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T13-Intro 罪のない世界

テキスト第十三章「のない世界」の序論をご紹介します。




本節の最後の一文は次のようなものです。

「The Atonement is the final lesson he need learn, for it teaches him that, never having sinned, he has no need of salvation.
 贖罪こそが神の子が学ぶべき最終レッスンです。なぜなら、贖罪は神の子に、彼が一度もを犯したことがないので、彼には救済の必要などまったくないと教えてくれるからです。」

「彼が一度もを犯したことがないので、」という根拠とワンセットで意味をなす文章であるのはわかりますが、コースは救済について語っているのに、神の子には救済など必要ないと教えるというのは矛盾のように響きます。

このような趣旨の表現はコースでたびたび出てきます。


永遠においては神の子の救済はすでに完了しているということもほかの箇所でもたびたび述べられます(T28-1 現在の記憶レッスン80)。

つまり、永遠においては、神の子が分離幻想を抱いた瞬間に贖罪が完了しているというわけです。

でも、ここも誰もが疑問に思うところでしょうが、贖罪が完了しているなら、どうして私たちはいまだに分離幻想の世界の中に閉じ込められた状態のままいるの?という疑問が湧いてきます。

つまり、神の子は客観的には救われている状態にはあっても、いったんはハマっている状態から脱することに成功しはしたものの、パチンコやタバコをなかなかやめられない人や薬物を断つてずに舞い戻ってしまう薬物中毒者のように、神の子は終わって取り消されたはずの幻想の中に逃避してしまうということなの?

だとすると、依然として救われておらず贖罪は完了してなんかいないんじゃないの?

少なくとも、私たちが、自分が神の子ではなく世界の中にいる人間だと信じている時点で、この世界の中で私たちが救われない状態に現にいることは確かです。そうでなければ、コースなど必要なかったはずです。

そして、神の子が分離幻想を抱いた瞬間に幻想は取り消されて分離世界が現実として創造されることはなかったということが客観的状態であるとすれば、私たちは客観的には救われているが主観的には救われていない状態にあることになります。

そして、この主観と客観の齟齬を解消する手段として、すでに客観的に救済は完了しているがゆえに、救済の必要はないと主観的に学ぶことは役に立ちます。

すなわち、救済の目的は、ありもしない幻想世界で本当の自分とは違う生き物になっているつもりの神の子に、実は世界もあなたも偽物で本当のあなたは救われた状態にあるのですよと気づかせることですが、そうだとすれば、すでに救われているのだから、救済の必要などないのであり、これがわからないかぎり救われようがないということです。

主人公は実はすでに死んでいた系のお話(ナイト・シャマラン監督のシックスセンスやエレン・バーキン主演のシエスタ)の舞台設定を用いるなら、すでに死んでいる主人公が自分の死を願ったとしても、すでに死んでいるのだから改めて死にようがないので、ちゃんと死ぬためには、自分がすでに死んでいることに気づき、それを受け入れるしかないというのと同じで、すでに救われているのに、それに気づかずにさらに救われようと願う者に必要なのは、自分がすでに救われていると気づき受け入れることです。




Chapter 13 THE GUILTLESS WORLD
第十三章 なき世界


Introduction
序論



1. If you did not feel guilty you could not attack, for condemnation is the root of attack.
 もしあなたが罪悪感を抱いていなかったなら、あなたは攻撃などできなかったはずです。なぜなら、非難することが攻撃の根源だからです。

 It is the judgment of one mind by another as unworthy of love and deserving of punishment.
 非難することは、ある心が別の心に対して、その心は愛に値せず、当然に処罰に値すると価値判断して裁きを下すことです。

 But herein lies the split.
 しかし、まさにここに分裂を見出すことができます。

 For the mind that judges perceives itself as separate from the mind being judged, believing that by punishing another, it will escape punishment.
 というのは、裁く心は、裁かれるほかの心と自分自身は別々に分離していると知覚しており、ほかの心を罰することによって自分は処罰を免れるはずだと信じているからです。

 All this is but the delusional attempt of the mind to deny itself, and escape the penalty of denial.
 このようなことはすべて、心が自分自身を否認しておきながら、否認したことに対する処罰は逃れようとする心の妄想的な試みでしかありません。

 It is not an attempt to relinquish denial, but to hold on to it.
 それは否認を放棄するどころか、否認にしがみつき続けようとすることです。

 For it is guilt that has obscured the Father to you, and it is guilt that has driven you insane.
 というのは、あなたに大いなる父を見えなくさせてしまったのは罪悪感であり、あなたを狂気に駆り立てているのも罪悪感だからです。



