teresa
マザー・テレサ

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人にどう思われているかを気にしなければしないほど、相手の気持ちを気遣えるようになる。



Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー

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When another person makes you suffer, it is because he suffers deeply within himself, and his suffering is spilling over.
あなたが誰かに苦悩させられるとき、そのわけは、その人自身が深刻に苦しんでいて、彼の苦悩が彼から溢れ出しているからだ。

He does not need punishment; he needs help.
彼が必要としているのは罰せられることではない。彼に必要なのは助けなのだ。

That’s the message he is sending.
彼は助けてほしいというメッセージを送っているのだから。



Thich Nhat Hanh
ティク・ナット・ハン





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今回は、テキスト第十二章から、聖霊の審判という一節をご紹介します。


聖霊の最重要レッスン

本節では、他者の中に愛に満ちた思いだけを認めて、それ以外はことごとく癒しと助けを求める哀訴だとみなすという聖霊の教えの中でも最重要と言ってもよいレッスンが説明されます。





この認識こそが憎しみと攻撃の世界を愛と平和の世界に変えます。

よく漫画などで描かれるように、不器用な男の子が憧れている女の子に対して逆にその子が嫌がるようなことをしてしまうということがあります。

このような可愛らしいレベルから、殺人や虐待、戦争に至るまで、捩くれて歪曲した形でわかりにくくなってはいても、非難や攻撃は、愛を求める哀訴がその根元の動機だということです。


聖霊は恐れの本質は愛を求める哀訴であると正確に解釈できる

8.「Consider how well the Holy Spirit's interpretation of the motives of others will serve you then.
 ここで、他者の動機についての聖霊の解釈が、どれほどあなたの役に立つかよく考えてみてください。

 Having taught you to accept only loving thoughts in others and to regard everything else as an appeal for help, he has taught you that fear itself is an appeal for help.
 あなたに他者の中に愛に満ちた思いだけを認めて、それ以外はことごとく助けを求める哀訴だとみなすようにと教えることによって、聖霊はあなたに、恐れそれ自体が助けを求める哀願なのだと教えてくれました。

 This is what recognizing fear really means.
 これが、恐れを認識することの真の意味です。」





同じ罪という幻想が時制によって姿を変える → 恐れは罪の未来形

実在と実在の不在に名前をつけただけの影の対立の構図はこれまで幾度もお話ししました。

恐れは実在する愛の対概念で、愛の不在に名前をつけたものでした。

恐れとそれから派生する攻撃は、実在の不在が影として形を持った幻でしかありません。

恐れは、過去に犯した罪について抱く現在の罪悪感から生み出される未来に待ち受ける報復としての処罰を予期することから生じる感情です。

この点で、罪=罪悪感=恐れであり、同じ罪という幻想が時制によって姿を変えているだけです。

罪から派生する幻も含めて、すべて根本的な神や他者との隔たりという分離幻想が形を変えた同じ錯覚・幻想であり、その本質は虚無です。


虚無の吸引力

虚無は、実在の不在が実在との圧力差を生み、真空状態と同じように、不在を満たそうとする作用、つまり、欠けているものを吸引する作用を持ちます。

恐れや攻撃も、この真空状態と同じように、愛の不在による真空を満たそうという吸引力が歪んだ形をとっているもので、本質は愛を求める呼び声である哀訴だということです。

このレッスンを理解し、つねに心に抱くなら、他者からの非難や攻撃に対して返すべきは、防衛反応としての反撃ではなく、愛に基づく助けを差し出すことだということがわかります。


聖霊の3大レッスン

この①他者の非難・攻撃は愛を求める哀訴なのだから、返すべきは反撃ではなく愛に基づく助けだというレッスンは、②私たちを攻撃する他者に返すべきリアクションは、自分が傷ついたことを思い知らせて罪悪感を抱かせることではなく、自分がまったく傷ついていないことを示して相手に自らが潔白であることをわからせてあげることだ(T14-3 無罪を自覚する決意)という聖霊の教え、③私たちを怒らせる他者は、私たちに自分が振り上げた裁きの剣を振り下ろして相手と自分を一緒に幽閉するか、剣を背けて一緒に解放するか選択する機会を与えてくれている私たちの救い主だから返すべきは感謝だ(レッスン192「私には、神が私に果たさせようとする役目がある」)という聖霊の教え、と並ぶ、奇跡のコースで聖霊が教える他者への対応に関する聖霊の3大レッスンと言えるでしょう。


