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M10 価値判断の重圧から解放されるには?

今回は、マニュアルから第10節の価値判断放棄をご紹介します。

「最後の審判」って恐ろしいものなの?(テキスト 第三章 VI. Judgement and the Authority Problem 六 価値判断と権威問題)と正義とは何か価値判断に関する記事ですので、あわせて読んでいただければと思います。





私たちは、人生の一大事においてはもちろんのこと、日常生活を送るうえでの些細なことについても、物事の価値を評価して判断しなければ、生きていくことができないと考えています。

このように考えることは、この世界での常識です。

判断力」は成熟した個人であるための必須の属性と考えられていて、だれもそのことに疑問を持とうともしません。

この節では、私たちが善悪や正邪の価値判断を行うということがいかに不可能なことか説得的に説明されます。
人間万事塞翁が馬の故事の通り、ある場面ではその人にとって不幸にしか思えないような出来事が、実は、その後の幸運を招く布石になっていたり、幸運に見えた出来事が、転落の引き金であったりということは、誰でも自分の人生の中で味わっているはずです。

人の人生での出来事を評価しようと思っても、誰の目線で、どのようなタイムスパンで、どのような判断基準で判断するかによって、様々な判断が分かれます。

真の意味で「正しい」価値判断をする素材も能力も、時間と空間に束縛された存在であるエゴとしての私たちは持ち合わせてなどいないことは明らかです。

そして、この節は、なにより重要なことは、自分が価値判断すべきでないということではなくて、自分には価値判断することができないのだと気づくことだといいます。
そのうえで、価値判断放棄して、自分の中にいる聖霊に完全に完全に委ねてしまえばよいのだといいます。これはエゴではなく聖霊を選択するという決定です。

価値判断を手放さずに依然としてエゴに価値判断をさせているかぎり、これまでどおり、エゴの歪んだ知覚によって、孤独や喪失感、絶望や死の恐怖といった感情が生み出され、自分の周りは醜悪な物事で埋め尽くされてしまいます。

聖霊の知覚には一切の歪みがなく、聖霊は過去、現在、そして未来のすべての事実を知り、判断がすべての人々とすべての物事にどのように及ぶのか、そして、影響と結果のすべてを知る完全に公平な存在です。

だから、聖霊に価値判断を任せれば、絶対に間違うということがないということです(もちろん、エゴの観点からみれば、聖霊がした判断がその場面だけで切り取った姿としては、誤りにしか見えないことがあるであろうことは塞翁が馬のお話の通りです)。

そして、私たちは、聖霊に価値判断を委ねる選択をすることによって、価値判断という押し潰されてしまいそうな重荷を降ろし身軽になるだけでなく、心配事に思い悩まされることからも解放される恩恵を被ることができるということです。

なんだかほっとして、気が楽にならないでしょうか?

さて、この節では、唯一の価値判断とは「神の子は潔白であり、は存在しない」ということだと述べられます。

これ以外の通常の意味での価値判断は不可能であり、一切放棄して聖霊に委ねるということです。

価値判断を放棄するということは、この世界での出来事にも、ほかの誰かについても、一切の価値を判断しないということです。

つまり、価値の高い物や値打ちのない物があったりとか、高貴な人間と下賤な人間があって、その高低や貴賎に序列や程度があるという評価をしないということです。

奇跡の難しさに序列がないということや他人は神の子が分裂した姿である点でみんな同等であり、究極的には自分であるという認識に至るには、当然のように価値判断は放棄しなければならないということです。







Section 10
How Is Judgment Relinquished?
どのようにして価値判断を放棄するのか。


1. Judgment, like other devices by which the world of illusions is maintained, is totally misunderstood by the world.
 幻想世界を維持させているほかの仕掛けと同じように、価値判断はこの世界によって完全に誤解されてしまっています。

 It is actually confused with wisdom, and substitutes for truth.
 価値判断は、現に分別のあることと混同されてしまっているし、真理の代わりにされたりもします。

 As the world uses the term, an individual is capable of "good" and "bad" judgment, and his education aims at strengthening the former and minimizing the latter.
 この世界で価値判断という言葉が用いられる際には、個人は、「よい」ことと「悪い」ことを裁くことができ、そして、個人を教育することは「よい」ことを強め、「悪い」ことを弱めることを目指しています。

 There is, however, considerable confusion about what these categories mean.
 しかしながら、このような分類が何を意味するかについては、かなり大きな混同があります。

 What is "good" judgment to one is "bad" judgment to another.
 ある者にとって「よい」価値判断は、ほかの者にとって「悪い」価値判断となります。

