T21-6 理性 対 狂気


己れを知らざることや、知らぬことを知っているように空想して知っていると思いこむことは、狂気にもっとも近い。

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クセノフォン



狂気に陥った人や眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。しかし、私たちはみんな、多かれ少なかれ狂っており、程度の差はあれ眠っているのであるから、世界を客観的に見ることができない。いいかえれば、ナルシシズムによって歪められた世界を見ている。

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Erich Fromm
エーリッヒ・フロム(「愛するということ」)




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今回はテキスト第二十一章から「理性 対 狂気」という一節をご紹介します。



「狂気」という言葉にドン引きしないようにしましょう!

今の時代、一般の書物で正面切って「狂気」という言葉を用いる本はまずありません。

たとえ対象として狂気を取り扱うことを避けられない心理学や精神医学の分野の書籍でも、極力より穏当な表現が用いられています。

このような時代に生きる私たちからすると、「狂気」「気が狂っている」「妄想」等々の言葉が満載の奇跡のコースをはじめて読むと、強烈な違和感を覚え、人によっては拒絶反応を示すことになります。

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コースは1970年代に生まれた本なので、時代背景的に今とは言葉に関する感覚がかなり相違しているのは事実でしょうが、自らが幻想世界が確固たる現実であると信じ込む「狂気」に陥っていることを読者に気づかせるためには、もってまわった婉曲的な表現で説明をするよりも、端的に直接的なラディカルな表現で伝えることが効果的なことは否定できないでしょう。

このように、用語の面では直接的に容赦のない言葉が用いられているのは確かですが、内容的には、強烈な拒絶反応が出ないよう、かなり噛み砕いて本当に多角的に少しずつ理解が進むよう十分な配慮をして、イェシュアは優しく言葉を尽くして説明してくれているということができます。

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ですので、ドン引きせずに私たちのほうも、自分たちの「狂気」をゆっくりと目を背けずに受け入れるようにしましょう(笑)。


理性(聖霊)と狂気(エゴ)

では、内容に入りましょう。

理性は聖霊の用いる手段であり、主語として「理性」が用いられている箇所は、理性を聖霊と置き換えて読んでかまいません。

他方、狂気はエゴの手段であり、エゴは狂気そのものです。




解離性同一性障害を患って、無数の副人格たちが、身体を所有する主人格の座を巡って争いを繰り広げていたり、はたらく細胞の細胞たちが、ばらばらに自分独自の権利を主張しはじめて、右手の細胞たちが一致団結して、貴族の目玉が贅沢三昧をしていると思い込んで、目玉を攻撃して成敗する計画を企んでいる状態は狂気の沙汰です。


彼ら分裂した個である副人格や細胞たちにとっては、敵とみなしている主人格や目玉その他の人体組織が自分たちと結ばれた一体の関係にあるという真理は、絶対に認めることのできない恐怖の贈り物であり、これが真実である可能性を少しでも容認することは自分たちの足を引っ張る重荷でしかありません。

しかし、敵だと思いたがっている相手が実は自分の一部であることが真実であることは変えようがない真理だし、副人格や癌化した細胞たちが苦しんでいるのは、この真理を否認して分離幻想を真実だと誤解して自分自身を幽閉しているせいだというのが事実です。

したがって、彼らが真に幽閉状態から解放されるかどうかは、彼らが自分たちが偽りを信じて自分自身を攻撃して苦しめていたことに気づいて、真理を認めて自分たちを自由にすることを望むことができるかどうかにかかっています。





神を侮るなかれ

11.では"God is not mocked; "が出てきます。

T1-5 完全さと霊、4.でも "God is not mocked" is not a warning but a reassurance."という文章で出てきました。

これは、ガラテヤ信徒への手紙の6章7節の一文です。

英語版によってKing James Bible等では、"God is not mocked; "、New International Version等では、"God cannot be mocked."と英訳されています。


ガラテヤ信徒への手紙6章7節の文章はつぎのとおりです。

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"Do not be deceived: God cannot be mocked. A man reaps what he sows."
神を欺けるなどと思い違いしてはならない。人は自らが蒔いた種を刈り取るのだ。


