There Is No Spoon

ARTICLE PAGE

T4-5 悪名高きエゴですが、打ち倒すべき強敵なのでしょうか?

今回は、テキスト第四章からエゴ身体に関する一節をご紹介します。

悪名高い「エゴ」ですが、私たちはエゴにどう対処すべきなのでしょうか?




奇跡のコースでは、エゴが幻にすぎないとして、そもそも実在しないものとして取り消すための理解と対処についていろんな角度から説明します。

それだけに、エゴを取り消すにしても、そのためにはどのようなスタンスで臨むべきなのか今ひとつ掴みきれないという場合もあろうかと思います。

端的に言って、私たちは、エゴを敵として対峙し、エゴをやっつけるために苦闘して倒し、最後にはエゴの息の根を止めなければならないのでしょうか?それともエゴと折り合いをつけて共存しながら、エゴを手なずけて自分の手下にしてしまうようにすべきなのでしょうか?
エゴが悪さをするということだけは、どこでも教えてくれて、よく理解できますが、それから先はどうなのでしょうか?

この点について、多くの示唆を与えてくれますので、昨日に続いてラメッシ先生の言葉をご紹介しましょう。

「人々は、先生たちにエゴと戦うように、エゴを殺すように教えられます。でも私が言っていることは、エゴを受け入れなさい、ということです。それはユニークではありませんか? エゴと戦ってはいけません。エゴを受け入れなさい。なぜでしょうか? それは『あなた』がエゴを創造したのではないからです。源泉がエゴを創造し、そしてある場合において、源泉は、エゴを破壊する過程にあります。だから、あなたの頭はトラの口の中にあるのです。もう逃げることができません。仮にエゴと戦っても逃げることはできません。それが、私の言わんとしている要点です。もしあなたがエゴと戦いつづければ、トラは長い間口を開け続けるでしょう。でも、あなたがエゴを受け入れれば、トラはすばやくガブリとあごを閉じてしまうでしょう。」

「『あなた』がエゴなのです!その『自分』がエゴで、エゴは自殺する気はありません」
「本当の問題は、『自分』は決して行為者ではなく、することはただ起こるだけであるという完全な無条件な受け入れにどうやって到達するのかということです。」

「私の答えは、まず最初は知的に、自分は、分離した行為をしている他者から分離している個人ではない、ことを理解しなければなりません。それから、個人的経験によって、その必然的結論を無条件に受け入れるようにすべきです。」)

先を見るときには、いつでも自由意志によって自分がコントロールできるように思えますが、一日の終わりに出来事を振り返ってみると自分には一切コントロールできなかったことを結論付けざるをえない、つまり、自分には自由意志がないということに気づくという修行を繰り返すことだといいます。 

ただし、この自由意志がないという事実は、束縛も自由ももたらしはしないが巻き込まれることからの自由をもたらしてくれるといいます。

つまり、起こることは、私たちにかかわらず起こるとの理解は、罪悪感や恐怖や嫉妬からの解放をもたらしてくれるということです。

「個人的行為者という感覚からの自由は、エゴにとっては、自由の喪失を意味するということです。そして、混乱があるのは、エゴが、アシカと呼ばれる肉体精神機構とまだ一体化しているからです。このエゴはまだ残っていて、ひどく制限されているように感じるのです。」

「私が、『御心がなされますように』と言うとき、それが意味していることは、人間はどんな自由意志ももっていないということです。そして、それにもかかわらず、私はあなたに、『何でも自分の好きなことをしなさい。これ以上のどんな自由を、あなたは望むのですか?』と言います。あなたは、この明らかな矛盾した声明について問題がありますか?
・・・
その答えとは、あなたは自分の好きなことをしてもいいが、でも、あなたがしたいことは、その与えられた状況で、その瞬間にまさに神があなたにしてほしいと思っていることです。それゆえ、何も矛盾はありません。ですから、あなたがしたいと思うことをしてください。神はそれをどうやって管理しているのでしょうか?プログラミングを通じてです。あなたがしたいと思うことは、プログラミングにもとづいています。・・・もし起こることを自分がコントロールできないとすれば、自分の好きなことをする完全な自由は何の役に立つのでしょうか?あなたが自由意志をもたない程度だけです。」

エゴが長年支配していた自由の印象は、役立たないというものです。」

「悟りの究極的効果は何でしょうか? ― それは、何が起こっても、それが問題ですか?というものです。思考は、『どうして、何も問題ではないなどと、あなたは言うことができるのですか?』というでしょう。もちろん、問題です。思考にとっては、すべてが問題です。ですから、『何も問題ではない』はハートからわき起こる結論、答え、感情です。賢人が毎瞬感じることは、起こることが何であれ、その何が問題ですか?というものです。でも、エゴは言います。「もちろん、それは問題です」。

「ハートがこの結論に到達することの重要性は何でしょうか?その重要性は、エゴが、起こっていると認識し、それが問題だと思っていることは何でも、実は幻想である、ということです。」
(以上、「人生を心から楽しむ 罪悪感からの解放」ラメッシ・S・バルセカール著 高木悠鼓訳 マホロバアート 100ページ~127ページから引用と一部要約させていただきました)


なんだか気が楽にならないでしょうか?