 Further, even the same person classifies the same action as showing "good" judgment at one time and "bad" judgment at another time.
 さらに、同じ人物が、同じ行動について、あるときには「よい」価値判断を示すものとして分類しておきながら、別のときには「悪い」価値判断を示すものとして分類することすらあります。

 Nor can any consistent criteria for determining what these categories are be really taught.
 しかも、このような分類の仕方を決めるための首尾一貫したどのような基準も、実際のところ教えてもらうことはできません。

 At any time the student may disagree with what his would-be teacher says about them, and the teacher himself may well be inconsistent in what he believes.
 生徒は自分の教師であるはずの人の言う判断基準にいつでも納得できるとはかぎらないし、その自称教師自身も自分の信じることにうまく一貫性を保つことができないかもしれません。

 "Good" judgment, in these terms, does not mean anything.
 このような観点で見るかぎり、「よい」価値判断には何の意味もありません。

 No more does "bad."
 「悪い」価値判断についても意味をなさないのは同じです。




2. It is necessary for the teacher of God to realize, not that he should not judge, but that he cannot.
 神の教師にとって重要なことは、自分が価値判断すべきでないということではなくて、自分には価値判断することができないのだと気づくことでです。

 In giving up judgment, he is merely giving up what he did not have.
 価値判断を放棄するに際しては、教師は単に自分がもとから持っていなかったものを諦めるだけなのです。

 He gives up an illusion; or better, he has an illusion of giving up.
 彼は幻想を放棄するのです。より正確に言えば、彼は、諦めるという幻想を抱くということです。

 He has actually merely become more honest.
 実のところ、彼は単にそれまでにまして偽りのない状態になっただけです。

 Recognizing that judgment was always impossible for him, he no longer attempts it.
 いつも自分には価値判断することなど不可能だったと認めることによって、彼はもはや価値判断しようとはしなくなります。

 This is no sacrifice.
 これは犠牲を払うことではありません。

 On the contrary, he puts himself in a position where judgment "through" him rather than "by" him can occur.
 それとは反対に、彼は、自分「によって」というよりも、自分を「通して」価値判断がなされる立場に自分自身を置くことになります。

 And this judgment is neither "good" nor "bad."
 そして、彼を「通して」なされるこの価値判断は「よい」ものでも「悪い」ものでもありません。

 It is the only judgment there is, and it is only one:
 その価値判断は、なされうるただひとつの価値判断であり、そして、それは次のような唯一の価値判断です。

 "God's Son is guiltless, and sin does not exist."
 それは「神の子は潔白であり、は存在しない」ということです。




3. The aim of our curriculum, unlike the goal of the world's learning, is the recognition that judgment in the usual sense is impossible.
 私たちのカリキュラムの目指すところは、この世界の学習の目標とは異なり、通常の意味での価値判断は不可能であると認めることです。

 This is not an opinion but a fact.
 この通常の意味での価値判断が不可能だということは、ひとつの意見などではなく事実です。

 In order to judge anything rightly, one would have to be fully aware of an inconceivably wide range of things; past, present and to come.
 何かを正しく価値判断するためには、人は、過去、現在、そして未来に亘る信じられないほど幅広い物事の範囲を完全に認識していなければなりません。

 One would have to recognize in advance all the effects of his judgments on everyone and everything involved in them in any way.
 人は、価値判断するに先立って、自分を含めたすべての人やあらゆる物事についての自らの価値判断が及ぼすあらゆる筋道でのすべての影響を認識していなければならないでしょう。

 And one would have to be certain there is no distortion in his perception, so that his judgment would be wholly fair to everyone on whom it rests now and in the future.
 さらに、その人は、今そして将来に、自分の価値判断が及ぶすべての人たちにとって完全に公正なものになるように、自分の知覚に何の歪みもないことを確信しなければなりません。

 Who is in a position to do this?
 はたして誰がこんなことのできる立場にあるというのでしょうか。

 Who except in grandiose fantasies would claim this for himself?
 誇大妄想を抱く者を除いて、いったい誰が自分の権利としてこんなことを求めようとするでしょうか。




4. Remember how many times you thought you knew all the "facts" you needed for judgment, and how wrong you were!
 あなたがこれまでに、自分が価値判断をするために必要とするすべての「事実」を知っていると考えていたにもかかわらず、それが大きな誤りであったということがどんなに数多くあったか思い出すがよいでしょう。

 Is there anyone who has not had this experience?
 このような経験をしたことがない者などいるでしょうか。

 Would you know how many times you merely thought you were right, without ever realizing you were wrong?
 あなたは、単純に自分は正しいと考えていて、自分が間違っていることにちっとも気づかずにいたことがどれほどたくさんあったか、わかっているのでしょうか。