本節では、
「God is not mocked; no more his Son can be imprisoned save by his own desire.
 神を騙すことはできません。同じように、神の子も、本人自らがそう望む場合を除いては、幽閉されることはできません。」
という形でこの聖句の前半"God cannot be mocked. "がはめこまれて用いられています。

"God cannot be mocked. "は、有名な「人は自らが蒔いた種を刈り取る」のひとつ前の文です。

神を侮るなかれと訳されることが多いですが、ガラテヤ6章7節の前後の文脈的には、よきものを分かち合うべしという流れでこの文章が来て、身体の利益を図ろうとする者は滅び、霊のために生きるなら永遠の生命を得るという文に続くので、エゴ・身体の利益を図ろうとするなら滅亡の道を歩むことになるだけなので、神を騙せるなどと思い違いしないことだ、という趣旨となります。

なので、文意としては、上の訳文のような意味になります。

この解釈を踏まえると、T1-5 完全さと霊、4の文章の意味がよりよく理解できます。

「 "God is not mocked" is not a warning but a reassurance.
 "God is not mocked"とは、『神を侮ることなかれ』という戒めではなく、『神が欺かれることはない』と安心させるための言葉です。

 God would be mocked if any of his creations lacked holiness.
 もし神の創造物たちの一部であれ、神聖さに欠けていたとすれば、神は侮られることになるでしょう。」


私たちはひとつの心で結ばれている

前節T21-5 理性の働きの3.で個々の心は、本当はひとつに結ばれており、分離して隔絶した心同士が影響を及ぼし合うのではなく、ただひとつの心が自分に影響を及ぼすだけだという仕組みが述べられました。

「Miracles seem unnatural to the ego because it does not understand how separate minds can influence each other.
 エゴには、奇跡が不自然なものに見えます。なぜなら、エゴは、どのようにして分離している個々の心がお互いに影響し合うことができるのか理解できないからです。

 Nor could they do so.
 たしかに個々の分離した心には、相互に影響し合うことはできません。

 But minds cannot be separate.
 そうではなくて、そもそも心が別々に分離していること自体がありえないのです。

 This other self is perfectly aware of this.
 このもうひとつの自己は、このことを完全に自覚しています。

 And thus it recognizes that miracles do not affect another's mind, only its own.
 したがって、この自己は、奇跡は他者の心に影響を及ぼすのではなくて、ただ自らの心に影響するだけだと気づいています。

 There is no other.
 ほかの心など存在しないからです。」

本節2.以下では、この仕組みを敷衍(「ふえん」 意味・趣旨をおし広げて説明すること。例などをあげて、くわしく説明すること)して私たちのアイデンティティーについて語られます。

2.「Sin would maintain you must be separate.
 罪は、あなたたちは別々に分離しているに違いないと言い張るでしょう。

 But reason tells you that this must be wrong.
 しかし、理性がそんなことは間違いに違いないと教えてくれます。

 If you are joined, how could it be that you have private thoughts?
 もしあなたたちがひとつに結ばれているなら、どうしてあなたが自分だけの私的な思いを抱くことができるでしょうか。

 And how could thoughts that enter into what but seems like yours alone have no effect at all on what is yours?
 それに、もしあなたたちがひとつに結ばれているなら、ただあなただけの私的な心であるように思えるものの中に入りこむ思いが、どうしてあなたたちのひとつに結ばれた心に何の影響も及ぼさずにいられるでしょうか。

 If minds are joined, this is impossible.
 もし心と心がひとつに結ばれているのであれば、そんなことは不可能です。」


6.「Yet think not this is fearful.
 ただし、このことを恐ろしいことだと思わないことです。

 That you are joined to him is but a fact, not an interpretation.
 あなたが彼とひとつに結ばれていることは単なる事実であって、解釈することではないからです。

 How can a fact be fearful unless it disagrees with what you hold more dear than truth?
 事実が恐ろしいものになりうるとすれば、それは、事実と相違するものをあなたが真理よりも大切にしている場合だけです。

 Reason will tell you that this fact is your release.
 理性は、あなたと兄弟がひとつに結ばれているというこの事実こそがあなたの解放なのだと教えてくれます。」





