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人生を心から楽しむ

人生を心から楽しむ―罪悪感からの解放人生を心から楽しむ―罪悪感からの解放
(2004/02)
ラメッシ・S. バルセカール

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「自己覚醒、すなわち悟りとは、
自分であれ、他の誰であれ、どんな行為にも
個人的行為者はいないということを
最も深く理解することに他なりません。
あなたはまた、どんな思考を考える人でもありませんし、
どんな経験の経験者でもありません。
思考も経験もただ起こるのです。」(「人生を心から楽しむ 罪悪感からの解放」ラメッシ・S・バルセカール著 高木悠鼓訳 マホロバアート 25ページ)

今回は、ラメッシ・S・バルセカール先生の「源泉からのちょっとしたメッセージ」をご紹介したいと思います。
独自の用語が出てきますので、先に解説をさせてください(「人生を心から楽しむ」の用語解説を参考にさせていただきました)。

肉体精神機構:それを通じて人生と生活が起こるメカニズムのことです。物質化した意識全体の一部であり、この肉体精神機構の中で、エゴは無知にも、自分こそが行為者であるとの役割を想定しています。このエゴの誤信によって、分離が起こります。そして、エゴではなくて、この肉体精神機構には、運命があるとされます。


プログラミング(条件付け):コンピュータープログラムされるように、個々の肉体精神機構が、遺伝子や環境による条件付けによってプログラムされること。コンピュータープログラミングに従って、インプットに応じたアウトプットを機械的・自動的に行うように、個々の肉体精神機構も、源泉からやって来る思考というインプットに対して、プログラミングに従って、自動的・機械的に脳が反応し、アウトプットとして、行動を含めた生物的反応が起こるということです。
この反応にエゴはまったく関与できないのですが、エゴは自分の反応だと信じます。


マインド:受け取った思考と、それに引き続いて起こる思考の機能として活動中の意識を指し、受け取った思考のプロセスは、機能する心か考える心という心の二つの側面のどちらかで起こります。

エゴ:個人的行為者という感覚のことであり、活動中の意識が行為者としての自分を装うことで、分離した名前と形を持った思考する心を指します。

聖なる催眠:意識が、ある肉体精神機構の中で、個人的行為者という感覚を表現するメカニズムです。

カルマ:意識が原因と結果の法則である行為として現象化することで、私たちの知るような人生が展開するために必要な現象全体の根本的なメカニズムだといいます。原因・行為が結果を導き、その結果がまた別の原因となりと続いていく因果関係です。

巻き込み:ありのままを受け入れないことであり、苦しみの原因です。エゴは、自分には自由意志があるという間違った信念を持っているので、そのために、絶えず価値判断をしては裁き、決定し、結果を心配することになります。

リーラ:ヒンズー教でいう神の遊びまたはゲーム。

マーヤ:幻想、妄想。

思考:肉体精神機構の中で生みだされるものではなく、源泉からやって来て、ほんの一瞬後、脳はそのプログラミングに従って、自然に反応するといいます。思考は、アウトプットを生みだすためのインプットであり、アウトプットは因果関係を生みだします。本来、思考と脳の反応は両方とも垂直的であり現在の瞬間にありますが、もしエゴ(考える心)が思考に関与すると、思考は時間の中に水平的に巻き込まれてしまうことになります。

考える心:エゴが思考に巻き込まれて、自分のために過去の出来事を後悔したり、将来の結果を予期して懸念するような心の水平的な側面を指します。
心の中でエゴが働く領域です。

機能する心:現在の瞬間だけにいる心の垂直的な側面を指す概念です。機能する心には、未来の結果を心配するエゴは存在しません。
心の中で聖霊の働く領域です。

賢者:悟りが起こった肉体精神機構のことを指します。賢者は、その肉体精神機構のプログラミングに正直に反応するので、怒ることもあれば泣くこともあるが、それは垂直時間においてのことであって、考える心がその怒りの原因や怒りによって巻き込まれることはないといいます。この点で、必ずしもいわゆる「聖人」のイメージとはイコールではありません。



