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There Is No Spoon

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T26-10 不正の終わり


今回は、テキスト第二十六章から不正の終わりという一節をご紹介します。




前節までに、他者との間に保とうとする隔たりが時間と空間を生み出し、キリストの顔に影を落として、キリストの顔を見えなくして神を思い出せなくするということが語られました。

本節では、私たちがこの隔たり、影を取り除いて、キリストと神が臨在することに気づくためになすべきことが語られます。

それは、攻撃正当化される場合と攻撃不正で許されない場合とがあり、両者を区別することが自分にはできるという観点、ものの見方を取り消すことです。

というのも、この見方が、本当は同じであるものを違うように見えるように、すなわち、本当は同じ神のひとり子キリストであるのに、実在の不在である影でしかない人間というアバター、着ぐるみを被せて覆い隠すことによって、別のものであるように見える混乱を引き起こしているわけだからです。

特定の場合には攻撃は不当だが、特定の場合には攻撃が正当となるという実例を私たちはいくらでも思い浮かべることができるし、それを正当化するもっともな理屈もいくらでも説明できます。

攻撃正当化される本質的な根拠は、不公正な形で害悪がもたらされる場合に、その不正な害悪によって生じたへこみを、攻撃により同じ害悪をもたらすことによって埋め合わせることが公正だという観念です。

したがって、私たちは、世の中には許されざる不正があり、それは被害者に対する攻撃であり、この不正を正すためには同害報復として攻撃で返してバランスを回復させる必要があると考えているわけです。

つまり、不正と攻撃はイコールであり、不正あるところには攻撃ありで、悪としての攻撃に対して善としての攻撃でもって報いるということです。

しかし、不正も攻撃も錯覚であるとしたら、攻撃を正当化する余地はないことになります。

不正と攻撃は、個別の自己の存在を前提とする犠牲という観念を基盤にしています。

個別の自己があるというのが錯覚だとしたら、誰かの利益のために誰かが不利益を被って不公正な扱いを受けることはありえず、不正と攻撃はどちらも実在せず、攻撃を正当化する余地はなくなります。

私たちが自分が人間だと思い込んでいる自分の観点で見ているかぎり、個別の自己があるということが錯覚だということはいつまで経ってもわかりません。

「我思う。ゆえに我あり」という命題は、あらゆる疑念をそぎ落として最後に残った疑いようのない真理であると言われれば、私たちはその通りだと同意します。

けれど、この命題自体、つまり、「私」現象がみんなの心で起こっていて「私」がいるということそのものは確かだとしても、その際に「私」が本当にある自分だと思っている「私」が本当の自分であるかどうかは、この命題からは何も論証できません。

というのも、神の子の無能化というテーマについてたびたび触れていますが、万能でありすべてでもある存在が(人間がVR空間内の豚のアバターに自己同一化できるように)自分を無能ですべてのうちの一部である存在へと減縮して、その卑小な存在を自分だと信じ込むことはいくらでも可能であり、無能になり全体の一部になり下がったけれど、自意識だけは保った状態で、「私が現にこうして考えているということは、私は存在しているのであり、存在している私とは、他者とは分離した身体と身体の頭脳で思考する心を持つ孤立した存在であり、それだけは間違いない!」と宣言したとしても、それはまったく正しい自己認識ではないからです。


「When you threw knowledge away it is as if you never had it.
 あなたが知識を捨て去ってしまったとしたら、あなたはまるで一度も知識を持ったことがないような状態になってしまうはずです。

 This is so apparent that one need only recognize it to see that it does happen.
 これは本当にわかりきった明白なことなので、誰でもただこのことに気づきさえすれば、それが現に起こっていることなのだとわかるはずです。

 If this occurs in the present, why is it surprising that it occurred in the past?
 もし知識を捨て去って自分がかつて知識を持っていたことを忘れ去ってしまうという現象が現在も起こっているのなら、同じことが過去に起こっていたとしても、驚くには値しないはずです。