SOC

1970年代に、医療社会学者のアーロン・アントノフスキー氏によって提唱された「首尾一貫感覚」「SOC(Sense of Coherence)」という概念があります。同氏は、第二次世界大戦でナチスドイツの強制収容所を体験した人たちの、その後の心身の健康状態を研究し、SOCが高い人は極限状態を経験しても、その後の人生を健やかに過ごせていることに気づき、SOCを構成する要素を体系化し理論化しました。

SOCは、人生に対する全般的なスタンスであり、しばらく前に流行った「レジリエンス」に通じるところがあります。

SOCは、「把握可能感」"comprehensibility"、「処理可能感」"manageability"、「有意味感」"meaningfulness"の3つの下位感覚で構成されます。

「把握可能感」(わかる感)は、自分の置かれている状態や、置かれるであろう状態を予測・理解できるという感覚です。

「処理可能感」(できる感)は、自分に対して困難が降りかかっても、なんとかなる、なんとかやっていける、と思える感覚です。

「有意味感」(いいね感)は、降りかかってくる困難や、日常の生活の少なくともある部分にはやりがいや取り組みがいを感じられるという感覚です。

この3つの感覚を聖霊の3大レッスンに対応させるなら、つぎのようになります。

①他者の非難・攻撃は愛を求める哀訴なのだから、返すべきは反撃ではなく愛に基づく助けだというレッスンは、それまでは敵の攻撃として予測も理解もできず、拒絶・反撃することしかできなかった自分の身に降りかかる災厄を「把握可能」にします。

②私たちを攻撃する他者に返すべきリアクションは、自分が傷ついたことを思い知らせて罪悪感を抱かせることではなく、自分がまったく傷ついていないことを示して相手に自らが潔白であることをわからせてあげることだというレッスンは、愛を求める哀訴に反撃では返さずに相手に罪悪感を抱かせずに助けで返すスタンスで臨むことで、「処理可能」にします。

③私たちを怒らせる他者は、私たちに自分が振り上げた裁きの剣を振り下ろして相手と自分を一緒に幽閉するか、剣を背けて一緒に解放するか選択する機会を与えてくれている私たちの救い主だから返すべきは感謝だというレッスンは、表面上の災厄を実態に即して①把握し、相手に潔白さの自覚を与え助ける対処で②処理できるようになることで、敵に見えていた兄弟が自分の救い主であることに気づき感謝できる得難い祝福の機会として「有意味」にします。

3つのレッスンは、相互に関連し合っており、SOCの3感覚のように、人生に向き合う動的な心的態度として機能します。

はやりの自己肯定感を高めようとするよりも、よほど役に立つ実践的ツールになると思います。


聖霊の3大レッスンを基盤に眺めるなら世界は祝福の機会に満ちていることに気づく

このスタンスで世界を眺めるなら、自分がどれほど多くの味方と助け手に囲まれているか認識して、愛と感謝の念が湧いてくると思います。

対人関係に悩むすべての人に知ってもらいたい素晴らしいレッスンです。

あの世に戻れば、「サトラレ」がデフォルト状態でしょうから、この世で一時的に役に立つかもしれない程度の小手先の人あしらいのスキルを磨くよりも、このレッスンをとことん習得するほうが役に立つと思います。






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テキスト

Chapter 12 The Holy Spirit's Curriculum
第十二章 聖霊のカリキュラム

I. The Judgement of the Holy Spirit
一 聖霊の審判





1. You have been told not to make error real, and the way to do this is very simple.
 あなたは誤りを現実にしないようにと言われてきましたが、そうするための方法はきわめて簡単なものです。

 If you want to believe in error, you would have to make it real because it is not true.
 もしあなたが誤りを信じたいと望むとしたら、誤りは真実ではないので、あなたは誤りを本物に作り変えなければならないはずです。

 But truth is real in its own right, and to believe in truth you do not have to do anything.
 これに対して、真理はもともと本物なので、真理を信じるためにあなたは何もする必要はありません。

