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There Is No Spoon

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T22-3 誤りの形

今回はテキスト第二十二章から「理性誤りの諸態」という一節をご紹介します。




エゴの思考システムに理性を導入することがエゴの取り消しの出発点だと述べられます。

エゴの思考システムは、肉眼を見ることによって、誤りには取り返しのつかない修正不能ながあり、を犯した者には処罰として報復攻撃が必要であるという仕組みです。

理性は、誤り間違いであるのは、誤りによるわけではなく、誤り修正可能な誤り修正不能な誤りがあるように見えるのは、のみを知覚して本質を見ないために作られた肉眼で見ているためだと教えます。

修正可能性という言葉で抽象的に考えているだけだと、誤りと深さにレベルがあるというエゴの見方に囚われずにいられるように思えるかもしれませんが、取り返しのつかないはあるという観念を捨て去ることはきわめて難しいことです。

私たちは、カッとなって殺してやると内心で思いを抱くことは正しくないけれど、誤りとしては些細なもので、相手を小突いたけれど、怪我もしなかったとしたら、悪いことだけど、大目に見られるべきだ、けれど、殴った相手が死んでしまったら、取り返しがつかないを犯してしまったと考えます。

大切な家族が、誰かに殴り殺されて、その相手は間違いを犯しただけではない、咎めだてするまでもない、と本気で思える人は、どうかしているとしか思えないというのが健全な感覚といってよいでしょう。

それでは、コースは、私たちに、個人として自然に湧いてくる感情を押し殺して白々しい博愛の観念を自らに強いる偽善を求めているのでしょうか?

そんなはずはありません。

愛のみがあると教えるコースです。

そして、愛に関して妥協をしないコースです。だから、万民を等しく愛するので、各自の間の利害を調整して各自がその調整を我慢して受け入れなければならないという結論は出てきようがありません。

自分をごまかしているような違和感や座りの悪さを覚えるときは、得てして、間違った前提に立っているものです。

赦しとは、①罪が実在しない錯覚であることに気づいて、②その認識通りに無視するということでした。

許しがたいものを許すよう強いられるという感覚が生じるのは、①が不十分なまま②をしようとする場合です。

①が要点であり、①が十分であれば、②は意図せずとも当然の帰結として伴うので、①をなおざりにしたまま、がんばって②をしようというのは力を注ぐポイントとしてずれているということになります。

この点で、家族を殺した犯人を憎々しく思うのにそんな相手を許せるはずがないという場合、①が抜け落ちていて②のみに着目していることになります。


たびたび紹介しているコリン・T・ティッピングさんの根源的なゆるしの考え方が、机上の空論や自己欺瞞に陥らずにコースの赦しの実践を実らせるうえで役に立つと思っています。

根源的なゆるしでは、虐待やレイプ、殺人について、偶然起こる不幸としてのみ捉えるのではなく、究極的に神からの分離幻想を癒すために、個々の魂が癒しを遂げるために必要なドラマであり、当事者はそのドラマの登場人物として役割を果たしたのだという位置づけをし、ヒトラーの魂すらドイツ民族とユダヤ民族の被害者アーキタイプによる集団的な魂の癒しのための使命を果たしたのだという捉え方をします。被害者の立場の人からするととうてい容易に受け入れられる考え方ではりません。

コースに劣らず、きわめてラディカルな内容なので、素地のない人が読むときわめて強い拒絶反応を示すはずの本ですが、コースに馴染んでいるみなさんであれば、放り出さずに読めるはずですし、むしろ、コースの学習を進めても、地に足がついてないような感覚が拭えないというもどかしさを感じている方にとっては突如として蒙を啓かれる契機となるかもしれません。

飯田史彦さんの「生きがい」シリーズが「根源的なゆるし」に親和性があると思いますので、併せて読んでいただければと思います。



コース22-3


本当に被害者としての立場を味わっている方の気持ちを考えると、読みようによっては傷ついてしまう事柄になるので躊躇を覚えるところですが、私たちの本質が身体ではなく魂であり、この世の人生は魂が向上するための場だという捉え方をすることがコースの学びを深めるうえで有益なことは確かです。