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テキスト第二十一章

VI. Reason versus Madness
六 理性 対 狂気



1. Reason cannot see sin but can see errors, and leads to their correction.
 理性に罪は見えませんが、誤りは見えるので、理性は誤りを修正するように導きます。

 It does not value them, but their correction.
 理性は誤りに価値を置くことはなく、誤りの修正に価値を置きます。

 Reason will also tell you that when you think you sin, you call for help.
 理性はまた、あなたが自分は罪を犯したと思うとき、あなたは助けを求めているのだと教えてくれます。

 Yet if you will not accept the help you call for, you will not believe that it is yours to give.
 ところが、もしあなたが自分の求めている助けを受け入れようとしないなら、あなたは、与えるために自分に助けが与えられているとは信じないでしょう。

 And so you will not give it, thus maintaining the belief.
 そうして、あなたは助けを与えようとはしないので、自分は罪を犯して救われないと信じ続けることになります。

 For uncorrected error of any kind deceives you about the power that is in you to make correction.
 というのは、それが修正されないかぎり、どのような誤りも、自分の中に修正する力があるとわからなくなるように、あなたを欺いてしまうからです。

 If it can correct, and you allow it not to do so, you deny it to yourself and to your brother.
 もし、あなたの力には修正ができるのに、あなたがその力を発揮することを許さないとしたら、あなたは修正する力を自分自身にも兄弟にも否定することになります。

 And if he shares this same belief you both will think that you are damned.
 そして、もし兄弟もあなたと同じ信念を分かち合うなら、あなたたちはふたりとも、自分たちは呪われて地獄に落とされているのだと思いこんでしまうでしょう。

 This you could spare him and yourself.
 あなたは、兄弟と自分自身をこんな目に遭わせずに済ませられたはずなのです。

 For reason would not make way for correction in you alone.
 というのは、理性はあなたひとりだけの中に修正への道を拓くわけではないからです。

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2. Correction cannot be accepted or refused by you without your brother.
 あなたは、兄弟と一緒でなければ、修正を受け入れることも拒むこともできません。

 Sin would maintain it can.
 罪は、あなたひとりだけで修正を受け入れることも拒むこともできると言い張るでしょう。

 Yet reason tells you that you cannot see your brother or yourself as sinful and still perceive the other innocent.
 しかし、理性はあなたに、兄弟か自分自身のどちらか一方を罪深い者とみなしておきながら、もう一方を潔白な者として知覚することはできないと教えてくれます。

 Who looks upon himself as guilty and sees a sinless world?
 いったい誰が自分自身を罪深い者とみなしていながら、罪のない世界を見ることができるでしょうか。

 And who can see a sinful world and look upon himself apart from it?
 それに誰が、罪深い世界を目にしながら、自分のことをその世界から隔絶した存在だと見ることができるでしょうか。

 Sin would maintain you must be separate.
 罪は、あなたたちは別々に分離しているに違いないと言い張るでしょう。

 But reason tells you that this must be wrong.
 しかし、理性がそんなことは間違いに違いないと教えてくれます。

 If you are joined, how could it be that you have private thoughts?
 もしあなたたちがひとつに結ばれているなら、どうしてあなたが自分だけの私的な思いを抱くことができるでしょうか。

 And how could thoughts that enter into what but seems like yours alone have no effect at all on what is yours?
 それに、もしあなたたちがひとつに結ばれているなら、ただあなただけの私的な心であるように思えるものの中に入りこむ思いが、どうしてあなたたちのひとつに結ばれた心に何の影響も及ぼさずにいられるでしょうか。

 If minds are joined, this is impossible.
 もし心と心がひとつに結ばれているのであれば、そんなことは不可能です。



3. No one can think but for himself, as God thinks not without his Son.
 神が神の子を抜きにして思考することがないように、自分自身だけで思考することは誰にもできません。

 Only were both in bodies could this be.
 もしこんなことがありうるとしたら、それはただ両者が別々の身体の中にいる場合だけです。

 Nor could one mind think only for itself unless the body were the mind.
 それに、身体が心であるというのでないかぎり、ひとつの心がそれ自身だけで思考できるはずがありません。

 For only bodies can be separate, and therefore unreal.
 というのは、ただ身体だけが別々に分離していることができるのであり、それゆえに、身体は実在しないものだからです。