それでは、ラメッシ先生の言葉を味わってみてください。


源泉からのちょっとしたメッセージ」(「人生を心から楽しむ 罪悪感からの解放」ラメッシ・S・バルセカール著 高木悠鼓訳 マホロバアート、160ページ~172ページ)


「生まれたものは、柔らかく、しなやかです。
死んでいるものは硬直して、固いのです。
それゆえ、柔らかく、しなやかなものは、生の印であり、
硬直して、固いものは、死の印です。
硬直し、固いものは壊れ、しなやかなものは生き残ります。
柔和な人たちが地を受け継ぐのです。

すべての物事は変化し、過ぎ去るという理解のおかげで、
人は何事にも執着しないようにすることができます ― この生でさえも。
このことが意味することは、生に心を開き、死にも心を開くということです。
この教えを知性で理解しようとしないように。そうすれば、失敗するでしょう。
この教えがあなたのハートに届くようにすれば、それはとどまるでしょう。

もしあなたがこの教えを何かを達成するために使えば、失敗するでしょう。
でももしそれをゆるせば、それはあなたのために働くでしょう。

何もしないときに、一番よい行為が起こります。
努力がないときに、一番よい仕事が起こります。
踊り手がいないとき、一番よい踊りが起こります。
演技者がいないとき、一番よい演技が起こります。

賢人は、人生の基本として、
お互いに関係する正反対のものの二元性を受け入れます。
それゆえ彼は、悪は善からそれほど遠くないことを知っていますが、
彼はその道の外に出ています。
そして悪は、反対したり、破壊すべき何も見つけられないと、静かに消えていきます。

もしあなたが社会一般のために自分が何かするべきだと感じているなら、
ぜひ自分がするべきだと思っていることをやってください。
しかし事の事実は、創造世界に何が起こるかに関わっているのは、創造者だけです。

私は自分を通じて生が起こるようにします。そして、話すこと、教えることは、この生の流れの一部です。この教えはそれゆえ、するどいのですが、でもまた、それは柔軟でもあるので、人を傷つけることはありません。

科学の急速な発展のおかげで、体のあらゆる部分は、取り替えられる必要があったり、取り替えられることができるかもしれません。
しかし、決して取り替える必要もなく、取り替えることができないものは、
肉体の中の生命の存在―存在の非個人的覚醒―I AM(私は存在する)です。

私の経験によれば、私が自分の肉体を通じて起こる通常の仕事を生の一部として観察し、私の心が結果を心配しないとき、私は平和を発見します。

私の経験によれば、私の心が裁きに参加せず、感覚に導かれないときに、私は平和を発見します。私は自分が負けたと感じることなく、ゆずるとき、平和を発見します。私は自分が寛大だと感じることなく、与えるとき、平和を発見します。

私は人生に心を開き、何ごとも抑え込まず、人生がもたらすものを何であれ受け入れ、その瞬間の状況で自分がするべきだと思うことをやります。
一日よく働いたあとでは、眠りの快適さが楽しみになるんじゃないでしょうか?

どんな知識を追求するにしても、日々何かが付け加えられ、それゆえエゴを強化します。
しかし、自己調査を追求するときは、何かが落ちていき、日々エゴを弱くします。
どんな行為も私の行為でしょうか、それともただ起こる出来事でしょうか?

人生は、あなたがその道から外に出て、それが起こるようにするとき、最高です。

すべての決定、すべての希望、すべての挫折、すべての勝利、すべての喜びは、存在から生まれます。そして、すべての存在の生みの親は非存在で、
すべての行為の生みの親は、非行為です。

あなたは、自分が本当は何を求めているか知らないと思っています。
それでも、あなたに欲望がないとき、あなたはいつもそれを発見しています。

私はどうやって自分の人生を生きるのでしょうか?
私は、物事をコントロールしようとせず、それらをあるがままに受け入れます。
私は状況で自分がすべきことをやります。そして、結果は結果に任せます。
私は流れとともに行きます!