 Surprise is a reasonable response to the unfamiliar, though hardly to something that occurs with such persistence.
 未知の出来事について驚くのは当然の反応ですが、ずっと繰り返し起こり続けていることに対して驚くのは、とても当然の反応とはいえません。」(T4-2 エゴの起源

個別の自己が錯覚であるという話題が長引いて少し脱線しかけていますが、私たちが自分を現に個別の人間として実感しているという感覚は、仮に信用することにしてみるにしても、それには幻覚程度の信頼性しか与えられないと思ってよいでしょう。

それよりも、空間という隔たりによって自分たちが分離しているつもりでいるとしても、血液の中の赤血球同士が別々の生き物ではなく、同じひとりの人間を構成する一部であるように、空気に満たされた空間内を水の中を泳ぐ魚たちのように自由に移動できているから別の分離した存在だというように素朴に信じてしまう能天気さに気づき、そんなことを本気で信じるほうが愚かな錯覚というべきなのかもしれないという天邪鬼的な発想が大切でしょう。

体内の赤血球たちが「他人同士」ではなく同じひとりの人間を構成する「兄弟」ないしそれよりも近しいお互いに「自分自身」というべき存在であるように、私たちも身体が分離しているように見えているだけで同一の存在であり、個別の自己が錯覚だとしたら、全体の一部の局面だけを切り取って、不正と知覚して、犠牲を払った被害を回復するために攻撃を手段にして正当化しようとすることは、無自覚ながら、本当の自分である神の子を攻撃する自分で自分に対して不当な仕打ちをしていることになります。

というのも、本当は分離していない部分を切り取って分離が実在するものとして攻撃の応酬を継続させることは、神の子がありのままの真の姿でいることを許さず、神の子が自分の一部(である私たち攻撃者)からも親である神からも愛されることを犠牲に差し出すよう求めることだからです。

だから、私たちがどこかに不正があることを見咎めるときには、つぎのように自分に言い聞かせる必要があります。

6.「"By this do I deny the Presence of the Father and the Son.
私が不正を知覚することで、私は、父と子の臨在を否定してしまう。

And I would rather know of Them than see injustice, which Their Presence shines away."
だから、私は不正を見るよりも、彼らのことを知りたいと思う。そんな不正など、彼らの臨在が光で消し去ってしまうのだから。」





テキスト第二十六章

X. The End of Injustice   
十 不正の終わり



1. What, then, remains to be undone for you to realize Their Presence?
 それでは、あなたが神と神の子の臨在に気づくために、まだ残っていて取り消す必要があるのはいったい何なのでしょうか。

 Only this; you have a differential view of when attack is justified, and when you think it is unfair and not to be allowed.
 それはただ次のことだけです。それは、攻撃正当化されるときと、攻撃不正で許されるべきではないと自分が思うときとを区別できるという見方をあなたが持っていることです。

 When you perceive it as unfair, you think that a response of anger now is just.
 あなたが攻撃不正だと知覚するとき、あなたは今怒りで反応するのは正当なことだと思っています。

 And thus you see what is the same as different.
 こうして、あなたは同じであるものを違ったふうに見てしまいます。

 Confusion is not limited.
 混乱は無制限に起こります。

 If it occurs at all it will be total.
 もし少しでも混乱するなら、混乱は全面的なものになります。

 And its presence, in whatever form, will hide Their Presence.
 そして、いかなる形であろうとも、混乱が存在することは、神と神の子の臨在を隠してしまいます。

 They are known with clarity or not at all.
 彼らは、明快にわかるか、まったくわらないかのいずれかです。

 Confused perception will block knowledge.
 混乱した知覚は、知識を妨げるようになります。

 It is not a question of the size of the confusion, or how much it interferes.
 それは、混乱の規模や、混乱がどれほどの障害になるかという問題ではありません。

 Its simple presence shuts the door to Theirs, and keeps Them there unknown.
 混乱が単に存在すること自体が、神と神の子に通じる扉を閉ざすことになり、そこに彼らを知られることのないままに保つことになります。

