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T2-4 恐れからの解放としての癒し

今回は、「恐れからの解放としての癒し」という一節をご紹介します。



P2-VI 癒しの定義M5 「癒し」の仕組みとは?P2-V 癒しのプロセスが参考になると思います。

2.「Physical illness represents a belief in magic.
 身体を病むことは、魔術を信じていることの表れです。」

本節では、癒しを身体の病いの側面に関連させて述べています。

もっとも、病いが身体に発現しうるものだとしても、身体を病むことは心が魔術を信じることの表れであるのだから、癒しが必要なのは心です。

「Since only the mind can be sick, only the mind can be healed.
 なぜなら、病むことができるのは心だけなので、癒されうるのは心だけだからです。

 Only the mind is in need of healing.
 癒しを必要とするのは、ただ心だけなのです。」(P intro,1 心理療法(目的、プロセス、そして実践)

身体的疾患は、魔術を信じることの表れであるという仕組みが述べられます。

魔術奇跡に対応する概念です。

奇跡が、愛に基づき自他の分離が錯覚であるという真理の認識の結果として、物理法則等の幻想世界のエゴの法則の束縛を超えることであるのに対して、魔術は、自他分離を前提としたまま、何らかの偶像崇拝によって世界の法則を捻じ曲げたり、抜け穴を突いてゲームの裏技的に表面的に奇跡と同じような世界の法則、常識を超える現象を達成しようとすることです。

魔術は、分離が幻想であり一体性が真理であることに目を瞑って、心が誤創造した物質の中に創造する力があり、心には物質をコントロールすることはできないという信念に基盤を置いています。

魔術というのは、分離幻想による虚構の世界の中で、さらに、その世界のルールを捻じ曲げたり抜け駆けしようというものであり、幻の中で幻を求め、夢の中で夢を見て屋上屋を架す多重錯覚状態に自らを陥れるものです。

本来、身体は、幻想世界という舞台の一舞台装置である乗り物でしかありません。身体は、幻想の中にある一幻想として、幻想世界のルールに従うかぎりは、周囲の幻想と調和しています。

身体自体は、良くも悪くもなく、価値中立で、エゴのためにも聖霊のためにも役立たせることが可能です。

その身体がエゴのために用いられるというこの世界でのデフォルト・モードに加えて、魔術の信念というオプションを追加されると、身体は本来の幻想世界で支障なく機能するための標準ルールを破ろうとするわけなので、身体という幻想と世界という幻想の感に不調和や葛藤が当然に生じます。

その結果、身体には不具合が出て病いが発現することになります。

これに対して、奇跡は世界が幻想で錯覚だという真理に基づくものであり、真理と幻想は前者が実在し、後者は無であるので、表面的な矛盾はありえても、影である幻想が真理を害することはできないので、奇跡が魔術の信念のように身体に不具合を及ぼすということはありません。

かといって、幻想である身体を否認するというアプローチでは救済の成就は期待できません。

私たちは、エゴ・身体というアバターこそが自分自身であると強固なアイデンティティーを抱いているので、それを解消して神の子に正しくアイデンティティーを戻す手段として、身体を単に否認することは何の役にも立たず、むしろ、魂の迷妄の度合いを増すことにしかならないからです。



3.「 However, it is almost impossible to deny its existence in this world.
 しかしながら、この世界の中で身体の存在を否定することは、ほとんど不可能です。

 Those who do so are engaging in a particularly unworthy form of denial.
 この世界の中で身体の存在を否定しようとする者たちは、否認の中でも、とりわけ価値のない形の否認にかまけているといえます。

 The term "unworthy" here implies only that it is not necessary to protect the mind by denying the unmindful.
 ここで『価値のない』という言葉を使うのは、ひとえに心を持たない身体を否認することによって心を保護する必要などないと示したいからです。

 If one denies this unfortunate aspect of the mind's power, one is also denying the power itself.
 もしある人が、この身体の存在という心の力が不適切に表れた側面を否認するなら、彼は同時に自分の心の力そのものをも否定することになってしまうのです。」

否認は、贖罪以外のすべての防衛手段と同じく、正しく使えば真理を防衛する手段になるけれど、間違って使うと真理を攻撃する手段になってしまう諸刃の剣であるということでした。

ここでは、心を守るために身体を否認する必要はないということが述べられています。

その理由は、創造力という心の力が間違って誤創造=投影という形で現れたのが身体であり、身体を否認することは心が持つ創造力を否認する副作用を合併してしまうからということです。


身体的疾患の治療法として世界に用意されている物質的手段はどれも、魔術の原理の表れであり、究極的には心理療法が癒しには必要ですが、レベルや程度があるとされるこの世界の中での立ち回り方としては、病いの深刻さ次第では、一時的な方便として、物質的手段や薬物治療を用いる対処が役立つこともあるということが述べられます。