 The home of madness cannot be the home of reason.
 狂気の棲家が理性を宿す家となることはできません。

 Yet it is easy to leave the home of madness if you see reason.
 しかし、もしあなたが理性を見出しさえすれば、狂気の棲家を去るのは容易なことです。

 You do not leave insanity by going somewhere else.
 あなたは、どこかほかのところへ行くことによって、狂気の許を去るわけではありません。

 You leave it simply by accepting reason where madness was.
 あなたは単に、かつて狂気のあった場所に理性を受け入れることによって、狂気を脱するだけです。

 Madness and reason see the same things, but it is certain that they look upon them differently.
 狂気も理性も同じものを見ますが、狂気と理性が同じものを違うように見るのは間違いありません。

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4. Madness is an attack on reason that drives it out of mind, and takes its place.
 狂気とは理性を攻撃することであり、理性を心から追い出して理性に取って代わります。

 Reason does not attack, but takes the place of madness quietly, replacing madness if it be the choice of the insane to listen to it.
 理性は攻撃などせずに、もし狂気に陥った者が理性に耳を傾けることを選ぶなら、狂気に取って代わって、ただ静かに狂気の占めていた場所を引き取るだけです。

 But the insane know not their will, for they believe they see the body, and let their madness tell them it is real.
 ところが、狂気の者には、自分が何をしたいのか自分の意志がわかっていません。というのも、狂気の者たちは、自分には身体が見えると信じていて、自らの狂気が身体は実在すると自分に告げるのを容認しているからです。

 Reason would be incapable of this.
 理性には、このようなことはできません。

 And if you would defend the body against your reason, you will not understand the body or yourself.
 だから、もしあなたが自分の理性に逆らって身体を守ろうとするなら、あなたは身体のことも自分自身のことも理解できなくなってしまうでしょう。



5. The body does not separate you from your brother, and if you think it does you are insane.
 身体はあなたを兄弟から分離させてはいません。だから、もしあなたが身体が自分と兄弟を分離させていると思うなら、あなたは気が狂っているのです。

 But madness has a purpose, and believes it also has the means to make its purpose real.
 しかし、狂気は目的を持っており、狂気は自らの目的を実現する手段もまた自分は持っていると信じています。

 To see the body as a barrier between what reason tells you must be joined must be insane.
 理性が告げるようにひとつに結ばれているに違いないあなたと兄弟たちとの間を妨げる障壁として身体を見ることは、狂気の沙汰に違いありません。

 Nor could you see it, if you heard the voice of reason.
 それに、もしあなたに理性の声が聞こえていたら、あなたにはそんな障壁など見えないはずです。

 What can there be that stands between what is continuous?
 いったい何が、途切れることなく続いているものの間に立ちはだかることができるでしょうか。

 And if there is nothing in between, how can what enters part be kept away from other parts?
 それに、もしそれらの間に何も存在しないのであれば、その一部に入りこむものを、どうやってほかの部分に入らないように引き離しておけるでしょうか。

 Reason would tell you this.
 理性がこのことをあなたに教えてくれるでしょう。

 But think what you must recognize, if it be so.
 そこで、もし理性の言うとおりだとしたら、あなたは何を認めるべきか考えてみてください。

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6. If you choose sin instead of healing, you would condemn the Son of God to what can never be corrected.
 もしあなたが癒しの代わりに罪を選ぶなら、あなたは神の子に、絶対に修正できないことについて咎める有罪判決を宣告しようとしているのです。

 You tell him, by your choice, that he is damned; separate from you and from his Father forever, without a hope of safe return.
 あなたは彼に、あなたの選択によって、彼は呪われて地獄へと落されるのであり、あなたや彼の大いなる父から永遠に引き離されて、無事に戻ってこられる望みなどないと告げているのです。

 You teach him this, and you will learn of him exactly what you taught.
 あなたは彼にこんなことを教えているのだから、あなたは自分が教えたことをそっくりそのまま彼から学ぶことになります。

 For you can teach him only that he is as you would have him, and what you choose he be is but your choice for you.
 というのは、あなたは自分が彼にこうあってほしいと望む姿しか彼に教えることができないし、あなたが選ぶ彼の姿は自分についてあなたが選ぶ姿にほかならないからです。