 Understand that you do not respond to anything directly, but to your interpretation of it.
 あなたは何に反応するにせよ、直接その何かに反応しているのではなくて、その何かについての自分の解釈に反応しているのだということを理解してください。

 Your interpretation thus becomes the justification for the response.
 したがって、あなたがどう解釈するかによって、その反応を正しいものと見るかどうかが変わることになります。

 That is why analyzing the motives of others is hazardous to you.
 これが他者の動機を勘ぐることがあなたにとって有害な理由です。

 If you decide that someone is really trying to attack you or desert you or enslave you, you will respond as if he had actually done so, having made his error real to you.
 もしあなたが、誰かが本当にあなたのことを攻撃したり、見捨てたり、奴隷にしようとしているものとひとり決めしたなら、あなたにとっては彼が過ちを犯したことが現実になっているので、あなたはまるで彼が実際にそんなことをしたかのように反応することになります。

 To interpret error is to give it power, and having done this you will overlook truth.
 誤りを解釈することはその誤りに力を与えることであり、そうすることによって、あなたは真理を見落としてしまいます。



2. The analysis of ego motivation is very complicated, very obscuring, and never without your own ego involvement.
 エゴの動機を解析して推しはかることは、きわめて複雑で、非常に曖昧であり、そして、必ずあなた自身のエゴが首を突っ込んできます。

 The whole process represents a clear-cut attempt to demonstrate your own ability to understand what you perceive.
 他者の動機を勘繰るプロセス全体が、自分には自分の知覚するものを理解する能力があるとあなたが実証したがっていることを示していることに疑いの余地はありません。

 This is shown by the fact that you react to your interpretations as if they were correct.
 このことは、あなたが自分の解釈がまるで正しいものであるかのように、自分の解釈に反応するという事実が裏づけています。

 You may then control your reactions behaviorally, but not emotionally.
 その際、あなたは自分の反応を行動面ではコントロールできるかもしれませんが、感情面ではコントロールできないでしょう。

 This would obviously be a split or an attack on the integrity of your mind, pitting one level within it against another.
 これが心の中のあるレベルをほかのレベルと競わせることになり、あなたの心の統一性を引き裂いて攻撃することになるのは明らかです。

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3. There is but one interpretation of motivation that makes any sense.
 いやしくも意味をなす動機の解釈はひとつしかありません。

 And because it is the Holy Spirit's judgment it requires no effort at all on your part.
 そして、意味をなす唯一の動機の解釈は聖霊の下す判断なので、その解釈をするためにあなたの側で努力する必要はまったくありません。

 Every loving thought is true.
 愛に満ちた思いは、ひとつ残らず真実です。

 Everything else is an appeal for healing and help, regardless of the form it takes.
 愛に満ちた思い以外のものは、たとえそれがどのような形をとろうとも、ことごとく癒しと助けを求める哀願なのです。

 Can anyone be justified in responding with anger to a brother's plea for help?
 いったい誰が、助けてほしいという兄弟の哀願に対して怒りで応えることが正しいと証明できるでしょうか。

 No response can be appropriate except the willingness to give it to him, for this and only this is what he is asking for.
 快く兄弟に助けを与えること以外は、どのような反応もふさわしいものにはなりえません。というのも、その兄弟が求めているのは、助け、ただそれだけだからです。

 Offer him anything else, and you are assuming the right to attack his reality by interpreting it as you see fit.
 その兄弟に助け以外のものを差し出すなら、あなたは、その兄弟が何者かを自分に都合のいいように解釈することによって、兄弟を攻撃する権利が当然に自分にはあると思っていることになります。

 Perhaps the danger of this to your own mind is not yet fully apparent.
 これがあなた自身の心にとってどれほど危険なことか、おそらくまだ十分には明らかになっていないはずです。

 If you believe that an appeal for help is something else you will react to something else.
 もし助けを求める兄弟の哀願をそれ以外の何か別のものだと信じるなら、あなたは自分の信じるその別の何かに対して反応することになります。

 Your response will therefore be inappropriate to reality as it is, but not to your perception of it.
 したがって、あなたは、自分の現実認識に対しては適切に反応しているとはいえても、ありのままの現実に対しては不適切な反応をしていることになります。



