M7 癒しが本当に起こるのか不安で仕方がない!


信念は魂の防腐剤である。

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ウォルト・ホイットマン




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今回は、教師のためのマニュアルから、癒しシリーズの続きで、第7節「癒しは繰り返されるべきか」をご紹介します。


癒しの成果を疑わない

神の教師が癒しの成果について、疑いを持ってしまって、はたして本当に癒しが達成されるのかと、あれこれ心配をする間違いについて述べられます。

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癒しの成果に疑問を抱くことは、失敗することのありえない聖霊を信頼する気持ちがぐらついて、愛ではなく、怖れ、さらには憎しみによって、癒しを攻撃をすることになってしまう、もはやこの場合には、神の教師こそが癒されるべき患者となっているということです。

癒しの成果に疑いを抱くとき、癒しの成果について疑ってしまう本当の理由は、必ず自己不信だといいます。

そして、この自己不信というのは、信頼がまやかしの自己の上に置かれてしまっていることを示している、つまり、自分や他者についてのアイデンティティーを個別のばらばらに分裂した一個の小さな自己、世界にアクセスするためのエゴ・身体というアバターに置いて、その小さな自己が、他者、患者のことを度外視して、自分の心配ばかりしているということです。


聖霊を信頼して、自分のアバターの外も自分の内側と見る

この間違いの修正は、アイデンティティーを大いなる自己に置き直すことです。

花壇に種を蒔いて、水やりをしたら、いつ芽が出るかと不安になって何度も土をほじくり返して種を確認していたのでは、そっとしておけば芽生えたはずの種を駄目にしてしまうでしょう。このように成果を心配することは、一見、相手のためを思っての愛情に基づくもののような見た目をしていますが、本当のところは自分の心配、怖れに基づく攻撃でしかありません。





癒しをなすのは、自分と相手の中にいるただひとつの聖霊であるということを忘れないで、信頼することが大切です。


思いの純度を高める

大いなる愛というひとつの実在がその切り口によって、愛と呼ばれたり、大いなる自己となったり、生命となったり、幸福となったりという千の顔を見せるということはたびたび繰り返しています。

そして、本来、実在、つまり、本当にあるのは、この一なるものだけなのだから、赦し、奇跡、癒し等の多様な呼び名を持つ知覚の修正が完全になされるなら、もうそれ以上、繰り返される必要はないということになります。

これが必要になるのは、赦しに不純物が入り混じって神聖さが欠如しているためです。

T21-8 内面の変化が、幸せを真に望んだなら、もうそれ以上繰り返し望む必要はないということを述べているのが参考になると思います。




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Section 7
第7節



Should Healing Be Repeated?
癒しは繰り返されるべきか



1. This question really answers itself.
 実は、この質問それ自体の中に答えがあります。

 Healing cannot be repeated.
 癒しを繰り返すことはできません。

 If the patient is healed, what remains to heal him from?
 もし患者が癒されたなら、もう彼をそれから癒すべきものは何も残っていないはずだからです。

 And if the healing is certain, as we have already said it is, what is there to repeat?
 そしてもし、私たちがすでに述べたように、癒しが確実なものであるなら、繰り返すべきことなど何もないはずです。

 For a teacher of God to remain concerned about the result of healing is to limit the healing.
 神の教師にとって、癒しの成果についてあれこれと心配したままでいることは、癒しを制限することになります。

 It is now the teacher of God himself whose mind needs to be healed.
 そうなれば、いまや、神の教師自身が、自分の心を癒してもらう必要があることになってしまいます。

 And it is this he must facilitate.
 だから、彼がしなければならないのは、自分の心を癒してもらうことです。

 He is now the patient, and he must so regard himself.
 いまや、彼が患者なのです。だから、彼は自分のことを患者だとみなさなければなりません。

 He has made a mistake, and must be willing to change his mind about it.
 彼は間違いを犯してしまったので、彼は、その間違いについて自分の心を変える意欲を持たねばなりません。