自分のことを一者である神の子だと認識するのは困難だとしても、身体を去ったあとも存続する魂と考えることは自分が神のひとり子だと認識するのに比べて容易なはずです。

魂が自分の本質だという認識を持つなら、この世界は、魂が身体という仮面、人を使って個々の魂が抱えるテーマを演じる劇の舞台だと捉えられます。

魂にとっては、身体は魂が抱えるカルマを清算したり、課題を学習して成長するために使う道具でしかないし、この世界での人生は、いっときだけ入場して目的を終えたら退場する場、役者にとっての舞台、多様な体験を楽しみたい人にとってアミューズメントパーク、生徒にとっての学校のようなものでしかありません。

仮初の舞台でしかないので、その場に求められる役目を果たすなら、どんな設定でも組み込むことができます。

舞台上に人として登場する各魂の演じるキャラクターたちには人生劇場で演じるべき役柄が割り当てられていて、人生で関わりあうキャラクターを演じる魂たちは、上演前に各自が自らの課題を達成するために舞台で演じることになる相互の役割に同意しています。

殺人事件の加害者と被害者は、それぞれの魂が役柄を脚本通りに演じたということになります。

その魂たちが被害者となること、加害者となることで果たすべき役割にはさまざまなものがありうるでしょう。

さらには、この世界のほかの魂たちに学びの機会を提供するためにその出来事が起こるよう魂たちが計画したということもあるでしょう。

さらには、この世界で私たちの生きる人生自体が、この世に生きる他の魂だけでなく、あの世で待機している無数の魂たちに見られ、追体験されることで、この世界に身体として参加しない魂が経験を共有して学ぶ教材としての劇のひとつである可能性もあるでしょう。

物語において、主人公が成長し活躍するうえで、敵役、ライバル、悪役の存在は不可欠です。

映画やドラマの登場人物で悪役を憎々しく演じきった役者は称賛されます。彼は、自らの役割を全うしたのであり、それによってその物語は花開いて多くの人に感動を与え魂を揺さぶることができたといえます。

歴史を振り返るまでもなく、人は、イエスマンばかりの味方に囲まれてぬくぬく惰眠をむさぼっている暮らしによってよりも、敵や害悪や病いといった厄災によって自らの真の課題に気づき、自分の殻を打ち破り、自分を磨いて大きな成長を遂げることは否めない事実です。

小説や映画では、主人公に感情移入している間は、憎たらしく感じる悪役ですが、ドラマを見終えると、悪役がいい芝居をしたからこそよい作品になったと評価します。

私たちも、人生を終えてあの世に帰ってから、自分も敵も役割を演じきっていただけで、それによって各自が魂の糧を得ることができたのだと気づいてお互いに感謝するのかもしれません。

私たちが自分に害を加えた加害者を許せないのは、人生がドラマで自分はドラマを演じている登場人物ではなく、エゴと身体こそが自分だと本気で信じている、つまり、ドラマの主人公になりきっている状態にあるからです。

同じ被害に遭った人が地球の裏側の別の時代にいたという話を聞いても、他人事として捉えて、ドラマでの出来事のように聞き流すことができます。つまり、被害感情が湧いて加害者を許せないと感じるときは、当然ながら必ず、自分が特定の身体を持つ誰それだというアイデンティティーに囚われていることが基盤です。

つまり、①罪が幻想で実在しないと認識できない最大の要因は、特定のアバターとの自己同一化にあるわけです。

他人事として捉えられることなら、どんなに理不尽で、自分事であったなら絶対に許せないことでも、幻想だと捉えることが比較的可能です。

レッスン134「私がありのままに赦しを知覚できますように」では、他者が犯した罪だと思っていることに関して、もしそれをしたのが自分だったら?と自分事として考えてみる提案をしています。

「9. There is a very simple way to find the door to true forgiveness, and perceive it open wide in welcome.
 真の赦しにつながるその扉を見つけ、その扉があなたを歓迎して大きく開かれていることに気づくとても簡単な方法があります。

