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レッスン335「私は、自分の兄弟の潔白さを見ることを選ぶ」


レッスン335です。

「私は、自分の兄弟潔白さを見ることを選ぶ」が今日のレッスンです。




まず、エゴってなに?をご覧ください。

私たちの本質は、天国に神とともにいる神の子です。

この神の子が分離幻想を抱いて自らを無数に分裂させて幻想世界の中に散らばらせて壮大な解離性同一性障害に陥った状態がこの世界であり、その多重人格の一人ひとりが私たちです。

私たちは、自分が本当は神の子であることを忘れ、自分たちアバターが同じ源を持つ兄弟であることも忘れ、兄弟のことを自分とは分離した別の存在で、限られたパイを奪い合うライバルで、自分に害をもたらす罪深い敵であるとみなしています。

生き延びるための限られた資源を自分と奪い合う敵であると思っている他者は実は自分自身の分身なので、兄弟である他者抜きには本当の自分を思い出すことはできないというのに、私たちは、兄弟真実とはかけ離れた敵の姿として見るばかりで、非難と攻撃と防衛による傷つけ合いの応酬によって、エゴの支配する世界にどっぷりと浸かりきっています。

私たちは、相手が攻撃してさえこなければ、友好的に遇するつもりだったが、相手が理不尽な非道に出るので、止むを得ず自己防衛として反撃せざるをえないのであり、自分は被害者であって加害者である相手が悪いのだと主張します(T23-2 混沌の法則)。

しかし、刺激と反応の間にはスペースがあり(ヴィクトール・フランクルが指摘した観念で、7つの習慣でも紹介されていて有名な考え方です)、私たちは猫が猫じゃらしを見たら前足で猫パンチをかまして引っ掻いてしまうような条件反射的なリアクションに縛られているわけではなく、自分でエゴに従うか聖霊に従うかを選ぶことができ、このスペースが猫と同じようにほとんどない人でも、訓練しだいでスペースを拡大することができます。

兄弟が罪深い敵であるのが真実だとみなすのをやめて、兄弟が潔白であり自分自身である神の子だというのが真実だとみなすことでリアクションが変わります。

姿かたちが違っていても、他者が実は自分自身だとすれば、間違いを犯したとしても、必要以上に咎め立てて罰しようとは思わないはずです。

マルコビッチの穴」で、マルコビッチが自分の脳内に通じる穴に入り込んだ先のマルコビッチだらけの世界は奇妙で笑ってしまいますが、自他の同一性をイメージする参考になります。

レッスン134「私がありのままに赦しを知覚できますように」では、次のように、他者が犯した罪だと思っていることに関して、もしそれをしたのが自分だったら?と自分事として考えてみる提案をしています。

「9. There is a very simple way to find the door to true forgiveness, and perceive it open wide in welcome.
 真の赦しにつながるその扉を見つけ、その扉があなたを歓迎して大きく開かれていることに気づくとても簡単な方法があります。

 When you feel that you are tempted to accuse someone of sin in any form, do not allow your mind to dwell on what you think he did, for that is self-deception.
 あなたが自分がいかなる形の罪であれ、誰かを責めたいという誘惑に駆られるのを感じるとき、その人がしたことだとあなたが思っていることに自分の心を執着させないようにしてください。というのも、それは自己欺瞞だからです。

 Ask instead, "Would I accuse myself of doing this?"
 その代わりに、『これをしたのが私だったとして、私は自分自身を責めようとするだろうか』と尋ねてください。」(レッスン134「私がありのままに赦しを知覚できますように」


Lesson 335


I choose to see my brother's sinlessness.
私は、自分の兄弟潔白さを見ることを選ぶ。



1. Forgiveness is a choice.
 赦しとは、ひとつの選択です。

 I never see my brother as he is, for that is far beyond perception.
 私は、まったく自分の兄弟をありのままに見ていません。というのも、兄弟の真の姿は知覚のはるかに及ばないものだからです。

 What I see in him is merely what I wish to see, because it stands for what I want to be the truth.
 私は、単に自分が見たいように兄弟を見ているだけです。なぜなら、私に見える兄弟の姿は、私が真実であってほしいと思うものの表現だからです。

 It is to this alone that I respond, however much I seem to be impelled by outside happenings.
 私がどれほど外部の出来事によって強制されているように思えるとしても、私は自分の見たいと望むものだけに反応しているのです。

 I choose to see what I would look upon, and this I see, and only this.
 私は自分が見たいものを見ることを選んで、それを、ただそれだけを見ているのです。

 My brother's sinlessness shows me that I would look upon my own.
 私の兄弟が潔白に見えるなら、それは私が自分自身の潔白さを見ようとしていることを示しています。

 And I will see it, having chosen to behold my brother in its holy light.
 そして、潔白さの聖なる光の中に兄弟を見ることを選択しているので、私は自分自身の潔白さを見るでしょう。



2. What could restore Your memory to me, except to see my brother's sinlessness?
 自分の兄弟の潔白さを見ること以外に、あなたの記憶を取り戻すどんな手立てがあるというのでしょう。

 His holiness reminds me that he was created one with me, and like myself.
 兄弟の神聖さが、彼が私とひとつのものとして創造されており、自分自身と同じものなのだと、私に思い出させてくれます。

 In him I find my Self, and in Your Son I find the memory of You as well.
 兄弟の中に私は自分の大いなる自己を見出すだけでなく、私はあなたの子の中に、あなたの記憶を見出すのです。


それでは、ブリトニーさんのレッスンです。




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