名称未設定

2. What does it mean if you perceive attack in certain forms to be unfair to you?
 もしあなたが特定の形での攻撃が自分にとって不正なものだと知覚するとすれば、それは何を意味するでしょうか。

 It means that there must be some forms in which you think it fair.
 それが意味するのは、あなたが正当だと思う何らかの形の攻撃が存在するに違いないということです。

 For otherwise, how could some be evaluated as unfair?
 なぜなら、そうでなければ、別の形の攻撃不正なものと評価することはできないからです。

 Some, then, are given meaning and perceived as sensible.
 そうして、ある形の攻撃には意味が与えられ、分別のあることだと知覚されることになります。

 And only some are seen as meaningless.
 そして、ただ別の形の攻撃だけが無意味だとみなされます。

 And this denies the fact that all are senseless, equally without a cause or consequence, and cannot have effects of any kind.
 そして、このことは、あらゆる攻撃は無意味で、等しく原因も結果もないし、どのような影響も及ぼすことができないという事実を否認することになります。

 Their Presence is obscured by any veil that stands between Their shining innocence, and your awareness that it is your own and equally belongs to every living thing along with you.
 神と子の輝ける潔白さは、自分自身のものであるとともに生きとし生けるものが等しく持っているものだとあなたが自覚するのを妨げるものであれば、どんなヴェールによってでも、神と子の臨在は覆い隠されてしまいます。

 God limits not.
 神が制限するようなことはないからです。

 And what is limited cannot be Heaven.
 それに、制限されているものが天国であるはずがないからです。

 So it must be hell.
 したがって、少しでも罪を認めることは地獄に違いないのです。



3. Unfairness and attack are one mistake, so firmly joined that where one is perceived the other must be seen.
 不正と攻撃とは同一の間違いであり、本当に固く結びついているので、一方が知覚されたところには、必ずもう一方も見られることになります。

 You cannot be unfairly treated.
 あなたが不当に扱われることはありえません。

 The belief you are is but another form of the idea you are deprived by someone not yourself.
 あなたが自分は不当に扱われていると信じているなら、それは単にあなたが自分ではないほかの誰かによって自分のものを奪われていると考えており、その考えが別の形をとっているだけです。

 Projection of the cause of sacrifice is at the root of everything perceived to be unfair and not your just deserts.
 正当ではないとか自分にとって正当な報いではないと知覚されるあらゆることの根底には、犠牲の原因の投影があります。

 Yet it is you who ask this of yourself, in deep injustice to the Son of God.
 しかし、自分自身にこんなことを要求しているのはあなたなのであり、あなたは無意識に、神の子に不当な仕打ちをしているのです。

 You have no enemy except yourself, and you are enemy indeed to him because you do not know him as yourself.
 あなたに自分自身以外にはいないのですが、あなたは自分が神の子だとわかっていないがゆえに、あなたは確かに神の子にとってのなのです。

 What could be more unjust than that he be deprived of what he is, denied the right to be himself, and asked to sacrifice his Father's Love and yours as not his due?
 神の子が自らの真の姿を奪われ、自分自身でいる権利を否定され、父とあなたの愛に値しないとして、父とあなたの愛を犠牲にするよう求められること以上に不当なことがほかにありうるでしょうか。

名称未設定

4. Beware of the temptation to perceive yourself unfairly treated.
 自分が不当に扱われていると知覚したくなる誘惑に注意してください。

 In this view, you seek to find an innocence that is not Theirs but yours alone, and at the cost of someone else's guilt.
 自分が不当に遇されているという見方をしていると、あなたは、ほかの誰かに罪悪感を抱かせるという代償を払って、神と子のものではない自分だけの潔白さを見つけようとすることになります。

 Can innocence be purchased by the giving of your guilt to someone else?
 あなたの罪悪感をほかの誰かに渡すことによって潔白さを買収することなどできるでしょうか。

 And is it innocence that your attack on him attempts to get?
 そして、あなたが神の子を攻撃してまで手に入れようとしているのは、本当に潔白さなのでしょうか。