4. There is nothing to prevent you from recognizing all calls for help as exactly what they are except your own imagined need to attack.
 すべての助けを求める呼び声を、ありのまま正確にあなたが認識することを妨げているのは、あなた自身が抱く想像上の攻撃の必要性以外には何もありません。

 It is only this that makes you willing to engage in endless "battles" with reality, in which you deny the reality of the need for healing by making it unreal.
 あなたを自発的に現実との果てしない「戦い」に駆り立てるのは、こんな想像上の攻撃の必要性にすぎないのです。その戦いの中で、あなたは癒しが必要だという現実を攻撃が必要だという虚偽に変えてしまうことで、本当は癒しが必要であるという現実を否認してしまいます。

 You would not do this except for your unwillingness to accept reality as it is, and which you therefore withhold from yourself.
 あなたが現実をありのままに受け入れる意欲を持たず、その結果、あなたが自分自身からありのままの現実を退けているのでなければ、あなたはわざわざこんなことをしようとなど思わないでしょう。

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5. It is surely good advice to tell you not to judge what you do not understand.
 自分が理解していないことを裁いてはならない、とあなたに告げることが良い忠告になるのは間違いありません。

 No one with a personal investment is a reliable witness, for truth to him has become what he wants it to be.
 個人的な期待をもとに何かに思いを投資している者は、誰ひとり信頼に足る証人にはなれません。というのは、彼にとっての真理は、真理とはこうであってほしいと彼が望むものになってしまっているからです。

 If you are unwilling to perceive an appeal for help as what it is, it is because you are unwilling to give help and to receive it.
 もしあなたが助けを求める哀訴をありのまま知覚する気になれないとすれば、そのわけは、あなたには助けてあげる気もなければ、助けてもらう気もないからです。

 To fail to recognize a call for help is to refuse help.
 助けを求める呼び声に気づき損ねることは、助けを拒絶することです。

 Would you maintain that you do not need it?
 あなたは自分には助けなど必要ないと言い張るつもりでしょうか。

 Yet this is what you are maintaining when you refuse to recognize a brother's appeal, for only by answering his appeal can you be helped.
 しかし、あなたが兄弟の哀願に気づかずに拒絶するとき、あなたは自分には助けなど必要ないと断言しているのです。というのも、兄弟の懇願に答えることによってのみ、あなたも助けてもらえるからです。

 Deny him your help and you will not recognize God's Answer to you.
 あなたがその兄弟を助けることを拒むなら、あなたは自分に対する神の大いなる答えに気づかないままになってしまいます。

 The Holy Spirit does not need your help in interpreting motivation, but you do need his.
 あなたに助けてもらわなくても聖霊は正しく動機を解釈できますが、あなたのほうは聖霊に助けてもらわなければ動機を解釈できないのは明らかです。



6. Only appreciation is an appropriate response to your brother.
 その人の真価を認めて感謝することだけが、あなたの兄弟に対してふさわしい反応の仕方です。

 Gratitude is due him for both his loving thoughts and his appeals for help, for both are capable of bringing love into your awareness if you perceive them truly.
 その兄弟の愛に満ちた思いと助けを求める哀訴のどちらについても、その兄弟に捧げるのがふさわしいのは感謝です。というのは、もしあなたがそれらの思いや訴えを正しく知覚するなら、どちらもあなたに愛の自覚をもたらすことができるからです。

 And all your sense of strain comes from your attempts not to do just this.
 あなたが感じるストレスはすべて、あなたがまさに兄弟に感謝しないでいようとしているせいで生まれるものです。

 How simple, then, is God's plan for salvation.
 そうだとすれば、神の救いの計画はなんとシンプルなものなのでしょう。

 There is but one response to reality, for reality evokes no conflict at all.
 現実への反応の仕方はひとつしかありません。というのも、現実が葛藤を引き起こすことなどまったくありえないからです。

 There is but one Teacher of reality, Who understands what it is.
 現実についての大いなる教師はひとりしかいません。その聖霊は、現実が何なのか理解しています。

 He does not change his Mind about reality because reality does not change.
 現実が変わってしまうことはないので、聖霊が現実についての自らの大いなる心を変えることはありません。

 Although your interpretations of reality are meaningless in your divided state, his remain consistently true.
 分裂したあなたの心の状態では、現実についてのあなたの解釈は意味をなしませんが、聖霊の現実についての解釈は一貫して真実のままです。