その理由は、その人が魔術に陥って病いに至るのは、分離を信じ、許さない思いを抱いているために、ひとつに結ばれることは自らの破滅であり、愛は恐ろしいという思いを抱いているためなので、他者とひとつの心に結ばれているという奇跡に直面すると、恐慌状態に陥ってしまいかねず、むしろ、まずは、医学や薬品の力であれば病気は治るという当人の世界認識に即した対処が必要だからです。




テキスト第二章

IV. Healing as Release from Fear
四 恐れからの解放としての癒し



1. Our emphasis is now on healing.
 ここからは、癒しに重点を置いて見ていきます。

 The miracle is the means, the Atonement is the principle, and healing is the result.
 贖罪を原理として、奇跡が手段となって、成果として癒しが起こります。

 To speak of "a miracle of healing" is to combine two orders of reality inappropriately.
 「癒しという奇跡」という言い方は、現実のふたつのレベルを結びつける点では適切とはいえません。

 Healing is not a miracle.
 癒し奇跡ではないからです。

 The Atonement, or the final miracle, is a remedy and any type of healing is a result.
 贖罪、つまり最終的な奇跡とは治療のことであって、どのような種類であろうとも、癒し治療の成果です。

 The kind of error to which Atonement is applied is irrelevant.
 贖罪がどのような種類の誤りに適用されるかは重要ではありません。

 All healing is essentially the release from fear.
 どんな癒しも、本質的には恐れからの解放だからです。

 To undertake this you cannot be fearful yourself.
 恐れからの解放という癒しに取りかかるには、あなた自身が恐れていたのでは始まりません。

 You do not understand healing because of your own fear.
 あなたが癒しを理解できないとすれば、それは、あなた自身の恐れのせいなのです。



2. A major step in the Atonement plan is to undo error at all levels.
 贖罪の計画における主要なステップは、すべてのレベルにおいて誤りを取り消すことです。

 Sickness or "not-right-mindedness" is the result of level confusion, because it always entails the belief that what is amiss on one level can adversely affect another.
 病気という「心が正常ではない状態」は、レベル混同した結果です。なぜなら、レベル混同には必ず、あるレベルに存在する不具合がほかのレベルにも悪い影響を及ぼしうるという信念を伴うからです。

 We have referred to miracles as the means of correcting level confusion, for all mistakes must be corrected at the level on which they occur.
 私たちは前にも、奇跡はレベルの混同を修正する手段だと言及しました。その理由は、間違いはすべて、その間違いが起こったレベルで修正する必要があるからです。

 Only the mind is capable of error.
 誤ることが可能なのは心だけです。

 The body can act wrongly only when it is responding to misthought.
 身体が誤って行動できるのは、ただ身体が心の誤った思考に反応しているときだけです。

 The body cannot create, and the belief that it can, a fundamental error, produces all physical symptoms.
 身体は創造できないのであり、身体が創造できると信じる根本的な誤りがすべての身体的症状を生み出します。

 Physical illness represents a belief in magic.
 身体を病むことは、魔術を信じていることの表れです。

 The whole distortion that made magic rests on the belief that there is a creative ability in matter which the mind cannot control.
 魔術を作り出した歪曲はまるごと、物質の中に創造する能力が備わっていて、心は物質をコントロールできないという信念に基づいています。

 This error can take two forms; it can be believed that the mind can miscreate in the body, or that the body can miscreate in the mind.
 この誤りはふたつの形態をとることができます。すなわち、心が身体の中で誤って創造できる、または、身体が心の中で誤って創造できる、というふたつの信念の形です。

 When it is understood that the mind, the only level of creation, cannot create beyond itself, neither type of confusion need occur.
 創造がなされる唯一のレベルであるがゆえに、心には、心そのものを超えては創造できないと理解できれば、どちらのタイプの混同も起こりようがありません。

名称未設定

3. Only the mind can create because spirit has already been created, and the body is a learning device for the mind.
 ただ心だけが創造できます。なぜなら、霊はすでに創造されているし、身体は心が学ぶための道具にすぎないからです。

 Learning devices are not lessons in themselves.
 教材は、教材そのものが教わるべき教訓であるわけではありません。

 Their purpose is merely to facilitate learning.
 教材の目的は、ただ単に学びを促進することだけです。

 The worst a faulty use of a learning device can do is to fail to facilitate learning.
 間違って教材を用いたとしても、それで起こりうる最悪の事態は、せいぜい学習を促進し損ねることくらいです。

 It has no power in itself to introduce actual learning errors.
 教材自体は、実際に誤りを学ばせる力を持ってはいないからです。