もしあなたが、希望と挫折、目標と達成に打ちのめされるようにすれば、宇宙の中心の自分の場所を失うことでしょう。
でも、もしその中心に根づいていれば、
表面の出来事はあなたに触れることはないでしょう。

形がなく、無限で、永遠に存在している何か、それは宇宙の母親です。
人はそれにどんな名前も与えることができますが
―非現象、意識、源泉、最初のエネルギー、神―
でも、どんな名前も、無限のものを制限してしまうことでしょう。
あなたはそれを常に自分の存在の深淵に発見することができます。

あなたが自分の人生を生きているのではありません。
あなたの人生は、源泉、つまり神によって生きられています。
それゆえ、どんなときにも、
自分がやるべきだと思うことをやってください ― それはまさに、
結果が何であれ、源泉、つまり神があなたにやってほしいことです。

成功がやって来るのは、心に目的がないからです。
期待は、存在と行為のくつろぎを低下させます。
期待がないと、行為は非行為になります。

私は自分の内側を見ます。そして、何を見るでしょうか?
時間と空間が始まる前の宇宙の中心です。

私は人生で何をしているのでしょうか?
私はただ、宇宙の中心にとどまって、出来事が起こるがままに眺めています。

私は満足を求めません。何の満足でしょうか?
私は求めず、期待しないので、起こることを何でも歓迎し、受け入れます。
そして、死が来るとき、私は準備ができています。

知恵の本質は、自分の本質と自分がどこからやって来るのか、
その源泉、唯一の現実を理解することの中にあります。
私たちは、自我ではなく、真我です。

私たちが自我を見るとき、怖れがあります。
物事のあるがままの中に確信があるとき、
現在あるがままに存在しているものを受け入れているとき、
怖れの余地がありません。

十分に受け入れることが、豊かさを意味します。
それに対して、豊かさを欲しがるのは、
決して十分にもつことがないことを意味しています。

真のリーダーシップは、仕事が終わったとき、
リーダーは一歩後ろへ下がって、
他の人たちに自分たちがそれをやったと思わせることです。

心の平和や静寂さへの道は、自分がやるべきだと思うことをやって、
それから一歩下がることです。
人々の承認を欲しがることは束縛を意味します。

すべての行為は、それが神の意志ゆえに起こるのです。
それゆえ、その結果もまた、神、つまり源泉の意志であり、
そして、それに影響される人々の運命です。

あなたは今この瞬間にあることが何であれ、それを改善できません。
なぜなら、それは源泉(つまり神)の意志であるからです。

あなたは、神があなたにして欲しいことをしたいと思っています。
そしてあなたの問題は、神の意志を知ることができないということです。
でもジョークといえば、
あなたは、源泉、つまり神が望まないことは何一つできないということです。
「御心がなされますように。」

あなたが何かを「美しい」とか「よい」ものとして見るとき、
あなたはすでに何かが醜いとか悪いと決めつけています。
相互関連する反対物は、私たちが知っているような人生のまさに基本です。
一つに対して他方を選べば、あなたは束縛の中にいます。
あらゆる瞬間に何があるべきかについて、源泉に決めさせましょう。
この瞬間の「現在あるがままに存在しているもの」を受け入れることは、
あらゆる理解を超えて輪の中心にいることを意味しています。

欲望からの自由とは、この瞬間の「現在あるがままに存在しているもの」を受け入れることを意味しています。
そしてそのことは、宇宙の神秘を理解することを意味しています。
欲望に巻き込まれれば、現象という見かけしか見ることができず、
それはすなわち、束縛です。

物質的対象は、精神的対象と同じくらい非現実であるということが、
本当の知識です。

人間は月に人を送るだけの知性があります。
ですから、もし本当に人間に自由意志というものがあれば、
なぜ人間は、世界を現在のような状況にしてしまったのでしょうか?

人は、子供のように生きるように教えられています。
それは何を意味しているのでしょうか?
子供はどんな出来事にも自然に反応するという意味です。
子供は自分自身や他人を裁くことをしません。

恐怖と希望を植え付けるのは、浅はかな霊的教師たちの逃げ場にすぎません。

科学のあらゆる理論、方程式、記号にもかかわらず、未知は未知のままです。

現象の唯一の不変数は、変化です。

もし物理学者が言うこと、つまり、過去、現在、未来は本当は存在しないことを、
私たちが受け入れれば、
誕生とか死などというものは本当にありえるのでしょうか?