 Why would you choose such an arbitrary basis for decision making?
 どうしてあなたは、決断を下すために、こんなにもあてにならない身勝手な基準を選ぼうとするのでしょうか。

 Wisdom is not judgment; it is the relinquishment of judgment.
 分別があるというのは、価値判断することではなく、価値判断を放棄することなのです。

 Make then but one more judgment.
 そこで、価値判断を放棄するために、もうひとつだけ価値判断をしてください。

 It is this: There is Someone with you Whose judgment is perfect.
 それは次のような判断です。すなわち、完璧な価値判断を下す大いなる存在があなたと一緒にいると判断することです。

 He does know all the facts; past, present and to come.
 その聖霊は、過去、現在、そして未来のすべての事実を知っています。

 He does know all the effects of His judgment on everyone and everything involved in any way.
 聖霊は、自らの判断があらゆる面ですべての人々とすべての物事に及ぼすすべての影響と結果を知っています。

 And He is wholly fair to everyone, for there is no distortion in His perception.
 そして、聖霊はすべての人一人ひとりに対して、完全に公平です。というのも、聖霊の知覚には一切の歪みがないからです。




5. Therefore lay judgment down, not with regret but with a sigh of gratitude.
 それゆえに、何の心残りもなく安堵の吐息とともに、価値判断を手放しなさい。

 Now are you free of a burden so great that you could merely stagger and fall down beneath it.
 今、あなたは、あまりにも大きくてよろめいて、その下に押し潰されてしまいそうなほどの重荷から解放されたのです。

 And it was all illusion.
 しかも、そんな重荷はすべて幻だったのです。

 Nothing more.
 幻以上の何ものでもなかったのです。

 Now can the teacher of God rise up unburdened, and walk lightly on.
 今や、神の教師は重荷を降ろして立ち上がり、足取りも軽やかに歩みを進めることができます。

 Yet it is not only this that is his benefit.
 しかも、神の教師が恩恵を受けるのは、これだけではありません。

 His sense of care is gone, for he has none.
 何かを気にかけて思い悩むという感覚が彼の許から去ったのです。というのも、もはや彼には心配事が一切ないからです。

 He has given it away, along with judgment.
 彼は、価値判断と一緒に、一切の心配を手放してしまったのです。

 He gave himself to Him Whose judgment he has chosen now to trust, instead of his own.
 彼は、自分自身で価値判断する代わりに、今や自分がその価値判断を信頼することを選んだ聖霊に任せて、自分自身を明け渡したのです。

 Now he makes no mistakes.
 もう今では、彼が間違うということ何ひとつありません。

 His Guide is sure.
 彼の大いなるガイドは信頼できます。

 And where he came to judge, he comes to bless.
 そして、かつては価値判断するために来た場所に、彼は祝福するために来ることになります。

 Where now he laughs, he used to come to weep.
 以前は涙を流すために来た場所で、彼は今、笑うのです。




6. It is not difficult to relinquish judgment.
 価値判断を放棄するのは難しいことではありません。

 But it is difficult indeed to try to keep it.
 むしろ、価値判断し続けようとすることのほうが、本当は難しいことなのです。

 The teacher of God lays it down happily the instant he recognizes its cost.
 神の教師は、価値判断のために支払う代償の大きさに気づいた瞬間、喜んで価値判断を手放すことになります。

 All of the ugliness he sees about him is its outcome.
 神の教師が、自分の周りに目にするすべての醜悪な物事は、価値判断の産物なのです。

 All of the pain he looks upon is its result.
 彼が直面する苦痛のすべては、価値判断の結果なのです。

 All of the loneliness and sense of loss; of passing time and growing hopelessness; of sickening despair and fear of death; all these have come of it.
 孤独や喪失感のすべて、去って行く時間や募るばかりの絶望感、吐き気を催すような落胆と死の恐怖、これらの感覚のすべては価値判断から来ていたのです。

 And now he knows that these things need not be.
 そして、今や、彼はこのようなものは必要ないと知ったのです。

 Not one is true.
 それらの感覚のうちのどれひとつとして本当ではないのです。

 For he has given up their cause, and they, which never were but the effects of his mistaken choice, have fallen from him.
 彼がこれらの感覚の原因である価値判断を放棄したので、彼の誤った選択の結果にすぎなかったそれらの感覚は、彼から剥がれ落ちてしまったのです。

  Teacher of God, this step will bring you peace.
 神の教師よ、このステップこそ、あなたに平安をもたらすでしょう。

 Can it be difficult to want but this?
 このことだけを望むのは難しいことでしょうか。



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