必ずしも「十二国記」で、麒麟が妖魔を折伏して使令に下すために(読まれていない方は、まったく意味不明だと思いますが、ご一読いただきたいので、あえて説明しません。もうすぐ新刊「丕緒の鳥」も出るようです)、孤独で過酷な戦いに打ち勝たなければならなかったように、エゴと向き合って苦闘を繰り広げてなくてもいいということです。

なぜって、そもそもエゴは本当にあるように思えても、幻にすぎないのですから。



さて、今回ご紹介する奇跡のコースのテキスト第四章からの一節は、エゴと身体についてのものです。

エゴは、幻想ですが、同じく幻想である宿主である私たちに寄生することで生き延びています。

私たちが、幻想を見ているかぎりは、エゴは安泰だと思っています。

ですが、私たちが、正気を取り戻して、幻想から目覚めてしまうと、エゴは居場所を失ってしまいます。

だから、エゴにとって大事なことは、私たちが幻想を夢見たまま正気を取り戻さないようにすることです。



恐怖は、エゴが存続するために必要な燃料のようなものです。

エゴにとっては神の思考は自分を消滅させてしまう受け入れがたいものですが、エゴには神の思考を無くすことなどできません。

そこで、エゴは、身体の「受け入れがたい」肉体的衝動と神の思考と区別せず、両方とも同じものだと知覚して脅威を感じます。

これはエゴの戦略です。もしエゴが、この二つを識別したなら、エゴは確実に神の知識に直面してしまうことになるからです。それはエゴの解体を意味します。

こうして、エゴは、身体と神を混同してしまいます。

そして、エゴは、身体のことを自分の盟友として選び、住み処として選び、身体と同一化します。


「4. The ego cannot hear the Holy Spirit, but it does believe that part of the mind that made it is against it.
 エゴは、聖霊の声を聞くことはできません。しかし、エゴは、自分を作った心の一部分が自分に対立していると信じています。

 It interprets this as a justification for attacking its maker.
 エゴは、心の一部が自分に対立することを、自分の作り手を攻撃する正当な理由であると解釈します。

 It believes that the best defence is attack, and wants you to believe it.
 エゴは、最大の防御は攻撃だと信じ、あなたにもそう信じてほしいと思っているのです。

 Unless you do believe it you will not side with it, and the ego feels badly in need of allies, though not of brothers.
 確かにそうだと信じないかぎり、あなたはエゴの側には付こうとは思わないでしょう。そこで、エゴは、兄弟が必要だと思うことはないとしても、どうしても味方が必要だと痛切に感じています。

 Perceiving something alien to itself in your mind, the ego turns to the body as its ally, because the body is not part of you.
 エゴは、あなたの心の中に、エゴ自体との異質性を知覚しているので、エゴは身体を味方として頼りにするようになります。なぜなら、身体はあなたの一部ではないからです。

 This makes the body the ego's friend.
 このことが身体をエゴの盟友にします。

 It is an alliance frankly based on separation.
 エゴと身体の同盟は、明らかに分離に基づく同盟といえます。

 If you side with this alliance you will be afraid, because you are siding with an alliance of fear.
 もしあなたがこんな同盟の側に与するなら、あなたは恐れるようになってしまいます。なぜなら、それは恐怖の同盟に味方しているようなものだからです。」(テキスト 第六章 四 唯一の答え)

エゴは、身体と同一化しているときに、もっとも安心します。それは、身体の弱さ、滅びゆく身体の儚さは、私たちが神に属する存在などではないということを示す最大の論拠になるからです。自分たちが神にふさわしくないと信じているかぎり、私たちが神の声を代弁する聖霊の声が心の中にあっても、耳を貸すことはないでしょう。

しかし、だからといって、エゴは、身体をいつも大切にするわけではなく、満足のいく住み処なんかじゃないと文句をいい、むしろ身体のことを憎みすらします。

心は自分を守ってほしいので、「私はどこに行けばいいのか」とエゴに尋ねますが、エゴは、自分に任せておけと言います。

ですが、上述のように身体は、脆弱で頼りにならないものであり、この身体と一体化しているエゴから自分に任せておけと言われても、信頼できないので、心の質問は答えられないままになってしまいます。