 When you feel that you are tempted to accuse someone of sin in any form, do not allow your mind to dwell on what you think he did, for that is self-deception.
 あなたが自分がいかなる形の罪であれ、誰かを責めたいという誘惑に駆られるのを感じるとき、その人がしたことだとあなたが思っていることに自分の心を執着させないようにしてください。というのも、それは自己欺瞞だからです。

 Ask instead, "Would I accuse myself of doing this?"
 その代わりに、『これをしたのが私だったとして、私は自分自身を責めようとするだろうか』と尋ねてください。」(レッスン134「私がありのままに赦しを知覚できますように」

これは許せない相手を自分に置き換えて、他人事を自分事としてとらえ直す方法です。

この方法と合わせて、これとは逆に、自分事を他人事とみなすこともエゴの束縛の鎖を緩める方法となります。

自分のことを小説や映画の主人公だと考えてみる方法です。

私たちは、自分の経験は自分だけで独り占めしているつもりでいますが、もし私たちが架空のキャラクターで私たちを主人公とするドラマが展開しているのだとしたら、私たちの自己意識であると思っている「私」は、無数の観客や読者となる魂たちに追体験され、究極的には大いなる霊である神の子=神が体験する劇の主人公でしかないということになります。

本当の私たちが神の子であり、この世界で分離した多数の身体の一つひとつに自己同一化してばらばらに生きる状態のほうが錯覚だとしたら、他者は実は自分でもあるので、他人事を自分事と捉えるのは真実に合致することだし、幻の自分だけに自己同一化しているのは自己欺瞞なので、自分が架空の存在だと捉えるのも真実に合致しています。

つまり、赦せない他者の罪は自分のものであり、被害者として自分は実在しないということは真実なので、このように考えるためには、ありのままの真理を受け入れる必要があるだけです。

逆に、私たちがばらばらの存在として実在し、自分は、自分とは隔絶した罪深い他者によって蹂躙される被害者だと捉えることのほうが、無理やり真実に反することを真実だと信じこむことであり、偽りの信念を維持し続けるために、途方もない努力が必要になります。

















テキスト第二十二章

III. Reason and the Forms of Error
三 理性誤りの諸



1. The introduction of reason into the ego's thought system is the beginning of its undoing, for reason and the ego are contradictory.
 エゴの思考システムに理性を導入することが、エゴを取り消す手はじめとなります。というのも、理性エゴは両立しないからです。

 Nor is it possible for them to coexist in your awareness.
 そしてまた、あなたの自覚の中で、理性エゴが共存することも不可能です。

 For reason's goal is to make plain, and therefore obvious.
 なぜなら、理性の目標は簡明にすることによって、明快に理解できるものにすることだからです。

 You can see reason.
 あなたは理性を理解することができます。

 This is not a play on words, for here is the beginning of a vision that has meaning.
 これは言葉遊びをしているわけではありません。というのも、理性を理解することによって、ヴィジョンが意味を持ち始めるからです。

 Vision is sense, quite literally.
 ヴィジョンとは、きわめて文字どおりの意味で、理解する感覚をいいます。

 If it is not the body's sight, it must be understood.
 もしヴィジョンが身体の視覚ではないのなら、ヴィジョンは理解できるものであるはずです。

 For it is plain, and what is obvious is not ambiguous.
 というのは、ヴィジョンは誰にもわかる明白なものであり、明白なものには曖昧さなどないからです。

 It can be understood.
 ヴィジョンは理解できるものです。

 And here do reason and the ego separate, to go their separate ways.
 そして、ここで理性とエゴは分離し、それぞれ別々の道を進むことになります。



2. The ego's whole continuance depends on its belief you cannot learn this course.
 エゴの存亡は、あなたにはこのコースの教えを学ぶことができないというエゴの信念に全面的にかかっています。

 Share this belief, and reason will be unable to see your errors and make way for their correction.
 このエゴの信念を分かち合うなら、理性は、あなたの誤りを見て、誤り修正に進むことができなくなるでしょう。

 For reason sees through errors, telling you what you thought was real is not.
 というのも、理性は、あなたが本当だと思っていたことが本当ではないとあなたに知らせることで、誤りを越えて見通すからです。