 Yet think not this is fearful.
 ただし、このことを恐ろしいことだと思わないことです。

 That you are joined to him is but a fact, not an interpretation.
 あなたが彼とひとつに結ばれていることは単なる事実であって、解釈することではないからです。

 How can a fact be fearful unless it disagrees with what you hold more dear than truth?
 事実が恐ろしいものになりうるとすれば、それは、事実と相違するものをあなたが真理よりも大切にしている場合だけです。

 Reason will tell you that this fact is your release.
 理性は、あなたと兄弟がひとつに結ばれているというこの事実こそがあなたの解放なのだと教えてくれます。



7. Neither your brother nor yourself can be attacked alone.
 あなたの兄弟もあなた自身も、単独で攻撃されることはできません。

 But neither can accept a miracle instead without the other being blessed by it, and healed of pain.
 しかし、反対に、奇跡によって相手も祝福されて苦痛を癒されるのでなければ、ふたりとも奇跡を受け入れることはできません。

 Reason, like love, would reassure you, and seeks not to frighten you.
 愛と同じように、理性は、あなたを安心させようとするのであって、怖がらせようとはしません。

 The power to heal the Son of God is given you because he must be one with you.
 神の子を癒す力があなたに与えられているのは、神の子があなたとひとつのものであるに違いないからです。

 You are responsible for how he sees himself.
 あなたには、彼が自分自身をどのように見るかについて責任があります。

 And reason tells you it is given you to change his whole mind, which is one with you, in just an instant.
 そして、理性はあなたに、あなたとひとつのものである彼の心全体を、ほんの一瞬のうちに変える力があなたに授けられていると教えてくれます。

 And any instant serves to bring complete correction of his errors and make him whole.
 そして、いかなる瞬間も、彼の間違いに完全な修正をもたらして、彼を完全にする作用を持つ一瞬となりうるのです。

 The instant that you choose to let yourself be healed, in that same instant is his whole salvation seen as complete with yours.
 あなたが自分自身を癒してもらうことを選んだ瞬間、まさにその同じ瞬間に、あなたが救われるのと同時に彼も全面的に救われるのだとわかります。

 Reason is given you to understand that this is so.
 これがその通りだと理解するために、理性はあなたに与えられているのです。

 For reason, kind as is the purpose for which it is the means, leads steadily away from madness toward the goal of truth.
 というのも、理性は、自らがその手段として奉仕する目的と同じように親切に、狂気に背を向けて真理という目標に向かって着実に導いてくれるからです。

 And here you will lay down the burden of denying truth.
 ここで、あなたは真理を拒絶するという心の重荷を降ろせるようになるでしょう。

 This is the burden that is terrible, and not the truth.
 真理を否認することはひどい重荷ですが、真理そのものが重荷なわけではありません。

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8. That you are joined is your salvation; the gift of Heaven, not the gift of fear.
 あなたたちがひとつに結ばれていることこそがあなたの救いです。それは恐怖という贈り物ではなく、天国という贈り物です。

 Does Heaven seem to be a burden to you?
 天国は、あなたにとって重荷のように思えるでしょうか。

 In madness, yes.
 狂気の中では、たしかにそう思えるでしょう。

 And yet what madness sees must be dispelled by reason.
 それでも、狂気が目にしていることは理性によって必ず払拭されます。

 Reason assures you Heaven is what you want, and all you want.
 理性は、あなたが望むのは天国であり、あなたは天国だけを望んでいるのだと確信させてくれます。

 Listen to him who speaks with reason, and brings your reason into line with his.
 理性をもって語り、あなたの理性を自らの理性と調和させてくれる聖霊に耳を傾けなさい。

 Be willing to let reason be the means by which he would direct you how to leave insanity behind.
 どのように狂気から脱すればよいか聖霊があなたを指導するための手段として、喜んで聖霊に理性を使ってもらうがよいでしょう。

 Hide not behind insanity in order to escape from reason.
 理性から逃げ出そうとして、狂気の背後に隠れていてはなりません。