あなたが知っていると思っていることは何であれ無知であり、
あなたが知ることができないことは何であれ知識です。

もし何かをするための言い訳を探さなければいけないとしたら、
それをしていけません。でもいずれにせよ、それが起きてしまったら、
それについて考えてはいけません。

事実は、人間は決して現実を知ることができないということです。
なぜなら、私たちは現実から離れているのではなく、
私たちが現実そのものであるからです。

私たちは聖なる催眠によって、たえず神にだまされているのです。
その催眠とは、私たちが知っているような人生が起こることができるために、
自分は自分の行為者であるというものです。

相対性理論を理解できないことは求道者を本当にみじめにするわけではありません。
でも、神の意志を理解できないことは求道者をみじめにさせます。

瞑想とは、存在を意味して、そのとき瞑想者はいません。

誰かの行為を裁こうとしているとき、
一瞬、間をおいて、自分に尋ねてください ― 私は誰を裁いているのだろうか?
人間か神か?誰が本当の行為者だろうか?

小学一年生が相対性理論を理解するよりも、どれほど知性があっても、
人間が神(源泉)の意志、あるいは宇宙の法則を理解するほうが、
はるかに困難なことでしょう。

「なぜ」は、物質的生活と科学的研究には非常に必要なものですが、霊的探求においては障害となります。

ある人が「私はエドで、あなたはウドで、二人の人間の間には大きな違いがあります」と言います。でも、二つの違った肉体精神機構に与えられた二つの名前があるだけで、
それらの肉体精神機構を通じて同じ原初のエネルギーが機能するのだと理解すると、
そのとき、エドとウドの間に何の違いもないのです。

たとえあなたが相対性理論を理解したとしても、
すべてはまったくあるがままです。
また、相違性理論を理解しないとしても、
すべてはまったくあるがままです。

物理学者は、個体性は幻想で、
あらゆるものは動きで、相互に作用し合い、あるいは進行中であると、
私たちに言い続けています。
個体性は幻想であるということを私たちに忘れさせているものは、
私たちが考え、言葉にすることが「固定的な物事」を蓄積するということです。
あなたの本質は、深い睡眠や二つの思考の間の中に存在しているものです。

賢人は、達成者ではなく、すばらしい人でもありません。
また彼は完全な人でもありません。
彼は、普通の人がもっているような望み、欲望、挫折をもたない普通の人です。
賢人は、それゆえ、普通の人が真我に近いとされているのと同じくらい
常に真我に近くいます。

ぜひ人生の映画を楽しみ、それに参加してください。でも、それが起こっている意識のスクリーンに必ず気づくようにしてください。

エデンの園でリンゴを食べたせいで、
「知識」によって私たちが宇宙から切り離されたというのは、
本当にジョークです。そして、最も基本的なレベルでは、
すべてのものは「一つ」である、一万のものも本当は一つであるということを、
私たちに証明したのは、分裂する原子から獲得した「知識」です。

信じている人は幸せで、疑う人はみじめです。
でも、両方とも思い違いをしています。
自分自身を知ることは自分自身を忘れることです。

セルビアのことわざに、「謙虚でありなさい。
なぜなら、あなたはこやしから創造されたから。高貴でありなさい。
なぜなら、あなたは星々から創造されたから」とういものがあります。
でもそれでは、単なる肉体精神機構以外のものから創造された
この「あなた」とは誰でしょうか?

人生には、本当に、意味、目的があるのでしょうか?
たぶんそれは、何かの宇宙的破局がすべてを終わりにするまで、
「生めよ、増やせよ」ということです。

人間に罪を犯させるものは、人間の道徳観だけです。
そうでなければ、人間は高等動物と同じくらい道徳的になることでしょう。

もしある種の一定数が何か新しいことを学ぶと、
それから、その種全体が、「モルフィック共鳴」と呼ばれる波動的プロセスを通じて、
それを自然に理解するのです。
であれば、なぜあなたは悟りを求めるのですか?
なぜ、起こるがままに人生を楽しまないのですか?!