 Reason can see the difference between sin and mistakes, because it wants correction.
 理性は、間違いの相違を見分けることができます。なぜなら、理性は修正することを望んでいるからです。

 Therefore, it tells you what you thought was uncorrectable can be corrected, and thus it must have been an error.
 したがって、理性は、あなたが修正不可能だと思っていたことは修正可能であり、それゆえに、それは単なる間違いであったに違いないと教えてくれます。

 The ego's opposition to correction leads to its fixed belief in sin and disregard of errors.
 エゴは修正に対して抵抗して、を固く信じ、誤りを無視するように仕向けます。

 It looks on nothing that can be corrected.
 エゴは、修正可能なものには何ひとつ目を向けようとはしません。

 Thus does the ego damn, and reason save.
 このようにして、エゴは罰し、理性は救います。

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3. Reason is not salvation in itself, but it makes way for peace and brings you to a state of mind in which salvation can be given you.
 理性それ自体は救いではありません。しかし、理性は平安への道を拓き、あなたが救いを与えてもらえる心境へとあなたを運んでくれます。

 Sin is a block, set like a heavy gate, locked and without a key, across the road to peace.
 とは、平安に至る道を塞ぐ障害であり、鍵の抜かれた錠前のかかった重厚な門扉のようなものです。

 No one who looks on it without the help of reason would try to pass it.
 理性の助けなしにその扉を見る者は誰も、そこを通り抜けようとは思いません。

 The body's eyes behold it as solid granite, so thick it would be madness to attempt to pass it.
 肉眼で見るなら、その扉は堅固な花崗岩のように見えて、あまりに分厚いので、その扉を通り抜けようと試みるのは狂気の沙汰だからです。

 Yet reason sees through it easily, because it is an error.
 しかし、理性はこともなくそんな扉の正体を見破ります。なぜなら、それは誤りだからです。

 The form it takes cannot conceal its emptiness from reason's eyes.
 誤りがどんなを取ろうとも、理性の目には、誤りが空虚で無意味であることを隠し立てできません。



4. Only the form of error attracts the ego.
 エゴは誤りの外観だけに目を奪われます。

 Meaning it does not recognize, and does not see if it is there or not.
 エゴは、誤りが何を意味するのか気づかないし、誤りに意味があるかないかすら、見ようとはしません。

 Everything the body's eyes can see is a mistake, an error in perception, a distorted fragment of the whole without the meaning that the whole would give.
 肉眼で見えるものはすべて間違い、つまり、知覚の誤りであり、その全体が与えてくれるはずの意味を伴わない全体の歪んだ断片なのです。

 And yet mistakes, regardless of their form, can be corrected.
 それでも、間違いは、それがどのようなをとろうとも、修正できます。

 Sin is but error in a special form the ego venerates.
 というのは、単にエゴが崇める特別なをした誤りでしかありません。

 It would preserve all errors and make them sins.
 エゴはあらゆる誤りを保存して、それらをに変えようとします。

 For here is its own stability, its heavy anchor in the shifting world it made; the rock on which its church is built, and where its worshippers are bound to bodies, believing the body's freedom is their own.
 というのも、あらゆる誤りをにすることこそ、エゴが自分の作りあげた移り変わる世界に重い錨を下ろしてエゴそれ自体の安定を図るための基盤だからです。その礎石の上には、エゴの教会が建立され、その教会では、エゴの崇拝者たちが、身体の自由こそが自分たちの自由だと信じて、身体に束縛されることになります。

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5. Reason will tell you that the form of error is not what makes it a mistake.
 理性はあなたに、誤りのがその誤りを間違いたらしめているわけではないと教えてくれます。

 If what the form conceals is a mistake, the form cannot prevent correction.
 もしが隠しているものが間違いだとすれば、その形には修正を妨げることはできません。

 The body's eyes see only form.
 肉眼は形だけを見ています。

 They cannot see beyond what they were made to see.
 肉眼には、肉眼が見るようにと作られたものを通り越しては見ることはできません。