 The body, if properly understood, shares the invulnerability of the Atonement to two-edged application.
 もし適切に理解されるなら、身体は、諸刃の剣として利用されることへの耐性を持つ贖罪と共通点を持っていることがわかるはずです。

 This is not because the body is a miracle, but because it is not inherently open to misinterpretation.
 この理由は、身体が奇跡だからではなく、誤って解釈されることに対して身体が本質的に無防備なわけではないからです。

 The body is merely part of your experience in the physical world.
 身体は単に、物質世界でのあなたの経験の一部でしかありません。

 Its abilities can be and frequently are over evaluated.
 身体の持つ能力は過大評価されることがありうるし、現にたびたび過大評価されてもいます。

 However, it is almost impossible to deny its existence in this world.
 しかしながら、この世界の中で身体の存在を否定することは、ほとんど不可能です。

 Those who do so are engaging in a particularly unworthy form of denial.
 この世界の中で身体の存在を否定しようとする者たちは、否認の中でも、とりわけ価値のない形の否認にかまけているといえます。

 The term "unworthy" here implies only that it is not necessary to protect the mind by denying the unmindful.
 ここで「価値のない」という言葉を使うのは、ひとえに心を持たない身体を否認することによって心を保護する必要などないと示したいからです。

 If one denies this unfortunate aspect of the mind's power, one is also denying the power itself.
 もしある人が、この身体の存在という心の力が不適切に表れた側面を否認するなら、彼は同時に自分の心の力そのものをも否定することになってしまうのです。

名称未設定

4. All material means that you accept as remedies for bodily ills are restatements of magic principles.
 肉体的な疾患の治療法としてあなたが受け入れる物質的な手段はすべて、魔術の原理が形を変えて姿を現したものです。

 This is the first step in believing that the body makes its own illness.
 これは、身体がそれ自体の病気を作り出してしまうと信じこむようになる第一歩です。

 It is a second misstep to try to heal it through non-creative agents.
 病気を創造的でない薬品によって癒そうと試みるのは、二番目の躓きです。

 It does not follow, however, that the use of such agents for corrective purposes is evil.
 しかしながら、このことは必ずしも、矯正する目的のためにそのような薬を使うのが有害だということにはなりません。

 Sometimes the illness has a sufficiently strong hold over the mind to render a person temporarily inaccessible to the Atonement.
 ときには、ある人を一時的に贖罪に近づけなくするくらいに、病いが十分な強さで心を支配してしまうことがあります。

 In this case it may be wise to utilize a compromise approach to mind and body, in which something from the outside is temporarily given healing belief.
 こうしたケースでは、心と身体を妥協させるアプローチを用いて、一時的に何か外部からのものに癒す力があるという信念を与えることで対処するのが賢明といえるでしょう。

 This is because the last thing that can help the non-right- minded, or the sick, is an increase in fear.
 その理由は、心が正しい状態にない病人を助けるために、彼らの恐れを増すようなことは最もしてはならないことだからです。

 They are already in a fear- weakened state.
 そうでなくても、彼らは恐れのためにすでに弱りきった状態にあるのです。

 If they are prematurely exposed to a miracle, they may be precipitated into panic.
 もし彼らが、まだ機が熟していないのに奇跡にさらされたなら、おそらく彼らは、突然のことで恐慌状態に陥ってしまうでしょう。

 This is likely to occur when upside-down perception has induced the belief that miracles are frightening.
 こうしたことが起こりやすいのは、知覚が混乱して、奇跡は恐ろしいものだと信じこんでいるようなときです。

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5. The value of the Atonement does not lie in the manner in which it is expressed.
 贖罪がどのような形で現れるのかという点に、贖罪の価値があるわけではありません。

 In fact, if it is used truly, it will inevitably be expressed in whatever way is most helpful to the receiver.
 実際のところ、もし贖罪が正しく使われるなら、それがどんな態様であっても、贖罪は必ず受け手にとって最も有益な形で表現されるはずです。

 This means that a miracle, to attain its full efficacy, must be expressed in a language that the recipient can understand without fear.
 このことは、奇跡が持つ効果を最大限に発揮するには、奇跡を受け取る者が恐れを抱くことなく理解できるような伝達手段で奇跡が表現されなければならないことを意味します。

 This does not necessarily mean that this is the highest level of communication of which he is capable.
 もっとも、このことは必ずしも、それが彼にできるコミュニケーションの最高のレベルであることを意味するわけではありません。

 It does mean, however, that it is the highest level of communication of which he is capable now.
 しかしながら、それが現時点で彼にできる最高レベルのコミュニケーションであることを意味するのは確かです。

 The whole aim of the miracle is to raise the level of communication, not to lower it by increasing fear.
 奇跡はもっぱら、恐れを増すことによってコミュニケーションを行うレベルを下げることではなく、コミュニケーションを行うレベルを高めることなのです。


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