 Is it not retribution for your own attack upon the Son of God you seek?
 あなたが求めているのは、自分が神の子を攻撃したことに対する天罰なのではないでしょうか。

 Is it not safer to believe that you are innocent of this, and victimized despite your innocence?
 そうなると、自分はこのような罪を犯していないし、自分は潔白であるにもかかわらず罪を着せられたのだと信じるほうが安全だということにならないでしょうか。

 Whatever way the game of guilt is played, there must be loss.
 どのような方法で罪悪感をなすり付け合うことを競おうとも、必ず損失が伴います。

 Someone must lose his innocence that someone else can take it from him, making it his own.
 誰かがほかの誰かから潔白さを奪い取って自分のものにするためには、必ず誰かが自らの潔白さを失う羽目になるからです。



5. You think your brother is unfair to you because you think that one must be unfair to make the other innocent.
 あなたは、誰かが潔白であるためには、ほかの誰かが不公平に扱われなければならないと考えるので、あなたは兄弟が自分に不当な仕打ちをしていると思っています。

 And in this game do you perceive one purpose for your whole relationship.
 そして、こんな駆け引きをすることで、あなたは自分が関わるすべての関係についてひとつの目的を知覚するようになります。

 And this you seek to add unto the purpose given it.
 そして、あなたは、すでに関係性に授けられている目的に、この目的を付け加えようとします。

 The Holy Spirit's purpose is to let the Presence of your holy Guests be known to you.
 聖霊の目的は、あなたの聖なる賓客があなたの許に訪れていることをあなたに知らせることです。

 And to this purpose nothing can be added, for the world is purposeless except for this.
 そして、この目的には何も付け加えることはできません。というのも、この世界には、これ以外にいかなる目的もないからです。

 To add or take away from this one goal is but to take away all purpose from the world and from yourself.
 この唯一の目標に何かを付け加えたり、取り去ったりすることは、この世界とあなた自身から、すべての目的を取りあげることになるだけです。

 And each unfairness that the world appears to lay upon you, you have laid on it by rendering it purposeless, without the function that the Holy Spirit sees.
 そして、この世界があなたに押しつけてくるように思える不公平な物事はことごとく、この世界を聖霊が見ている役目を持たない無目的なものにしようとすることによって、あなたが自分でこの世界に押しつけたものなのです。

 And simple justice has been thus denied to every living thing upon the earth.
 こうして、この地上の生きとし生けるものに対する単純な正義が否認されてきたのです。

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6. What this injustice does to you who judge unfairly, and who see as you have judged, you cannot calculate.
 不公平な判断を下して自分が判断した通りに見るあなたに対して、この不正がどんな影響を及ぼすことになるのか、あなたには見当もつきません。

 The world grows dim and threatening, not a trace of all the happy sparkle that salvation brings can you perceive to lighten up your way.
 この世界はだんだん薄暗く恐ろしい場所になってゆき、救いがもたらす幸せの煌きで自分の道を照らそうにも、あなたにはその跡形も知覚できなくなります。

 And so you see yourself deprived of light, abandoned to the dark, unfairly left without a purpose in a futile world.
 だから、あなたは自分自身のことを、光を奪われて闇の中に捨てられて、不当にも不毛な世界に目的もないままに置き去りにされた者とみなすことになります。

 The world is fair because the Holy Spirit has brought injustice to the light within, and there has all unfairness been resolved and been replaced with justice and with love.
 しかし、この世界は公平です。なぜなら、聖霊が不正を内なる光へともたらし、そこで不公平なことはすべて解消され、正義と愛に置き換えられているからです。

 If you perceive injustice anywhere, you need but say:
 もしあなたがどこかに不正を知覚するなら、あなたただ次のように言えばよいのです。


"By this do I deny the Presence of the Father and the Son.
私が不正を知覚することで、私は、父と子の臨在を否定してしまう。

And I would rather know of Them than see injustice, which Their Presence shines away."
だから、私は不正を見るよりも、彼らのことを知りたいと思う。そんな不正など、彼らの臨在が光で消し去ってしまうのだから。


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