答えの出せないエゴは、卑怯な裏技を用います。

それは、心に質問自体を覆い隠して意識させないようにしてしまうということです。

もっとも、これは、誤魔化しにすぎないので、心には不安や疑問は残ったままになります。

根本解決がなされていないので、いつまた疑問が頭をもたげてくるかわかりません。

私たちが真理について学ぶようなことは、この疑問を再び浮かび上がらせる危険のある行為です。

そこで、エゴはさらにそのうえでの工作を用意しています。

エゴが私たちの学びの進歩を妨げるためによく使うのは、解決できないように仕組まれた重要ではない問題に没頭させることだといいます。

このような陽動作戦に惑わされてエゴの思惑どおり、幻想の中への迷い込みを深めないために必要なのは、「何のために?」という質問を発することだといいます。

そして、この質問こそ、私たちがあらゆる物事に関して質問できるようにならなければならない質問だということです。

日常生活や仕事面での問題はもちろん、求道面での問題も当然、エゴが仕組んだ問題であるはずです。


「何が目的なのだろうか?」と。


この質問を投げかけることによって、エゴが多忙さや深刻さで誤魔化そうとしている「問題」が実は重要ではなかったということに気がつくことができるようになります。





テキスト 第四章 

V. The Ego-Body Illusion
五 エゴと身体という幻想




1. All things work together for good.
 万物は、善のために力を合わせて働きます。

 There are no exceptions except in the ego's judgment.
 エゴの価値判断による場合を除いては、このことに一切、例外はありません。

 The ego exerts maximal vigilance about what it permits into awareness, and this is not the way a balanced mind holds together.
 エゴは何を意識することを許可するかについて最大限の警戒心を働かせます。もっとも、意識する範囲を制限するという方法では、心にまとまりをもたせてバランスを保つことはできません。

 The ego is thrown further off balance because it keeps its primary motivation from your awareness, and raises control rather than sanity to predominance.
 エゴは自らの根本的な動機をあなたに意識させないようにして、自らの優位性を保つためであれば、正気であることを犠牲にしても抑制を強めることを選ぶので、エゴはよりいっそうバランスを失っていくことになります。

 The ego has every reason to do this, according to the thought system which gave rise to it and which it serves.
 エゴがこのようにするのには十分な理由があります。エゴを生み出し、エゴが奉仕する思考システムに従うかぎりそうするよりほかに仕方がないのです。

 Sane judgment would inevitably judge against the ego, and must be obliterated by the ego in the interest of its self- preservation.
 正気で価値判断するかぎり、必ずエゴを否定する判断となるはずです。だからこそ、エゴは、自己保存という利益を図るために、正気の価値判断を完全に覆い隠されなければならない羽目になるのです。



2. A major source of the ego's off-balanced state is its lack of discrimination between the body and the thoughts of God.
 エゴがバランスを崩した状態になるのは、エゴには身体と神の思考の間の相違を識別する力が欠けていることが主な原因です。

 Thoughts of God are unacceptable to the ego, because they clearly point to the nonexistence of the ego itself.
 神の思考はエゴには受け入れがたいものです。なぜなら、神の思考はエゴそのものが存在しないことを明確に指し示すことになるからです。

 The ego therefore either distorts them or refuses to accept them.
 それゆえ、エゴは神の思考を歪めるか、神の思考を受け入れることを拒絶するかのいずれかしかできません。

 It cannot, however, make them cease to be.
 しかし、エゴには神の思考を存在しないように消去することはできません。

 It therefore tries to conceal not only "unacceptable" body impulses, but also the thoughts of God, because both are threatening to it.
 したがって、エゴは「受け入れがたい」肉体的衝動だけでなく、神の思考をも隠そうとすることになります。なぜなら、いずれもエゴに脅威を抱かせるものだからです。

 Being concerned primarily with its own preservation in the face of threat, the ego perceives them as the same.
 脅威に直面すると、エゴはまず何よりもエゴそのものの存続を心配するので、肉体的衝動も神の思考も両方とも同じものだと知覚してしまいます。

 By perceiving them as the same, the ego attempts to save itself from being swept away, as it would surely be in the presence of knowledge.
 その二つを同じものとして知覚することによって、エゴは自分が一掃されてしまわないようにと試みます。エゴが知識を前にすれば、エゴが一掃されてしまうであろうことは確かだからです。