 And they were made to look on error and not see past it.
 肉眼は誤りを見るために作られていて、誤りを越えては見ないように作られているからです。

 Theirs is indeed a strange perception, for they can see only illusions, unable to look beyond the granite block of sin, and stopping at the outside form of nothing.
 肉眼の知覚というものは、実に奇妙な知覚です。というのも、肉眼に見えるのはただ幻想だけで、花崗岩の塊のような罪の向こう側を見ることはできず、無の外側の形を見るところで止まってしまうからです。

 To this distorted form of vision the outside of everything, the wall that stands between you and the truth, is wholly true.
 この歪曲されたヴィジョンの形態にとっては、すべてのものの外側、つまり、あなたと真理との間に立ちはだかる壁こそが、全面的な真理となります。

 Yet how can sight that stops at nothingness, as if it were a solid wall, see truly?
 しかし、無を前にして、それがまるでそれが堅固な防壁であるがごとくに立ち止まってしまう視覚に、どうして真に見ることができるでしょうか。

 It is held back by form, having been made to guarantee that nothing else but form will be perceived.
 肉眼は、形以外は何も知覚しないことを確実にするために作られているので、形によって足止めを食らってしまうのです。



6. These eyes, made not to see, will never see.
 そもそも見ないために作られているこのような肉眼は、決して見えるようにはなりません。

 For the idea they represent left not its maker, and it is their maker that sees through them.
 というのは、肉眼が描写する想念はその作り主を離れてはいないし、肉眼を通して見ているのはその作り主だからです。

 What was its maker's goal but not to see?
 肉眼の作り主の目標は、ただ見ないということ以外の何であったでしょうか。

 For this the body's eyes are perfect means, but not for seeing.
 肉眼はこの見ないという目標のためには申し分のない手段ですが、見るための手段にはなりません。

 See how the body's eyes rest on externals and cannot go beyond.
 いかに肉眼が外面で止まってしまって、それを越えて進むことができないか、その様を見てください。

 Watch how they stop at nothingness, unable to go beyond the form to meaning.
 いかに肉眼が無を前にして止まってしまい、形を越えてその向こう側にある意味にまで到達できないか、じっくりと観察してみてください。

 Nothing so blinding as perception of form.
 形を知覚することほど、物事の本質を見えなくさせるものはありません。

 For sight of form means understanding has been obscured.
 というのも、形が見えているということは、理解が曇らされたことを意味しているからです。

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7. Only mistakes have different forms, and so they can deceive.
 ただ間違いだけが多様な形を持ち、だからこそ、間違いは欺くことができるのです。

 You can change form because it is not true.
 形は真実ではないので、あなたは形を変えることができます。

 It could not be reality because it can be changed.
 形は変えられるので、形は現実ではありえません。

 Reason will tell you that if form is not reality it must be an illusion, and is not there to see.
 もし形が現実ではないのなら、形は幻想に違いなく、見えているのは錯覚だと理性が教えてくれます。

 And if you see it you must be mistaken, for you are seeing what can not be real as if it were.
 だから、もしあなたが形を見ているのなら、あなたは勘違いしているに違いありません。なぜなら、あなたは本物ではありえないものをまるで本物であるかのように見ているからです。

 What cannot see beyond what is not there must be distorted perception, and must perceive illusions as the truth.
 そこに存在しないものを越えて見ることができない肉眼の視覚は歪んだ知覚であるに違いないので、必ず幻想のことを真理として知覚してしまいます。

 Could it, then, recognize the truth?
 そうだとすれば、そんな肉眼に真理を見分けることなどできるでしょうか。



8. Let not the form of his mistakes keep you from him whose holiness is yours.
 誰かの犯した間違いの形に惑わされて、その人を自分から遠ざけたままにしてはなりません。彼の神聖さはあなたの神聖さだからです。

 Let not the vision of his holiness, the sight of which would show you your forgiveness, be kept from you by what the body's eyes can see.
 あなたに自分が赦されていることを見せてくれる彼の神聖さのヴィジョンが、肉眼で見えるものによって、あなたから隠されてしまわないようにしなさい。