 He lacked the trust that makes for giving truly, and so he has not received the benefit of his gift.
 真に与えることを可能にする信頼が彼に欠けていたので、彼はまだ自分の贈り物からの恩恵を受け取ってはいないのです。



2. Whenever a teacher of God has tried to be a channel for healing he has succeeded.
 神の教師が癒しの経路となろうと努めてきたときはいつでも、彼は成功してきました。

 Should he be tempted to doubt this, he should not repeat his previous effort.
 彼がこのことを疑う気持ちに駆られたとしても、彼は自分が以前にやったのと同じことを繰り返すべきではありません。

 That was already maximal, because the Holy Spirit so accepted it and so used it.
 彼はそのときできるかぎりのことをすでに完了しているからです。というのも、聖霊は最大限のものとしてその行動を受け入れ、最大限にそれを活用してくれたからです。

 Now the teacher of God has only one course to follow.
 いまや、神の教師が従うべき道は、ただひとつだけです。

 He must use his reason to tell himself that he has given the problem to One Who cannot fail, and must recognize that his own uncertainty is not love but fear, and therefore hate.
 彼は、自分の理性を用いて、自分が失敗することのありえない大いなる存在に問題を任せたのだと自分に納得させなければなりません。そして、自分が半信半疑なのは、愛ではなく恐れ、したがって憎しみを抱いているせいなのだと認めなければなりません。

 His position has thus become untenable, for he is offering hate to one to whom he offered love.
 そうだとすれば、彼はもう半信半疑でいることなどできなくなります。というのは、彼は自ら愛を捧げたはずの相手に憎しみを捧げていることになるからです。

 This is impossible.
 これは不可能なことです。

 Having offered love, only love can be received.
 愛を捧げたなら、愛しか受け取れないはずだからです。



3. It is in this that the teacher of God must trust.
 神の教師は、愛を捧げるなら愛しか受け取れないということを信じなければなりません。

 This is what is really meant by the statement that the one responsibility of the miracle worker is to accept the Atonement for himself.
 愛を捧げるなら愛しか受け取れないことこそが、奇跡を行う者の唯一の責任は、自分のために贖罪を受け入れることだという言葉が真に意味することです。

 The teacher of God is a miracle worker because he gives the gifts he has received.
 神の教師に奇跡が起こせるのは、彼が自分の受け取った贈り物を与えるからです。

 Yet he must first accept them.
 しかし、与えるには、彼はまず贈り物を受け入れなければなりません。

 He need do no more, nor is there more that he could do.
 彼はそれ以上何もする必要はないし、それ以上、彼にできることもありません。

 By accepting healing he can give it.
 癒しを受け入れることによって、彼は癒しを与えることができるのです。

 If he doubts this, let him remember Who gave the gift and Who received it.
 もし彼がこのことに疑いを抱くなら、その贈り物を与えて受け取るのは聖霊なのだということを彼は思い出すべきです。

 Thus is his doubt corrected.
 こうすることで、彼の疑念は修正されます。

 He thought the gifts of God could be withdrawn.
 彼は、神からの贈り物が与えずにおかれることがありうると思っていました。

 That was a mistake, but hardly one to stay with.
 しかし、そんな考えは間違っていただけでなく、決してそのままにしておいてよい間違いではありません。

 And so the teacher of God can only recognize it for what it is, and let it be corrected for him.
 だから、神の教師にできるのは、間違いをただありのままに認識して、自分のために修正してもらうことだけです。



4. One of the most difficult temptations to recognize is that to doubt a healing because of the appearance of continuing symptoms is a mistake in the form of lack of trust.
 それを認めるのが最も難しい誘惑のひとつは、一見したところ症状が継続しているように見えるために、癒しがなされたのか疑いたくなることです。これは癒しに対する信頼の欠如という形で起こる間違いです。

 As such it is an attack.
 そんなふうに癒しを信頼しないこと自体が、ひとつの攻撃です。

 Usually it seems to be just the opposite.
 普通に考えると、癒しがなされたのか心配することは、癒しを攻撃することとはまったく反対であるように思えます。