名称未設定


3. Any thought system that confuses God and the body must be insane.
 それがいかなるものであれ、神と身体とを混同するような思考システムが狂気に陥っているのは間違いありません。

 Yet this confusion is essential to the ego, which judges only in terms of threat or non-threat to itself.
 しかし、この混同はエゴにとっては絶対に欠かせないものです。エゴはただエゴ自体にとって脅威になるかならないか、その観点だけから判断するからです。

 In one sense the ego's fear of God is at least logical, since the idea of Him does dispel the ego.
 ある意味では、エゴが神を恐れることは少なくとも理に適っています。それは、神の想念はエゴを消し去ってしまうからです。

 But fear of the body, with which the ego identifies so closely, makes no sense at all.
 そうだとしても、エゴが、きわめて密接に自分を身体と一体視しておきながら、その身体のことを恐れるというのはまったく意味をなしません。



4. The body is the ego's home by its own election.
 身体は、エゴが自分自身で選択したエゴの住み処です。

 It is the only identification with which the ego feels safe, since the body's vulnerability is its own best argument that you cannot be of God.
 エゴが安全だと感じることができるのは身体と一体感を持つときだけです。というのも、身体の脆弱さは、あなたが神に属するものであるはずがないというエゴの主張の最大の論拠になるからです。

 This is the belief that the ego sponsors eagerly.
 あなたは身体であって神に属するものではないというこの信念を、エゴは熱烈に支持します。

 Yet the ego hates the body, because it cannot accept it as good enough to be its home.
 そのくせ、エゴは身体をひどく嫌います。なぜなら、エゴは、身体を自分の住み処とするのに十分満足できるほどよいものとして受け入れることができないからです。

 Here is where the mind becomes actually dazed.
 ここが、心が本当に戸惑ってしまうところです。

 Being told by the ego that it is really part of the body and that the body is its protector, the mind is also told that the body cannot protect it.
 エゴが言うところでは、心は本当に身体の一部であり、身体こそが心の守護者であるはずです。ところが、その一方で、心はエゴから、身体には心を守ることができないと告げられることにもなるからです。

 Therefore, the mind asks, "Where can I go for protection? " to which the ego replies, "Turn to me."
 そこで、心は「守ってもらうために、私はいったいどこへ行けばいいのか」と尋ねます。これに対して、エゴは「私に任せておきなさい」と答えます。

 The mind, and not without cause, reminds the ego that it has itself insisted that it is identified with the body, so there is no point in turning to it for protection.
 そこで、当然ながら心は、エゴは自ら身体と一体だと主張していたので、そうだとすれば、心を守ることができない身体と一体であるエゴに守ってやるから自分に任せろと言われても無意味ではないかとエゴに気づかせようとします。

 The ego has no real answer to this because there is none, but it does have a typical solution.
 エゴは、この質問に対してまともに答えることができません。なぜなら、答えなど存在しないからです。しかし、エゴにはいかにもエゴらしい独自の解決策があるのです。

 It obliterates the question from the mind's awareness.
 エゴは、心が自覚する意識からその質問を完全に覆い隠して、そもそも心が疑問を抱かないようにしてしまうのです。

 Once out of awareness the question can and does produce uneasiness, but it cannot be answered because it cannot be asked.
 とはいえ、いったんその疑問が意識されなくなったとしても、その疑問は落ち着かない不安感を生じさせうるし、現に不安を感じさせます。しかし、それを質問することができないので、疑問には答えが与えられないままになってしまいます。

名称未設定


5. This is the question that must be asked: "Where can I go for protection?"
 問うべきなのは、次の質問です。それは「私は、守ってもらうために、どこへ行けばよいのか」という質問です。

 "Seek and ye shall find" does not mean that you should seek blindly and desperately for something you would not recognize.
 「探せよ、さらば、見出さん」と言われていますが、それは闇雲に死に物狂いになって自分に見分けもつかないようなものを探し求めるべきだという意味ではありません。

 Meaningful seeking is consciously undertaken, consciously organized and consciously directed.
 意味ある探求は、それに意識的に取りかかり、意識的に計画を組み立て、意識的に実行されなければなりません。

 The goal must be formulated clearly and kept in mind.
 その目標をはっきりと明確に定めたうえで、心の中に保持されなければなりません。

 Learning and wanting to learn are inseparable.
 学習と学習意欲とを切り離すことはできません。

 You learn best when you believe what you are trying to learn is of value to you.
 あなたは、自分の学ぼうとすることが自分にとって価値のあることだと信じるときに、最もよく学ぶことができます。

 However, not everything you may want to learn has lasting value.
 しかし、あなたが学びたいと思うことのすべてが永続する価値を持っているとはかぎりません。