自分を死んでいると思えば、失望や挫折の恐れなく、
自分が好きなことを何でもすることができます。

怖れと希望ではなく、愛と感謝にもとづく祈りが、本当の祈りです。

もし人が水に映る月を眺め続ければ、空の月を見逃し続けるでしょう。
もし人が月をさし示す指に焦点を当て続ければ、月を見逃すでしょう。
また、今日の月は、明日の月ではないことを忘れないように!

賢人は、爬虫類と哺乳類の脳から移動して、
新脳として今では知られている中で主に生きています。
その脳は「なぜ」を尋ねないのです。

ニール・ボアは、「偉大な真実は、その反対もまた偉大な真実である」と宣言したとき、すべてを言いました。
あるいは、私たちは、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの
「すべての真実は、半分の真実にしかすぎない」
という言葉も受け入れることもできるでしょう。
しかし事実は、現象においては、「真実」などというものはないということです。

霊的求道の問題は、人がそれを非常に深刻に、
まじめに受け取るようにされているところです。
そのことが、霊的求道の本質である「let go=解き放し」を困難にします。

あなたは、今ここに、います。それ以外のすべての知識は無知です。

あなたは、心から笑いたいと思いますか?では、次のことを考えてください。
何も現実ではなく、あらゆることは幻影である。
すべてはまさにそうあるべき状態である
― よいことも悪いこともなく、受け入れることも、拒否することもない。

求める人というものがいたことはありません。
赤ん坊が生まれて、母親の乳房を本能的に求めて以来、
人生は求めること以外の何ものでもありません。
でも求める人は誰もいないのです。
ですから、心配しないで、幸せでいなさい!

あなたは、人生の苦しみから逃れたいと思いますか?
たった一つだけ方法があります。
中心にいて、表面で出来事が起こるのを眺めることです。

求めることはすべて、分離の不安にもとづいています。
事実は、求める人は、すでに自分が求めているものです。

科学者たちは、反物質を発見しました。
反物質は物質に反する何をもっているのでしょうか?
いずれにせよ、物質であれ、反物質であれ、
その究極の幻想においては、
物質には何の重要性があるでしょうか?!

自己覚醒とは、①怒りが湧き起った、そして、私は怒っていると、
②私は傷ついている、そしてあなたが私を傷つけた、だから、私はあなたを憎む、
の間の違いです。

もし心が、過去の何かについてのいかなる罪悪感の思考や、
未来の何かについてのいかなる希望の思考からも解放されているとき、
あなたは現在の瞬間に生きているのです。

どうやって「存在」すればいいのでしょうか?
とても簡単です。あなたは、昼間、出かけて、夕方、家に帰ります。
思考がないとき、あなたは「家に」います。思考が行き来し、行為が起こるのを眺め、
それから、「家に」再び帰ってください。それが「ただ存在する」ことです。

思考は、現在の瞬間に起こります。
その思考を受け取って、水平時間の思考へと導き、
ストレスと不幸を導く運動を創造するのは、エゴです。

あらゆる人は、源泉、つまり神によって創造された現象界の対象物です。
誰かに起こることは、源泉、つまり神の意志です。
ですから、どんな対象物も、源泉、つまり神の意志も、
また彼の意志が働く基礎も理解することはできません。

何も望まず、何の期待もなく、
ただ瞑想の中にすわること、これが本当の瞑想です。
そして、本当の瞑想が起こるためには、
「すわる」ことは必ずしも必要ではありません。

考える心の欲望や期待からの何の妨害もなく、
機能する心とともに仕事がおこなわれるとき、
それは、また本当の瞑想になります。
つまり、瞑想者がいないということです。


人生は、友人の家のパーティーに参加するのと同じくらい楽しくなることができます。
あなたはパーティーを組織するのに、何か手伝えることがあれば、
何でも助けを提供します。もし何もなければ、
他人のまねをやめ、考えが起こるがままにします。
参加するとき、もし人生のそのパーティーがあなたの性質に合えば、
自分の性質がその自然のコースをとるにまかせます。
もしそうでなければ、パーティーの流れを書き、
自分の好きなことも、嫌いなことも積極的に受け入れるのです。」

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