 It does appear unreasonable at first to be told that continued concern is attack.
 癒しがなされたのか心配することは癒しを攻撃することだと言われても、最初は、道理に合わないようにしか思えません。

 It has all the appearances of love.
 たしかに、癒しを心配し続けることは、どう見ても愛にしか見えません。

 Yet love without trust is impossible, and doubt and trust cannot coexist.
 しかし、信頼を欠いた愛などありえません。そして、疑念と信頼は両立できません。

 And hate must be the opposite of love, regardless of the form it takes.
 そして、憎しみは、それがどのような形をとろうとも、愛の対極であるに違いありません。

 Doubt not the gift and it is impossible to doubt its result.
 その贈り物を疑ってはなりません。疑わなければ、その贈り物のもたらしてくれる成果を疑うことなど不可能になります。

 This is the certainty that gives God's teachers the power to be miracle workers, for they have put their trust in Him.
 神の贈り物の成果を疑わないことこそが、神の教師たちに奇跡を起こす力を与える確信なのです。というのも、神の教師たちは疑わないとき、自分たちの信頼を神に置いているからです。



6. The real basis for doubt about the outcome of any problem that has been given to God's Teacher for resolution is always self-doubt.
 いかなる問題であれ、解決してくれるようにと神の大いなる教師へと捧げながら、その成果を疑ってしまうとしたら、その真の理由は必ず自己不信です。

 And that necessarily implies that trust has been placed in an illusory self, for only such a self can be doubted.
 そして、それは必然的に、信頼が幻想の小さな自己の上に置かれてしまっていることを示しています。というのも、疑いの余地があるのは、そんな一個の小さな自己だけだからです。

 This illusion can take many forms.
 この小さな自己という幻想は、多様な形をとることができます。

 Perhaps there is a fear of weakness and vulnerability.
 もしかしたら、それは弱さと傷つきやすさへの恐れという形かもしれません。

 Perhaps there is a fear of failure and shame associated with a sense of inadequacy.
 もしかしたら、それは無能感と関連した失敗への恐怖心や羞恥心という形かもしれません。

 Perhaps there is a guilty embarrassment stemming from false humility.
 もしかしたら、それは間違った謙虚さが生み出してしまう罪の意識による当惑という形かもしれません。

 The form of the mistake is not important.
 とはいえ、間違いがどのような形をとるかは重要ではありません。

 What is important is only the recognition of a mistake as a mistake.
 重要なのは、ただ間違いを間違いだと認めることだけです。



6. The mistake is always some form of concern with the self to the exclusion of the patient.
 間違いは必ず、小さな自己が患者のことを度外視して、自分の心配ばかりしていることを何らかの形で示しています。

 It is a failure to recognize him as part of the Self, and thus represents a confusion in identity.
 それは、患者を大いなる自己の一部であると認識し損ねることであり、したがって、本当の自分が何者なのか誤解していることを示しています。

 Conflict about what you are has entered your mind, and you have become deceived about yourself.
 自分が何者であるかについての葛藤があなたの心に入りこんで、あなたは自分が誰なのか誤解してしまったのです。

 And you are deceived about yourself because you have denied the Source of your creation.
 あなたが自分を創造した大いなる源を否認したせいで、あなたは自分が誰なのか誤解してしまったのです。

 If you are offering only healing, you cannot doubt.
 もしあなたがただ癒しだけを差し延べるなら、あなたは疑うことなどできません。

 If you really want the problem solved, you cannot doubt.
 もしあなたが本当に問題を解決したいなら、あなたは疑っているわけにはいきません。

 If you are certain what the problem is, you cannot doubt.
 もしあなたが何が問題なのか確信しているなら、あなたは疑うことなどできません。

 Doubt is the result of conflicting wishes.
 疑いは、矛盾し合う願望が招いた結果です。

 Be sure of what you want, and doubt becomes impossible.
 自分が何を望むのか明確にしてください。そうすれば、疑うことなど不可能になるでしょう。






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