 Indeed, many of the things you want to learn may be chosen because their value will not last.
 むしろ実際のところ、あなたが学びたいと思うことの多くは、その価値が長続きしないからこそ選んだものであるのかもしれないのです。



6. The ego thinks it is an advantage not to commit itself to anything that is eternal, because the eternal must come from God.
 エゴは、何であれ永遠に続くものには、自分のすべての力を傾注しないほうが得策であると考えます。なぜなら、永遠なるものは神から来るに違いないからです。

 Eternalness is the one function the ego has tried to develop, but has systematically failed to achieve.
 永遠性は、エゴが身につけようと目論んできた機能のひとつですが、それを獲得しようとするエゴのどのような試みもすべて失敗してきました。

 The ego compromises with the issue of the eternal, just as it does with all issues touching on the real question in any way.
 そこで、エゴは永遠に関わる問題については妥協を図ろうとします。それはちょうど、守ってもらうためにどこに行けばよいのかという真の問題に多少なりとも関連するあらゆる問題点についてエゴが妥協を図ろうとするのと同じです。

 By becoming involved with tangential issues, it hopes to hide the real question and keep it out of mind.
 本筋から脱線した問題点と関わることで、エゴは真の問題そのものを隠し、心の外に置いたままで済まそうと目論んでいるのです。

 The ego's characteristic busyness with nonessentials is for precisely that purpose.
 エゴに特徴的な重要でもないことにかまけての多忙さは、まさしくそんな目的を果たすためのものなのです。

 Preoccupations with problems set up to be incapable of solution are favorite ego devices for impeding learning progress.
 解決不能となるように仕組まれた問題に没頭することは、学習の進歩を邪魔するためにエゴが好んで用いる得意技です。

 In all these diversionary tactics, however, the one question that is never asked by those who pursue them is, "What for?"
 しかしながら、このような陽動作戦の中で、作戦を遂行する者たちによって決して問われることのないひとつの質問があります。それは「何のために?」という質問です。

 This is the question that you must learn to ask in connection with everything.
 これこそ、あなたがあらゆる物事に関して問うことを学ばなければならない質問です。

 What is the purpose?
 何が目的なのだろうか、と。

 Whatever it is, it will direct your efforts automatically.
 その目的が何であっても、その目的があなたの行動を自動的に方向づけてくれるようになるはずです。

 When you make a decision of purpose, then, you have made a decision about your future effort; a decision that will remain in effect unless you change your mind.
 そうなれば、あなたが目的を決めると、あなたはすでに自分の未来の行動を決定したことになります。そして、その決定は、あなたが自分の心を変えないかぎりは、有効性を保ちつづけることなるのです。


名称未設定

いつも読んでいただき、ありがとうございます!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ ACIMへ
ポチリよろしく!


ポチッとお願いします!
関連記事
エゴ身体ラメッシ一体化混同同盟知的コントロール束縛

Comments 2

Kino

精神世界の真理追究は、本稿のラメッシさん/ACIMの図式のように、洋の東西・時代を問わず共通の概念ベース、共通項を基に論じられるのが誠に面白いです。共通の論題を別の言葉とニュアンスで伝えてくれるので、前に気付けなかったことに意識が行くようになったり。だから、自分にあった本や言葉を複眼的に読むのは良いのかなと感じました。多少ニュアンスは違えど、共通のお話をしてくれるという意味では、精神世界のご本は取っ付きやすい気がします。

エゴが生み出す恐れ・罪悪感などに飲まれて押し潰れそう、という原因とそれらの解放を目的に取り組んでいますが、目的に凝り固まりすぎてそれが新たな恐れの原因にならない程度に身を委ねていけたらと存じます!

いつも有難うございます。

2013-06-25 (Tue) 20:00 | EDIT | REPLY |   

ken

ありがとうございます

Kinoさん、いつも読んでいただいて、どうもありがとうございます!

そうですね。洋の東西、時代を問わず、同じ原理が発現しているように感じると、故郷への道筋を思い出す手がかりを手に入れたような感じで、なんだか嬉しくなります。

一者の一つの原理が適用されることによって、森羅万象(幻想世界)が展開しているのだとすれば、究極的には、あらゆる出来事には共通の基盤が見い出せるはずということになります。

この原理を凝縮した文章として、錬金術の分野で「エメラルド・タブレット」の碑文というものがあります。

ラテン語訳からニュートンの訳まで多様な訳文がありますが、コースの参考にもなると思いますので、そのうちご紹介したいと思います。

2013-06-26 (Wed) 18:18 | EDIT | REPLY |   

Leave a reply