 What madness would conceal, the Holy Spirit still holds out for everyone to look upon with gladness.
 聖霊は今も、狂気が隠そうとするものを、喜びをもって見ることができるようにと、みんなに差し出してくれています。



9. You are your brother's savior.
 あなたは、あなたの兄弟の救い主です。

 He is yours.
 そして、兄弟はあなたの救い主です。

 Reason speaks happily indeed of this.
 理性は、このことを本当に幸せに語ってくれます。

 This gracious plan was given love by Love.
 こうした恵み深い計画は、大いなる愛によって愛へと与えられました。

 And what Love plans is like Itself in this: Being united, It would have you learn what you must be.
 そして、大いなる愛が計画することは、次のように大いなる愛それ自体に似ています。すなわち、ひとつに結ばれているので、大いなる愛は、あなたの本質は愛であるに違いないことをあなたに学ばせようとします。

 And being one with It, it must be given you to give what It has given, and gives still.
 そして、あなたは大いなる愛とひとつなので、大いなる愛が与え、今もなお与え続けるものは、あなたから与えるようにと、あなたに授けられているに違いありません。

 Spend but an instant in the glad acceptance of what is given you to give your brother, and learn with him what has been given both of you.
 あなたの兄弟に与えるためにと、あなたに授けられたものを喜んで受け入れる一瞬を過ごしたうえで、その兄弟とともに自分たち両者に何が与えられているのか学んでください。

 To give is no more blessed than to receive.
 与えることは受け取ること以上に神聖なわけではありません。

 But neither is it less.
 かといって、与えることは受け取ることに劣るわけでもありません。

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10. The Son of God is always blessed as one.
 神の子はつねにひとつのものとして祝福されています。

 And as his gratitude goes out to you who blessed him, reason will tell you that it cannot be you stand apart from blessing.
 だから、彼を祝福したあなたに対して彼が感謝の気持ちを示すことを介して、理性はあなたに、あなたは祝福と無縁でいることなどできないと教えてくれます。

 The gratitude he offers you reminds you of the thanks your Father gives you for completing him.
 あなたは、彼があなたに示す感謝によって、あなたが父なる神を完成させることについて神があなたに感謝していることに気づくことができます。

 And here alone does reason tell you that you can understand what you must be.
 そして、ただここでのみ、あなたは自分の本来の姿を理解できると理性はあなたに教えてくれます。

 Your Father is as close to you as is your brother.
 あなたの大いなる父は、あなたの兄弟がいるのと同じくらいあなたの近くにいます。

 Yet what is there that could be nearer you than is your Self?
 しかし、あなたの大いなる自己よりも、もっとあなたに近い何が存在しうるでしょうか。



11. The power you have over the Son of God is not a threat to his reality.
 あなたが持っている神の子に対して及ぼすことのできる力は、神の子の真の姿を脅かすものではありません。

 It but attests to it.
 その力はただ、神の子の真の姿を証明するだけです。

 Where could his freedom lie but in himself, if he be free already?
 神の子がすでに解放されているのだとすれば、彼自身以外のどこにも彼の自由は見つからないはずです。

 And who could bind him but himself, if he deny his freedom?
 そして、もし彼が自分で自分の自由を否認しているのだとすれば、彼自身以外の誰にも彼を束縛することはできなかったはずです。

 God is not mocked; no more his Son can be imprisoned save by his own desire.
 神を騙すことはできません。同じように、神の子も、本人自らがそう望む場合を除いては、幽閉されることはできません。

 And it is by his own desire that he is freed.
 だから、彼が自由の身になるかどうかは、彼自身がそれを望むかどうかにかかっているのです。

 Such is his strength, and not his weakness.
 このことは、神の子の強みであって、弱みではありません。

 He is at his own mercy.
 神の子は、彼自身の慈悲次第で意のままになるのです。

 And where he chooses to be merciful, there is he free.
 したがって、彼が慈悲深くあることを選んだところでは、彼は自由になります。

 But where he chooses to condemn instead, there is he held a prisoner, waiting in chains his pardon on himself to set him free.
 しかし、彼が反対に誰かを咎めることを選んだところでは、彼は囚われの身となり、鎖につながれたまま、自分が解放されるために、自分自身に対して自分からの赦免が与えられるのを待ち続けることになるのです。


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