 He gives them to you because they are for you.
 聖霊が現実を解釈するのはあなたのためなのだから、聖霊は自らの現実解釈をあなたに与えてくれます。

 Do not attempt to "help" a brother in your way, for you cannot help yourself.
 あなたは自分自身を助けることができないのだから、自己流の方法で兄弟を「助け」ようと試みてはなりません。

 But hear his call for the help of God, and you will recognize your own need for the Father.
 自己流で助けようとはせずに、神の助けを求めるその兄弟の呼び声を聞いてください。そうすれば、あなたは自分自身が大いなる父を必要としていることに気づくはずです。

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7. Your interpretations of your brother's needs are your interpretation of yours.
 兄弟に必要だとあなたが解釈することは、あなたが自分に必要だと解釈していることです。

 By giving help you are asking for it, and if you perceive but one need in yourself you will be healed.
 兄弟を助けることによって、あなたは自分を助けてもらうよう求めることになります。そして、もしあなたが自分自身の中にただひとつの必要だけを知覚するなら、あなたは癒されるでしょう。

 For you will recognize God's answer as you want it to be, and if you want it in truth, it will be truly yours.
 というのも、あなたは神の答えが自分の望み通りのものだと承認することになるので、もしあなたが真にそれを望むなら、神の答えは真にあなたのものになるはずだからです。

 Every appeal you answer in the Name of Christ brings the remembrance of your Father closer to your awareness.
 兄弟の訴えにあなたがキリストの名において応えるたびに、大いなる父の記憶が徐々にあなたの意識によみがえってきます。

 For the sake of your need, then, hear every call for help as what it is, so God can answer you.
 それゆえに、自らの必要に応えるために、助けを求める呼び声をひとつ残らずありのままに聞き入れてください。そうすれば、神はあなたに答えられるようになります。



8. By applying the Holy Spirit's interpretation of the reactions of others more and more consistently, you will gain an increasing awareness that his criteria are equally applicable to you.
 他者の反応に対するこのような聖霊の解釈を、よりいっそう一貫して適用することによって、あなたはますます聖霊の用いる基準が同じように自分にもあてはまることがわかってくるでしょう。

 For to recognize fear is not enough to escape from it, although the recognition is necessary to demonstrate the need for escape.
 というのは、恐れから脱出する必要があることを実証するために、恐れを認めることが必要だとしても、実際に恐れから脱出するためには、恐れを認識するだけでは足りないからです。

 The Holy Spirit must still translate the fear into truth.
 聖霊はさらに進んで、恐れを真理へと変換しなければなりません。

 If you were left with the fear, once you had recognized it, you would have taken a step away from reality, not towards it.
 いったんはあなたが恐れを認めたとしても、もしあなたが恐れとともに留まったままだったなら、あなたは現実に向かって踏み出すどころか、現実から一歩後退してしまったことになります。

 Yet we have repeatedly emphasized the need to recognize fear and face it without disguise as a crucial step in the undoing of the ego.
 しかし、私たちはこれまで何度も、エゴを取り消すうえでの非常に重要なステップとして、恐れを認め、包み隠さずに恐れと向き合うことが必要だと繰り返し強調してきました。

 Consider how well the Holy Spirit's interpretation of the motives of others will serve you then.
 ここで、他者の動機についての聖霊の解釈の仕方が、どれほどあなたの役に立つかよく考えてみてください。

 Having taught you to accept only loving thoughts in others and to regard everything else as an appeal for help, he has taught you that fear itself is an appeal for help.
 あなたに他者の中に愛に満ちた思いだけを認めて、それ以外はことごとく助けを求める哀訴だとみなすようにと教えることによって、聖霊はあなたに恐れそれ自体が助けを求める哀願なのだと教えてくれました。

 This is what recognizing fear really means.
 これが、恐れを認識することの真の意味です。

 If you do not protect it, he will reinterpret it.
 もしあなたが恐れを保護しようとしなければ、聖霊が恐れを解釈し直してくれるでしょう。

 That is the ultimate value in learning to perceive attack as a call for love.
 それこそが、攻撃を愛を求める呼び声として知覚することを学ぶ究極的な価値です。