2. The acceptance of guilt into the mind of God's Son was the beginning of the separation, as the acceptance of the Atonement is its end.
 神の子が心に罪悪感を受け入れたことが分離の始まりだったので、贖罪を受け入れることが分離の終わりとなります。

 The world you see is the delusional system of those made mad by guilt.
 あなたが見ている世界は、罪悪感によって発狂した者たちの妄想が絡み合う集合体です。

 Look carefully at this world, and you will realize that this is so.
 この世界を注意深く見てみれば、あなたにも、これがその通りだとわかるはずです。

 For this world is the symbol of punishment, and all the laws that seem to govern it are the laws of death.
 なぜなら、この世界は懲罰を象徴するものだし、この世界を支配しているように見える法則は、どれをとってもみな死の法則だからです。

 Children are born into it through pain and in pain.
 子供たちは痛みを通して苦しみながら、この世界の中へと生まれ落ちます。

 Their growth is attended by suffering, and they learn of sorrow and separation and death.
 彼らの成長には苦悩がつきまといます。そして、彼らは悲嘆と離別、そして死を学びます。

 Their minds seem to be trapped in their brain, and its powers to decline if their bodies are hurt.
 彼らの心は彼らの脳の中に幽閉されているように思えるし、彼らの肉体が傷つくと彼らの心の力は衰弱してしまうように見えます。

 They seem to love, yet they desert and are deserted.
 彼らは愛するように見えても、見捨てることもあれば、見捨てられることもあります。

 They appear to lose what they love, perhaps the most insane belief of all.
 彼らは自分の愛するものを失うように見えますが、おそらくこれこそがすべての信念の中でも最も狂気の信念でしょう。

 And their bodies wither and gasp and are laid in the ground, and are no more.
 そして、彼らの肉体は老衰し、息が止まり、埋葬され、それでお終いです。

 Not one of them but has thought that God is cruel.
 彼らの中で、神が残酷だと思ったことのない者など、ひとりもいないはずです。

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3. If this were the real world, God would be cruel.
 もしこんな世界が真の世界であったなら、たしかに神は残酷というべきでしょう。

 For no Father could subject his children to this as the price of salvation and be loving.
 というのは、救いの代償としてわが子をこんな死の法則に服従させるような父が、愛に満ち溢れる存在であるはずがないからです。

 Love does not kill to save.
 愛は、救うために殺したりしません。

 If it did, attack would be salvation, and this is the ego's interpretation, not God's.
 もしそうだったとしたら、攻撃が救いになるはずですが、これはエゴの解釈であって、神の解釈ではありません。

 Only the world of guilt could demand this, for only the guilty could conceive of it.
 ただ罪悪感で成り立つ世界だけがこんなことを要求できるのです。なぜなら、罪の意識を持つ者にしかそんなことを思いつくことはできないからです。

 Adam's "sin" could have touched no one, had he not believed it was the Father Who drove him out of Paradise.
 もしアダムが自分を楽園から追放したのが大いなる父だと信じなかったなら、アダムの「罪」は誰にも影響を及ぼすことはできなかったでしょう。

 For in that belief the knowledge of the Father was lost, since only those who do not understand him could believe it.
 というのは、大いなる父を理解しない者にしか、父がアダムを罰したなどと信じることはできなかったので、そう信じることで、大いなる父についての知識が失われることになったからです。



4. This world is a picture of the crucifixion of God's Son.
 この世界は、神の子の磔刑を描写した光景そのものです。

 And until you realize that God's Son cannot be crucified, this is the world you will see.
 そして、神の子が磔にされるはずがないと理解するまでは、これがあなたの見続ける世界です。

 Yet you will not realize this until you accept the eternal fact that God's Son is not guilty.
 しかし、あなたが神の子は無罪だという永遠の真実を受け入れないかぎり、あなたは神の子が磔にされるはずがないことに気づかないでしょう。

 He deserves only love because he has given only love.
 神の子には、ただ愛だけがふさわしいものです。なぜなら、神の子はただ愛だけを与えてきたからです。

 He cannot be condemned because he has never condemned.
 神の子が咎められることは決してありえません。なぜなら、神の子は一度も非難したことなどないからです。

 The Atonement is the final lesson he need learn, for it teaches him that, never having sinned, he has no need of salvation.
 贖罪こそが神の子が学ぶべき最終レッスンです。なぜなら、贖罪は神の子に、彼が一度も罪を犯したことがないので、彼には救済の必要などまったくないと教えてくれるからです。


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