 Let your awareness of your brother not be blocked by your perception of his sins and of his body.
 兄弟の罪と身体についての自分の知覚によって、あなたが兄弟を正しく認識するのを妨げられないようにしなさい。

 What is there in him that you would attack except what you associate with his body, which you believe can sin?
 あなたが兄弟を攻撃したくなる事柄が存在するとすれば、それは、罪を犯すことができるとあなたが信じている彼の身体に関連するものだけなのではないでしょうか。

 Beyond his errors is his holiness and your salvation.
 彼の数々の誤りを越えたところに、彼の神聖さとあなたの救済があります。

 You gave him not his holiness, but tried to see your sins in him to save yourself.
 あなたは、彼に彼のものである神聖さを与えずにおいて、自分自身を救おうとして自分の罪を彼の中に見ようとしていたのです。

 And yet, his holiness is your forgiveness.
 けれども、彼の神聖さこそがあなたの赦しなのです。

 Can you be saved by making sinful the one whose holiness is your salvation?
 その人が神聖であることがあなたの救いだというのに、彼を罪深い者にすることによって、あなたが救われることなどできるでしょうか。

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9. A holy relationship, however newly born, must value holiness above all else.
 いかに新たに生まれたばかりであろうとも、神聖な関係は必ず、何にもまして神聖さに価値を置きます。

 Unholy values will produce confusion, and in awareness.
 不浄な価値感は、意識の中に混乱を生み出してしまいます。

 In an unholy relationship, each one is valued because he seems to justify the other's sin.
 不浄な関係においては、お互いが相手の罪を正当化するように思えるがゆえに、各自に価値が置かれます。

 Each sees within the other what impels him to sin against his will.
 各自が相手の中に、自らの意志に反して自分を罪に駆り立てる何かを見ています。

 And thus he lays his sins upon the other, and is attracted to him to perpetuate his sins.
 こうして、彼は自分の罪を相手になすりつけて、自分の罪を永続させるために相手に引きつけられることになります。

 And so it must become impossible for each to see himself as causing sin by his desire to have sin real.
 そうなると、罪を本物にしたいという自らの願望によって罪を引き起こしているのが自分自身だと気づくことは双方にとって不可能になってしまうに違いありません。

 Yet reason sees a holy relationship as what it is; a common state of mind, where both give errors gladly to correction, that both may happily be healed as one.
 しかし、理性は神聖な関係をありのままに見ます。すなわち、理性は、神聖な関係とは、関係の当事者双方がひとつのものとして幸せに癒されるように、ふたり揃って誤りを喜んで修正に差し出す心の通じ合った状態として見るのです。


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理性誤り間違いエゴヴィジョン修正肉眼視覚

Comments 2

Kino

10

kenさんこんにちは。今日のテクスト、"理性"という語が聖霊側(?)の文脈で使われていて幾分意外でした。"理性"は価値判断や誤りを生み出す知覚エゴ側で書かれているような他の小論が頭にあったからかもしれません。概念単語の定義は書物ごとに差異がありますね。

ともあれ、肉眼知覚の当てにならなさは私もよくよく感じるので、ヴィジョンに到達できるよう精進したいと存じます。いつも有難うございます!

2014-09-22 (Mon) 13:49 | EDIT | REPLY |   

 ken

Re: 10


Kinoさん

いつもありがとうございます。
そうですね。リアリティー・トランサーフィンなどでは、理性と魂というような用語法で訳されているので、「理性」が聖霊側の用語として出てくると混乱してしまいますよね。

reasonの訳としては、理由、道理、理性、思考力、判断力、分別、良識、正気等があります。

簡単に言えば、価値判断する力に属する精神作用です。

奇跡のコースでは、真の価値判断をなす能力は聖霊のみが備えているのであって、「正気」ではないエゴには真の価値判断をすることはできないとします。

ですので、エゴとしての私たちが狭い了見でなす判断をいう理性ではなく、正気の価値判断というニュアンスで捉えると聖霊側の用語であることについての違和感は小さくなるかと思います。

2014-09-22 (Mon) 18:23 | EDIT | REPLY |   

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