 We have already learned that fear and attack are inevitably associated.
 私たちはすでに、恐れと攻撃を関連づけて考えてしまうのは避けがたいものだと学びました。

 If only attack produces fear, and if you see attack as the call for help that it is, the unreality of fear must dawn on you.
 もし攻撃だけが恐れを生み出すなら、そして、もしあなたが攻撃のことを助けを求める呼び声としてその本質通りに見るなら、恐れが実在しないことがあなたにもきっとわかってくるはずです。

 For fear is a call for love, in unconscious recognition of what has been denied.
 というのは、恐れとは、否認してしまったものに無意識ながらも感づくことから生じる愛を求める呼び声だからです。

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9. Fear is a symptom of your own deep sense of loss.
 恐れは、あなたが深い喪失感を抱いている印です。

 If when you perceive it in others you learn to supply the loss, the basic cause of fear is removed.
 もしあなたが、恐れをほかの者たちの中に知覚したときに、失われた愛を与えることを学ぶなら、恐れの根本的な原因は取り除かれます。

 Thereby you teach yourself that fear does not exist in you.
 他者に愛を与えることによって、あなたは自分の中に恐れは存在しないと自分自身に教えることになります。

 The means for removing it is in yourself, and you have demonstrated this by giving it.
 つまり、恐れを取り除くための手段はあなた自身の中にあるのです。そして、その手段を与えることで、あなたは自分の中に恐れがないと実証したことになります。

 Fear and love are the only emotions of which you are capable.
 あなたが抱くことのできる感情は、ただ恐れと愛だけです。

 One is false, for it was made out of denial; and denial depends on the belief in what is denied for its own existence.
 恐れは否認することで作り出されたものなので、偽りです。そして、否認が成り立つためには、否認する対象が存在すると信じることが必要です。

 By interpreting fear correctly as a positive affirmation of the underlying belief it masks, you are undermining its perceived usefulness by rendering it useless.
 恐れのことを、恐れが覆い隠しているその背後にある信念、つまり、助けを求める哀訴であることを積極的に肯定して正しく解釈することによって、あなたは恐れを無用のものとし、そうすることで、恐れは役に立つという知覚の仕方の土台を掘り崩しているのです。

 Defenses that do not work at all are automatically discarded.
 何の役にも立たない防衛手段は、放っておいてもお払い箱になります。

 If you raise what fear conceals to clear-cut unequivocal predominance, fear becomes meaningless.
 もしあなたが恐れが覆い隠しているものを明瞭で曖昧さがない目立つ位置に掲げるなら、恐れは無意味なものとなります。

 You have denied its power to conceal love, which was its only purpose.
 愛を隠すことだけを唯一の目的としていた恐れに対して、あなたは恐れには愛を隠す力はないと否認したことになるからです。

 The veil that you have drawn across the face of love has disappeared.
 あなたが愛の顔にかけていたヴェールは消え去ったのです。



10. If you would look upon love, which is the world's reality, how could you do better than to recognize, in every defense against it, the underlying appeal for it?
 もしあなたがこの世界の本質である愛を見ようとするなら、愛に逆らおうとする防衛の一つひとつの背後には愛への哀訴が潜んでいると認識することに優る方法があるでしょうか。

 And how could you better learn of its reality than by answering the appeal for it by giving it?
 そして、愛が実在することを学ぶ方法として、愛を求める哀訴に愛を与えることによって応える以上によい方法があるでしょうか。

 The Holy Spirit's interpretation of fear does dispel it, for the awareness of truth cannot be denied.
 恐れについての聖霊の解釈が確実に恐れを払拭してくれます。というのも、真理についての自覚を否認することはできないからです。

 Thus does the Holy Spirit replace fear with love and translate error into truth.
 このようにして、聖霊は恐れを愛に置き換えて、誤りを真理へと変換するのです。

 And thus will you learn of him how to replace your dream of separation with the fact of unity.
 また、このようにして、あなたは聖霊から、あなたの分離の夢を統一という真実に置き換える方法を学ぶでしょう。

 For the separation is only the denial of union, and correctly interpreted, attests to your eternal knowledge that union is true.
 というのは、分離とは単に統一の否認でしかないので、正しく解釈されるなら、統一こそが真実であるというあなたの永遠の知識を証明することになるからです。


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